66.聖霊獣エル・グローリア

 それ・・が鳴動を始める前に、栗色の髪の剣士は飛び下がって剣を抜いた。

 リリンの魔法適性は低い。

 それでも目に見える変化が起こる前に反応を示せたのは、彼女の殺気を感じ取る戦士としての技量と、聖霊獣の魔力が桁外れに膨大であること、その両方だ。


「これはっ!?」

「いけない……リリンさん、逃げて!」


 遅れて、遥か地の底から響いてくるように洞窟が揺れ始める。


「地震……? 違う、地下から何か」

「悪意をもって森が破壊されたんだ……聖霊獣が、目覚める!」


 鎖に繋がれたままのエルカードが、背後を振り返った。


「え? だって、聖霊獣ってこの岩塊じゃないの!?」

「表面に出てるのはほんの一部、本体のは地下だ! 精霊よ、僕に力をっ!!」

「エルカード!?」


 雄叫びを上げるエルカードの身体から闇が噴き出し、繋がれた鎖を伝って大岩へと流れ込む。しかし。


「くっ……そ!」


 パァァン!!


 岩塊から闇は弾かれた。

 そしてそのまま、巨大な岩は白銀の輝きを帯び表面に亀裂が走り始める。


「ダメだ……リリンさん、僕のこの鎖は特別な鋼鉄で、断つことができない! 君は早く逃」

「裂空斬ッ!」


 バギィンッ


「何か言った?」


 リリンの剣閃は、エルカードの四肢を拘束していた鎖を易々と砕いた。


「す、すごい……」

「ボンヤリしてないで、さっさと行くよ!」

「あ、ありが……っと」


 エルカードはリリンとともに駆け出そうとしたが、ガクンと膝をつく。


「なにしてるの!? 早く!」

「無理だ、足が動かない……!」


 エルカードは六年もの間、この場所に繋がれていた。

 精霊の魔力により生き長らえてきて、リリンから貰った回復の霊水で体力は回復したものの、衰えた筋力まではどうしようもない。

 エルカードはまともに歩くことすらできなかった。


「僕はダメだ……置いていってくれ」

「やだよ」


 リリンはヒョイと、エルカードの痩身を肩に担ぎ上げる。


「うわ、軽っ!?」

「ちょっ、なんで」

「黙ってて。舌噛むよ」


 そして崩れ始めた洞窟の中を駆け始めた。


「わわわっ! は、速……!」


 リリンにとって、断食していた瘦せぎすのエルフなど重りにもならない。

 あっと言う間に洞窟を飛び出して、リリンとエルカードは外の森へと出た。


「火の手が……」


 エルカードは半ば予測していたが、黒煙が空を覆い尽くさんばかりの惨状に、顔を顰める。

 そしてリリンの肩から降りて、その顔を正面から見つめた。


「……リリンさん」

「必要なことなのよ」


 そう言って顔を背けたリリンに、エルカードは畳み掛ける。


「森を焼くことが? この森には僕たちエルフだけじゃない、多くの動植物たちの命が育まれている。その住処を奪うことが? 命が失われることが?」

「もっと多くの命を奪うことになる恐ろしい魔王を、勇者が倒す力を得る為によ!!」


 キッと睨みつけてリリンは叫んだ。

 対してエルカードは、憐憫を込めた瞳で栗色の髪の少女を見返す。


「君はそれを、本心で信じているの」

「当然よ! シロウこそこの世界を救う勇者。彼が力を集めるのは必然だわ! あいつが……エフォートがおとなしく承継図書をシロウに渡せば、こんな真似しなくても済んだのに!」


