36.ビスハ村

 背中ばかりを見てきた気がする。

 前を走る背中。

 怒られている背中。

 戦っている背中。

 横で眠っている背中。

 なにより一番印象に残っているのは、庇ってくれている背中。

 何もしなくてもあの背中はずっと目の前にあると、少女は勘違いしていた。

 だからあの日、彼女がこの地獄の控え室みたいな村からいなくなった日。

 遠ざかる背中が一度も少女を振り返らなかったことは、仕方がない。

 仕方がなかったんだと、いい聞かせていた。


「……ミカ……ミカ……」


 近い祖先が昔、魔物に攫われ嬲りものにされたのだろう。少女に魔物の血が流れていることは、身体的特徴で一目で分かる。


「ミカ……おい、ミカ……」


 あの背中の彼女も、少女と同じく魔物の血が混じっていた。だが、彼女には他の村人にはない高い誇りがあった。


(アタシが強いのは、アタシの個性だ。魔物の血がどうとか関係ないね!)


 そう公言し、同じような境遇の者が集められたこの村の不条理な扱いに、事あるごとに反発していた。

 そんな彼女だったからこそ、あの勇者みたいな金髪の男の目に止まったのだ。

 村の大多数と同じように、状況に逆らわず流されるまま奴隷として生きていた少女には、彼女を羨む資格もない。

 コボルトの血が混じった少女、ミカはそう考えていた。


「ミカ……おいミカ! このクソチビ、何をボーッとしてやがる!!」

「い、痛ぁッ!?」


 魔物の血が強く出てしまった犬耳を強く引っ張られて、ミカは悲鳴を上げた。


「な、なにするだ……オラは今、休憩時間のはずだべ……?」


 ともに村の門を警備している、オークの血が混じった豚鼻の同僚に向かって、ミカはオドオドと抗議する。

 だが男で体も大きいオーク混じりは、鼻で笑った。


「うるせえ、そんなん関係あるか。てめえがこの村でまだ生きてられんのは、オレらの温情だってこと忘れんなよ」

「そんなん……それこそ関係ないべ、オラはちゃんとルールを守って休んで」

「うっせえ、オラァ!」


 豚鼻男はミカに向かって拳を繰り出した。

 オーク譲りの膂力もあり中々鋭いその拳打を、ミカはヒョイっと避ける。


「やめるべ」

「コラ避けんな!」

「オラ、何もしてねえだ」

「てめえ、管理兵に誰が報告書出すのか、分かってんのか?」


 その一言に、ミカは青ざめ動きが止まり、思わず自分の胸を押さえてしまう。

 そこに刻まれているのは奴隷紋。

 目の前の豚鼻男にも刻まれている、隷属の証。


「ここでオレに殴られるのと、後でキツい罰則術式を喰らうのと、どっちがいい?」

「なっ……そもそもなして、オラを殴るべか!?」

「そんなん、退屈な見張りに飽きたから暇潰しに決まってんだろ? オラァ!」


 ふた回りも身体の大きいオーク混じりの拳を顔面に受け、ミカは吹っ飛ばされる。


「か、かはっ……!」

「はっ! 俊敏さが売りのコボルト混じりも、避けらんなきゃただの無能だよなぁ! おらもう一発!」


 盛大に鼻血を流しながら、ああ今日もまた飽きるまでボコボコにされるのか、とミカが目を瞑り覚悟したとき。


「なっ……なんだテメエらはっ!」


 同僚の驚いた声に目を開けると、くたびれた鎧兜を纏った背の高い男が、目の前まで伸びていた豚鼻男の腕を掴んで止めていた。

 そして、同じように薄汚れた魔術師風の青年が、ミカの前に庇うように立つ。それから。


「なんだはこっちのセリフよ。あんた自分より小さい無抵抗の子を殴って、何やってんの?」


 子どもだろうか? ミカと年が近そうな美しい女の子が、大きな胸を張って同僚に向かい怒りを露わにしていた。


「……大丈夫か、君」


 首だけ後ろを向いて、魔術師風の男はミカを心配して声をかけてくれる。

 ミカはその背中にかつての彼女を、そしてその彼女を救った勇者みたいな男を思い出していた。


 ***


 エフォート達が村の入り口に着いた時。

 古びているがそれなりに立派な村門と門番の詰所前に、人影はなかった。

 魔物の出現が増えている現状、見張りがいないのはおかしいと訝しんだところで、詰所の中から怒鳴り声が聞こえ、エフォート達は中に入ったのだった。


「……お前ら人族の冒険者か!? おいミカ何やってんだ! 耳も鼻もいいんだろうが、なんで気づかなかった!」


 豚鼻男の怒声にミカが反応するより早く、サフィーネが怒鳴り返す。


「あんたアホなの!? そんなデカい声出して殴られてたら、聞こえるもんも聞こえないでしょうよ!」


 ずいと詰め寄って、豚鼻男を睨む。

 ミカと同じくらいの子どもにしか見えない女に罵倒され、オーク混じりはカッと頭に血が昇った。


「このガキっ!」


 サフィーネに手を上げようとするが、そもそもエリオットが掴んだ男の腕を離していない為、届かない。

 逆にエリオットは豚鼻男の腕を捻り上げ、押さえつけた。


「いっ……痛てて痛てて!! やめろてめっ……あだだだだっ!!」

「この子はもっと痛かったと思うよ。女の子を殴るような卑劣な真似、許せないな」


 エリオットは、捻り上げた腕にギリギリと力を込める。


「あだだっ……女の子って……馬鹿かお前ら、こいつの耳が見えないのか!?」

「可愛い犬耳だね。それがどうした? 獣人なんか珍しくない」

「目ぇイカれてやがんのかっ! こいつは獣人セリアンスロープじゃねえ、雑種モングレルだっ!」

「は? モン……何だって?」


 豚鼻男の言葉の意味が分からないエリオットに代わり、エフォートが口を挟む。


「それはお前も同じだろう、亜人混じり。それとお前がこの子を殴ることと何の関係がある?」


 雑種モングレル

 エフォートが呼んだように、人や地域によっては一概に「亜人混じり」と呼ばれることもある。

 だが獣人セリアンスロープや、エルフ、ドワーフ、森人トレンティアといった国によっては人族と同等かそれ以上の種とされる亜人族と異なり、オークやオーガ、コボルト、ゴブリンなどは魔物の扱いだ。それらとの混血者を、ほとんどの者は侮蔑の意を込めて雑種モングレルと呼んでいた。

