72.罪人リリン

 上空から怒濤のように、光の精霊ウィル・オ・ウィスプが降り注ぐ。

 縦断爆撃のような攻撃を、リリンは予めどこにどのタイミングで落ちてくるのか分かっているかのようなステップで回避しながら進んでいった。


「ははっ、〈精霊の声〉ってほんとすごい! 世界が違う! ケノン、仲良くしようねえ」


 一方、雨あられの攻撃に近づくこともできないルースは、勝手の違うミンミンの両手杖スタッフによる〈魔旋〉で耐えながら進むしかなく、大きく遅れを取っていた。


「リリンめ……攻撃の先読みなんてエルミーにも出来なかったぞ!? くそ、アタシだって自分のアックスがあればっ」


 またエリオットの方にも、確かに多くの光の精霊ウィル・オ・ウィスプが襲っている。

 だが彼一人で充分に対応できる範囲の物量で、むしろリリンやルースより少なく、サフィーネが案じていたような集中的に狙われるような挙動は見られなかった。


「んん? まいっか。行くぞぉー!」


 おかげでエリオットも、どんどん聖霊獣に接近していく。


(手加減している……?)


 ラーゼリオン第二王子、エリオット・フィル・ラーゼリオンへの積極的な攻撃を避ける聖霊獣エル・グローリア。

 その因果関係が今のエフォートには理解できなかった。


「く、考えるのは後か……」


 エフォートは自分とサフィーネ、ミンミン、ガラフ、そしてエルカードの方に飛来する光の精霊ウィル・オ・ウィスプを反射することに集中する。

 一発一発は威力が低く反射に大した魔力も必要ないが、数が数だ。

 反射した光球を別の光球に直撃させ相殺するなどして、消費魔力を極限まで減らす必要があった。


「あ痛っ……ちょっとレオニング、アタシがよけ損ねたのも弾いてよっ!」

「お前なら千発喰らっても平気だろ、そのまま突っ込め」

「ドSめっ」


 ルースも軽口を叩きながら、先行する二人の後を追った。

 サフィーネは聖霊獣打倒のヒントを少しでも得るため、エルカードに詰め寄る。


「ねえ、エルカードさん!」

「……エルミー……」

「いつまでも傷心してないで! 六年前にエルカードさんが聖霊獣封じたやり方は聞いたけど、今のリリンに同じ事ができるの?」

「え……うん。僕の時はシロウが〈グロリアス・ノヴァ〉を見た後で、あの吸血鬼と猫の獣人に操られて、自分ごと〈平穏の精霊エント〉を暴走させて聖霊獣を封印したんだ。今のリリンさんなら……暴走なんてさせる必要もなく、ほとんどノーリスクで再封印できるかもしれない」

「……マジで?」


 素が出るサフィーネ。


「うん。僕も正直ここまでとは思わなかった。リリンさんはあの三精霊を、僕以上のレベルで使役できる」


 天才ということか、とサフィーネは驚愕する。

 エフォートは五年前にリリンを失ってから、彼女を取り返すために死に物狂いの努力を積み重ね、ここまでの力を得てきた。

 そんなエフォートでも倒しきれない存在すら容易く封印する力を、リリンは僅かな時で手に入れたというのか。

 サフィーネはこの状況打開に有利なことであっても、あまりの理不尽に納得がいかなかった。


「一番乗りっ! じゃ、ここまで来てからのっ……!」


 リリンが聖霊獣の足下まで到達する。

 聖霊獣がひとつ吠えてから、巨大な右足をリリンに振り降ろそうとした瞬間。


「どろんっ!」


 リリンの姿がかき消え、聖霊獣の爪の一撃は誰もいない地面を割った。


「!! またシェイドの力か?」


 エフォートは魔力感知を最大で、聖霊獣の周りに集中する。だがリリンの気配はまるで感じられない。


(王城の時に隠行が得意なことは知っていたが……闇の精霊シェイドの特性と合わさって、ここまで気配を消せるのか? 〈インビジブル〉を上回るスペックかもしれない!)