 悪いのは、逆恨みで勇者シロウの邪魔をする、幼馴染のエフォート。

 だからリリンは彼の為に、どんな汚れ仕事も危険な役割も引き受ける。

 それが誇りなのだ。


「間違えているよ、リリン・フィン・カレリオン」

「……ッ!」


 エルカードの放った言葉に、リリンは息を飲んだ。


「どうして、あたしの奴隷になる前の名前を……えっ?」


 記憶を遡り、リリンは戸惑う。


「待って、あんた、さっきからあたしのことをリリンって呼んで……あたし、名乗ってないよ」

「ごめんね。僕の闇の精霊・ケノンは、声を聞くのが得意なんだ」

「……だから……あんたは、シロウの過去も……」

「うん、精霊の声で知った。だから分かった。あの男は勇者にはなり得ない」

「嘘だ」


 リリンは剣先をエルカードに突きつけた。

 ズズン……と背後の洞窟が完全に崩壊し、土煙が上がる。

 もうすぐに、聖霊獣が姿を現すだろう。


「僕を殺す? それもいいね。もともと僕は殺されても仕方のない大罪人だ。君が見たくない真実をこれからも見なくて済むように、今、斬り殺すのも一つの選択肢だね」

「……あたしは」

「でも、君は優しい女の子だ。だから、お願いがある」

「命乞い? シロウの敵になる相手に、容赦なんか」


 一歩前に出るエルカード。自分の言葉と裏腹に、リリンはビクッとして剣先を引いてしまった。


「リリンさん。僕はあの聖霊獣エル・グローリアを鎮めることのできる唯一の精霊、平穏の精霊エントを君に譲渡したい」

「えっ? ……はあっ!?」

「僕の魔力はこの六年間の封印で、ほとんど空っぽだ。怒り狂ったあの巨獣を、もう再封印できない。だから」

「待って待って、あたし、魔法なんか全く適性が」

「精霊術だよ」

「同じようなもんでしょ!? 無理無理無理! 他を当たって!」


 ぶんぶんと首を横に振って拒否するリリン。

 だが次のエルカードの言葉に、動きは止まった。


「なら、エフォートさんに譲るしかないかな。畑違いとはいえ、王国最強の魔術師なら使いこなしてくれるだろうね」

「……」


 エルカードの皮肉に、リリンは鋭い眼差しで睨みつける。

 そして深くため息をついてから、口を開いた。


「エルカード、あんた性格が悪いね。誰かに似てるよ」

「光栄だな。それってリリンも満更じゃないってことでしょ?」

「どうしてそうなるのよ!!」


 ドガァァァン!!


 巨大な影が屹立して、爆風が吹き荒んだ。

 飛ばされそうになるエルカードを、リリンはとっさに支える。

 そして頭上を見上げ、その威容を目の当たりにして身体を固くした。


「……これが……精霊獣、エル・グローリア……!」


 ***


 その容姿を端的に表現するのならば、城ひとつ分はあろうかという大きさの、純白の狼。

 身体のあちこちには、赤・緑・青の半透明のオーブが光輝いている。

 三色の光は混ざり合い、白く輝き大森林を照らし出していた。

 額には鋭い一本の角。

 有史以来誰も手にしたことはないが、削り出すことができればそれは膨大な魔力を齎す秘薬となる伝説が伝えられている。

 黄金に輝く鋭い切れ長の双眸には、深い知性を伺わせる理知的な眼差しと、自然を破壊する愚者への怒りが同居していた。


 グルァァァァーーーン!!


