廿楽あいかが泣いた日 4/4話

 ――こんなにも晴れの日で憂鬱になるのは、初めてだった。


 燦々と輝く太陽の下、水しぶきが交差する。

 ある者はデッキブラシを、またある者はホースを持ち、一心不乱に教室より広い屋外スペースを掃除していく。

 いや、教室内の掃除でそんなはしゃぐことなかったくらい、楽しそうに掃除してるな、みんな……。


 気温も高くなっている中、よくもまあそんなにテンションが上がるものだ……いや、だからこそ上がるものなのか、これは。


 プール掃除。

 C組が待ちに待ったイベントである。

 授業が消え、暑い日に水を浴びることができ、なおかつ遊べる。いいことずくめ三拍子が揃ったこの役割は『選ばれし神イベント』とも呼ばれ、競争率も毎年激しい……らしい。


 まあ、気持ちはわからなくもない――いつもなら。


 ジリジリと焼けるような暑さが鬱陶しく感じる。

 青空の中で煌めく太陽は、プールの隅っこで体育座りをしている僕たち二人を嘲笑っているかのようだ。


 僕はプール掃除に不参加である。というか、無理だ。いくら普通に動けるとはいえ、水場の掃除は難しい。


 それでも、何か掃除道具を持ってくるなどの雑用役を志願したのだが……。


「ばっかやろう。怪我人が何しようとしてんだお前」

「武藤は隅っこで大人しくしてればいいんだよ。手伝うとかいらんわ」

「罪悪感なんて感じるな。俺らは授業サボって遊んでるんだから」


 なんて男子たちに否定され、大人しくしておくこととなった。


 また、


「廿楽さんは武藤くんの傍にいてあげてね」

「廿楽さんも手伝うとかしなくていいからね」

「彼のことを看るのが、あなたの仕事だからね」


 なんていう女子たちの意見によって、あいかも僕の隣で見学するということになった。


 ……ちなみに。


「あのー……それなら、二人は別のクラスで授業を受けてほしいんだけど……」


 という先生の意見は、


「「「二人が可哀想でしょうがっ!!」」」


 というクラスの大合唱によって却下された。その謎の団結力はなんなんだ君たち。


 というわけで、僕たち二人はプールの隅で体育座りをしている。


 ただ――空気が重い。

 昨日のことが頭から離れないのだ。


 ――私なんかが一緒にいていいと思えません。


 そんなことない。僕はそんな大層な人間じゃないし、そもそもあいかに近付いたのはこっちなのだ。

 ……むしろ、僕がいてほしいとさえ思っている。


 お前がいなくなったら、誰が紅茶を一緒に飲んでくれるんだ。誰と一緒に昼食を摂ればいいんだ。どうやって放課後を過ごせばいいんだ。


 今すぐにでも言いたいけど……言えない。


 ――武藤さん。


 あいつからそう呼ばれるのが怖くて。


 あいつも同じことを思ってるのだろうか、話しかけてくる気配はない。


 雲一つない爽やかな青空の下、僕たちは曇天よりも曇りきっていた。



***



 人というのはやる気を出すと思いがけない力を発揮するらしい。

 掃除に一時間以上かかるだろうと思っていた作業は、遊びたいが一心に一時間以内で終わせてしまい、一時間以上のご褒美タイムが生まれてしまったのだ。


「「「ひゃっほぉぉお! 遊ぶぜぇぇえ!」」」


 やけにハイテンションな男子たちが印象的だった。


「はい、二人もどうぞ」


 と、なにやらスポーツドリンクのペットボトルを持ってきたのは斎藤。


「えーと、これは……?」

「差し入れ。さっき女子たちで人数分の飲み物買ってきたの。お金は後で徴収するね」


 もうなんでもやりたい放題だな……。


「あぁ……ありがとう」

「……ありがとうございます」

「いえいえー。ゆっくりしてていいからねー」


 と、それだけ言って去ってしまう。


