第三章 パラケルススの伝承
その翌日、杉山春が、製鉄所へやってきた。水色の地色に、琉球紅型で百合の花を入れた着物を着た彼女は、ややグレーかかった髪を腰まで伸ばして、正しくウンデーネのような、艶めかしい雰囲気があった。
「こんにちは、水穂さん。」
春は、水穂さんに声をかけた。
「ああ、ああ、どうも。」
水穂さんは布団の上に起きた。
「今日は、水穂さんの現在の事を話してもらいましょうか。水穂さんは、現在、つまり今ですが、何をしていらっしゃるのかな?」
「今は何もしていません。以前はこちらで掃除とか、電話応対等をしていましたが、もう体がだめになってしまって、現在は寝たきりです。」
水穂さんは、彼女の質問に答えた。
「そうなんですね。それでは、体がだめになる前は、何をしていらしたのですか?」
春は、また聞いた。
「ええ、ピアノを演奏する仕事をしていました。ときに海外に行ったりもしまして、ゴドフスキーの練習曲やソナタなどの大曲を弾いたりしました。」
水穂さんが答える。
「そうなんですか。それならぜひ、演奏を聞かせてもらいたいものだわ。私、ピアノなんて何も知らないもの。」
「何も大したことありませんよ。ただ楽譜を用意して弾くだけです。それ以外何もありません。」
「そうかしら。」
水穂さんがそう言うと、彼女はにこやかに笑った。
「私は、ピアニストって、夢を売る商売だと思うわ。ショパンのノクターンやポロネーズを弾いて、聞いている人を、他のところに連れて行ってあげる。こんなことができるなんて、すごいと思うけど。」
「そうでしょうか。僕は単にピアノを弾いていただけで。」
「そういう自己評価が低いのは、よくありませんよ。」
と、春は言った。
「そうだから、幸せになれないことだって、十分考えられることよ。」
「僕は、幸せになっていい身分じゃありません。」
水穂さんはきっぱりといった。
「でも、それを願うことは悪いことでは無いと思うわ。それは誰でも平等に望んで良いんですよ。」
「そうかも知れないですけど、僕みたいに、幸せになってはいけないというか、なればなったで、妬みもすごいし、そういうことしかできない人間だって、いるんですよ。どうせ、僕達は、汚いとか、そういう事を平気で言われるんだ。それしか、できることが無いんです。」
「そうなのかな。」
春さんは、水穂さんに言った。
「そんな事ありません。そういう事を、言う人は、僕達がされてきた事を、知らないから言えるんです。僕は、学校でも、社会に出ても、結局何もできませんでした。何も得たものはありません。どうせ仕方ないと思うしか解決できなかったことだって、本当によくあったんです。それが、どんなに辛いものであったかは、普通に生きてきた人には、わかるはずもありません。」
水穂さんは、拒絶する様に言った。
「ましてや、相談に乗ったり、人から布施を受けて、生活しているような人は、わかるはずはありませんよ。そういうことは。わかろうとしたら、あなたの人生まで潰されてしまうのではないですか。」
「そういうものなのかしら。私は、人になにか言って、人生を楽しく生きるのは、当然の権利だと思うけどな。少なくとも、コザでは、いろんな人がいたし、日本人と呼ばれていた人ばかりじゃなかったわ。でも、皆幸せになりたいって言う気持ちは誰でもあった。それは、あなただから、いけないってことは無いはずよ。」
確かに、彼女、杉山春さんの言う通りでもあるかもしれなかった。特に、沖縄というところは、日本の本州とは、また違うおおらかさというものを持っている。なにかあっても、大丈夫だと軽く流してしまうというか、のんびりと構えていられるところがある。
「沖縄と、こちらでは違います。海外の人も同じ。そんな人に、同和問題のことが、わかるはずがありません。」
水穂さんは、細い声でちょっと苦しそうに言った。
「もう横になりましょうか?」
春は、水穂さんにいう。そして、水穂さんを静かに布団に寝かせてあげた。
「最近は、暖かくなりましたよね。布団も何を選んだらいいのかわからないくらい。まあ、急に暖かくなってくれたのは、いいんだけど、ちょっと疲れてしまうことだってあるわよね。まして、病気なんじゃ、体もそれについていくのは、大変でしょうね。」
春は、にこやかに笑って、掛ふとんをかけてやった。水穂さんは、小さな声でええと一言だけ言う。
