80.望月史郎

 本当は「仕郎」と名付けられるはずだった。


 役所への出生届を任された祖母が、それではあんまりだと漢字を「史郎」に変えて提出した。

 実の親のサインや判が必要な書類で漢字を変えても気づかれなかったのは、両親が史郎自身に興味が無かった証左だろう。


 「仕えるもの」と名付けられそうになった史郎には、六歳上の姉と、二歳上の兄がいた。


 長女の方は幼少期から優れた才覚を発揮していた。

 勉学では小学校に上がる前から中学入試問題を解き、音楽ではピアノコンクールで上位入賞。スポーツではフィギュアスケートで将来のオリンピック選手候補と言われた。

 優美可憐な外見も合わさって、文字通りの神童だった。


 だが兄の方は、生まれながらにして十万人に一人と言われる難病を患っていた。

 知能に問題はないが、首から上と指先以外、自由に動かすことのできない特定疾患だ。


 父親は大企業に務める高給取りだったが、天才児である長女に収入の多くをつぎ込んでいた。

 また母親の方も、まるで長女のマネージャー業のような生活を送っていた。

 そのため、難病の長男に割ける望月家の資金的・人的リソースには、限りがある状況であった。


 そこで母親が、妙案を閃く。

 長男の世話をする為だけに、もう一人子どもを作ればよいと。

 一時的に出費や手間は増えるが、生育に関しては一定の年齢まで同居している義理の母に任せればいい。

 そして物心つく前から難病の兄の介護を教え込めば、小学生になる頃には他人を雇う必要もなく、無料で使える住み込みの介護士を永遠に手に入れたも同然だ。

 長期的に見れは収支はプラスになる、と。

 そして繰り返しの出生前診断の後、望月史(仕)郎は誕生した。


「史郎くん、お兄ちゃんの面倒をみなきゃダメよ」

「兄弟だもんね、病気のお兄ちゃんを助けるのは当然だ」

「家族なんだから、助け合うのは当たり前だね」

「ダメよ、あなたは健康なんだから。ちゃんとお兄ちゃんに譲って」

「一番にお兄ちゃんのこと考えなきゃダメよ。お兄ちゃんは可哀そうなんだから」

「お兄ちゃん」

「お兄ちゃん」

「お兄ちゃん」


 史郎は周囲の期待に応え、兄の介護を懸命に覚え、健気に支え続けた。


「偉いね、いつもお兄ちゃんを助けて」

「本当にすごいわ、優しいのね史郎くん」

「その歳でお兄ちゃんの世話をしてるの? 立派だなあ」


 小学生時代を一切友達と遊ぶことなく過ごし、親は長女以外に関心を示さない。

 寂しい思いで過ごした少年時代だったが、それでも兄の介護をすれば大人たちは皆、史郎を褒めてくれた。

 それだけが嬉しくて、史郎は兄の介護を拒否することなく続けることができた。


 だが、首から上と指先以外を動かすことのできない者の介護は、壮絶を極める。


 史郎に自分の時間などなかった。

 学校の宿題をする暇すら与えられず、成績は最底辺。

 クラブ活動など問題外で、補習授業にも出させて貰えなかった。

 学校や自治体から指導員が度々家にやってきたが、長女が頻繁にテレビに出るような有名な一家で、次男は自ら進んで難病の長男を介護する優しい子なんですと言われれば、逆に美談にまとめられ、史郎自身に救いの手が届くことはなかった。


