花の在り処

平山芙蓉

……

 真っ赤な花に覆われた学園の花園で、再び彼女と出会った。時間はあれからちょうど半日と言ったところだろうか。夜の気配なんて微塵もないのに、何故だろう、彼女のいるこの場所だけは、あの酷い陰鬱を孕んだ独特の空気を滲ませているように感じた。


「こんにちは」


 私に気付いた彼女は、椅子に座りながらこちらへ目を遣って挨拶をしてきた。白を基調としたテーブルの上には、不釣り合いな紅茶のペットボトルが置かれていた。黒い髪が、風に揺れる。充満する芳しい花の香りの隙間に、シャンプーの人工的な匂いが混じった。緊張を通り越して、恐怖やら、畏怖やらに似たものに身体を支配されている。そのせいで、私は挨拶を返せずに、ただ茫然と佇むことしかできなかった。


「こっちへいらっしゃい」


 そう誘う彼女の声は、とても冷たい印象の声だ。本能が避けたがるような、生物的な冷たさ。心音は高鳴り、背筋にはじっとりと汗が滲む。なのに、その意思に反して私は近付いてしまう。そこに蜘蛛の糸が張られていると知っていても、舞うことをやめられない蝶のように。

 テーブルを挟んで、向かい側に腰かけた。座面は固く、それでいて些か湿っている。昨日の雨のせいかもしれない。

 空を仰ぐと、その名残の覆う灰色が、私たちを睥睨していた。梅雨前の、涼しいとも暑いとも言えない生温さが、肌の上を這う。その事実が、昨夜と今を繋ぎ合わせているのだと、嫌でも分からせているみたいだ。


「どうして呼び出されたのか、分かってる?」


 一周回って意識が上の空にあった私を、彼女が引き戻してくれる。不躾だとは理解しているが、無言で首を横に振って答えた。だって、向かい合いながらも、私はまだ言葉を発することができないのだから。

 それにきっと、彼女の虚ろな瞳の前では、言葉なんて無意味だ。今だってそう。言葉だけではなく、仕草も、呼吸も。全て吸い込まれていく。そうやって取り込まれた私は、彼女の残酷な美しさに噛み砕かれ、天秤にかけられるのだ。

「分からないのなら、教えてあげようか?」

 こちらへ身を乗り出し、顔を覗いてくる。くつくつと笑うその唇の隙間。そこから、何かが漏れている気がした。


 それは、美しさとは真逆に位置するもの。穢れ、とでも呼ぶべき本性。否が応でも思い出してしまう。彼女がどういう存在であるのかを。その歯の白さが、夜にはこの花園に咲く花のように、赤くなるということを。


「いえ、結構です……」


 捻り出した声は、自分のモノとは思えないほどに細々としていた。思わず、私は目を伏せてしまう。ペットボトルの透明に、私と彼女の姿が映る。既に目は合わせていない。だけど……、どうあっても彼女の視線からは逃れられないのだという、奇妙な実感を、身体が捉えていた。


「なら、話は早いわ」


 彼女はテーブルに伏せる。艶のいい長い髪が、一枚の布のように身体を覆った。表情は微笑んだままだけど、三日月状に歪んだ目元は私が逃げないよう、睨み付けているみたいだ。


「……私を、どうするつもりなんですか?」


 机の下で、知らずの内に私はスカートを握っていた。皴の寄った生地に手汗が染みる。質問の答えなんて決まっているから、無意味なものだというのに。


「おかしな子」


 手が伸びる。しなやかで、無駄な肉なんてついていない骨のような指。どうしてだろう。彼女はあれだけの肉を食らいながらも、それが血肉にはなっていない気がした。


 草木も眠る丑三つ時。そのくらい使い古された表現がしっくりとくる、静かな夜だった。爆音を鳴らすスポーツカーも、遅くまで飲み更けていた酔っ払いの汚い声も聞こえない、静寂。なかなか寝付けなかった私は、薄い雲の張った月を見上げながら、いつもの夜の散歩をしていた。

 それだけが私の決定的な間違い。ただベッドの上で横になっていれば良かったものを、寝付けないなんて子どもみたいな理由で、外へ出てしまった。


 反対に、それだけが決定的な出会いの理由。

 路地裏の街灯の下。

 夜を詰め込んだような、湿気ていて狭い路地。

 そこで佇む彼女と、目が合った。

 本物の夜を携えた彼女と。

 雨が降り始めたことさえ気付かせないほどの美しさが、彼女にはあった。

 だから、普段なら気にすることもない路地裏なんかに、目を向けたのだろう。

 本来なら、そこで終わるはずの話。

 こんな時間に、うちの制服を着た生徒が何をしていたのだろう、と仕様もない疑問で終わるはずの話。

 日常の不思議な体験で、明日にはクラスメイトとの話題の種になるはずの話。

 だけど、そうはならなかった。

 今でもどうしようもない後悔が頭を掠める。もしも彼女がただそこに立っているだけだったなら。もしも私が路地に目を向けることもなく、その場を過ぎ去ったなら。狂うことなんてなかった。午後の気怠さで閉じないよう瞼を開くなんて、平和な悩みに浸っていたはずだ。