 そしてこの国では、産まれた時から奴隷として差別し、搾取し続けている。


「だっ……だからお前ら人族には、オレたち雑種モングレルの奴隷がどうなったって関係ないだろぉ!?」


 豚鼻男の言葉に、サフィーネが顔をしかめる。

 だが王女が言い返すよりも先に、エリオットが怒った。


「関係ないわけないだろっ! この国で俺に関係ないことなんてありはしないんだっ!」


 エリオットの言葉に、ハッとした表情でミカは三人の顔を覗き込んだ。

 そんなコボルト混じりの少女の様子を目の端で捉え、エフォートは内心で舌打ちする。

 豚鼻男の方はまだ分かっていないようだ。あるいは手配を聞いていないのか。


「は、はあ? あんた何言って」

「……ノウキング」

「いいかお前、この国で俺の目の黒いうちは」

「ノウキング!!」


 サフィーネに大きな声を出されて、ようやくエリオットは気づく。


「な……なんだろ……サリィお姉ちゃん」

「お姉ちゃん??」


 ミカが反応して、ますます怪訝な表情になる。エフォートは頭を抱えたかった。


「ノウキング、そこの人は疲れてるんだよ。休ませてたげて」


 サフィーネはそういうと、シュッと手刀のジェスチャーをしてみせる。


「お、おう」

「ぐがっ」


 かろうじて意図を察したエリオットは、一撃でオーク混じりの大男を気絶させた。

 サフィーネはパタパタとコボルト混じりの少女に駆け寄る。


「君、大丈夫? ちょっと待ってね」


 鼻血を流しているミカに手をかざして、治癒魔法の詠唱を始めた。


「いや、やめてけれっ!? オラに治癒魔法なんてっ……」


 ミカはサフィーネの手を振り払い、詠唱はすぐ中断される。


「えっ、なんで?」

「なんでって、オラは雑種モングレルの奴隷で……」

「亜人の血が混じってても、痛いのは痛いでしょ?」

「いや、亜人じゃなくて、コボルト……」

「ごめぇん私、頭良くないからよく分かんないや」


 サフィーネは小首を傾げて、にこりと笑う。あっけにとられているミカをよそに、再び詠唱を始めた。

 ミカは、自分を助けてくれた三人の冒険者に心当たりがあった。

 村門の見張り当番に入るときに、管理兵から軍の通達が回ってきていたのだ。豚鼻男は読んでいなかったようだが。


「……あのぉ、もしかして、アンタ方……ラーゼリオンの」

「ああっ!! あのね違うんだ、俺たちはモガッ」

「ノウキング、ここは俺が話すから」


 エフォートはエリオットの口を塞いだ。


「俺はロート、旅の魔術師だ。こっちの戦士はノウキング。時々変なこと口走るけどただの妄想だから気にしないで」

「ムー! ムムー!」

「は、はあ……」

「君の回復をしているのがサリィ姉さん。まだ見習いの回復術師だから、治すの時間かかるけど、ごめんね」


 詠唱中のサフィーネは、ミカに向かってピースする。


「姉さんって……」


 ミカはエフォートとサフィーネを見比べる。


「……お幾つなんだべ?」

「見た目通りの歳じゃないってだけ言っておくよ」


 ミカは動揺する。

 目の前の三人はみすぼらしい格好をしているが、通達にあった手配書の身体的特徴とほとんど一致していた。

 だが通達には、手配されている首謀者は非常に狡猾で頭が回り、巧みな偽装をしているはずだから注意しろとあったのだ。

 何しろ、勇者を騙して城の宝を奪い、王様を殺した反逆者だという。王女と王子を唆したエフォート・フィン・レオニングという魔術師は、さぞかし悪魔のような男なのだろう。


「……ぷはあっ! いつまで口押さえてんだ、息できなくて死ぬだろ、エロート!」

「ロートだって言ってるだろ! エロはお前だ、姉弟きょうだいの裸を覗こうとしたノウキング!」

「あー、あー、今、兄妹きょうだいって言ったー! いいのかなー?」

姉弟きょうだいだろう? サリィはお姉ちゃんなんだから!」

「えっ……あそうか」

「そうかって……ああもう、馬鹿らしくなってきた」


 語るに落ちるとはまさにこのことだ。だがこの三人、本当に身分を隠しての逃避行中なのだろうかと、ミカはますます混乱する。

