第七章 ウンディーネは水に帰る
雨が降って、なんだか春だというのに、寒い日だった。そんな寒い日が、このところ続いているので、なんだか、変な天気が続いてしまうなと皆困ってしまう日々である。
今日も、春が、製鉄所にやってきていた。一人の女性が、杉山春に話を聞いてもらっていた。その女性はどうやら家族関係のことで悩んでいるらしい。
「そうなんですか。それでは、かなりおつらい状況ですね。まあ、偉い人は、そういうとき、自分が変わるしか無いというでしょうけど、それだって、余裕がなければできませんよね。まずはじめに、そこまで自分を思い詰めてしまうのではなく、こういうときは、思いっきり休んでしまってもいいのではないでしょうか。それから、何をすればいいのか、答えを探すのもいいと思います。もし、自分が、参ってしまったら、受け入れる事もできないでしょうからね。まず、自分の体を大事にしてください。」
春が、そう言うと、涙を見せていた女性は、
「はい。ありがとうございます。良かった、春さんに話を聞いていただけて。嬉しいです。」
と、涙をこぼしていった。
「いいのよ。だって、それだけ辛い思いをされてるんだもの。確かに、なかなか今の時代だと、お年寄りと一緒に暮らしていて、理解されないという状況をわかってもらえるのは、少ないでしょうからね。確かに、おじいさんが、そうやって、わがままを言うことを、誰かに話したいものよね。それをわかってくれる人がいないというのも、仕方ないことだけど、でも、あなたが誰かに話したいというのもまた事実でしょう。それは、あなたの素直な感情だから、それを押し殺しては行けないと思うわよ。それがもしかしたら、自分が変わるためのサインであるかもしれないから、そういうつらい気持ちは、大事にしたほうがいいわ。」
「本当に、春さんは優しいんですね。」
女性は、春に言った。
「優しい?私が?」
思わずそう返すと、
「だって、私、今までおんなじことをカウンセリングの先生とか、そういう人に話したけど、誰も、辛かったねとか、そういうことは言ってくださらなかったですもの。みんな、自分がなんとかするしか無いとか、辛いことになれていかなきゃだめとか、そういう事をいうから、私の気持ちは、どこへとか、考えましたよ。私、悪いことをしたのかなと。」
と、利用者は答えた。
「何を言っているの。悩んでいる人が、そういうのは、当然のことよ。悩んでいる人は、その時点で止まってるから、考えることも当然同じなの。だから、そういうときはね、誰かに話して、自分を客観的に見ることが必要よ。そんなことで悩む必要はサラサラないわよ。」
春が苦笑いしてそう言うと、
「本当にありがとうございました。私のくだらない愚痴を聞いてくれて、一緒に食事までしてくれて。私、そういう事してくれた人にあったことなかったんです。だから、病んでしまったのかもしれない。そうやって、もっと早く、私の事を聞いてくれる人がいてくれれば、私、仕事ができなくなるまで、病んでしまうこともなかったのかな。」
と、利用者は答えた。
「はいはい。その事を攻めてはだめよ。仕事ができなくなったのは、あなたが変わりたいからだと思ってよ。それについて、いけないとか、だめだとか、そういう事を言ってはいけないわ。病気になって悪かったとか、いけないことをしたとか、そういうことは思わないでね。」
「はい。ありがとうございます。春さんに聞いていただいて、気持ちが凄く楽になりました。沖縄の人っていいですね。医者半分ユタ半分って言葉があるんでしょ。それで、そうやって春さんのような職業のひとが身近にいるんだったら、あまり悩まないで済むんだろうなあ。」
利用者は、にこやかに笑ってそういう事を言った。
「ある意味うらやましいですよ。そうやって、誰かに話す習慣があるってのは。」
「まあねえ。」
春は、ちょっとため息を着いた。
「でも、どこの国にいても、自分の事を中々話せない人はいっぱいいるから。それは恥ずかしく思わないでね。」
その答えに、利用者はちょっと意外そうに彼女をみた。利用者は、そういうことができて羨ましいという意味で言ったのである。
「春さんがそういう事言うのは、なんか、ちょっと変わったところがあるきがしますね。沖縄では、ユタっていう人はいっぱいいるんでしょ?それで、医者半分ユタ半分って言葉があって、ユタに相談する習慣があるんでしょ?だったら、自分の事を話せないなんて無いと思うけど。」
