第3話 心の気持ちがひらく時


 あまりにも真摯な木持きもちさんの目に。

 私は一瞬、我に返ってしまった。

 いけない。喋りすぎた。


「え?

 いや、でも、実家暮らししてたら普通では……」

「普通じゃないです。

 少なくとも、僕が実家にいた頃は、親がノックもせずに部屋に入ってくるなんてことはなかった」



 頭から水をぶちまけられたかのような感覚だった。

 慌てて私は首を横に振る。



「で、でも私、引っ込み思案で口下手で、親に心配ばかりかけるような娘だし……」

「ノックをするしないに、子供の性格は関係ないと思いますよ。

 まだ小学生ならともかく、中学以上になったら、いくら子供でもプライベートは守られるべきだ。

 僕も僕の家族も、そういう考えです」

「だ、だけど……でも……それでも」


 逆接の接続詞ばかりを呟くマシーンと化した私を、木持さんはじっと見つめる。

 眼鏡の奥の大きな瞳に、汚れは一切なかった。


こころさん。

 僕が最初に、貴方に会いたいと思った理由が、分かりますか?」

「え?

 いや……分からないです」

「貴方のプロフィールの文章に魅かれたんですよ。

 相手の好きなものを互いに尊重しあえる、そんなあたたかな家庭を作りたい――

 その言葉に、貴方の強い想いを感じたんです」



 とくん、と胸が鳴る。

 暖かく大きな手が、優しく私の手を包む。

 賑やかだった居酒屋が、私たちの周りだけ、いつの間にか静かになる。

 顔が真っ赤になっているのは多分、お酒のせいだけではない。

 私は――



 好きなものを、好きだと言っても、いいの?



 やがて木持さんは、ゆっくりと言葉を継いだ。


「心さん。

 今から貴方のご実家に、お邪魔してもいいですか」

「へあっ!?」


 思わずおかしな大声が出てしまった。


「いや、もう遅い時間だし、木持さんの帰りがあまりに遅くなったら大変だし……」

「僕なら構いません。深夜ドライブならよくやってますし。

 いずれにせよこの時間じゃ、駅で心さんを降ろしてそのまま一人で帰すなんて心配です。

 それに、いい機会だ。一度心さんのご家族とも、お会いしたかったですし」


 い、いや、いやいやいやいや。理屈は分かるけど。

 確かに、駅から一人で実家まで歩いて帰るのは心細いけど、慣れてるし。

 それに、私が今、これだけこき下ろした両親に会いたい?

 っていうか……お、親に、親に会いたいって、ことは……?



 勿論、そんな木持さんを私が止めることなど出来るはずもなく。

 私はそのまま彼の車に乗り込み――







 数時間後。

 うちの両親と弟は、木持さんとまさかの初対面を果たしていた。


 勿論、家族はみんなびっくりしていたけど。

 幸か不幸か、木持さんは居酒屋での私の愚痴を、ほぼ親に漏らすことはなく。

 お互いひと通り丁寧な挨拶をした後、何となく和気あいあいとお茶をして。




 そして――帰り際。

 木持さんは突然の訪問を家族に軽く詫びた後、一言ぽつりと呟いた。



「お父さん、お母さん――

 心さんの『好き』を、認めてくれませんか」



 父も母も、互いに顔を見合わせる。

 何を言われたのか分からない、という顔だ。

 母はそんな木持さんの言葉に対し、笑顔で答える。


「勿論ですよ。心は私たちの、大事な娘です。

 そうそう、好きと言えばこの子、昔から変な漫画やアニメばかりが好きで、友達も出来なくて、引っ込み思案でねぇ。

 私たちもなかなか理解出来なくて、苦労しました」


 うん。人の話を聞いているようで聞いていない――いつものことだ。

 父も頭を下げる。


「だから、木持さんのような優しい人とお付き合い出来ればね、この子も幸せだと思いますよ。

 どうか、よろしくお願いします」


 うん。私はちゃんと、親に愛されている。想われている――

 だけど、お互いいまいち不器用で、理解出来なくて。

 その心は、すれ違ってばかりだった。


 木持さんもそんな私たちの関係を何となく悟ったのか、ちょっとだけ視線を逸らした。

 すると一瞬、彼と私の目が合う。

 大丈夫だよ――と、その大きな瞳が言っている気がした。




 木持さんを駐車場まで見送る為、私は彼と一緒に家を出た。

 春の夜風は、もうだいぶ暖かい。

 近くの公園で咲いている桜の花弁が、家の近くまで舞い散っている。

 空には綺麗な半月が輝き、夜の住宅街を静かに照らし出していた。


 木持さんが自分の車を停めたのは、家から少し離れた駐車場。

 そこまでの小道を歩きながら、私は彼に礼を言う。



「……あの。

 ありがとう、ございました。

 何だか今でも、ドキドキしてます……

 まさか今日、木持さんが両親と会うって、思ってもいなかったから」

「いや。僕も最初はそのつもりじゃなかったけど……

 心さんの話を聞いていたら、何となく、行かなきゃなって思ったんだ」



 そう言いながら木持さんは、すごく自然に私の左手を握りしめた。

 とくんとまた一つ、胸が熱く揺れる。



「僕はこれからも、心さんの『好き』を見ていたい。

 心さんと最初に会った時は、謝ってばかりの人だなって思ったけど……

 自分の好きなことを少しずつ話し始めてくれた時に、感じたんだ。

 この人は、好きなことに対しては、本当の本気で打ち込める人なんだって」


 そうなのか。

 自分では全然気づかなかったけど、私はそんなに夢中で話してた?


「だからこそ、好きなことを軽々しく扱われた時、すごく傷つく。

 だから、好きなことを『好き』だって、なかなか人に言い出せない。

 『好き』に対する想いがすごく強い上に、家庭環境があんな感じだったら……

 そりゃ、言い出せなくもなるよなって思ったよ」


 木持さんの手は、どこまでも大きい。

 そしていつのまにやら、彼の言葉は敬語じゃなくなっている……

 でも、不思議と嫌味は感じなかった。

 まるで、敬語じゃない方が最初から自然だったように、木持さんの言葉は胸にすうっと吸い込まれていき。

 私はいつしかその手を、ゆっくりと握り返していた。



 そのまま歩きながら、彼は桜の舞い散る夜空を眺める。



「だから――

 心さんとはさ。ちゃんと『好き』を『好き』だって、言い合えるようになりたいんだ。

 何かを好きになる心さんが――

 僕は、ずっと好きだから」



 言葉を聞いた瞬間に、思った。

 あぁ。私、ずっと待っていた。その言葉を。

 30年近く、ずっと待っていた言葉。

 誰にも受け入れられなかった私の『好き』を、全身で受け止めてくれる人。



 その時

 ――私の心は、決まった。



 暖かな夜風と共に、桜は二人を包み。

 月は静かに中天を彩っていた。

 もう揺らぐことのない、私の心のように。

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