第四章 女の良寛

その日はえらく寒い日で、4月というのに半纏なしではいられないほど寒い日であった。まだ4月であるから、こういう気候も珍しくない。そんなことはよくあるというけれど、晴れた日はやたら暑くて、曇った日はこういう風に寒くなるのは、本当に、体力的に疲れるというか、体がついて行かないと思われるのであった。

今日も、杉山春が、製鉄所にやってきた。また水穂さんの身の上話を聞きたがる彼女であるが、水穂さんのほうが、彼女の話に取り合おうとはしないのだった。彼女が、水穂さんに過去のことを教えてくれと言っても、水穂さんは、話しても無駄だと言って、何も言わないのだった。

「どうして何も教えてくださらないのですか。私、水穂さんのことが少しでも楽になってほしいから、ここへこさせてもらっているんですが。」

終いには、春が、そう言ってしまう始末である。

「いえ、言っても、意味ないですよ。僕がしてきたことを、今更話しても何になるんですか。ただ、一人の人間が、生きてきた事を語るだけなんて、何も意味がありません。それを口にして、語っても、意味がないと言うことでしょう。」

水穂さんがそう言って、二三度咳をすると、その近くにいた杉ちゃんが、

「本当は、ご飯を食べるようにさせてもらいたいものだ。二三口食べたらもうおしまいだなんて、ホント、困るんだよ。」

と言ったくらい、水穂さんは食事をしなかったのだった。

「いえ、私は、単に話を聞くしかできませんからね。そういうことなら、催眠療法とか、そういうものをされたほうが、いいのかもしれないわね。」

春は、思わずそう言ってしまった。

「はあ、人の話を聞く仕事なのに、それを投げ出してどうするんだよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「ああ、ゴメンなさい。これは、私が言うべき言葉じゃなかった。」

と、春はにこやかに笑った。そして、また咳をしている水穂さんに、

「今日は、私が質問することは、一切しないから、水穂さんが、抱えている事を、存分に語って聞かせて。そうだなあ、水穂さんがどうして、ご飯を食べる気にならなくなったのか、話してもらえると、嬉しいな。」

というのだった。

「そうだねえ。」

水穂さんが、答える代わりに、杉ちゃんが答える。

「おそらく、ひどいことされたときの事を思い出すんだろうね。」

「ひどいこと?それは、何をされたの?」

春は、すぐにそれに飛びつく。

「教えるほどではありませんよ。」

水穂さんは、咳をしながらそう答えたのであった。

「それなら、さほど重大なことではなかったということでしょうか?」

春が聞くと、

「そんなわけ無いだろうが!だって今でもご飯を食べる気がしないくらいなんだから、重大なことだぜ!」

と、杉ちゃんが言った。でも、水穂さんは、人に話しても無駄なことですといっただけだった。

「それ、話してくれたら、水穂さんは、もっと気持ちがらくに生きていけるのではないかと思うわよ。それは、きっと、人に話して楽になることだってあるじゃない。あたしは、見ての通り、新興宗教とか、そういうものに関わっているわけでも無いし、誰かに口外するわけでも無いから、遠慮なく話してくれていいわ。」

「そうですね。沖縄の方は、何でもそう言うと思うんですけど、きっと、理解することはできないと思います。沖縄には、同和地区とか、穢多という身分は、あまり聞かれないでしょうし。」

春がそう言うと、水穂さんは答えた。

「でも、外部の人に話すのは悪いことじゃないと思うわ。確かに、そのようなところは、コザでは聞いたことはありません。でも、そういうところが無いからこそ、客観的に見れたりすることもあるのよ。」

「どこまで行っても、平行線なんだな。お前さんたち。なんで、そうなっちまうんだろうな。」

二人のやり取りを見て、杉ちゃんは言った。

「水穂さんも、せっかくさ、話を聞いてくれる人が現れたんだぜ、素直に喜べばいいじゃないかよ。もう彼女は、水穂さんの遭遇してきた問題に関わることはなかったわけだし、関わったことがなかった人に聞いてもらったら、意外に良いアドバイスもらえるかもよ。」

「いえ、それは、ありませんよ。それに、そういう人の話を聞いて、生かされる人は、あまり好きでは無いです。そういう人は、どうしても、人を馬鹿にするというか、奢ってしまうようなところがあるから。」