 斎藤、僕たちの空気に気づいてないのだろうか? ……いや、おそらく逆だな。

 いつもとは違う空気に気づいてるからこそ……今、何も言わなかったんだ。なんか気を遣わせちゃったな……。


 後で色々聞き出されそうな気もするけど……どう説明したらいいものやら――


「……?」


 と。

 この後の斎藤と話す内容に頭を悩ませていると、ふと視線を感じる。

 すっかり水が張られたプール内。クラスメイトたちが和気あいあいと遊ぶ中から送られてくる鋭い視線。


 派手な金髪の女子……牧野、か?


 あぁ、確か彼女から脅迫文貰ってたことあったな……確か、「廿楽さんの事情も、何もかもわかってない」みたいなことも言われたような気がする。


 きっと、彼女もあいかの過去を知ってて――


「…………」


 ――いや、待て。おかしくないか?


 確かあいかの過去を知っているのは同じ中学校の人のみのはず。皆が口を塞いでいるから、冬樹も彼女の過去を知らなかったのだ。


 そして――牧野はあいかと同じ中学校出身ではない。冬樹から見せてもらった名簿で、このクラスにあいかの中学校出身の人がいないのは確認済み。

 だから、知らないはずなんだ。あいかの秘密を。


 じゃあ……彼女はあいかのどの事情を知ってるんだ?


 ――そのうち、わかる時が来る。


「――っ」


 ゾワリと背筋が凍る。

 何か……とてつもなく嫌な予感がしてならない。


 彼女はプールから上がると、僕たちの方へ歩きだした。


 既に終わったはずのプール掃除。

 なのに、端に座っている僕らの目の前には片付けてないホースが伸びている。


 牧野は先端のシャワーヘッドを掴んだ。


 一見すれば、ただの片し忘れの後始末。

 でも……僕には別の意味に見えて仕方ない。


 あいかの過去を知らない牧野が言いたいことは――たった一つ。


 牧野と僕たちの距離は数メートル。あと数歩程度で僕たちの前を横切るだろう。


 ホースが繋がれている蛇口までは……ダメだ、遠すぎる。今の僕の足じゃ、走っても止めるのに時間がかかってしまう。

 当のあいかは……俯いてて牧野の方を見てない。彼女が気づいた頃にはもう遅い可能性が高い。



 ……いや、そもそも僕があいかを助ける理由などあるのだろうか。

 こうやって彼女を助けたところで――また『いい人』扱いされて、ますます遠ざかってしまうのではないだろうか。

 なら――余計なことをしない方がいいんじゃないだろうか。


 そうだ、クールダウン。こういう時こそクールダウンするべきだ。


 クールダウン……。


 クールに……。


 …………。




 ………………いや、そうじゃないだろ僕。


 挫けかけた自分に活を入れる。


 そうだ、そもそも僕はなんの為に常日頃紳士として振る舞ってるんだ。


 カッコいいから? 大人っぽいから? 知的に見えるから? ……違う、そんなんじゃない。


 こうやって――誰かを傷つくのを見たくないからだろ。


 あいかがどう思ってようが関係ない。距離を置かれたっていい。


 それでも僕は――お前に傷ついてほしくないんだ。


 一歩。たった一歩だけでいい。


 彼女を助ける方法は――たった一歩踏み出すだけ!


 牧野があいかの横を通りすぎていく。


 その瞬間――シャワーヘッドのグリップが握られる。




「――!!」


 ――水しぶきがあがった。


 事態に気がついたあいかが即座に顔を上げる。


 彼女の目の前にいたのはシャワーヘッドを構えた牧野。


 そして……二人の間に、大の字で立つ僕。


「~~~っ!」


 ズキリと右足首が痛む。右足を軸にして思いっきり立ち上がったせいだ。これはギプスをしていても痛い……!