「無理しなくていいわ。それでは、少しずつ話していきましょう。あなたの体では、長時間話しているのも難しいでしょうし。私は、何回こちらにこさせて頂いても構わないわ。それが、仕事だから。」
「ええ、わかりました。よろしくおねがいします。」
水穂さんは、とりあえず小さい声で言った。
「じゃあ私、今日は疲れてしまうだろうから、これで帰りますけど、ここは、タクシー以外、なにか交通手段ってありませんか?」
不意にそうきく彼女を、水穂さんは、意外な目で見た。
「ええと、この製鉄所を出てから、歩いて数分でバス停があると思います。それであれば、富士駅までは行けるのではないかと。」
水穂さんがそう言うと、
「わかりました。私、車の運転できないのよ。今日はタクシーで来たんだけど、それではお金がかかりすぎちゃってね。それで、帰りもタクシーを呼ぶとなると、迎車料金もかかってしまうし。」
と、明るい声で言う彼女。水穂さんは、はあそうですかという顔で彼女を見た。
「そうなんですか。確かに、車を運転できない方もいらっしゃいますよね。ただバスは、一時間に一本かあっても、二本程度しか無いと思いますけど。その間、バラ公園という公園がありましてそこにカフェがあるから、そこで、休んでいってください。」
水穂さんは、彼女にそういった。
「水穂さん、私に、対する気遣いは全くいらないわよ。そういうことは、私なりに、考えているから。」
にこやかに笑った彼女は、なんだか余計に元気になっているようだ。確かに、美しい顔をしているけど、ちょっと作られすぎた美しさというようなところがあって、生気がないように見えているのだった。それが、水穂さんと話して、少し和らいだような、そういう感じなのだ。
「でも、本当に一時間に一本しか無いですよ。」
水穂さんがそう言うと、彼女は、
「気にしないで頂戴。バラ公園散策とか、ちゃんと考えてあるわ。」
と、にこやかに言って、四畳半から出ていった。水穂さんは、布団に寝転がったまま、彼女が帰っていくのを見送った。一時間に一本しかないバスを選ぶとはどういうことだろう?
「おい、ご飯だよ。どうしたの?」
そんな顔をしていた水穂さんの前に杉ちゃんがやってきた。
「あの、琉球の美女に、話を聞いてもらってどうだった?」
杉ちゃんは車椅子のトレーに乗せていたそばを、サイドテーブルに乗せた。
「起きられるなら、起きてくれるか?寝たままでは良くないからさ。」
水穂さんは、また布団の上に起きた。そして、二三回咳をした。杉ちゃんが、疲れているのと聞いたが、静かに首を振った。
「とりあえず、ご飯を食べてくれ。疲れているのはわかるけど、ご飯を食べないと薬も飲めない。」
杉ちゃんに言われて、水穂さんは、咳き込みながら、サイドテーブルに置いてあったそばを口にした。そばだから、小麦粉とはまた違い、アレルギーを起こす心配もない。でも、水穂さんの食欲はまるでなく、二三度そばを口にしただけで、もういいと言ってしまうのだった。
「おい、これだけじゃだめだ。ちゃんと食べてくれよ。完食しないと、薬が飲めないよ。」
杉ちゃんに言われてなんとか食べようとする水穂さんであるが、食べるより先に咳が出てしまうのだ。なんで、こうなってしまうんだろうかと普通の人なら、呆れてしまうというか、嫌になってしまうだろう。事実このことで、雇った女中さんや介護人はみんなやめていくのである。そこだけは、どうしようもなく、変えられないことでもあった。
「ほら。食べろ!しっかり、食べて、体をちゃんとさせないと。」
杉ちゃんも困った顔をするほど、この問題は解決しなかった。
「あの、琉球の美女も、これだけは、解決できないのかな。」
しまいには、杉ちゃんもそういうのである。いくら、そばを口に入れても水穂さんはどうしても食べることができなくて、吐き出してしまう。ときにはそれが、吐き出したそばと同時に、血液も一緒になることがあり、それを目の当たりにしたら、相当、根性がある介護人でないと、長続きしない。
「あーあ、やれやれ。もうちょっと、水穂さんが食べようと言う気になってくれないと、問題は解決しないぞ。ほんと、誰かの力を得るなんてことは、これだからできないよなあ。」
杉ちゃんは、そう言ったが、すぐに別の考えが浮かんできたらしい。
「そうだよなあ。まだ第一回目だし。改善を求めるほうが、だめか。」