 現実はそうじゃない。

 雨に濡れる彼女は、右手にナイフを持ち、左手には切り離された人の首を提げてのだから。

 そう。

 あれは紛れもない、殺人。そこに広がる血液の一切は、雨とともに排水口へと流れて行った。だからだろうか。私は逃げることはおろか、悲鳴を上げることもできず、眼前に広がる凄惨な現場を、網膜に焼き付けるだけだった。

 ああ、でも。

 あれだけが場面として記憶されているなら、良かったのに。


「ねえ、氷室さん」


 名前を呼ばれて我に返る。相変わらず机に伏せたまま、上目遣いに私を見つめる彼女の瞳には、どうにもからかいの気が窺えた。

 ……名前。私は自分の名を、名乗った覚えはない。なのに、どうして……。まるで、身体中の神経を直接、指で撫でまわされているかのような悪寒が奔る。そんな些細な気配に気づいたのか、彼女はテーブルに置いた腕を伸ばし、私の頬に触れた。声よりも、もっと冷たい指先。人ではない、と直感した。

 鬼。

 機械。

 そんな単語が脳裏を過る。いや、鬼や機械でも温度くらいはあるだろう。だから、冷たいとか温かいとか。そんなもので形容すること自体が間違いなのだ。つまるところ、彼女は無に等しい存在。暗い闇そのものが触れているようなもの。概念自体が人の形を模していて、それに触れられたという感覚。

 とにもかくにも、悍ましいということに変わりない。異常なんて言葉で片付けていいほど、彼女の特異性は抜きんでている。


「やっぱり昨夜、あそこにいたのはあなたで間違いないのね?」


「そう、です」ぎこちないながらに、私は正直に答える。それはお互いの肯定を意味していた。彼女は自らの殺人を認め、私はその目撃者であることを認めるということ。酷い緊張が続くせいか、眩暈がする。空っぽの胃の中で胃酸が渦巻き、吐き気もしてきた。


「間違いじゃなくて、良かった」彼女はちょっと悪戯っぽく笑った。吐き出した息の香りには、気のせいかもしれないけれど、血生臭い肉の臭いが混じっているようだ。

「だから、私をどうするつもりなんですか?」状況に耐えかねて同じ質問をしてしまう。けれど、返ってきたのは「あら、本当におかしな子」なんて、相変わらず答えにならない答えだった。

 現実問題として、生きて帰れないだろう。だって、私は犯行現場を見た人間なのだから。ましてや、そこから走って逃げまでしたのだ。あの時、彼女は追ってこなかったけれど、学校で出会った。だから多分、今だって授業中で人気のないここへ呼び出したのは、私を殺すため。すれ違い様にここへ来いと言われ、腹を括って私はきたわけだ。

 だけど、どうして今すぐにでも私を殺さないのか、という疑問は未だに払拭できない。警察へ通報されたり、他人に喋られたりするかもしれないと考えるのは普通だ。想像しただけでも、気が気でないだろう。しかしながら、相手にとっては僥倖で、その目撃者が自分の通う学校にいたのだ。なら、なりふり構わず殺してしまうのが当然だろう。でも、彼女はそうしない。ただ呼び出して、人形でも愛でるように笑っているだけだ。

「白状するとね、わたしは殺したくて殺したんじゃないの」

「……どういうことです?」

 本当に話の方向が理解できず、つい聞き返してしまった。彼女はまた静かに喉を鳴らして笑う。ここまでくると、何をしても笑うのではないかとさえ思えてしまう。

「どういうことも何も」するりと、彼女の指が動く。綺麗に整えられた爪が、肌を擽った。顎の輪郭を撫で、首に触れて、下へ、下へ。緩慢なようにも、忙しないようにも思える、時間を無視した動き。その指先は、ブラウスの第二ボタンの辺りでようやく止まった。


「言葉のままよ。やりたくもないことでも、目的に続く道の障害なら、飛び越えなくちゃいけないでしょ」


 意図を読めず、困惑する。そんな私を差し置いて、彼女はブラウスのボタンを摘まんだ。布が引っ張られる。瞬間、胸が軽く跳ねた。僅かにできた綻びから、湿気た空気が入り込んでくる。