 グルオオオ

 グルル


「じゃあん!」


 リリンはエル・グローリアの顔面近くの空中に、唐突に姿を現した。

 その距離まで近づいても、人智を越える聖霊獣に気づかれなかったのだ。


「裂空斬・雷破鷲爪ォッ!!」


 人がここまでの衝撃を起こせるのか、というほどのインパクトが大気を振るわせる。


 グォオオオオオオオオオオオ


 聖霊獣がその巨体を大きくのけぞらせた。黄金の双眸、その瞳のひとつを潰されたのだ。

 さすがに空を飛ぶことまではできないリリンはそのまま落下するが、体重のない者かのごとき軽やかさで地面に降り立った。


「負けるもんかっ!」


 入れ替わりに、エリオットが傾いだ聖霊獣の体を駆け上る。


「——兄貴ッ! 角を狙って!!」


 サフィーネの叫び声を、エフォートは風魔法を駆使してエリオットまで届ける。


「了解っ! 裂空斬・竜破羅刹ッ!!」


 グギャアアアアアアアアア


 リリンに勝るとも劣らない一撃が繰り出され、聖霊獣の角を撃ちつける。

 折れるまでには至らなかったが、一部を砕き破片を飛び散らせた。


「どうだぁっ!」


 こちらも軽やかに着地するエリオット。

 リリンは怪訝な顔をする。


「ねえ王子様、あんた普通にあたしと同じ剣技使ってるけどさ」

「ん?」


 そこにようやくルースが追いついてきた。


「トドメはアタシッ! そこをどいてー!!」


 光の精霊ウィル・オ・ウィスプの攻撃が止み、土煙を上げながら駆けてくるルース。


「あ、ルース。足狙ってよ! 倒れたとこをあたしが封印するからっ」

「えええ!? もう、トドメだって言ってるのにっ!」


 リリンの注文にがっくりしながらも、素直にルースは両手杖スタッフに最大級の《魔旋》を纏わせ、傾いた聖霊獣の体重を支えていた脚に向かって叩きつけた。


「おりゃあああ!! 〈魔旋〉ぇぇん!!」


 グオオ

 オオオオオオオオオオ


 地震としか思えぬ響きとともに、巨獣は再び地に倒れ伏した。


「よし! じゃあ最後の締めっ、行くよ!」


 リリンは倒れたエル・グローリアの上に飛び乗った。

 剣を納め、目を閉じて精霊との交信に集中を始める。

 遠くからその様子を確認し、サフィーネはため息をついた。


「なんか納得いかないけど。ひとまずこれで、落ち着けるかな」

「いや……まだ早い! 〈浮遊レビテーション〉!」


 エフォートは安堵しかけたサフィーネに鋭く呟くと、浮遊魔法を発動。


「えっ」

「待ってレオニングさん! ボクの同期シンクロが切れちゃうっ」


 慌てるミンミンに答える余裕もないまま、エル・グローリアに向かって飛翔した。


 グルルゥ


「……しまった!?」


 リリンが焦る。

 倒れたままの聖霊獣の体中のオーブが、また強く輝き出したのだ。

 放たれる気配は、当然〈グロリアス・ノヴァ〉。範囲魔法である為、シェイドで隠れたところで意味は無い。


「——リリン! お前は構わずに、封印に集中しろ!」


 飛翔してきたエフォートはリリンを抱え上げ、叫ぶのと同時に反射壁を展開した。


 グアァァアアアアァア!!


 〈グロリアス・ノヴァ〉が放たれた。

 方角は、倒れた聖霊獣の体の上方に向かって。

 その為、地面に立っていたエリオットたちや遠方のサフィーネたちは効果範囲外だ。

 封印のために体の上に立っていたリリンだけが狙いだった爆発魔法は、飛びついてきたエフォートにより反射される。


「ソーサリー・リフレクトぉぉ!」


(これは……属性変容していない! 必要な反射構築式スクリプトの数は激減するが……)


 グアァァアアアアァア!!

 ゴガアァァアアアアァア!!


 爆発をすべてエル・グローリアの巨体に向けて反射しているが、同じ聖属性同士で、ほとんど聖霊獣へのダメージとはなっていない。

 反射されるのも構わず、エル・グローリアは属性変容なしの〈グロリアス・ノヴァ〉を放ち続けた。


(やはり俺の魔力切れが狙いか! 反射した攻撃で自分がダメージを負わなければ、いずれこちらが自滅するとっ……!)


「リリン、急げ! 早くこいつを封印しなければ共倒れだッ!!」

「わかってるッ!」


 空中で抱きかかえられたエフォートの腕を掴みながら。


(…………ッ!!)