 大森林の全域に響こうかという咆哮が放たれた。

 音は魔力を帯びた衝撃波となり、地上の樹々を揺らして走る。

 愚者の放った森を焼く炎が次々と吹き飛ばされ、消えていった。


「復活した、復活したぞ! ふははっ……やった! これで俺たちはっ!」


 深緑色のフードを被った男たちが、炎が消し止められた辺りから飛び出してきた。高揚した顔で聖霊獣を見上げている。


「任務は成功だ! これで……これであのクソギルドの支配から、逃げられるんだ!」


 聖霊獣の黄金の瞳が、その男たちを捉えた。

 容赦はない。隷属魔法の支配下にあることなど、それ・・にとってはなんの免罪符にもなりはしないのだ。


「はっ……はは……俺を奴隷にした王国め、こいつの力で滅びるがいい!」

「ようやく……ようやくだ」


 聖霊獣の一瞥を受けて、フードの男たちは己が身の運命を悟る。

 その顔に一様に浮かんでいるのは、まごうことない歓喜。


 聖霊獣の眼差しによる、僅かな魔術構築式スクリプトの展開と魔力の解放。

 たったそれだけで、フードの男たちはすべて消滅した。


 だが。

 実行犯の制裁だけで、森の守護神の怒りは収まらない。

 収まるはずもなかった。


 ***


「はっ……ははっ……アレ・・をあたし一人で谷に誘導するとか……シロウもあたしの実力を高く買ってくれてるね」


 精霊獣の実力の一端を目撃して、リリンは冷や汗を流しながら乾いた舌を舐める。


「無茶しないで、リリンさん。仲間がいるんでしょ? エルミーだって近くにいるはずだ。まずは合流を」

「これは、あたしがシロウから頼まれたこと。だからあたし一人の仕事よ」


 自分の身を案じる言葉を、切り捨てるリリン。エルカードは顔を歪めた。


「……そうか、君はあの男の奴隷だ。命令に背くことはできないのか」

「違う。シロウはあたしに命令って言葉は使わなかった。ただ『頼む』って言っただけよ!」


 ガチャッと鍔を鳴らして、リリンはシロウに渡されたソードを構える。


「待つんだ、リリンさーー」

「行くぞぉぉっ!」


 そして、断罪の巨獣に向かって駆け出した。

 狙っているのは、右の前足。

 それだけで樹齢千年の巨木を悠に超えるサイズだが、的も大きい。

 リリンはそこに全力の剣撃を叩きつけ、まずは聖霊獣の注意を引くつもりだった。

 スッと黄金の瞳が動く。

 人族ではあり得ないスピードで駆けてくる栗色の髪の剣士を、聖霊獣は視界の端に捉えた。

 それ・・にとっては取るに足らない小さい存在。だが森を焼いた原因に類する者であることは分かっている。

 息を吸うようにエル・グローリアは魔術構築式スクリプトを展開し、そして息を吐くように微かな魔力を込めた。


「〈魔旋〉ぇぇん!!」


 戦士の本能でリリンが頭上に〈魔旋〉を展開した直後。


 ガガガガガガガガガガガガガガガ!!


「うおおおっ!!」


 破壊の衝撃波が襲い、轟音を炸裂させた。

 リリンは足を止めて〈魔旋〉に集中せざるを得ない。


「こ……の……程度ぉッ!!」


 ガォン!


 掲げたソードを振り抜いて、リリンは雄叫びと共に衝撃波を四散させた。

 聖霊獣の瞳が僅かに、興味深げに見開かれる。


「くらええぇぇっ!」


 再び突進を再開し、リリンは巨獣の右前足に剣撃を放つ!


「裂空斬!! えっ!?」


 外すことなど考えられない巨大な目標が、リリンの目の前から消えた。

 次の瞬間、その右前足の鋭い爪が背後からリリンに迫る。

 彼女にとっては恐ろしい速度で、それにとってはヒョイと実に何気なく、聖霊獣は足を上げて振り下ろしたのだ。


「小賢しいッ! 闘竜返し!」


 迫る建物ひとつ分程の巨大な爪を、リリンは剣技で受け流した。

 闘竜返しの剣技は、相手の力を利用するカウンター技。古竜のブレスにすら対応できるその剣技で、リリンはカウンターを取る。


「くらえ!!」


 そして返す剣撃を、巨獣の重心がかかっている左の前足に叩き込んだ。

 グラリ、とバランスを崩す聖霊獣エル・グローリア。倒れるまでは至らないが、重心はブレた。その隙をリリンは見逃さない。


「ハアッ!」


 樹を、巨獣の足を、体軀を蹴って、リリンは聖霊獣の眼前まで一気に駆け上った。


「〈魔旋〉!!」


 ソードの周りに高密度の魔力の旋風が巻き起こる。そしてリリンが最大の奥義を放とうとした、その瞬間。


『危ないッ! リリンさん!!』


 この距離で聞こえるはずのないエルカードの声が、耳元から聞こえた。

 聖霊獣エル・グローリアの黄金の双眸がリリンを捉えている。

 仮にシロウが、あるいはエフォートがその場にいれば気づいただろう、先とは比較にならない複雑で膨大な魔術構築式スクリプトが目の前で一瞬で組み上げられている。

 リリンには見ることはできない。だが鍛え上げられた剣士の勘が、必殺の技が自分を狙っていることを悟らせた。


(〈グロリアス・ノヴァ〉が来るっ!)


 リリンは魔旋を纏ったソードによる技を、とっさに変更する!