とりあえずそう考え直して、水穂さんのほとんど食べられなかったご飯を車椅子のトレーに戻した。そして、水穂さんに、はいと薬の入った水のみを渡した。水穂さんは、ありがとうと言って、中身を飲み込んだ。そして、布団に倒れ込むように横になる。また眠ってしまうんだろうなと杉ちゃんは思いながら、大きなため息をついた。
「まあ、よく眠ってくれ。」
そう言っても返事は返ってこなかった。
それから、二三日経って。
「こんにちは。」
にこやかに笑って、杉山春がやってきた。
「上がらせてもらいますね。」
またこないだと同じ、琉球紅型の小紋を身に着けた彼女は、ちょっとこの間より様子が違っている。なんだか、彼女は実にいきいきとしているように見える。
「水穂さん、いらっしゃいますか。よろしくおねがいします。」
と、彼女はそう言いながら、水穂さんの近くにやってきた。
「どうですか。お体、お変わりありませんか。」
「ええ。相変わらず、悪いまんまだぜ。ご飯も食べないし、何もしようとしてくれないよ。」
杉ちゃんが代わりに答える。
「私は、あなたに聞いているんじゃないわ。水穂さんに聞いているんです。」
そういう彼女は、なんだか以前とは、明らかに違うのだ。
「へえ、なんかお前さんも変わったな。ターゲットになる男性を見つけて、ウンディーネは命を得たのか。」
「なんですかそれ。」
杉ちゃんに言われて、春は、すぐに聞いた。
「いやあなあ。お前さんのその水色の着物といい、なんかウンディーネみたいに見えるわけ。そういうなまめかしいところがあるんだよ。お前さんは。確か、パラケルススという人が残した伝承によれば、ウンディーネは、人間の男性と結婚すると命を得るんだってね。でも、夫が不倫すると、夫を殺して水に帰る。そして、水に帰ったウンディーネは、命を失う。」
「もう、何を言っているんですか。私は、そういうことは何も知りませんよ。杉ちゃんさんは、そういう昔の伝説を信じていらっしゃるみたいですが、そんなの、迷信ですよね。そんな事、あるわけないじゃないですか。」
春は、そう言って笑い返したが、たしかに、この伝承は、パラケルススという人物がウンディーネという架空の種族を描くに当たって、設定したものである。
「じゃあ、水穂さん、また今日もお話を聞かせてもらいましょうか。今日のテーマは、そうね、今まで一番つらかったことはなにか、聞かせてもらおうかな。」
春は、紙が乗っている画板を取り出し、メモする姿勢になった。
「できれば、記録しないでもらいたいな。あんまり水穂さんの過去のことは、大っぴらにしてほしくないのでねえ。」
と、杉ちゃんがすぐ邪魔をする。
「でも、彼の話を聞く上で、必要なことよ。私は、そういうことは、必要だと思ってるし。」
「なんか、臨床心理士を気取ってるみたいだな。」
春の話を聞いた杉ちゃんは、すぐ口を挟んだ。
「資格持ってなくても、そういう事を、するのかなあ。」
「もう、いやねえ。私は、水穂さんのことで、こさせてもらってるの。杉ちゃんさんに、ああだこうだと言われることは、無いわよ。」
そう明るく交わす彼女は、間違いなく、魂を得た、ウンディーネに見えた。
「じゃあ、水穂さん、お話してみてください。いつの事を思い出してくれてもいいわ。ちゃんと、私は聞きますから。」
ペンを取った彼女に、杉ちゃんは、変なやつだといった。水穂さんが、そうですねと話すことを考えていると、突然別の部屋で誰かが金切り声を上げた。
「あ、またあいつだ。」
と、杉ちゃんが言った。水穂さんも、そうですねと杉ちゃんに合わせる。
「祥子さん、大丈夫よ。そんなに怖いことじゃないわ。」
別の利用者が彼女に話をしているのも聞こえてきた。
「祥子さん?」
春が、そういう。
「はい。大丈夫ですよ。大したことじゃありません。彼女は時々、発作的に、異常に興奮してしまうことがあって、それは、誰にも制御できないことなので。」
水穂さんがそう説明すると、杉ちゃんが、
「僕が止めてくるから、二人は、身の上話を続けていてくれ。」
と言って、車椅子を動かし始めた。杉ちゃんがふすまを開けると、祥子さんと呼ばれた女性は、怖いとか、襲われるとか、そういう事を叫んでいるのが見えた。
「大丈夫だよ。そんな突然恐怖を覚えても、誰も襲ってくることはないから。」
と、杉ちゃんがでかい声で言うと、祥子さんと呼ばれた女性は、バタッとその場に倒れてしまった。でも、杉ちゃんも、他の利用者たちも驚かなかった。それはもうしょっちゅうあることなので、当たり前の事のようになっているのだ。大丈夫である証拠に、祥子さんと呼ばれた女性は、いびきを書いて眠っているのである。
