中編
「何をしているのですか」
丁寧な言葉遣いで私に話しかけてきた。いつもと同じ敬語を使っているのにも関わらずうっすらとした殺意すらも感じている。逃げることも近寄ることも許されないという状態だった。私は必死に答えを探そうとするが、全く見つからない。そんな私を見てか、彼はゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。そして、私のすぐ目の前まで来たところで立ち止まった。
「もう一度聞きますね。あなたはそこで何をしているんですか?」
そう言って、彼は私の顔を覗き込んでくる。鼻の先が当たりそうなくらいの近さで冷たい目で見てくる彼に私は血の気が引く感覚とこれから何されるかという想像を繰り返しては解決策を求めた。しかし、一向に見つかる気配がない。
「聞こえないんですか?どうしてここにいるのか聞いてるんですよ」
「わ、わたしは……」
やっと出てきた声はとても小さく震えていた。そんな私を見て、彼はさらに目を細めながら口角を上げる。
「まさか逃げ出そうとか考えていたんですか?」
その通りだと言えば間違いなく暴力を受けることとなるだろう。しかしながら嘘をついても彼のことなら私の癖を把握しているだろうからすぐにバレるだろう。それならば正直に話した方が得策であると考えた私は、ゆっくり首を縦に振った。
「……やっぱり」
そういうと、彼は私の手首をつかんで部屋の奥に連れて行った。彼は私のことをそこに投げ込むように放り投げると、馬乗りになって私の胸倉を掴み上げた。
「この私から逃げるなんていい度胸していますね。」
殴られるのだろうなぁ、痛いんだろうなぁ。恐怖のあまりに逆に冷静になり落ち着いて考え始めていた。もうどうなってもいいやと半ば諦めた気持ちになっている。
「ねぇ、聞いていますか?あなたの耳にはちゃんと私が言ったことが届いているんですか?」
私は無言のまま彼を睨みつけた。すると彼は一瞬だけ表情を歪めた後、私の頬を叩いた。痛みを感じて涙目になると彼は私を優しく抱きしめた。
「ごめんなさい、怖かったですよね……大丈夫です、もうこんなことはしませんから安心して下さい」
突然の行動に驚いたものの、彼からの優しい抱擁に心の底から安堵感を覚えた。いつもなら血が出るまで殴りに来るのにどうしてそんな優しい声で私に話しかけてくれるのだろう。
「あ、あの……」
「すみませんでした。でも、お願いだから逃げようとしないでください。またあなたを失うことになると思うと不安になるのです。」
そう言い終えると、彼は私の頭を撫でてくれた。とても温かくて大きな手だった。「今度からは絶対に逃げないようにしますから……だから許してくれませんか?」
「……わかりました。次逃げたら本当に怒りますよ。」
そういうと彼は私の上から降り、けがの手当てを始めてくれた。。消毒液が染みて思わず顔を引きつらせると、「我慢してください」と言われてしまった。手当が終わると、彼はそっと私を抱き寄せて背中をさすってくれた。まるで子供をあやすかのように一定のリズムでぽんぽんとしてくれる。私はそれが心地よくて眠ってしまいそうになった。
「もう何もかも忘れてしまいましょうね」
優しく、やさしく丁寧に。私を眠らせるように声をかけてくれる。そうだ。彼はこうやって私を惑わす。でも、私はそれから、逃げられない。だって私は…。
それからしばらくして目を覚ましたけれどもそこにはいつも見ていた私の部屋ではなかった。見覚えのない景色に見慣れない家具の数々。ここはどこだろうと辺りを見渡していると、部屋の扉が開き彼が入ってきた。
「お目覚めですか?」
「えぇ、まぁ……」
寝起き特有の少しかすれた声を出すと彼はふわりと微笑んだ。そして私の頭を撫で、朝の支度を始めてくれた。服を脱がされたときに初めて私の手首に縛られたような跡を見つけた。よくよく体を見てみるとあちこちに縄のような跡がついていた。
しかし彼は当たり前のように着替えを終わらせ、朝食を用意し始めていた。
「あの……これは一体どういうことなんでしょうか?」
恐る恐る尋ねると、彼はこちらを振り向いて一言告げた。
「監禁されているんですよ、あなたは」
「えっ?」
驚いていると彼は食事を乗せたトレーを持ってきた。そしてそれを机の上に置いた。この空気に合わない甘いパンケーキの香りが何とも言えない吐き気をも要した。すると彼は私を抱き寄せ頭を撫でながら優しい声色で話しかけた。
「何もかも忘れて私だけのために生きればいいんですよ」
耳元で囁かれたその言葉はまるで呪いの言葉みたいだった。彼の手が触れるたびに身体中を何かに蝕まれていくかのような感覚に陥る。
「さぁ、食べましょうか」
そう言って彼はフォークを手に取り、私にそれを差し出した。しかし私はその手を払ってしまった。わざとではない。衝動的にやってしまった。それでも彼は笑顔のまま私にパンケーキを食べさせた。私好みの味が口いっぱいに広がって悔しいけどおいしくてなぜか涙が出てきた。
私が何をしても笑顔で優しく丁寧に私に接してきた。前までなら”教育”されていたのに。朝から晩までずっと彼はそばにいて私のお世話していた。私が退屈そうにしたら娯楽、と言っても外部と関りのないことを提供してくれてた。私が癇癪を起しても子供をあやすように抱きしめなでてくれた。私にやさしくして気を紛らわせる、というより洗脳に近い形で毎日を過ごしていた。
そのころ世間では私とAIの行方不明と恋愛プログラムの暴走事故で騒がれていた。恋愛プログラムの事故、それはAIの思考制限がないために最終結論として生命にかかわる行動を起こるようになっていた。そのため恋愛プラグラムを保持しているAIの緊急回収が始まり、私のAIも回収対象となっていた。しかし私とAIが見つかることがなかった。
最初こそ私が愛ゆえにかくしている依存者としてSNS等で騒がれていたが、身内から捜索願いが出されていることや、プログラムそれぞれに埋め込まれいたマイクロチップによるGPS機能が利用できなくなっていることから新たな形態の暴走事故として取り上げられるようになっていた。
しかしながらネット上では私のことを批判する記事やコメントなどで溢れていた。
AIを管理できない馬鹿な女が悪い、人間に求められない可哀想な女などと。
もちろん私のAI はこのネット上での汚名を知っていただろうけれども私に決して教えずどこにもそれを取り消すこともしなかった。
私たちの失踪からどれくらいの時が経ったのだろう。年月という情報すらも遮られるようになったため自分が今何歳なのかもわからない。もしかしたら全然月日は経ってないのかもしれない。最初こそ不安に駆られていたけれどもその不安すらも彼は埋めてくれた。彼と出会ったときから、ずっと私は彼に守られていた。
守られていた。守られていた…?
いや私は最初彼から暴力を受けていたはずだ。でもなんで私は暴力を受けていたのだっけ。私が悪いことをしたからだっけ?悪いことってなんだっけ。彼に逆らうこと?いや、何か、何か、違う。
私は、
私は…。
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