98.その時は何の前触れもなく

「僕は、弟に自分の足で立てるようになってほしいんだ」


 十何年もの間、弟を文字通り自分の手足のように扱い、それ以外の道を閉ざしてしまった張本人でありながら。

 善人のような顔をして、今さら何を言っているのか。

 別の人格となった今のリリンなら、間違いなくそう言えただろう。

 だが前世において、史郎の兄と恋仲となった時の彼女はそうではなかった。


「晴人さん……そうですね。史郎君も早く独り立ちして、自分の人生を歩まないとですね」

「そうだね。だから理子リコちゃん。辛いけれど区切りはつけないといけない。僕らが弟に何も告げずに付き合ってしまったら、あいつはきっと心のどこかで僕たちに依存したまま、ニートの引きこもりで駄目な人間のままだ」

「優しいですね晴人さん。史郎君のこと、そこまで考えて」


 騙されていた。

 確かに晴人は史郎のことを考えていた。

 だがそれは前世のリリンが、理子が思っていたような、彼に自立してほしいなどという意思からではない。


(邪魔……だったんだ!)


 難病を克服し介護を必要としなくなり、起業して社会的にも成功した晴人にとって、史郎の存在は目障りだった。

 成功者の一家である望月家の汚点であり、その存在を表沙汰にしてはならなかった。

 万が一にも史郎が、自分の生い立ちをSNSにでも投稿し、人生を犠牲にした真実が拡散でもされてしまったら。


(この男は、何よりそれを恐れた)


「僕は優しくなんかない。これは弟の人生を犠牲にしてしまった、僕の義務だ」

「そんなことありません! 史郎君のことは、晴人さんのせいじゃありません!」

「いいや、僕のせいだ。許されるのなら、これから史郎の人生はすべて僕が支えて行きたい。……けどそれは、彼の為にならない。それに、理子ちゃんを史郎から奪ってしまった僕に許されることじゃない」

「……晴人さん。史郎君には、あたしからちゃんと言います」

「理子ちゃん?」

「一時でも共依存になって、史郎君の足を止めてしまったのはあたしだから」


(違う。分かっていたはずでしょう、理子あたし! シロウに……あの時の史郎君に、そんな傷口に塩を塗るみたいな事、耐えられるはずがないって!)


 使えなくなった道具のように捨てられて、さらに半生をかけて支えてきた兄に、かつて愛を交わした者まで奪われたという事実。

 それを弱っている史郎に、わざわざ伝える必要などなかったのだ。

 そもそも、互いに駄目になるだけだと離れる決意をしたのなら、もう二度と会うべきではなかった。

 それでも、トドメを刺すように直接出向き、残酷な事実を史郎本人に伝えたのは。


(それが、あの時の史郎君が前に進む為に、必要な誠意だと。そう思ったから)


 だが、魂の奥底までを見通す精霊ケノンの力で、前世であってもその魂の声をハッキリと聞くことができた。

 それは次元の壁を超えて絡み合う、魂の宿命が響き合った結果か。


(そう思わされていた……誘導されていたんだ、あたしは! ……理子は! この男に、望月晴人に!)


 長い時を史郎とともに生きていた晴人こそ、分かっていたはずだ。

 最後に残され縋った存在まで、兄に奪われたという事実。

 それをあろうことか、理子本人に伝えられたら、史郎がどうなってしまうのか。

 だからこそ伝えさせた。

 理子に伝えさせた。

 史郎に自分自身の意思で、あの世界から退場してもらう為に。

 引きこもりの更生施設に送られ、ネット環境を失った史郎。

 だが万が一にも更生し、家族への復讐心を持って社会に復帰でもされたら、困るのは晴人だったのだ。


(望月……晴人……!)


 なぜあの時、気付かなかったのか。

 屋上から身を投げ、病院に運ばれた史郎の今わの際。


「史郎の分まで、理子を幸せにするから」


 そう言った晴人が、悲しみの仮面の下でほくそ笑んでいたことに。

 そしてその言葉と裏腹に。

 役目を終えた理子はあっさりと晴人に捨てられた。

 前世のリリンは、最後まで晴人に利用されたことに気づかず、史郎を殺したのは自分だと己を責め続けたのだ。

 