「わたしはね、ただあなたの中に刻まれたかっただけなの。わたしという存在を、あなたの身体に、余すところなく残したかっただけなの」


 木に巻き付く蛇のように、彼女の手が服の下を弄る。いつの間にか、彼女はテーブルに身を乗り出していて、顔の距離は拳一つ分くらいのところにまで迫っていた。


「もちろん、それだけじゃ駄目。わたしが氷室京香という人間に刻まれただけじゃ、何の意味もない。だから……」


 指先が、早鐘を打つ心臓の上で止まる。力なんて彼女は入れていない。ただ手を置いているだけ。なのに、その爪の先は、私の鼓動を押さえつけているみたいだ。もしも本当に、彼女が少しでも力を込めたら、声を上げる暇もなく肌を突き破り、その動きを静止させることなんて、朝飯前なのではないだろうか。


「あなたもわたしに、刻んでほしいの。氷室京香という、美しい傷跡を」


「意味が、解りません」

 本当に狂っている。それが殺人の理由とどう繋がるのか。突き放すように言ったとしても、彼女は怒りを露にするわけでもなく、恍惚とした表情をより深くしただけだ。

「わたしはね、美しいものが好きなの。花も人も。何もかも。ただただ美しいものが」そう語り出したタイミングに合わせて、風も吹き始めた。二人きりの花園に、葉擦れの音が響く。私は彼女の瞳から目を逸らさずに、話に耳を傾ける。「でも、この世にいる人間は、みんな美しくない。心とか、自我とか。そんな大層なものを引っ提げているのに、未だ欲望のまま人を傷つける。それって、とっても醜いことだとは思わない?」

 私は言葉を発することはおろか、身体で意思表示をすることさえできなかった。彼女はそんな私を気にも留めず続ける。


「だからわたしは、人間が嫌い。ううん、もっと正確に言うのなら、人の形をしているくせに、人間らしくなくて、獣と同じものに動かされている輩に心底、吐き気を催すの」一瞬だけ、彼女の顔に陰りが差す。でもそれは、曇り空がより濃くなったからではない。彼女自身の心から漏れる泥が、垣間見えた瞬間なのだと、私はすぐに分かった。


「だけど……、だけどね、わたしはあなたを見つけたの」

「私……」

「そう、あなた。友人を愛し、花を愛し、全てのものに愛を振りまくその姿こそ、わたしの求めていた人間らしさなの」興奮しているのか、彼女の声は若干、大きくなっていた。

「そんな説明をされても、分からないものは分かりません。それだけで、どうしてあなたは人を殺せるんですか? 人間らしさを求めるクセに、どうしてあなたは……」息を飲む。血を浴びた彼女の姿が、記憶から這い出てくる。それでも、怖気づいてなどいられない。

「ふふ、やっぱりあなたは人間らしい」胸に当てていた手を引き、椅子に座り直すと、彼女は片手で頬杖をつく。そして、テーブルの上に置かれた紅茶のペットボトルを、指で左右に揺らしながら、そこへ視線を落とした。

「わたしはね、美しいものがほしいんじゃないの」

「じゃあ、何なんです?」

 そう聞くと、彼女は再び私へと目を遣った。真っ直ぐと。夜の狂気を孕んだままの視線が、私を捕らえる。

「美しいものが穢れる瞬間を見たいの。美しいものを、自分の手で穢したという実感が、わたしが本当にほしいモノ」パタン、と傾いていたペットボトルが倒れた。蓋がちゃんと閉まっていなかったせいか、衝撃でどこかへと転がっていく。真っ白のテーブルの天板が、くすんだ赤い液体で汚れた。慌てて戻すわけでも、拭くものを取り出すわけでもない。私たちの間には、ただ液体が白を染め上げていく音だけがあった。


「ところで、あなたは最近お友達と会ったかしら? ほら、あのショートカットの女の子」


「珠美のことですか……? 確かに最近は学校にも来てないですけど」

 唐突に話が変わったので、思考が追い付かない。何故、あの子の名前が今、出てくるのか。分からない。分からないけれど、何か嫌な予感がした。足音を殺して忍び寄ってくる存在が、闇の中から歩いてくるような、そんな怖さが。


「珠美ちゃん、って言うのね。ああ、でも関係ないわ。だってあの子は……」


 最後まで聞かず、私は席を立つ。背後では椅子が勢いよく倒れた。


「どうしたって、言うんですか?」


 聞く意味なんてない。だって、頭の中で勝手に符合は繋がっていたから。彼女が殺人を行う理由と、珠美が学校に来ない理由に。それはあまりにも狂気じみていて、理由と呼ぶには稚拙な感じがして、信じたくもなかった。だけど、彼女の無言が全てを物語っている。あの子がもう、この世にはいないということを。