 グアァァアアアアァア!!


「闘竜・魔旋返しぃィィッ!!」


 ガォォォン!!


 リリンを狙って収束され放たれた聖属性の爆発魔法は、捌かれ、逸れたエネルギーが大地を削り取っていく。


「すごい、聖霊獣の戦略級を弾くなんて……リリンさんっ!?」


 ドォン!


 さすがにカウンターまでは取れなかったリリンは、余波で吹っ飛ばされエルカードの近くの地面に激突した。


「リリンさん、生きてますか、リリンさんっ!」

「っとお!」


 ちょっとしたクレーター状になった地面の中央で、リリンは跳ね起きた。


「よしっ……シロウの言った通りだ! 〈グロリアス・ノヴァ〉は魔旋を使った闘竜返しで弾ける!」

「そんな事を言われてたの!? なんて無茶な!」

「シロウの言うことに間違いはないんだから!」


 グルァァ……ン……


 聖霊獣は小さく唸ると、ドシン、ドシンと明確にリリンに向けて足を進めてきた。

 黄金の双眸に射止められ、リリンは身震いする。


「あたしを敵と認めたみたいね……。よし、これで谷に逃げれば、奴を誘導できる!」

「待って、危険過ぎる! 後ろからまた〈グロリアス・ノヴァ〉を撃たれたら」

「何度でも弾いてみせるよ。見てたでしょ、あたしの技!」

「あの技は、属性変容に対応できるの!?」

「……属性へんよう? なにそれ」


 聞きなれない言葉に、リリンは小首を傾げた。


 グアァァアアアアァア!!


 だが巨獣の咆哮に、慌てて剣を構え直す。


「まずい、またアレが……エルカードはあたしの後ろに、話は後ッ! 〈魔旋〉ぇぇん!」


 再びソードに魔旋を纏わせるリリン。直後に聖霊獣の〈グロリアス・ノヴァ〉が再び襲った。


「闘竜・魔旋返しぃッ!」


 ガガガガガガガガガガガガ!!


「今度は地面で踏ん張れる! さっきみたいに飛ばされたりしない!」

「……ダメだリリンさん! 属性が変わる!」


 聖霊獣エル・グローリアの身体に浮き出ている赤・緑・青の珠が強く輝き出し、その色彩が変わっていく。


「なっ……!?」


 ゴガン!

 バキン!


 魔旋の竜巻が少しずつ突破され、衝撃波が通り始めた。


「そんなっ!」

「属性が変化し続ける連続爆発魔法で、魔力の高速回転が乱されてるんだ! もう保たないッ!」

「呑気に解説してないでっ! じゃあどうすれば!?」

「くっ……!」


 リリンの問いに答えを持っていないエルカードは、言葉が出ない。


 ガゴォンッ!


「きゃあっ! ……シロウ、助けて!」


 五年前から、いつだって笑いながら圧倒的な力で助けてくれた、シロウ。

 今度は自分が助ける番だと思っていたが、またも力及ばず、リリンは叫んでしまう。


 そして。

 その声に応える者は。


「放てぇっ!」


 ガン!

 ガァンガァン!!


 グルァァ……ン……


 魔旋の竜巻が消滅する前に、破壊の暴風が止んだ。

 別のものに気を取られたエル・グローリアが魔法を中断したのだ。


「た……助かった……? シロウ!?」

「最悪ね、その呼び違えは」


 応えたのは、長大な鉄の筒を手にした、小柄な幼女。

 いや、幼女ではない。

 見た目は幼いが、その声の芯には折れない鉄の意志が存在した。

 たとえ己の感情と裏腹でも。絶対に相入れることのない相手であっても。


(それが貴方の望みなら、守ってみせる)


「……この見返りは、キスだけじゃ足りないからね、フォート!! ……『神の雷』、第二射用意ッ!」

「了解、サフィーネ!」

「お姫様、準備オッケー!!」


 ジャコンッとコッキングレバーが操作され、アンチ・マテリアル・ライフルに次弾が装填される。


「放てぇッ!」


 サフィーネ・フィル・ラーゼリオンの命令により、異世界の叡智による聖霊獣エル・グローリア迎撃戦が開始された。

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