「おばあちゃん」

「史郎や。少しだけ、ばぁばの部屋にいなさい。ほら、お菓子をとっておいたよ」


 ただ一人史郎を甘やかせてくれたのは、彼の名前を守ってくれた祖母だった。


「ばぁばだけは、いつまでも史郎の味方だからね」


 だが唯一の味方は、史郎が中学に上がってすぐ、病気で他界してしまう。


「お母さん。僕、もうすぐ修学旅行なんだけど」

「はあ? 馬鹿じゃないの外泊なんて。その間、誰がお兄ちゃんの面倒を見るのよ?」

「そうだよね。ごめん、休むよ」

「当たり前でしょ。忙しいんだから下らないこと言わないで」


 その頃母親は、外部サービスに頼らず難病の息子を介護しながら同時に才媛を育てたとして、教育評論家として広く活躍していた。

 そのあまりの忙しさに、史郎のことなど家庭内の奴隷としか考えていなかった。

 それでも史郎が耐えられたのは、周囲が褒めてくれたことの他にも、美しい姉の存在があったからだ。


「史郎。ワタシがこうして活躍できるのは、史郎のおかげだよ。本当にありがとう」


 滅多にないことだったが、姉が自宅で動けない兄の部屋を訪れた時、そう言って史郎を優しく抱きしめてくれた。


「史郎がワタシ達家族を支えてくれるから。だからワタシも、あなたが好き」


 史郎が中学生の頃には、姉は十九歳。

 マルチタレントとして忙しくテレビに出演していた。

 日本で知らない者のいない美人タレントが、当時中学生の史郎を大好きと言って抱きしめてくれる。

 それだけで史郎は、終わりの見えない兄の介護をこれからも頑張っていける気がした。


 そして、彼は出会う。


「史郎くん、分かるよ。身内の介護って大変だよね。みんな褒めてくれるけど、誰も代わってくれない。仕事ならお給料が貰えるけど、家族なら当然って言われる。知ってる? あたしらみたいなの、『きょうだい児』って言うんだって」