 何しろ、目の前で下手くそな回復魔法を使っているたぶん王女は、男二人のやりとりを見てクツクツと笑っているのだ。本当に隠す気があるようには、とても見えない。


(それにラーゼリオンのお姫様って言ったら、あの噂の、清楚可憐なお淑やか王女様の筈だべ……?)


「……〈治癒ヒール〉! ふう、とりあえず血を止めるくらいだけど。ごめんねぇ?」


 サフィーネはローブの袖で、ミカの顔にまだ付いていた血を躊躇いなく拭う。


「あ、そんな……」

「ちょっとぉー、ロート、ノウキング、何遊んでんの!?」


 動揺しまくるミカを意に介さず拭い終えると、サフィーネは立ち上がり、腰に手を当て二人に怒った真似をする。


「遊んでません。……『サリィ姉さん』」

「なあに?」

「貴女は最初から……確信犯ですね?」

「なんのことかな?」


 サフィーネはペロリと舌を出した。

 そのやりとりを見て、ミカは確信する。だから、ますます迷う。


(……どうするべ……)


 命令に従うのであれば、すぐにこの三人の事を管理兵に報告しなければならない。だが。


「ねえ君、確かミカって言ったよね?」


 サフィーネがくるりと回って、ミカに顔を近づけた。


「あっ、はあ……」

「私たち冒険者なんだけど、なんかこの辺の魔物が妙に強くって……なんでか知ってる?」

「はあ……そんな報告、確かに聞いてるべ。でもなんでかとか、知らないだ」

「そっか」


 狩りに行った村の者たちも同じ事を言っていた。ミカは素直に答えるが、内心ではそれどころではない。

 サフィーネはニコニコしながら続ける。


「それでね、私もロートも、魔力が底を尽きかけてるの。この村の宿屋に泊まらせて貰いたいんだけど、いいかな?」

「えっ、それなのに、オラに回復魔法を?」

「あ……それは、殴られて血を流してる女の子ほっとけないじゃん。いやいやそんなこといいんだ。で、どうかなミカちゃん。宿屋、連れてってくれないかな。場所を教えてくれるだけでもいいよ」


 ミカは自分の胸に手を当てる。

 怖い。

 怖い怖い怖い!

 痛いのは嫌だ。痛いのは嫌だ。

 だけど。

 この人たちは、当たり前のように自分を助けてくれた。

 人として見てくれた。

 こんな人たちが、王様を殺した犯罪者であるはずがない。

 彼女だったら、どうするだろう。

 もう届かない、あの背中。


「……ミカ、ちゃん?」


 首を傾げるラーゼリオンの美姫の向こうに、もう見えなくなった彼女の背中が、見えた気がした。

 今を逃せば、もう二度と届かない。

 ミカは決意する。


「……ダメだ」

「えっ?」

「ダメだべ、王女様! 王子様! エフォートさん! 今すぐ村を出るだ、もうこの村にはアンタ方の手配が回って……! キャアアアアアアアアア!!」


 指名手配者を見つけたら逃さず報告しろ、という命令に明確に背き、ミカに罰則術式が発動する。

 耐えることは絶対に不可能な激痛が、コボルト混じりの少女を襲う。


「ミカちゃん!? ミカちゃん!! しまっ……私、そんなつもりじゃ……! フォート!!」


 想定外のミカの反応に、サフィーネは動揺する。

 エフォートは、悲鳴をあげ術式に苦しむミカの身体を抱き起こして、叫んだ。


「君! 聞いてくれ! 大丈夫だ、君は俺たちを王国兵の元に連れていっていいんだ! それが王女殿下の目的だ、君は命令に逆らわなくてもいいんだ!!」


 ミカの肉体と精神を削り取るような痛みが、少しずつ治まってくる。

 エフォートたちはその気配を感じて、ホッと胸を撫でおろした。

 エフォートは落ち着いた声で話しかける。


「……大丈夫だ、ミカさん。少し休んで落ち着いてから、俺たちを王国兵のところに。俺たちは逃げない、それで俺たちは困らないから」


 罰則術式の痛みが治まり、ミカはホッとする。そして自分を抱えてくれている魔術師を、やっぱりルースを救っていった勇者に似ている、と思った。

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