水穂さんは、小さい声で言った。

「そうかも知れないけどさ、彼女は、そのようなことは無いと思うよ。臨床心理士みたいな、日の道を真っ直ぐ歩いているようなやつは別だけど。そういうやつでも無いんだから、もう安心して話したらどうなの?」

杉ちゃんとしてみたら、水穂さんにご飯を食べてもらいたいのだった。それで、水穂さんが食べる気がしないという、原因になっているところを、なんとかして取り除いてもらいたい気持ちだった。

「いえ、誰にも、わかるはずがありません。そういうものですよ。同和問題っていうのは。」

「いくら言っても糠に釘か。」

杉ちゃんは、大きなため息をついた。

と、その時だった。

「只今戻りました。」

と、小さい声が聞こえてきた。

「あ、今の声は、小川さんだな。」

と、杉ちゃんが言った。

「小川さんって誰なんですか?」

と、春が聞く。

「はい。先週からこちらに来ている利用者さんで、何でも、保育士をしているらしいのですが、仕事で大怪我をして以来、鬱になって、何もする気がしなくなってしまったようで。それで、こちらで他人と少し触れ合えば変わるのではないかと言って、来られました。」

と、水穂さんが説明した。

「まあ、来たときは、びっくりしたよ。まるで幽霊かと思ったわ。それくらい、力が抜けて、鬱になってたんだな。まあ、今は、二時間だけ保育園に行ってもらってるけどさ。それでもなんか仕事がうまくできないらしくて、ああして落ち込んでいるんだよな。」

杉ちゃんもそれに合わせていった。トボトボと歩いて、小川さんは、四畳半にやってくる。

「帰りました。杉ちゃん、水穂さん。」

とやってきた小川さんという女性は、たしかに、声に力が入っておらず、杉ちゃんの言う通り、幽霊の様に力がなかった。こんなに呆然とした顔で、保育士をしているのなら、子供も寄り付かなくなるのではないかと思われる。

「おかえりなさい。今日の仕事いかがですか?また、新しい子供さんでも入ってきたんですか?」

水穂さんが、そう彼女に言った。

「ええ、一人男の子が、慣らし保育で入ってきました。今、0歳を担当しているんですが、皆、ぎゃん泣きで、可哀想なくらいです。」

小川さんは、そういうのだった。

「そうですか。大規模な保育園だと、いろんな子供さんがいて、楽しいでしょう。中には、ちょっと変わった子供さんもいるのではないですか?」

水穂さんがそうきくと、

「ええ。ですが、うちは、指定園じゃないので、健康な子供ばかり預かっているんです。」

と、彼女は答えた。

「そうかあ。なんかそれも寂しいよねえ。子供のうちから、人に迷惑かける子は出てけって言われちゃうのってさ。それ、せっかく保育園に行って、集団生活経験させるのによ、色んな子供がいるなっていうのを学ぶ絶好の機会だと思うのに、それも、取っ払っちまうなんて、なんか、保育園も嫌なところだね。」

と、杉ちゃんが嫌そうに言った。

「そうなんです。あたしも、そう思ってました。保育園は、いろんな事情の子供さんを預かるところだし、そこで、子供さん同士の世界を作って、それで、世の中にはいろんな子供さんがいるって、学べる場所だって。」

小川さんは、そんな話を始めた。

「そうですか。じゃあ、あなたは、それを考えられるんだったら、相当に子供好きなんですね。」

不意に、春が、彼女に言った。

「ええ。そうなんです。あたしは、三人姉妹の長女だったから、結構、妹たちの世話をするのを任されてたので、それが、生きがいだったんですよ。だから、それを仕事に活かしたいと思ったんですね。それで保育士になりたいなと思ったんです。」

小川さんが答えた。

「そうですか。それでは、妹さんの世話をするのが好きで、それをすることによって自分が充実されていたんですね。そこから、子供さんの面倒見が良くなったんですか?」

春が聞くと小川さんは、

「ええ。それは、私の家族も、承知していました。私の事を、良寛と同じだと言って、小川良寛様と、からかった友達もいました。」

と、言ったのであった。

「ああ、あの子供のみかたとして活躍した、お坊さんですね。で、今は、どちらの保育園にお勤めですか?」

春がまた聞くと、

「ええ。富士市立の、浜保育園というところです。」

小川さんは答えた。

「その浜保育園が、面白くない職場だったんですか?」

「面白くないというか、指定園ではないので、健康な子供さんばかりで、あまり個性的な子供さんがいないのが、なんか思い描いていた保育園と違っていて。なんで、こんな砂をかむようなところに入っちゃったんだろうって、私、すごく後悔しました。私は、どんな子でも平等に保育園に入ってもいいと思っていたし、そういう個性的な子がいることに寄って、周りの子が成長していけるって、大学のとき習っていたから、保育士になったら、そういうお手伝いができればいいなと思っていたのに。今の保育園は、全然、そういうところがなくて、みんな同じような子供さんばかりなので、やりがいが無いっていうか、なんでこんなところに来ちゃったのかなって。」