 兄の介護関係で出会った、自分と似た境遇にあった少女。

 他人には絶対に話せない家族の悪口や介護の愚痴などを、気兼ねなく言い合える戦友のような間柄だった。


「お互いに味方は、あたし達だけだね」


 そしてその共感が恋心に変わるまで、長い時間はかからなかった。

 互いに自由になる時間はほとんどない中で、二人はどうにか可愛らしい恋人関係になることができた。


 だが中学を卒業した史郎は、以降一日のほぼ全てを、兄と家事に費やすことになる。


 その頃の兄は、特別な仕様のパソコンを与えられ、首から上以外で唯一自由になる指先を使い、電脳世界でイキイキと活動していた。

 気づけば兄は、十代にして会社を立ち上げ、仲間たちと共に年商一億を越える実業家となっていた。


 ここに至って、史郎はようやく気がついた。

 自分だけが、何も持っていないことに。


 だがそれでも、焦りは無かった。

 現実の世界では、兄は自分がいなければ排泄すらできない、何もできない存在だ。

 彼は金には困っていなかったが、プライドが高く自分の世話を他人にさせることは無かった。

 そして才媛である姉が活躍できるのも、自分がそんな兄の介護を一手に引き受けていたからで、会うたびに抱擁と感謝をくれる。

 母は相変わらずだったが、自分がこの家の内情を暴露すれば教育評論家としての立場は危うい。

 母親の生殺与奪は自分が握っていると思えた。

 父親については、彼にとってはいないも同然だった。


 だが。

 数年が経ち、その時はやってきた。


 医療の世界で革命が起きていた。

 特別な細胞が開発され、不治とされていた病に次々と治療法が確立されていったのだ。

 それは史郎の兄が患っていた難病も同様だった。

 治療が始まってから、兄が車椅子が使える環境なら殆ど不自由なく自力で生活できるようになるまで。

 兄自身の努力もあり、それは僅か三年程であった。


 兄は史郎を必要としなくなった。

 それはつまり、史郎に道具としての価値が無くなったということだ。

 こうして、二十歳を過ぎて何も持っていない引きこもりが誕生する。


「オレ、無価値なんだ」

「誰もオレなんか、必要じゃないんだ」


 史郎は自室で、ネットに溺れる生活を送るようになった。

 そしてようやく、外の世界から望月家がどう見られているかを知ることになる。


 難病の兄を介護し育てたのは、教育評論家の母。

 その母を支えたのは、天才タレントの姉。

 難病を克服し起業して成功した兄は、両親と姉に感謝。


「オレは、そもそもいなかったんだ」


 世間的に、望月史郎の存在は無いものとされていた。


 この頃、兄弟姉妹の介護で自分の人生を奪われる「きょうだい児」については、ネグレクトの一種として一定程度、話題に上がっていた。

 成功者の一家である望月家に、そんな者が存在していては困るのだ。


「あたしがいるじゃない」

「あたしだけは、何があっても味方だよ」


 唯一の心の支えだったのは、中学時代からの恋人。そう言って笑ってくれた。


 だがその恋人も、彼の元を去る日がやってくる。

 閉じこもり、自分の価値を自身で見出せず、成長しようとしない史郎を恋人は見限った。


「どうして!? 君だけは、オレと一緒にいてくれるって……オレを分かってくれるって!」

「言い訳はしないよ、ごめん。だけどあたしは、今の史郎君に魅力を感じることができない」

「君も、オレを、捨てるのか」

「……うん。ごめん」


 捨てるのかと聞かれ率直に肯定したのは、彼女なりの誠意のつもりだったようだ。

 だがそれは、史郎の最後の自尊心を破壊した。


「ふ、ふふ……」


 史郎はますます引きこもり、ネットの世界に埋もれていった。

 特にハマっていたのが、投稿サイトのウェブ小説だった。

 現実世界で力の無い者が、異世界で主人公となってチート能力を発揮し、生き生きと戦い世界を救う。

 美しい女性たちはみな主人公を褒め称え、心酔し、その庇護の元で幸せに暮らす。

 史郎が求めてやまない世界が、そこにはあった。

 

『……望むかしら?』


 ふと幼女の声を聞いた気がした。

 だが扉が開くことのないその部屋に、史郎以外には誰もいない。

 彼は空耳だと思った。


 ある日、パソコンの電源が唐突に切れる。

 そして顔も見たことのないスーツの男達が、ドアの鍵を壊して雪崩れ込んできた。


「なっ……」

「望月史郎さん。我々は引きこもり支援の、NPO法人の者です。この家を出ましょうか」

「嫌だ! どうして!?」

「心配することはないよ、施設には同じ境遇の仲間たちがたくさんいる。みんなで一緒に頑張れば、きっと社会に復帰できるさ」


 男たちが何を言っているのか、史郎にはまるで分からなかった。

 同じ境遇?

 生まれる前から道具としての人生を定められ、必要が無くなったら最初からいなかった事にされた自分と、同じ境遇の人間がそういるものか!

 復帰と言われたところで、そもそも社会に出たことなど一度もない。

 はじめから、外の世界に出されたことなんかなかったんだ!!

 史郎の叫びは、善意の塊のような顔をした男達には一切届かない。


「……姉さん!!」


 引きこもりになってから一度も顔を見なくなっていた姉が、男たちの後ろで、虫けらを見るような目で史郎を見ていた。


「助けてよ、姉さん!!」

「姉さんとか呼ばないで、キモい」

「……っ!?」

「あんたなんか、ワタシの弟じゃない。吐き気がする。二度とこの家に近づかないで」


 目の前が真っ暗になる。

 自分を部屋から引きずり出そうとする男達の声も、まるで聞こえなくなった。

 それなのに。

 母親の呟きは、針で刺されたように史郎の鼓膜を貫いた。


「あーあ。お母さん、あんたの育て方、間違えちゃった」


(――あんたに育てられたことなんて一度もないッ!!!)