 ***



「モチヅキ・ハルト? 誰だいそれは」

「……リリン……どうしてお前、その名前を……」


 いつもの笑みが消えた真顔で、ハーミットは問う。

 その横でシロウは、幽霊でも見ているような表情でリリンを見ていた。

 リリンは怒りに満ちた顔で、ハーミットを睨みつけていた。


「あんたさえ……あんたさえいなければ、あたしは!」

「私がそう・・だと言うのか。モチヅキ……家名かい? 私がシロウとどういう関係がある。私は正真正銘、ラーゼリオン王家の人間だよ」


 淡々と問うハーミットだが、その瞳孔は開いていた。

 リリンは叫ぶ。


「お前は、シロウの兄だ! お前は前世で、ゲンダイニホンでシロウに酷いことをしたんだ! あたしにさせたんだ!!」

「なんだって……?」

「おおおおおっ!!」


 雄叫びを上げて、リリンは床を蹴った。

 事前にラビと確認した計画など、頭から消え去っている。

 精霊術で看破した〈シールズ・チェイン〉の存在も忘れ、ただ激情とともにハーミットに斬りかかった。


「裂空斬ッ!」

「リリンやめろッ!!」


 瞬間移動の如き速さでハーミットの前に立ち塞がったシロウが、マスター・ソードでリリンの斬撃を受け止めた。

 超一流の使い手同士によるレーヴァテインとマスター・ソードの激突に、轟音とともに衝撃波が発生する。

 その余波は当然ハーミットにも及んだが、〈シールズ・チェイン〉によって守られていた。


「くっ!」

「おとなしくしろ、リリン!」

「どいてシロウ! そいつ殺せないっ!!」

「どっかで聞いたセリフ言ってんじゃねえっ……」

「なんで邪魔するの! シロウ、あいつはモチヅキハルトなんだよ!?」 


 交差した剣を挟んで、シロウとリリンは対峙する。


「バカが! んなわきゃねえだろ、少し頭冷やせ!」

「シロウ、あたしには精霊の声が聞こえるのよ!!」

「お前は電波か!? 前世が分かるってか、んな女神クラスの力が、木っ端精霊ごときにあるわきゃねーだろ! 剣を降ろせ、これは命令だ!」

「聞けない! あいつがいなければ、こんな事にはならなかったんだから!」

「だからそんなわけっ……え……!?」


 ギリギリと力を込めながら、シロウは気づいた。


「‥‥‥なんでお前、オレの命令に背いて罰則が発動しねえ!?」

「——ッ! そ、それは」


 リリンは、エフォートに隷属魔法をほぼ解除された現状をシロウにどう説明するか、彼女なりに考えてきていた。

 だが、ハーミットがシロウの兄ハルトの転生だと知ったショックで動揺してしまい、頭が真っ白になってしまった。

 結果、シロウの猜疑心をもっとも煽る反応をしてしまう。

 咄嗟に答えることができず、視線を逸らしてしまったのだ。


「!! やっぱり……やっぱり裏切ってやがったなぁっ、リリぃン!!」

「ち、ちがっ、これはエフォートが」

「やっぱりあの男か! あいつはどこまでオレから奪えば気が済むんだァ!!」


 シロウの周囲に魔力が渦巻き〈魔旋〉となって、リリンを容赦なく跳ね飛ばした。


「きゃうッ!」


 壁面に強かに叩きつけられ、リリンの体が軋む。

 そこへ、容赦なくシロウの戦略級魔法が炸裂する。


「〈カラミティ・ボルト〉ォッ!!」

「!? 裂空斬・神破金剛!!」


 奥義で迎撃するリリン。

 溜めて放つことができたテレサの時より威力は落ちたが、それでも収束されたシロウの戦略魔法を辛うじて受け止めることができた。

 リリンが手にしていたのが神殺しすら可能とする剣・レーヴァテインでなければ、一瞬で蒸発していただろう。

 それでもリリンの両腕の筋肉は裂け、雷紋の熱傷を負う。

 災厄の雷が落ち着くと、リリンはガクンと膝をついた。


「ぐぅっ……き、聞いてシロウ、あたしは裏切ってなんかない……」


 血を吐くように、言葉を紡ぐ。


「私は、エフォート今の希望を捨てて、シロウに過去の罪を償う為に、帰ってきた……君をもう、二度と見捨てたりしないから!」

「嘘を吐くな!」


 しかし、聞く者の心が歪んでいては、どんな言葉も響かない。


「そう言ってみんな、みんなオレを騙しやがんだ! 騙されるくらいなら! 捨てられるくらいなら!」


 痛みに喘ぐリリンに、シロウはギラリとマスター・ソードの剣先を向ける。

 その目は既に常軌を逸している。再びあの精神の恐慌の中に、シロウはいた。


「オレが先に捨ててやるんだ! この世界じゃあオレの方が! このオレがテメエらをみんな道具にして、使い捨ててやるんだァァ!!」


 絶叫とともに、まさに神速でリリンとの間合いを詰め、突き技を繰り出した。

 回避は不能、リリンは自身の死を察する。


「——モチヅキ殿!!」


 しかし。

 マスター・ソードの禍々しき刃が貫いた者は、リリンではなかった。


「……テレサッ!?」