小川さんは、いかにも誰かに話したかったのか、そんな話を語り始めた。そういう事を話してくれるというのは、多分彼女は、相当ストレスが溜まっていたのだと思う。

「それに、今の保育園は、そういう個性的な子供さんがいないのに、書くことや、壁面の飾り付けばかり精力的にやらされて。私、子供さんとかかわれないのに、なんでそんなことはしなければならないのか、嫌になっちゃって。こんなところ、保育園じゃなくて、ただ子供さんを預かって、それを毎月紙に書かされる。そんなところばっかりなんです。だから、正しく砂をかむようなことしか無い。」

多分、そういうことが実際に起きているのでは無いのかもしれなかった。でも、大事なことは、彼女には、そう見えてしまうということだ。

「そうですね。確かに、保育園は、公立と私立では、高校と同じくらい違うと言いますからね。それに、公立の保育園ですと、園児を選ぶこともできますから、できるだけ手のかからない子供さんばかりを預かって、園の能率をよくしよう、という事もできますよね。」

と、水穂さんが言った。確かに、そういうことでもあるのだ。公立と私立では、雲泥の差があるのが、日本の保育園とか、学校の現状である。

「それで、公立の保育園に就職しようとされたのは、あなたが決めたことなんですか?」

春が、小川さんに言った。

「いえ、私の母が決めました。公立のほうが、将来性もあるし、安定しているからいいだろうって。」

と、小川さんは答える。

「はあ、従順な娘だな。そんな事、気にしないで、好きな保育園で働けばいいのに。まあ確かに、親御さんは、安定したところがいいと思うけどさ。でも、最終的には、お前さんの人生だし、お前さんが決めたっていいんだぜ。それに、子供の世話をするのを、生きがいにしてきた事を、みんなが知っているんだったら、お前さんが、保育士になりたいって言うのも当然なことだと思うよ。」

杉ちゃんが、小川さんに言った。

「でも、お母さんの言うことだから、従わなければならないかなと思っているんですが。」

小川さんがそう言うと、

「いやあ、意外にね。親って、子供が自分の言うとおりに生きると、寂しくなってくるものよ。それよりも、私はこうしたいの!って、叫ぶ日を待っているようなところもあるわ。一度、言ってみてごらんなさいな。私は、もっと個性的な子供の世話をしたいんだ!って。」

と、春がそういう事をいうので、小川さんも杉ちゃんも驚いて彼女を見た。

「それは思いつかなかったな。沖縄では、結構皆自己主張するの?」

杉ちゃんがそうきくと、

「ええ。アメリカの文化も、根付いているから。」

春はにこやかに笑った。

「本当に、私がそういう事を、待っているでしょうか?」

と、小川さんが言うと、

「ええ。まあ、コザと静岡では場所が違いますが、親御さんは、あなたが、そうやって反抗してくれると、自分とは違う人間になってくれて嬉しいなと思ってくれる事もあるみたいよ。」

と、春はそう続けた。

「一度言ってみたらどうですか。確かに、公立の保育園は安定しているけど、つまらないと。」

水穂さんがそう言うと、

「私も、そうしてみるといいと思うわ。」

春も、それに続いていった。

「でも、私立は、潰れる可能性があるとか言われたら。」

小川さんがまたいうと、

「いやあ、それは、またそのときに考えればいいさ。大事なのは、今をどれだけ楽しくするかだ。それに、やらないで後悔するよりやってから後悔したほうが、絶対いいよ。」

と、杉ちゃんが言った。

「そうよ。安定とか、保証されているとか、そういう事をお年寄りは口走るものだけど、それは、もう古いと言ってしまってもいいわよ。それに、公立より私立の保育園の保育士さんのほうが、いろんな子供さんをみてるから、経験が多いということもあるしね。だから、公立に行っているから偉いとか、私立の保育園で働いているからだめとか、そういう劣等感を感じる必要は無いわ。」