 迷いを振り切って、リリンは〈平穏の精霊エント〉の力を解放した。


  ***


「まっ、剣士改め精霊剣士のこのあたし、勇者シロウの仲間リリンの力があってこその楽勝ってね! 感謝しなさいよ!」


 取り囲んでいる視線が絶対零度以下まで冷え切っていることに、気づいているのかいないのか。

 リリンは快活に言い放った。


「貴女……自分の立場を分かってるの?」

「なあにお姫様。もちろん分かってるよ、あたしはシロウを見逃してもらった代償としてここにいる。だからその分の働きはしてやろうって、聖霊獣やっつけた後もここに残ってるんじゃない。そんなに吊り上がった目で睨みつけられる謂われないと思うけどなあ」

「……睨みつけられる程度で済んでいることに感謝して。本当なら鉛玉を喰らわせてやりたいところなのよ」

「エフォート。お姫様、怖いよ?」

「フォートに近づくな! 貴女だけは! 絶対に!! フォートに触るな、話しかけるな、近づくなぁっ!! それ以上、ほんの少しでもフォートに近づいたらマジで撃つ!! 撃ち殺す! 見もするなぁっ!!」


 聖霊獣エル・グローリアは再封印され、エルフィード大森林にとりあえずの平穏が戻った。

 だが、持てる力のほぼすべてを出し切ったエフォートたち一行の疲労度は半端ではない。

 エルカードは「這ってでも行く」とエルフの谷へと事態の報告に向かい、エフォートたちはこの場でキャンプを取ることにしたのだ。

 ミカとギール、そしてビスハ兵たちが追いついてきて、キャンプの設営を行ってくれた。


「……あれがリリンさん? フォートさんの……幼馴染み?」

「ああ。いいかミカ、絶対にお姫様の前では気をつけろよっ! あの女絡みでからかったりしたら、本当に神の雷撃たれるからなっ!」

「そんなことするのガラフくらいだべ……」


 キャンプを張り終え、それぞれ最低限の治癒・回復を終えたところで夜になり、一行は焚き火の周りへと集まっていた。


「怖いなお姫様……アタシん時以上じゃない? あんなに怒ってるの」


 ルースの呟きに、ミンミンがため息をついた。


「本当にルースはバカなんだね」

「ええっ?」

「状況が違いすぎるよ。リリンが残ったのは仲間になる為でも、利害の一致で協力する為でもない。ただただ、あの男の為。リリンは強力な精霊の力を得て、レオニングさんとボク達を倒すことまでは無理だろうけど、足止めは充分できる。こっちを監視しているんだ。だから奴隷契約を維持されながら、平然としてられるんだ」

「お、おう……」


 訥々と語るミンミンの静かな迫力に、ルースは気圧される。


「大体リリンは、レオニングさんの優しさにつけこんで利用してる卑怯な女だ。あんなの、お姫様が可哀想すぎる。ボクが……ボクが守ってあげないと」

「おう? ……お、おう?」


 ルースには、怒っているミンミンに「あれ? ミンミンは国を出るまでの利害関係者じゃなかった?」と聞けるほどの勇気はなかった。


「分かったよお姫様。……はあ、これでいい?」


 リリンはエフォートに背を向けてスタスタと歩いてから、距離を取って振り向かないまま立ち止まった。

 当のエフォートは小さな岩に腰掛け、簡易瞑想ライトメディテーションをしながら目を瞑っている。

 一言も発することはなく、その感情は読み取れない。


「じゃあ話を戻すけどさ。シロウに聞いたけど、あなたたちエルフの谷で国境軍を抜ける術を手に入れて、都市連合に亡命するつもりだったんだよね?」

「シロウというか、ハーミットにでしょう? 転生勇者様にそんな知恵回るはずない」


 サフィーネが吐き捨てるのを、リリンは可愛いものを見るように笑う。


「そうだね。確かにシロウには思いつかなかったかもねー」

「その余裕な態度やめてくれない? 吐き気がするんだけど」


 サフィーネのストレスも最大だ。

 すぐにでも暴発してしまいそうな自分を必死に抑えながら、王女はリリンの相手を続ける。エフォートに相手をさせるわけにはいかないからだ。


「それで? だからなんだっていうの?」

「またまた。もう分かってるくせにお姫様。あたしが使える闇の精霊・シェイド。これなら魔法の〈インビジブル〉にしか対策してない国境軍を突破できる。あたしが協力したら、無駄な血を流さないで皆を都市連合まで連れ出してあげられるよ」