「ああ、すみません。先月からここへ来ている利用者さんで、時折、人殺しがでたとか、そういう事を叫ぶんですよ。まあ、今、精神科で治療を受けているので、大丈夫だと思います。」
水穂さんがそう説明すると、春は、その一部始終を、ずっと眺めていたようである。
「彼女もしかしたら。」
と、春は小さな声で呟いた。
「癲癇があるんじゃないかしら。一度、病院で脳波を検査してもらったほうがいいと思うわ。」
「癲癇?でも、あれは、子供の時に発症する病気ですよね?確かに、癲癇を持った人にあったことはありますが、皆、幼少期に発症していると聞きましたよ。」
水穂さんがそう言うと、
「ええ、一般的にはそうかも知れないわ。でも、癲癇の発作だって、単にその場で倒れてしまうことだけとは限らない。彼女のように突然恐怖を感じて倒れることだってあるのよ。それに、癲癇は、おとなになってから、もっと言えば、お年寄りでも発症することがあるわ。一度彼女は、脳波を検査してもらったほうがいいと思う。それに、癲癇はある程度、薬で抑えることはできるわよ。」
と、彼女、杉山春さんは言った。確かに、祥子さんという利用者は、大丈夫だった。数分で、その場から起き上がり、ごめんなさいとみんなに謝って回っていた。
「彼女はまだ、病院で診断も受けてないの?」
水穂さんがすぐに頷くと、
「早ければ早いほどいいわ。癲癇は、今はいい薬がたくさんある。それは、大丈夫だから。気をつければ、将来は、大丈夫。ただ、車の運転はできないことはあるけどね。」
と、杉山春は、にこやかに言った。
「じゃあ、彼女にそう声をかけてやってください。彼女、自分がなぜ、このような症状を出すのか、わからないと言ってましたから。僕達が、いくら原因を考えてもわからないし。それなら、彼女にそうさせてあげたほうがいい。」
水穂さんがそう言うと、春さんは、
「ええ、わかったわ。」
と、立ち上がって、他の利用者に謝罪を続けている、祥子さんのところに行った。
「ねえ。祥子さんって、仰ってましたよね。」
祥子さんは、その美しい春を、ちょっと妬みを持った目で見た。
「私が言うことだから、あんまりあてにならないかもしれないけど、あなた、一度、脳波を見てもらうといいわよ。何も怖いことは無いわ。あなたが、もう少し、ここで楽に生きていけるように、癲癇の治療を受けるといいと思うの。」
「そうなんですか?」
と、祥子さんは、春に聞いた。
「ええ、ただ、私の言うことだから、あまり役に立たないかもしれないけど、癲癇は、何も怖いものじゃないわ。薬を飲んでいれば、発作を起こすこともかなりの確率で減らせるの。そうすれば、あなたも、こうして謝罪を繰り返し続ける必要も無いわよ。」
「そうなんですか。私、何も原因がわからなくて、悩んでおりました。どうしたらいいかとか、そういう事まったくわからなくて。ただ、突然、恐怖が襲ってきて、同しようもないくらい怖い気持ちになって、その後、何かが切れた様に、ぶつっとわからなくなってしまうんです。私、どうして、こうなんだろう。なんで他の人みたいに、暮らせないんだろうって、すごく悩んでいました。初めてです。私の事を、そうやって話してくれたの。」
祥子さんは、春がそういったのを驚きと喜びの複雑な顔でそう返したのだった。
「でも、診断名が付けば、それなりの対策を取ることができるわ。癲癇じゃなかったら、他の病気があるかどうか、聞いてみればいいの。それは、積極的に医療を受けてもいいと思う。それは、誰でもしていいことなのよ。恥ずかしいとか、行けないとか、そう思う必要はまったくないわ。」
祥子さんに、春はにこやかに笑って返した。なんだか本当に、彼女をアドバイスしているような、そういう表情をしていて、なんだか明るくなったなという顔をしている。
「はあ。なるほど。ウンディーネが、本当に命を得たというのは、こういうことなんだな。」
と、杉ちゃんが、そういう事を言った。
「まあ、いずれにしても、祥子さんはぜひ、癲癇の検査を受けたほうがいいな。よし、善は急げだ。急いで病院の予約取って、すぐ行ってこよう。」
「わかりました。でも、ありがとうございます。杉ちゃんと、春さんでしたっけ、二人の意見で、私、決めることができました。明日ちゃんと行ってきます。」
そう決断した彼女も明るかった。
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