「いいえ。どこの国でも一緒よ。」
利用者の発言に、春は、首を振った。
「必ず、どこの国にも、繊細な心を持っていて、人に話すのが難しい人は、ほんとにいますから、あまり、そのことでコンプレックスを持つとか、そういうことはしなくてもいいわ。」
「そうですか。」
春がそう言うと、利用者は、それだけ言った。
それと同時に。
「失礼いたします。この建物は、インターフォンが無いんですね。ドアを叩いても、広くて聞こえないでしょうから。それならもう直接話すしか無いですよね。」
と、誰か偉そうな女性の声がして、春も、利用者も話すのを止めた。
「はいはい。なんですか。いくらここで、挨拶しても困るだけなので、早く用事を言ってくれや。」
と、玄関先で杉ちゃんが応答しているのが聞こえた。こういうとき、杉ちゃんがいてくれるのはいいことだった。口がうまいので、話をさせるのは、杉ちゃんの得意技だ。
「ええ、それではお話させていただきます。ここに、杉山春という女性がいらっしゃいますね。彼女を、連れて帰りますから、こちらへよこしてください。」
と、女性は杉ちゃんに言った。
「はあ、お前さんは、何者だ?」
杉ちゃんが聞くと、
「はい、私は代理人です。春のお母様で、東京大学教授の、杉山浅子に使えさせて頂いております。」
という。つまり、家政婦さんとか、そういうことだろう。
「は?春さんのお母さんが東京大学だって?」
杉ちゃんが驚いてそう言うと、
「はい。そういう事になっております。杉山浅子先生は、東京大学で文学の教授をしております。」
と、家政婦さんはすぐに答えた。
「はあ。そうなのね。まあ、事実は事実で他に対処のしようがないから、そのとおりだと受け取ろう。それなら、僕も質問がある。なんで、春さんが、こっちに来て、今更彼女を取り戻そうとしてるわけ?春さんは、ここで利用者みんなの話を聞いて、ちゃんとやってるよ。」
杉ちゃんが急いでそう言うと、
「ええ。それは上辺だけのことで、春は、実際には何もしておりません。お母様の経済力がなければ生きて行けないんです。」
と、家政婦さんは答えた。
「そうなのか。で、春さんを取り戻してどうするの?もしかしたら、彼女は自立したくてこっそり家を出たのかもしれないよ。それなら、良かったと思えばいいじゃないか。なんで、せっかくそういう決断してきた彼女を、今更取り戻そうとするんだ?」杉ちゃんがそうきくと、
「ええ。彼女は、そうしなければ生きていけないと申し上げました。春は、浅子先生の経済力で生かされています。このままだと持ち出した所持金も尽きるはずです。」
家政婦さんがそう言うので、杉ちゃんは、
「ちょっとまってくれ。じゃあ、事件の概要を話してくれよ。」
と聞いた。
「はい。こういうことです。数ヶ月ほど前、彼女杉山春と、お母様の杉山浅子先生が、ちょっとしたことでひどく喧嘩されたんです。確か、内容は、部屋の家具の位置を決めるか決めないかということでした。それで、春が、逆上して、それまでためておいた小遣いを持って、家を飛び出して出ていったんです。私達は、彼女を探し求めていたのですが、意外にも近くにいてくれたようでホッとしました。それでは、安心して、彼女を連れ戻せます。」
「はあ、ちょっと待て。彼女の出身は、沖縄だよな?意外に近いところってどういうことかな?」
杉ちゃんがまた聞くと、
「はい。彼女のお母様のお母様、つまり彼女にとってはお祖母様ですが、その方が沖縄のコザに住んでおりました。今は、沖縄市と名前を変えていますが、お祖母様が生きていた当時は、その場所をコザと言っていたそうなんです。お母様が、沖縄のコザから東大に入学され、そのまま教授になった際お祖母様をコザから連れてきたそうで、それで春は、お祖母様に、沖縄の生活様式などを聞いたのだと思います。」
と、家政婦さんは答えた。
「はあ、そうなんですか。なるほどねえ。そういう訳だったのか。でもさ、彼女はやり方こそ間違えたかもしれないが、自分のことは自分でしようとしたことは、評価してやってもいいんじゃないのかな。それをいくら親であっても摘み取っちまうことは、行けないと思うけど?」
「いいえ、それが成り立つような間柄では無いんです。現に、彼女は、働き口がなく、仕事もありません。それでは、彼女は生きていけない。すぐに連れ戻さなければ。」