 ビスハ兵たちも含め、ざわめきが走る。

 目標としていた、都市連合への亡命。

 もっと時間がかかると思われていたものが、こんなにすぐに実現できるというのだ。


「……条件は?」


 冷静に問うサフィーネにリリンは笑顔を返す。


「特にないよ。だからシロウを見逃してくれた分の代償だってば」

「本当に?」

「信じてもらうしかないなあ」


 視線を交わすサフィーネとリリンに横から彼が口を挟んだ。


「俺たちが国外に行くことが、最大の時間稼ぎというわけか。シロウが立ち直る為の」

「……さすがは、エフォート」


 目だけは笑わない、だが口角をあげて口だけで微笑んで、リリンは答える。


「フォートと話すなっ!」

「ちょっと、今のはそっちから」

「もう大丈夫だ、サフィ。心配しないでくれ」


 エフォートは立ち上がって、自分を庇うように立っているサフィーネの肩に優しく手を置いた。


「……リリン。シロウの為になら、本当になんでもするんだな」

「もちろん。あたしは絶対にシロウを見捨てたりはしない。あの人を守るためなら、手段を選ばないわ」

「どうして、そこまでするんだ」

「あなたには分からない。で、どうするの? あたしと一緒に都市連合に行くの? 行かないの?」


 淡々と話すリリンは、エフォートに答えを迫る。


「……一晩だけ時間がほしい。皆とも話し合って決めたい」

「オッケー。じゃあ、明日の朝また来るわ」


 そう言ってリリンはくるりと背を向けると、スタスタと歩き出した。

 その背中に向かって、何人かのビスハ兵達が立ち上がり叫んだ。


「待て! そのまま逃げる気じゃないのか!」

「そうだ! 俺たちを切り捨てた新国王と組んでいる勇者、その奴隷の言うことなど信用できるか!」

「自分一人で逃げるつもりじゃないのか!」

「……あんたたち、バカ?」


 リリンは振り返りもせず手をひらひらとさせる。


「逃げるって、何から? 大体そんな真似をしてなんのメリットがあるの。〈闇の精霊シェイド〉を持つあたしは、好きなときに消えることができるのよ」


 そう言った途端、リリンの姿は夜の闇に溶けるように消えていった。


 ***


 華奢な三日月が天高く輝く。

 それは乾いた空が閉じた瞼。


 大森林には、昼間あのような歴史的な激闘があったことなど嘘のように、静かで穏やかな空気が流れていた。


 その夜の森を一人歩く、栗色の髪の少女。

 端から見て、彼女の存在を認識できる者は存在し得ない。


 少女は川の畔までゆっくり進むと、足を止めた。


「シェイド、ちゃんとあたしを隠しててね」


 リリンはふうっと息を吐くと、静かに呟いた。


「〈平穏の精霊エント〉、一度休んでいいよ」


 ビクンと体を震わせるリリン。そして。


「っ!! ……ごふっ! がふ、ぐふぅっ……!!」


 聞くだけで更なる不快感をかき立てる音ともに、リリンの口から吐瀉物が撒き散らされた。

 膝をつき、胃がひっくり返るほどの嘔吐をリリンは繰り返す。


「ゲホッ……ゲボォッ!! がふっ、がふうっ!」


 そして痙攣を起こして身を震わせ、自らの吐き出した吐瀉物の中に顔から突っ込んで倒れこんだ。


「あああ……ああああああああああああ!!!」


 苦悶の声を上げ、リリンは絶叫する。

 奴隷紋の罰則術式がその身を苛んでいた。


「うぐうっ……ああああああっ!!」


 黒いフクロウが、のたうち苦しむリリンの肩へバサリと降りてくる。


〈リリン。ごめんね、あたしの力が足りなくて、痛みを消すことができなくて〉

(いいんだよエント。少なくとも君のお陰で、皆の前であたしは普通でいられる。さすがは平穏の精霊だね)


「ぐああっ……」


 平穏の精霊の力は、確かに隷属魔法の罰則術式を受けるリリンを平穏に鎮めていた。

 だが罰則術式は耐えがたい『痛み』そのものを魂に与える、本来解除不可能な魔法。

 魂魄を治癒させることができない限り、どんな手段であっても痛み自体を消すことはできない。

 それは聖霊獣エル・グローリアすら封じる平穏の精霊・エントであっても同様。

 出来ることと言えば「痛みに苦しんでいる様を表に出さない事」までだった。

 痛みのせいで動きが鈍ることはない。

 判断力や思考力が落ちることはない。

 ただ、通常なら耐えられない痛みが襲い続けるだけで。


(おかげで、シロウの命令を破った後もああして戦えた。誰にも気づかれないで普通に振る舞うことができた。エフォートに気づかれそうになった時には、ちょっと焦ったけど)


