廿楽あいかが泣いた日 2/4話

 思わず耳を疑った。

 あいかが……虐待を受けていた、だって?


「……やはり知らなかったか」


 僕の顔を見るなり、郡山先輩は確信付いたように頷く。


「きっと誰かが意図的に隠しているんだろうね。彼女の噂が広まらないように」

「えっと、あの……それ、本当ですか?」

「あぁ、本当だよ」


 とてもじゃないが、信じられないことだった。

 しかし、先輩はハッキリと頷いた。


「どういう経緯で虐待へと至ったのかまでは不明だが……彼女は成績が一つでも良くないと、罰を受けていたそうだ」


 ――一つ目、廿楽あいかの成績はトップクラス。


「またどんな感情を顔に出していても、父親が気にくわなければ虐待を受けていた。だから、彼女は感情を顔に出すのをやめた」


 ――二つ目、廿楽あいかは常に無表情。


「廿楽さんが食事を摂らないのも有名な話だった。これは彼女が小食派だからではなく、父親から食事を与えられてなかったからだ」


 ――三つ目、廿楽あいかは昼食を食べない。


「それを起因してか、彼女は学校でも極力動かなくなった。あまりエネルギーを使いたくなくなったのだろう……毎日放課後に居残っていたのも、家に帰りたくなかったのだろうね」


 ――四つ目、廿楽あいかは席から動かない。


 パズルのピースがはめ込まれていくかのように、あいかの噂が一つ一つ繋がっていく。


「……いや、でもおかしな点があります」


 反論する僕の声はきっと震えていただろう。


 先輩が言ってることは99%証明されてるのに、残り1%に抗おうとしていた。


 認めなくない。

 自分の知り合いにこんなこと――あっちゃいけないんだ。


「……今、夏服ですよね」

「ん? そうだね」

「あいかの腕を見た限り、何かの傷痕が残っていたりしません。虐待されていたとは言いにくいのではないでしょうか」


 そうだ。

 あいかが何かの間違いで脱ぎ出そうとした時も、目立った傷痕など見当たらなかった。

 先輩が言ってることはただの噂のはずなんだ。


「あぁ……彼女の父親は賢かったんだ」

「えっ……?」

「暴力を振るうと、体に傷が残ってしまうだろう? そんなことしたら、すぐ他の人にバレてしまう……だから、傷がつかない方法で彼女を虐待していたんだ」

「……!」


 先輩の言葉に、身体が震える。

 バラバラの情報が一本の線で紡がれていく。


 なぜ常に傘を所持しているのか。

 なぜ僕が熱を出した時、お風呂へ入ることを止めたのか。

 なぜプール掃除であんなに落ち込んでいたのか。

 なぜ僕に水が跳ねた時、あそこまで感情的になったのか。


 まさか――。


「そう――今、君が予想している通り。


 ――五つ目。廿楽あいかは……水が苦手。


 僕の中で99%が100%へとなってしまった瞬間だった。


 あぁ――この先輩が言ってることは、本当なのか……。


「母親は……止めなかったんですか? 父親を……」

「……彼女の母親は、既に他界している」

「……じゃあ、今あいつの保護者の、あの人は」

「あぁ。身内が廿楽さんを引き取ったのだろう」


 ……だから、あんな違和感があったのか。


「私が知ってることは以上かな。他にも訊きたいことはあるかい?」

「……先輩、随分と詳しいんですね。一人で調べたんですか?」


 詳しい――というより、詳しすぎる。

 先輩はきっと赤の他人だろう。お互い顔を知る仲でも、会話したことがあるような関係にも見えない。


 なら……どうして、こんなにも詳しいのだろうか。


「答えは一つ……君以外にもいたんだよ。彼女の真実を知ろうとした人たちが」

「……!」

「善意のつもりだったんだろうね。だんだんと変化していく彼女に、周囲も気にはしていたんだ。その中でも正義感が強い行動派の何人かが、彼女のことを調べていった。その結果――」


 知ってしまった。

 あいかが今まで何をされていたのかを。


「……彼女が虐待を受けている、という真実に辿り着いたまでは良かった。しかし、そこからが良くなかった。真実を知った彼らは、彼女のためを想って……学校じゅうに彼女のことを広めてしまった」

「……それは」


 それは――悪手だ。

 虐待をやめさせたい――という目的は達成できるだろう。


 だが……彼女の環境は?

 それも大きく変わるだろう――ただし、悪い方向に。


 もし、クラスメイトの一人が虐待を受けていると知ったら?

 僕なら気遣ってしまう。気遣って、気遣って……触れなくなってしまう。


 声を掛けられなくなってしまう。どう接したらいいか、わからなくなってしまう。


 結果――彼女は100%の善意で、周りから孤立してしまうのだ。


「まだ中学生だったからね。強すぎる正義感は時に残酷な一面を見せることを知らなかった」

「……だから、一学年上である先輩もこんなに詳しいんですね」

「あぁ。一度知ってしまったことは、そう簡単に忘れられないんだよ……悲しいことにね」


 先輩だって、どうしても知りたくて知ったわけじゃないのだろう。

 ただ――知ってしまった以上、どうすることもできなかったのだろう。


 ましてや、一切の接点もない後輩相手に。

 何かできることなんて、なかったのだ。


「ふむ……今、君が思ってることを言い当ててあげよう」

「えっ?」

「『なら、どうして先輩はこんな話を僕にしたんだ』、とかかな」

「なっ、い、いや! 自分から訊いておいて、そんなことは!」

「いいんだよ。むしろそう感じてほしくて話したまである」

「は、はぁ……」


 なんか不思議な先輩だ。

 でも、どうしてそう感じてほしいんだろう……?


「本来ならこんな話を今の廿楽くんの知人に話すべきじゃない。なら、どうして話したのか? ――答えは一つ。そろそろ前に踏み出してほしいんだ」

「……前に」

「廿楽さんの過去を知って、君はどう向く? ガラス細工のように扱うか? それとも知らないふりをするか?」

「…………」


 あいかの過去を知って――僕は。


「それともう一つ。廿

「なっ――!?」


 郡山先輩の見透かしたかのような台詞に思わず振り返る。


 瞬間――教室のドアから藍色の影が動いたのが見えた。


 あいつ――!


「さぁ――答えを出してきたまえ、武藤くん」

「――っ!」


 先輩の言葉が追い風となったかのように。


 僕は教室から飛び出した。

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