 リリンとの戦いで既にボロボロになっていたテレサが、リリンを庇いそこに立っていた。

 白銀の鎧ごと、その胸は彼女の祖国に伝わる騎士団長の証たる剣によって貫かれている。


「テレサ!? ……お前なんで!?」


 シロウは顔色を変える。

 テレサの肺を貫いた剣は既に致命傷だが、このまま引き抜いたら即座に大量出血でショック死だ。


「動くなテレサ、大丈夫だ。剣を抜いた瞬間に回復してや」

「モチヅキ殿」


 テレサはマスターソードの柄を握り、シロウを制止した。


「それは……また我を……道具として使い、そして捨てる為……か……?」

「なっ……今、んなこと言ってる場合か!?」


 剣を抜く為、シロウはテレサの手を柄から外そうとする。

 だが死に瀕した人間とは思えない力で、女騎士は離さない。


「モチヅキ殿……我は、目を逸らしてきた……『あの時』、帝国領での獣人族の反乱、我を助けたこと、すべてこの剣……マスター・ソードを手に入れる為、モチヅキ殿が仕組んだこと、だな……?」

「テレサ、分かったから手を放せ! 死ぬぞ!? 死んだらいくらオレでも生き返らせられねえ!」

「いつか……いつか、その心を癒し、その歪みを正して差し上げたかったが……もう、叶わぬようだ……」


 がふっ、と大量の血を吐くテレサ。

 顔面は蒼白。立っているだけでも奇跡のような状態で、それでも騎士は手を放さない。

 マスター・ソードの柄と一緒に掴んだ、シロウの手を放さない。


「いつか、いつかと……我は、怖かったのだ……父と同じように、モチヅキ殿もまた、我を利用しているだけと……道具としてしか見ていないと、認めることが……」

「テレサ、馬鹿なこと言ってんじゃねえ!」

「モチヅキ殿が、今、リリンにそう言ったではないかっ! がふぅっ」


 叫ぶと同時に、テレサは再び大量に吐血する。

 あっけにとられていたリリンが、慌てて駆け寄った。


「テレサぁ!! シロウ何してるの、早く治癒魔法をっ」

「分かってる! 剣が刺さったままじゃ治せねえんだ! リリン、テレサを押さえてろ、力ずくで引く抜く!」

「うん!」


 リリンはテレサの体を支える。

 女騎士は抵抗したが、さすがにもう余力はなかった。


「いくぞ!」


 ザシュッ! と勢いよくシロウはマスター・ソードを引き抜いた。

 同時に鮮血が噴水のように溢れ出し、シロウとリリンを血に染める。


「よし、すぐに回復をっ……な!?」


 シロウが無詠唱で放った、瀕死の重傷も一瞬で回復させる魔法。

 だがその構築式スクリプトは起動することなく、かき消えた。

 ——ラーゼリオンの怨霊による精神支配を無効化している平穏の精霊エントが、回復の力もまた無効化してしまったのだ。


「——リリン! てめえ!!」

「どうして!? エントが発動してても、エフォートはあたしに魔法を使ってっ……!?」


 平穏の精霊エントの力は、聖霊獣エル・グローリアや戦略級魔法までも無効化する。

 だが、リリンはその能力を正確に把握していなかった。

 何故なら、隷属魔法の罰則術式を制限する為にエントの影響下にあった自分に、エフォートはなんの抵抗もなく魔法を行使していたからだ。

 だがそれは、魂に作用する強力な隷属魔法の罰則術式を抑え込む為、精霊エントがマナを極度に消費していたからだった。

 シロウの命令に背いている今のテレサにも罰則術式は発動し、エントはそれを制限しているはずだった。

 だがその力は機能していない。

 そこまでの力は、エントの契約者本人にしか作用しないのだ。


「なんで……」


 つまり今のエントが平穏に抑えているのは、隷属魔法の術式に組み込んだ精神支配の部分のみ。

 その程度の無効化では、エントにはまだまだ余力があり、回復魔法を消してしまったのだ。

 しかし、そんなことは精霊術使いになったばかりのリリンには分かりえない。


「馬鹿やろう! 今すぐ精霊術を消せ!」

「分かってるっ……ッ!?」


 テレサの手が、身体を支えているリリンの手に力なく重なった。


「やめ……て……我はもう……操られ、たく……な……」


 確かにエントを解けば、またテレサはハーミットの支配下に戻ってしまう。


「我は……我のままで……死にた……」

「テレサ!」

「テレサぁ!!」

「モチヅ……リリンは……悪くな……目を覚ま……」


 消えていく、一人の騎士の命。


「ここは……ニホンじゃな……奪うのは……もう、止め……」

「テレサぁ!!」

「テレサ!!!」



 こうして唐突に、あっけなく。

 神聖帝国ガーラントの白銀騎士テレサ・フィン・バルレオスは、絶命した。

(リリン……我のようにはならないでくれ。どうか、自由に生きて)

 精霊ケノンの力は、彼女の最後の声をリリンに伝えていた。

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