 つまりリリンは、シロウの「行かないでくれ」という命令を拒否して以来、ずっと罰則術式の痛みを受け続けていたのだ。


「ぐうう、ぐううっ……!」


 今度は黒いウサギがピョンピョンと、リリンの傍まで飛び跳ねてきた。

 黒ウサギもリリンに語りかける。


〈でもリリン、それじゃあんまりじゃない? リリンは痛いの我慢して、これだけ頑張ってるのに。誰もそんなリリンの苦しみを知らないんだよ?〉

(いいんだよケノン。これはあたしの罰で、自己満足なんだから)


「あああっ! うわあああああ!」


 悲鳴を上げながら、涙を流すリリン。

 痛みに発狂しそうな自分を抑えるため、地面に額を打ちつける。


(あたしは罪人だ)

(ケノンも聞いたでしょう?)

(エフォートはあたしを見捨ててなんかなかった!)

(それどころか、助けられなかったことをずっとずっと悔やみ続けて!)

(今度こそあたしを救う為にって!)

(五年間必死で頑張ってくれていた!)

(そんなエフォートをあたしは、あたしは……!)

(侮蔑して、侮辱して、愚弄し続けていたんだ)


「ああああああっ! あああああああっ!」


(あたしはエフォートになんて言った? 今度こそあたしを助けられるように、努力して努力して作り上げた反射魔法を勇者に渡せって? 女を盾に隠れるところは変わらない? 逆恨みで勇者の邪魔をする? 保身しか考えない臆病な卑怯者? どうかしてる……! 今のエフォートをちゃんと見ていれば、そうじゃないことはすぐに分かったはずなのに!)


「ぐうううううっ! ぐうううううっ!」


 黒いリスが樹上からピョンと落下してくると、吐瀉物まみれでのたうつリリンの周りを、グルグルと駆け回る。


〈リリン! リリン! 痛みは消えないけど、もう一度エントにお願いして! このままじゃリリンの心と体が壊れちゃうよ!〉

(シェイド……そうだね。こんな自己満足で、あたしは壊れる訳にはいかないんだ)


 リリンの意思に応えて、漆黒のフクロウが空を舞う。

 その力によって、リリンの体は平穏を取り戻した。

 痛みは消えない。ただ平穏を取り戻すだけだ。


 リリンはゆっくりと体を起こし、パシャリと川の中に入る。

 波が落ち着いてから、月夜に僅かに反射する水面に映る自分の顔を除き見た。


「はは、ひどい顔……ああ痛い」


 パシャパシャと川の水で顔を洗う。


〈ねえリリン。そんなに後悔してるんだったら、反射の魔術師のもとに帰って謝ればいいのに。きっと許してくれて、隷属魔法も解いてくれるよ〉


「シェイド、ダメなんだ。あたしの罪は許されちゃダメなんだ。それに、あたしまで奴隷から解放されてシロウとの繋がりがなくなってしまったら。今度こそあの人、立ち直れなくなっちゃう」


 服を着たままトプンと川に潜り、また立ち上がって身震いする。


〈やっぱり、シロウは見捨てられない?〉


「うん。……たとえどんな辛い過去があったとしても、シロウがこれまでやってきたことは許されることじゃない。世界中が彼を責めると思う。責められて当然だと思う。……でもあたしは、確かに最初は馬鹿な誤解と愚かな憧れだったけど……ケノン」