家政婦さんと杉ちゃんが、そう喋っているのを聞いて、春は一瞬顔を両手で覆ってしまった。そして、声を潰すような声でワッと泣き出してしまった。
「ああ、いるんですね。じゃあ、こちらへ引き渡してもらえますか。もう、新幹線の切符も買ってあります。」
と家政婦さんがいうが、
「そうだなあ。せめてお別れをさせてやってくれませんかね。」
と、杉ちゃんは言った。
「いくら、短い期間だからと言って、彼女は、ちゃんと、製鉄所の利用者たちの話えを聞いてくれたりしてくれましたし、彼女に励まされて、高校へ行き始めたりして、しっかり自分の道へ行き始めた人もたくさんいます。現に今だって、利用者と一生懸命話しをしていたんだ。そんな彼女をいきなり連れて帰るのは酷すぎます。それは、彼女が可哀相というか、ちょっと悲しすぎるので。」
「そんな事、春が、本当にやったのでしょうか?」
家政婦さんは疑い深そうに言った。
「はい。やりましたよ。彼女に励まされて、前へ進んだ利用者はいっぱいいます。彼女、一生懸命ユタの勤めを果たそうとしてくれました。それを、もぎ取ってしまうのはどうかなあ。」
「いえ、そういうことは、決して春にできることではありません。すぐに彼女を連れて帰るように、杉山浅子先生に言われていますので。彼女を連れて帰ります!」
ちょっと感情的に家政婦さんは言った。
「ちょっとあなた、そこをどいてくれますか?」
確かに玄関は杉ちゃんの車椅子で塞がれていた。
「嫌だね。春さんは、せっかくお母さんから離れて、自分の生き方を探そうとしているのを、お前さんが邪魔することはいけないことだと思う。もし、春さんが帰りたいと言うんだったら、話は別だが、彼女がそのような事を、漏らしたことは一度もない。それを僕達が、どうのこうのということでも無いと思うし、彼女の意思が一番重要だと思うから、彼女を簡単にこっちへもってくるもんか!」
杉ちゃんもそういう事を言って対抗するが、それと同時に奥の部屋から人が走ってくる音がして、
「いえ、大丈夫です。杉ちゃん。私、家に帰りますから。やっぱり、私が間違っていたんですよ。私が、一人で自分の力を試してみたいなんてこと言うのが間違いだったんです。やっぱり私は、母のことが無いと、いけないんだと思います。」
と、春が、やってきたのだった。杉ちゃんはそれを見て、
「でもさ、自立しようとか、お母さんから、離れたいとか、そう思うことは、何も悪いことじゃないよ。」
と彼女に言ったが、
「いいえ、それは私のような女性とは、違います。きっと、完全に自立できている人は、そういう綺麗事が許せるんでしょうけど。私は、違いますから。祖母が亡くなって、母が、一人で生きることになって、私は、そのお零れをもらいながら、生かせてもらっただけの身分なんです。ただの平民でもありません。だから、私、母のところに帰ります。」
と、春は泣きながら言った。
「そうなのかもしれないですけど。」
そう言いながら、水穂さんが、玄関先にやってくる。
「お前さんは寝てなくちゃだめだろうが。また無理してこっちに来ると、咳き込むぞ。」
杉ちゃんがそれを止めるが、
「確かに、そうやって有力な人の庇護に頼って生きていくしか方法がない人もいると思います。ですが、彼女、杉山春さんは、たしかに、他人の話を聞いて、アドバイスする能力は持っていらっしゃいます。それを、どうか、忘れないでやってくれますか。彼女の能力が発揮される場所を、彼女が戻っても、作って上げてください。」
と、水穂さんは言った。家政婦さんは、水穂さんをじっと見た。水穂さんの着ているものは、紺色に、大きな葵の葉を入れた銘仙の着物である。これを出してしまうと、彼の発言は無効になってしまうことが多い。杉ちゃんは、せめて銘仙の着物ではなくて、別の着物を着させればよかったと呟いた。
「そうですね。わかりました。今回は、とりあえず、杉山春を連れて帰ります。彼女がこれ以上、彼女の仕事を続けるかどうかは、お母様の杉山浅子先生の判断に任せると思います。」
このときは、水穂さんの事を、ジャッジするような感じは見受けられなかったが、杉ちゃんは疑うように、家政婦さんを見た。
「ええ。その白い顔で、必死に訴えているところから判断すると、きっと春がしていたことは、間違いではありませんね。わかりました。あなたは、そういう人でもあるんですね。」
家政婦さんの言っていることの、真偽は不明だが、とりあえず彼女はそう言っていた。