 怒りと絶望のあまり、史郎はその場で嘔吐し発狂して、そのまま意識を失った。



『ふふふ……なんて素敵に汚れた魂なのかしら。そなた、我のもとに来るかしらぁ?』



 目覚めた時には見知らぬ施設にいた。

 パソコンの使用は制限され、スマートホンも取り上げられた。

 史郎は職業訓練などにも一切参加せず、ただひたすらノートに自分の妄想を書き続ける日々を送る。


 半年程が過ぎて、史郎に初めて面会希望者が現れた。

 それは、かつての恋人。


「会いに来てく――!?」


 その横には、杖をついた史郎の兄の姿があった。


「ど、うして二人が、一緒、に」

「あ、あの……史郎君には、話しておいた方がいいと思って」


 元恋人は、それが誠意だと。

 自己満足極まりない思考で史郎の元へとやってきていた。


「あたし……あなたのお兄さんと付き合う事になったの。多分、結婚すると思うから。あなたには報告しておかなくちゃと思って」


 史郎は兄の顔を見る。

 少なくとも史郎の目には。

 兄は、自分をあざ笑っているようにしか見えなかった。


 その夜。

 施設を抜け出した望月史郎は、忍び込んだビルの屋上から身を投げた。


「ニャア」


 屋上には迷い込んで震えていた猫に、彼が買ったと思われるミルクが与えられていた。


 ***


「……ごめんねぇ……お母さ……なたの育てかた……間違えちゃっ……」


 よく聞き取れないけど、言いたい事は分かる。どうしてこの人は自分の息子を失敗作だと、簡単に言えるんだ。


「お母さんのせい……こんな……ごめんなさ……」


 やめろ。この事まであんたの影響にするな。

 これはオレが、オレだけで決めたことだ。そこまで否定するな。


「……の分まで……幸せにするから……」


 また別の声。相変わらず切り替え早いな。いや、もともとオレみたいなクズにスイッチが入ったことなんてなかったんだ。

 もういい。お前らみんな好きにしてくれ。

 オレはもうこの世界からいなくなるんだから。


 ***


 リリンが、精霊ケノンの力で初めてシロウの魂に触れた時。

 ふと恐ろしい考えが浮かんだ。

 確かめるように、リリンはケノンの力を自分自身にも使う。


(――ッ!!)


 シロウをこの世界に転生させ、チート能力を与えたのは女神だ。

 もしその女神が、シロウ以外の魂の輪廻も操れるとしたら。


(シロウに自死を選ばせたのは、あたし……!?)


 そんな記憶はない。

 だがケノンの力は、確かにリリンが彼の前世と深い関わりがある存在だと告げていた。


(確かに、あの女神なら)


 リリンが女神の存在に触れたのは、ラーゼリオン王城の宝物庫前でミンミンに憑いていた分体が顕現した時だけだ。

 まるで、ゲームを楽しんでいるかのような口調だった女神。

 あれなら確かにやりそうだと、リリンには思えた。

 だとすれば悪趣味極まりない。


(過去のあたしが、シロウにひどいことをした。だから、シロウは自ら死んだ)


 そして記憶は残らなかったが、自分も、シロウと同じようにこの世界に転生した。

 いや、それでは計算が合わない。

 ケノンにリリンの前世と告げられた人物は、シロウと同じ頃に死んだわけではない。

 異世界では時間の流れが違うのだろうか。


(そんな……こんなことって……エフォート)


 エフォートが知れば、シロウと一緒に自分のことも憎むだろうか。

 リリンは恐れる。

 彼はゲンダイニホンの異世界人自体も憎んでいるようだった。


(……? エフォート……?)


 リリンが、シロウと自分の過去を知ってしまったその時。

 最後に、幼馴染にその視線を移していた。


 ***


 ベッドの上で、シロウは泡を吹いて倒れていた。

 その横に、寄り添うようにシルヴィアが横たわってる。


(坊や……。古き昔、妾も坊やのように、人族に使い捨ての道具にされ、用が済んだら封印された)


 吸血鬼はシロウの金髪を優しく撫ぜる。


(その妾を助けてくれたのは、坊やじゃ。転生してチートを得てはしゃぎまわり、ライトノベルの筋書きをなぞっただけの行動とは知っておる。それでも妾は、嬉しかったのじゃ)


 瞳術でシロウの魂まで深く沈みこんだシルヴィアは、優しく微笑んだ。


(忘れるのではなく、塗りつぶすのではなく、乗り越えようぞ。きっと、必ず、少なくとも)


「……リリンは帰ってくる」


 シルヴィアは確信を込めて、その言葉を口にした。


 ***


「おおおおっ!」

「うわああっ……!!」


 魂魄快癒ソウル・リフレッシュの構築式に、エフォートはあらん限りの魔力を込める。

 リリンの抵抗は激しく、魔力消費は激しかった。

 だがエフォートは諦めない。二人と、約束をしているからだ。


「リリンッ……俺は必ず、君を!」

「やめてぇっ! あたしにはそんな資格はないのっ!!」

「知ったことか! リリンがアイツの、いや誰かの奴隷だなんて……俺が認めない!!」

「エフォートッ……!」


 それがたとえ、自分と決着をつけて王女と未来に進む為だとしても。

 リリンには、エフォートの言葉が嬉しかった。

 その気持ちが、彼女の決意を鈍らせる。

 承継魔法の蒼い光が、胸に巣食った奴隷紋の最後の呪縛を打ち祓った。


「しまっ……」

「これで最後だ! 消えろ、忌々しい魂の束縛め!!」


 リリンの旨から隷属の紋章が消滅する。

 隷属魔法は、解除された。


「……やった!!」

「ダメェッ!」


 蒼い光の奔流に飛ばされ、消えていく隷属の戒めの力。

 その消滅しようとする繋がりに向かって、リリンは右手を大きく伸ばした。

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