〈そうだね、聞いちゃったね。知っちゃったね〉


「きっと世界なんかと比べて、とてもとても個人的で小さなこと。だからこそ彼にとっては世界より大きいこと。彼らにとっては」


 パン! とリリンは両頬を手のひらで叩く。


「シルヴィアにも頼まれたし! まあシルヴィアはちょっと過保護な気がするけど……」


 リリンは空を仰ぎ見た。

 華奢な三日月が天高く輝く。それは乾いた空が閉じた瞼。


「このままシロウとエフォートを戦わせない……! 女神め、気づいてないの? エフォートが勝っても、シロウが勝っても、こんなのあんまりじゃないか……」


 だが、二人を戦わせる一番最初の原因を作ったのは、他ならないリリン自身だ。


「だからあたしは……どんなに憎まれても、そのせいでいつか殺されても、シロウを守る。あの二人を殺し合わせはしない」


 黒ウサギが水面をピョンピョン跳ねて、リリンの元へやってくる。


〈ねえリリン。知らなければよかった?〉


 リリンは静かに首を振る。


「知らなかったら、これからもシロウの横で多くの人を傷つけ続けた。知ることができたから、これ以上シロウのせいにして罪を増やしたくないと思えたから、聖霊獣の封印を最後までやり遂げることもできた。だからあたしは、これからもシロウを守り続けて、本当の意味で立ち直らせてみせる」


〈……リリン〉


 黒ウサギが歯を見せて笑った。


「なにっ……!?」


 浮かんできたイメージは、今日の戦いでのこと。


『お姫様っ! 覚悟ぉ!!』

『サフィッ!!』

『——ッ!』

『フォート!?』

『……なんだ。あんたの心は、とっくに決まってるんじゃない』


「やめてケノンッ! どうしてこんなもの見せるの!?」


 サフィーネを襲うリリンの剣先に、迷うことなく飛び込んだエフォートのあの表情。


〈どうして守る相手が、あたしじゃないの?〉


「やめて!」


 今度は漆黒のリスがケタケタと笑う。


『リリン、急げ! 早くこいつを封印しなければ共倒れだッ!!』

『わかってるッ!』

(…………ッ!!)


 聖霊獣の上空で抱き抱えられた、エフォートのあの腕の温もり。


〈五年前より、ずっと逞しくなっていた。あんな風に抱いてくれることは、二度とないの? もうあの温もりに触れることはできないの?〉


「シェイドっ!! ひどい、どうしてこんな……!」


 漆黒のフクロウが羽を広げて、リリンの前に舞い降りた。


〈それはね、リリン。あたしたち精霊がただの魔法生物だから。あなた自身の投影に過ぎないから〉

〈人格は無くて、あなた自身をただ映しているだけだから〉

〈だからあたし達は、リリンが言って欲しいことを言っているだけ。聞いて欲しいことを聞いているだけ〉


 気づけば三体の漆黒の動物たちがリリンを囲んでいる。

 リリンは耳を塞いでしゃがみ込む。


〈だからこれは、あなたの願望〉

〈あなたの欲望。罪人のくせにずうずうしい〉

〈そんな資格はないんだよ。恥を知ろうね、リリン〉


「分かってる、分かってる、分かってる! みんなあたしだ! 望みはしない、あたしはただ、あの人たちを助けるだけだ!! うわあああああっ!!」


 ***


 翌朝。

 といっても日はもうそれなりに高くなってきた頃。

 エフォートたちのキャンプに、リリンは現れた。


「なんで濡れてるの?」

「なんか全然乾かなくて……」

「は? ……少し待ってなさい」


 サフィーネは、野宿してきたとしてもあんまりなリリンの様子に、苦虫の百匹や千匹は噛みつぶしたような表情でタオルを取り出した。


「ほら、拭きなさいよ」

「お姫様、今日はお優しいんだね。あたしの協力が必要だから、媚びる気になった?」

「な、誰がっ」


 渡そうとしたタオルを引っ込めて、横を向くサフィーネ。

 〈平穏の精霊エント〉の意外な効果としては、演技による不自然な仕草も平穏に見せてしまう効果があった。

 誰もリリンの振る舞いに、違和感を持つことはない。


「……リリン」

「お、エフォート。結論は出たのかな」


 エフォートがテントから現れる。

 リリンは自分の胸が高鳴るのを禁ずる。そんな資格は自分にはないのだから。


「ああ。ここにいるビスハ兵に、ミンミン、ルース他全員で、国境軍を突破して都市連合へと向かう。協力してくれ」

「了解だよ。ああ、お礼は承継図書がいいな」

「なっ……昨日、シロウを見逃した代償だと」

「全力で阻止しようとしてたくせに」

「それはっ」


 リリンはケタケタと笑い出す。


「冗談だよ、言ってみただけ」


 サフィーネがリリンをキッと睨んだ。


「笑えない冗談を……エフォートを弄ばないで!」

「はいはい。じゃあもう、出発する?」


 これでいいと、リリンは内心で自嘲した。

 お願いだから自分を憎んでくれ。

 でなければ間違えてしまいそうだから、と。

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