「今までお世話になりました。ここでご迷惑をかけてすみません。水穂さんも、重い病気なのに、私の事世話してくれてありがとうございます。それだけでなく、私を、ただの馬鹿じゃなくて、一人の人間として見てくれたという人がいてくれたことに感謝いたします。たった数日だけでもいい。私のことを母から切り離してくれたんですから。本当にありがとうございました。」
春は、家政婦さんの言うとおりに、製鉄所の前に止まっていた、車に乗り込んだ。確かに大学教授というのは本当のようで、黒いピカピカの高級車だった。代理人を名乗るものがそういうものに乗っているのだから、よほど経済的に恵まれている家なのだろう。
「それではありがとうございました。後で、杉山浅子先生から、ご迷惑をおかけしたお礼の小切手を郵送いたします。」
「そんなものいらないよ!それよりも、」
杉ちゃんはそう言ったが、水穂さんが、その先を言わせなかった。
「では、御免遊ばせ。」
と家政婦さんは、言って、高級車に乗り込んだ。そして、高級車はエンジンを掛けられてそそくさと走り去っていってしまった。
「なんか、かぐや姫が月へ昇天していくときみたいだな。誰も、邪魔しようにも、邪魔できなかった。」
と、杉ちゃんが吐き捨てるように言った。
「仕方ないよ。彼女はきっとそうするしか、生きていかれないんだと思うよ。世の中では、一生誰かに見てもらわないと生きていけない人間だっているんだから。」
水穂さんは、静かに杉ちゃんに言った。
「でも彼女、たしかに、いい女だったな。正しくウンディーネにふさわしかったな。あの、パラケルススの伝承によると、ウンディーネは、人間と結婚すると命を得るということだったよな。」
「そうだね杉ちゃん。」
と、水穂さんも言った。
「でも、ウンディーネは、誰かに罵倒されると、水に帰ってしまって、水に帰ったウンディーネは命を失うということだったな。そうなっちまうと、最悪だぜ。それは起らないといいけど、、、。」
「そうだね。」
杉ちゃんが続きを言うと、水穂さんは、それを肯定した。
「そこはなんとかして防げないもんかな。」
杉ちゃんがまた言うと、
「そうだね。でも、ウンディーネと人間は、明らかに違うものであって、それとこれが絡み合うことは永遠に不可能だと伝承でも言われているからね。」
水穂さんは静かに言った。
いつの間にか、利用者たちが、玄関近くにやってきていた。多分、杉ちゃんと、家政婦さんのガチンコバトルを聞いていたのだろう。もしかしたら、彼女、杉山春が、連れ戻されて行くのも見てしまった人もいるのかもしれない。
「春さんみたいに、過去のことを偽装して、仕事していた人はいっぱいいるんじゃないのかな。」
利用者の一人がそう呟いた。
「皆、多かれ少なかれ、隠しておきたい過去とか、かくしておきたい自分の姿とか、持っているんじゃないの?」
「まあ、そうかも知れないが、事実は事実なのもまた確かだ。それに、正面から向き合わなくちゃならないときもある。ただ、ウンディーネの場合は過去を見ないで、前へ進んでいってもいいと思うのだが、周りが邪魔しているというか、それを妨げている。」
杉ちゃんは、彼女の言葉にそう返した。
「あたし、もっと春さんに悩みとか聞いてもらいたかったな。あたしたちにとってはさ、普通の人ではどうでもいいことで悩んだりすることだってあるわ。それを聞いてもらえるだけで、どんなに幸せだったか。だって、あたしたちが日頃から悩んでいることなんて、なんでそんな馬鹿げたことで悩んでいるんだって、普通の人は、馬鹿にするわよ。」
「そうだねえ。そうはいっえも、まあ、彼女はもういっちまったからな。」
利用者がそう言うと杉ちゃんはそう返すしかなかった。
次の日。
「伊能さん!郵便です!」
蘭が下絵を描く仕事をしていると、のんびりした声で郵便配達員が玄関先で言っているのが聞こえてきた。最近は、重要なことは郵便より電子メールの方でやり取りしてしまうのが多いから、蘭はそこに置いておいてと言ったのだが、
「書留郵便なので、サインが必要ですよ!」
と言われて仕方なく、玄関先へ受け取りに行った。
「はい。伊能蘭さんですね。差出人は杉山浅子さんです。こちらにお受け取りのサインをお願いします。」
と、配達員にサインを求められて蘭はどこの誰だったのだろうと思いながらサインに応じた。
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