春が、一生懸命、小川さんを励ましている。

「それに、お前さんは何よりも、小川良寛様だったんでしょ。それを、保育園という場所で発揮したかった。それで保育士になった。それを忘れちゃいかんぞ。そこをどう活かすかだからね。今の職場でできないんだったら、もう捨ててしまってよ。お前さんができるところで、それを発揮すればいい。」

「ありがとうございます。あたし、自分のことについて、こんなに悩んだことは初めてで、皆さんに、打ち明けても意味がないと思っていたのですが、こんなふうに考えてくださったとは思いませんでした。ありがたいというか、びっくりです。本当に嬉しいです。」

小川さんは、嬉しそうに言った。

「いいのよ。誰だって、迷っている渦中では、自分のことに気が付かないものなのよ。それを、人に話して、初めて自分の事を知ることができたという例はいくらでもあるわ。それに対して劣等感を持ったりとか、自分はこんな事もできないのかとか、そういう悩みを保つ必要もないわよ。人間は、誰でもそうだから。そういうものなのよ。」

春が、にこやかに彼女に言った。

「良かったじゃないですか。そうやって、春さんに聞いてもらって、話をまとめることができたし、あなたが本当にほしいものも、少しわかってきたのでは?」

水穂さんが、そう言うと、

「ええ。あたし、なんでこんなに体調が悪いんだろうとか、すごく悩みましたけど、そういうことだったんだなと言うことがわかって嬉しいです。」

小川さんは、とてもうれしそうだった。これでやっと幽霊のような、雰囲気は取れて、少しづつ人間になっていくような気がした。

「私も、今日はあなたのお話が聞けて嬉しかった。また、なにか困ったことがあったら、何でも相談してちょうだい。」

と、春もそういう事を言う。彼女もまた、ウンディーネのような美しさからまた、変わってきているのではないかと思われるのであった。

ちょうどその時、杉ちゃんのスマートフォンがなった。

「えーと、電話に出るには、赤いボタンを押すんだったよな。」

杉ちゃんは、そう言って、電話に出るボタンを押した。

「はいはい、おう、ああ、祥子さんの検査が終わったのね。ああ、なるほど。わかったよ。それで、これからの治療方針はどうなるの?ああ、薬で止まるって?良かったねえ。じゃあ、薬を飲んでいけば、彼女も安泰になるわけか。良かった良かった。うん。わかったよ。水穂さんにも伝えておくよ。じゃあ、気をつけて帰ってこいや。」

杉ちゃんは、電話を切るボタンを押した。

「どうしたの?」

春がそうきくと、

「こないだの祥子さんね、やっぱり癲癇だったらしい。原因もわかったって。子供の頃、階段から落ちて、その時の怪我が原因だったみたいだ。まあでも、そんなに重症じゃないから、薬を飲み忘れなければ、普通に暮らせるってさ。良かったな。はははは。」

杉ちゃんらしく、明るい答えであった。

「そうなのね。やっぱり、彼女も癲癇だったのか。まあ、それを受け入れるには、非常に根性が必要だと思うけど、でも、そういうときに、話せる存在がいれば、また受け入れる事もできると思うわ。彼女の話もちゃんと私が聞くから、大丈夫だって、彼女に伝えておいて。」

春はそういう事を言った。そんなことが言えるなんて、彼女もにこやかに話していて、きっと、ウンディーネは魂を得ることができたのだろう。人間の男性と結婚したわけではないけれど、ウンディーネも、彼女なりの居場所を見つけることができ、彼女の能力を発揮することができたのだ。それは、すごいことだと思う。

「まあ、良かったじゃないの。一つ結果が出れば、また新しいことができるようになるよ。それは、悪いことじゃないし、人の人生なんてもんは、他人が幸せを決めるもんじゃないから。誰でも、周りから不幸に見えたとしても、自分が幸せだと感じていれば、生きていられるからな。」

杉ちゃんは、カラカラと笑った。

「そうですね。それができるのは、身分が保証されていないとできないですけどね。」

水穂さんが小さい声でそう言うと、春が、こういってそれを止めた。

「今はそのことは言わないほうがいいわ。小川さんのためにも、身分のことは言わないであげてあげましょう。それよりも、彼女が、大事なことに気がついた事を、祝ってあげましょうよ。」

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