廿楽あいかは看ている 1/3話
『37.7℃』
「…………あー……」
体温計に表記された文字列を見て、身体の違和感に納得する。
時刻は午前7時10分。いつもなら遅刻ギリギリのタイミングで大慌てするところだが……その必要はないようだ。
スマホを開き、学校へ電話。
「……あ、おはようございます。2-Cの武藤陽太なのですが……はい、ちょっと熱っぽくて……」
どうやら熱を出してしまったらしい。
***
『今日休む』
『了解』
学校に連絡した後、冬樹にもメッセージを入れると速攻で返事が返ってくる。
『お前が熱出すなんて珍しくね』
『そうかも』
『ズル休みか』
『そうではない』
『頭にカイロでも貼ってた?』
『そんなわけあるか』
『でもバカは風邪ひかないんじゃ?』
『次あった時、覚えてろよお前』
なんていつもの冗談を交わしつつ……平日休むという行為に、これほどまで背徳感があるとは思わなかった。
学生が授業を全うし、社会人が仕事で身を粉にしている中、僕だけ家でのんびり。「あぁ、みんな頑張ってるんだろうなあ」なんて思いつつベッドでリラックス。
なんだかいけないことをしている気分になってしまう。大人たちは有給を使って、こんな甘美な時間を味わっていたというのか……許せん。
さて。熱を出したといえ、動けなくなるほど具合が悪いわけじゃない。流石に家から出るのはよくないが、一日中ベッドで寝ているのも退屈だ。
幸いにも高校から一人暮らしを始めている為、家族はいない。つまり今、自由の身なのだ。
まずやかんで湯を沸かす。紅茶の適正温度は95~98度。この間にポットをお湯で温めておく。
さあ……ここからが僕のお楽しみタイムだ。
「今日はどんな気分かなー……と」
キッチンの脇のテーブルを覗き込む。
その上に置いてある小さな箱には赤、黄色、青、オレンジ等々……色とりどりのパッケージが本棚のように指し揃っている――そう、これは全部紅茶のパックだ。
「……よし、これにしよう」
選ぶ時は大抵直感である。今日は赤の気分だったので、ワインレッドのパッケージを抜き取った。
お湯が沸いたタイミングでポットに注ぎパックを投入。蓋を閉めて蒸らして待つ。
窓際にテーブルと椅子を設置。本当はベランダに設置して、外で楽しみたいところだが……アパートなのでそんな広くないのだ。
5分後……すっかり美味しそうな色に染まった紅茶をカップに注ぎ、砂糖を1杯、2杯……と半分。よし、こんなものだろう。
今日淹れたのはクランベリーティー。独特な香りが上品さを引き立たせる。
「ふぅ……」
紅茶を一口含み、空を見上げる。
雲一つない青空、聞こえてくる雀のさえずり。透明感ある空気がさっと窓から入ってきて、いっそう爽やかな朝の雰囲気を匂わせる。
壁時計が指す針は8時15分。登校時間ギリギリだ。門閉められて遅刻扱いされるので、この時間はみんなにとって戦場である。
……あ、これヤバい、めっちゃいい。みんなが頑張っている中、僕だけこんなのんびりティータイムしてるなんて、なんと至福の時だろう。こりゃ、ズル休みする人がいなくならないのも納得だ。さっき冬樹に言われてた冗談も、あながち冗談じゃないかもしれないな。
さあ、だんだんと楽しくなってきたぞ。本来、病人はベッドで大人しくしなければいけないが……熱冷ましシートも貼ってるし、薬も飲んだし、夕方には治ってるだろう。
本棚から一冊ラノベを取り出す。こんな爽やかな気分だ。今日は旅ものでも読もうかな。
しかし、そんな最高の時間は突如終わりと告げるだなんて……この時の僕は微塵にも思わなかったのだ。
***
「……ん?」
それは午後4時を過ぎた辺り。
すっかり体調も良くなり、時々ゲームで遊びつつ読んでいる本も5冊目に差し掛かっていた頃のこと。
もう何度目からわからないティータイムをしつつ夕日を眺めていると……ふと、窓から見える道路にとある二人組が視界に捉えた。
制服からしてうちの学校。
あれ、東浦和で降りる生徒なんて僕以外にいたかなとも疑問に感じたが……それよりも先に妙な既視感を感じたのだ。
一人は藍色髪をしていて背が高い女子。決して走っているわけではないのだが、異様な速度で歩いている。競歩でもしてるのかというレベルだ。
その後を慌ててついてくるのは黒髪で背が低い女子。ペットの散歩中、突然犬が走り出して振り回される感溢れている。
……あの二人、何処かで見たことがあるような?
というか、僕の知り合いに似ているような?
なんて疑問を抱いていると……インターホンが鳴り響く。
なんだか次の展開が読めた僕は、おそるおそるドアの鍵を開けた。
そしてドアノブを捻る前に――ガチャンッ。勢いよくドアが開かれる。
「――!」
目の前にいたのは……誰であろう、廿楽あいかだった。
いや、めっちゃ力入れて開けたなこいつ……まあ、いいんだけどさ。
「…………」
あいかは無言でじっと見つめると……僕の顔を覗き込んでくる。
「お、おいっ?」
急接近する顔に思わず身を引く。いや、近い近い。この距離はよくないって。
「熱は大丈夫ですか?」
「えっ? あ、うん、もう下がったよ……」
「具合は悪くないですか?」
「ま、まあ、この通り……」
「明日には学校、行けそうですか?」
「……あぁ、大丈夫でしょ」
「そうですか。でも完治しきったとは言い切れないので、今日の夜は徹底的に休みましょう」
「じゃあなんで訊いたし」
最後の問い、絶対いらなかっただろ。
「大丈夫です、今日は門限ギリギリまで陽太のお世話、しますので」
「いや、ちょっ」
「お邪魔します」
僕の返事などお構いなしに、部屋へ上がり込んでくる。
「陽太はベッドでゆっくりしていて……」
と、リビングまで入った彼女の目に飛び込んだのは――おそらく想像もしてなかった光景だろう。
机の上に積まれているラノベ、置きっぱなしのポット、飲みかけの紅茶。ゲームはスリープモードとなっており、パソコンは動画サイトが開いたまま。
……改めて客観的に見ると、とても病人が送っている生活のように思えない。
「だから言ったでしょ、そんなに心配しなくても大丈夫だよって……あ、お邪魔します武藤くん」
と。
後から追ってきたであろう、斎藤が呆れたような表情であいかに諭していた。
対するあいかは。
「……………………」
理解できないかのように散らかった部屋をじっと見つめ……やがて、僕の方を振り返った。
いつも通りの無表情なんだけど……あれ、なんだか怒ってるような?
今までにない気迫に、思わず足がすくんでしまいそうになる。
「陽太は病人です」
「えと、あの……」
「陽太は病人です」
「いや、だから……」
「陽太は病人です」
「は、話を……」
「陽太は病人です」
「…………………………はい」
「君が折れるんかい」
いや、仕方ないだろう。こんなに凄まれたら頷くしかないじゃないか。
「夕飯は私と雪音で作ります。病人の陽太はベッドでゆっくりしてください」
「あっ、じゃあ片付けを――」
「ベッドでゆっくりしてください」
「…………………………はい」
あいかの頑固さはちょっとやそっとじゃ崩れないのは知っている。
もう、こうなってしまえば……彼女の指示に従う他なかった。
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