 冷たい感覚が背中に走る。体操着が一気に濡れて、なんとも言えない感覚を味わうが……あいか本人に水しぶきはかかってないようだった。


 よかった……間に合って、よかった。



 あいかは目を見開き、大の字で守る僕を見つめてくる。


「あっ……!」


 そして、後ろから「しまった」という風に声をあげる牧野を見た。


「…………」


 スッ――とあいかの目が細くなったと思った、その瞬間。


 予想外の事態が発生した。


「ちょっ――!?」


 いきなり立ち上がったと思いきや……無言で牧野の方へ詰め寄ったのだ。


 表情こそ無表情だが……僕にはわかった。


 あいかは今――怒ってる。

 それも、今まで見たことないくらいに。


「ちょっ、まっ! あいか、落ち着け――」


 このままでは喧嘩に発展しかけない――と、慌てて二人の間に入ろうとする。


 しかし……僕はすっかり忘れていた。

 水で濡れたプールサイドが滑りやすいということを。


「――!」


 気がついた時には、もう遅い。


 見事に足を滑らせた僕は――プールに向かって身を投げ出していた。


 そのまま何もできるわけがなく――水中へと落ちていく。



 耳元で弾けるような音が聞こえてきたと思いきや、急に無音になり鼻と耳と口に大量の水が流れ込んできた。


 ――やばっ、体が浮かない……! 沈む……!


 必死に手足を動かすが……浮く気配が全くない。

 運動神経がない僕でも、浮くことくらいできる。カナヅチというわけではない。


 じゃあ、なぜ今は浮けないのか?

 答えは簡単――右足の怪我のせいだ。


 さっきの痛みのこともあり、足を上手く動かせない。痛みが来ることを恐れ……自身の中でブレーキをかけてしまっている!


 大量の空気を吐き出してしまう。水面へ昇っていく空気は、こんな状況ながら神秘的に感じてしまった。


 あ、やば、死ぬ――。


 本気で死を覚悟した……その時。



 誰かが僕の手を掴んできた。

 瞬間――一気に体が水面へ持ち上がっていく。


「――ぷはっ!」


 水面に上がった瞬間、肺に空気が入り込む。

 と思っていたのも束の間。僕はそのまま肩を抱えられ、プールサイドまで引っ張られる。


「うっ……げほっごほっ!」


 気がつけばプールサイドで横になっていた。

 咳き込みながら顔を開けると、僕に覆い被さるようにして目の前にいたのは――


「――陽太っ!」

「あ、あい、か……?」


 あいかだった。

 藍色の髪が濡れて肌に張りついているのが見える。

 それだけじゃない。体操着まで全身ずぶ濡れの姿だ。


 あれ、どうして……彼女には水がかからないように守ったはずなのに……。


 いや――違う。


 もしかして……僕を助けてくれたのは、あいかなのか?

 水が苦手のはずの彼女が……自ら飛び込んだのか?


 僕が目を開け、返事をしたのを見ると、あいかは眉をひそませ……右手をあげる。



 そして――自分でもわかるくらいの音が鳴り響き、左頬に衝撃が走った。



「――陽太のバカっ!」


 初めて聞く、彼女の荒げた声。

 

「怪我してるのに! 死んだらどうするんですか!」


 僕の頬に水が数滴落ちる。

 その瞬間――僕は気づいた。


「いつも――いつもいつもいつも! 自分を犠牲にして、人を助けようとして! 私が悲しまないとでも思ってるんですか!?」


 彼女が――廿楽あいかが初めて表情を変えていた。


「陽太はいい人なんかじゃありません……バカです! 大バカですっ! バカ、バカ、バカぁっ……!!」


 目から大きな雫を落とし。

 整った顔を歪ませ。


 あいかは――泣いているのだ。


 初めて見せた表情が泣き顔。

 明らかに良くないことだけど――本当に悪いんだけれども。


 僕はあいかの泣いている表情を見て――美しい、と。

 思わず見惚れてしまっていた。

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