 思い出す。

 午前三時の雨に打たれる彼女の姿を。

 顔や手に持っていたものだけではなく、その全容を。

 口元にこびりついた血液と肉の欠片。

 童話の狼のように、おおよそ通常ではあり得ないほど膨らんだ腹。

「まさか……」


「だって、あなたの跡が残るモノは全部、この身体に取り込みたいじゃない?」


 ああ、なるほど。理解したくもないことを、私は理解できた。彼女がやってしまったことを。そして、私の身体を回る、言い表しようのない感情と、崩壊の予感を。

 今度は逆だった。私が彼女の方へと身を乗り出し、胸倉を掴んでいたから。暴力の気配を見せているにもかかわらず、彼女の顔は少しも曇らない。ただ光のない真っ暗な瞳で、私を見つめるだけだ。


「憎い?」


 憎い。


 憎いとも。どうして珠美が、あの子がこんなエゴのために死ななければならなかったのだ。どうして彼女が私なんかに目をつけたのだ。そんな理不尽を受け入れてたまるか。


「なら、あなたが終わらせて?」彼女はスカートのポケットからナイフを取り出した。けれど、それで私を突き刺すわけでも、切りつけるわけでもない。ただそっと、テーブルの上へ置いただけだ。刃の部分には赤黒い跡が残っている。それが動物の身体を流れるものであり、誰のものであるのか、言われずとも理解できた。


「今あなたの中に溢れている、動物めいたその衝動で、わたしを終わらせて。そうすれば、わたしたちは永遠に消えない傷を負うことになるから。永遠に、美しいままに穢れましょう」


 何が正しくて、何が間違いなのか分からなくなって、奥歯を噛み締めた。彼女の言葉を受け入れる私と、彼女の言葉に耳を拒絶する私。背反する存在が、螺旋を描きながら私の表層に現れようとしていた。


「そんなことしません」声を絞り出しながら、私は答える。喉が震え、鼻はツンと痛み、今にも涙が出そうだった。それでも、必死に堪える。ここで泣いても、何の意味もないと分かっているから。

「あら、どうして?」不思議そうに、彼女が首を傾げる。「あなたにはわたしを殺す理由があるじゃない? それに、わたしもあなたに終わらせてもらいたいと思っているわよ?」


「人を殺すことに、意味なんて見出せません」


 そっと、掴んでいた胸から手を離す。彼女のブラウスには、アイロンでも当てなければ取れない皴ができていた。だけど、そんなことはどうでも良い。自分が踏み止まれた事実を、何度も反芻する。私は人間だ。本能に支配されるのではなく、本能を支配する側。どうやら皮肉にも、彼女の言う通り、どこまでも人間らしさを持っているみたいだ。その事実だけが、私にとっての実感だった。


「やっぱり、あなたは綺麗よ、氷室さん。そう簡単に壊れてくれないあなたのことが、わたしは好き。穢れさえ振り払おうと、人間らしい高貴な魂を保とうとする姿勢が、何よりも好き」


 乱された服を整え、彼女は立ち上がる。凛とした佇まいは、憎しみを覚えた今でさえ、綺麗だと思えてしまった。


「いつか、わたしを殺してくれることを待っているわ。だから――」


 また会いましょう。


 そう言い遺して、彼女は花園を去っていく。

 いなくなってからも、私はその場から動けなかった。憎き相手の表情を曇らせることもできないまま、全てが終わってしまったから。もっとも、どう転んでも、彼女の思惑通りということに変わりはないのだけれど。きっと、私が本当に殺そうとしても彼女は喜んだに違いない。私は結局、手の平で踊らされるだけの存在なのだ。


 そうやって立ち尽くすだけの私を笑うように、天気が崩れた。

 雨脚は俄かに強くなり、全身を容赦なく濡らす。

 彼女の置いて行ったナイフに、目が行った。

 水滴のついた銀色の刃に、私の姿が映る。

 付着した血液が、雨水で濯がれていく。

 それはまるで、私に対して手を取れと言っているようで、

 魅惑的な殺意の衝動を再び燃やさせた。

 だけど……。

 だけどきっと、それは間違いなのだろう。

 いや、間違いであると否定したい。

 私はあの女の望む通りに、穢れるわけにはいかない。

 そうだとも。

 私はただ、人間らしくありたい。

 この殺意に抵抗したい。

 それが私にとっての、人の在り方だから。

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花の在り処 平山芙蓉 @huyou_hirayama

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