コーヒーの熱が冷めるまで


 『お仕事頑張ってね』。


 そう言って、天城くんの背中を見送った後、ぱたぱたと手で顔を仰ぐ。


 火が出そうなくらい顔が熱い。ばくばくと音を立てる心臓がうるさい。


 危なかった。まさか、天城くんがあんなにストレートに褒めてくれるなんて思ってなかった。


 言葉にしてくれなくても、天城くんにとって良いか悪いかは態度でわかる。だから正直なところ、反応さえ見られれば、後は適当に答えられても、お茶を濁して逃げられても、問題なかった。


 けれど、今日の……いや、天城くんは違った。


 ちゃんと言葉にしてくれた。どこが良くて、どう見えて、どう思っているのか。


 嬉しかった。言葉が出なかった。


 幾千、幾万の言葉より、私の心を震わせた。なにより嬉しいのは、初めて彼とデートをした日と同じ格好を褒めてもらえたこと。


 今の天城くんがこの格好をしている私を見るのは初めてで、あの時の彼はデートをしていたと思っていなかっただろう。


 それでも、あの時のデートはかけがえのない思い出で、過去と現在。どちらの『私』も認めてもらえたような、そんな嬉しさがあった。


 自然、頬が緩み、笑みが溢れる。


「幸せそうな顔しちゃってまあ……パフェ食べる前に胸焼けしそう」


 その言葉で私は思考の海から、現実へと引き戻され、心を占めていた熱も引いていく。


 呆れたような様子で言うのはテーブルを挟んで向こう側に座る沙耶ちゃんこと音無おとなし沙耶さや


 小学校からの友人で、高校へ入学するまでに親交のあった数少ない人間。


「なーんか、お洒落な格好してると思ったら、彼氏へのお披露目だったなんて。縁も隅におけないんだから」


「……ううん、違うよ。まだ彼氏じゃない」


「その言い方だと彼氏にはしたいんだ。ってことはアピール? それにしては直球過ぎない? あれじゃ、バレバレでしょ」


「……わざとやってるからいい、バレても。というか、天城くんも他の人から、私が天城くんのこと好きだって聞いてると思うし」


「え? マジ? その上でまだ付き合えてない系? さては恋愛初心者か〜? 駆け引き下手か〜?」


「……ひょっとして、怒ってる?」


 あまりにもわかりやすい煽りにそう尋ねると、沙耶ちゃんは口をへの字に曲げて、手にしていたスプーンをこちらに向けてジト目で言う。


「そりゃあね。久しぶりに会った親友をほっぽって、ドラマみたいな甘酸っぱ〜い青春ストーリーを目の前で繰り広げてたら、お小言の一つや二つ言いたくなるって。爆発しろー、なんて言わないけどさ」


「……それは、ごめん」


 そう言われるとぐうの音も出ない。天城くんのことを意識するあまり、沙耶ちゃんを蔑ろにしてしまっていた。蚊帳の外にされたらいい気はしないし、嫌味や小言の一つは言いたくなるのもしかたない。


「大体、最初から教えといてくれてもいいんじゃない? そしたらこっちも心の準備できたし、援護くらい――」


「それはいい」


「食い気味に否定するのやめよ? さすがに傷つくから」


 本人に悪意はない。好奇心はあるだろうけど、百パーセント善意に違いない。


 でも悪意がなければ悪い方向に行かないとは限らない。私はそれを見てきたし、身を持って知っている。本当に大変だった。


 それに――


「これは私が決めたことだから。私の力で最後まで頑張りたいの」


 そう答えると、面倒くさそうに、けれどもどこか嬉しそうに沙耶ちゃんは笑う。


「健気と言うか、堅物というか、バカ真面目というか。昔と比べて色々変わったけど、そこは変わらないんだ」


「性分だからね。死ぬまで治らないんじゃない?」


「同感。でも、そういうところ、私は好きだからオッケー。応援してる」


「ありがと。私も、沙耶ちゃんのそういうところ好きだよ」


 そんな風に締め括って、私たちはひとまず注文したいちごパフェを食べ始める。


 中にあるアイスが少し溶けてしまっているけれど、それのおかげでかえって食べやすくなっている。


 少しの間、雑談はお預け。


 当初の目的の隠れ蓑だった。季節限定いちごパフェを食べると言う目的を遂行していく。もちろん、間でコーヒーを飲むのも忘れずに。


 半分くらい食べ終わったあたりで、お互いに小休止を入れる。いくらデザートとはいえ、一気に食べたら胸焼けするし、お喋りをする時間が短くなってしまう。


 そういう時は追加注文する手もあるけど、そうなると体重やスタイルに大きく影響が出る。それだけは避けたい。


「んー、美味しい。本来の目的はともかく、これを食べに来れたのは良かったかも」


「でしょ。四季ごとにあるんだけど、どれも美味しくて、つい来ちゃうんだ」


「ふーん……それは愛しの彼が働いてるからじゃなくて?」


「まさか。七……いや、八対二くらい」

 

「いや、絶対八の方が彼じゃん。それほとんど彼目的じゃん。パフェとか季節限定とか関係ないじゃん」


「あははは」


「しかも否定しないし……ちょい怖いんだけど」


 ドン引きだった。まぁ、私も自分でやってることがドン引きされるような事であるのは自覚しているから、傷ついたりはしないんだけれど。


「しっかし、縁がねぇ」


 頬杖をついて、別のお客さんの接客をしている天城くんを眺めながら、感慨深そうに言う。


「今の言い方、引っかかるんだけど」


「べっにぃ。意外だなぁって、それだけ」


「ふぅん。どうだろう。それにしては含みのある言い方だと思うけど」


 特に『あの』という部分が。まるで問題児だったみたいな言い方に取れる。


 これに関しては異を唱えたい。昔も今も私は優等生だ。少なくとも、先生に褒められることはあれど、問題児扱いされた覚えはない。むしろ、問題児扱いされていたのは沙耶ちゃんの方だ。


 抗議の意味を込めて、冷ややかな視線を送り続けているが、沙耶ちゃんはそれを意に介さず、美味しそうにパフェを食べる。


 それを見て、私は小さく溜め息を吐く。


 昔からこれだ。飄々としているというか、マイペースというか。かと言って、空気が読めないわけじゃなく、寧ろ空気を読んだ上で無視する節がある。


 そんなだから、距離感がおかしいし、私ほどじゃないけど人付き合いが得意じゃないし、かえって私みたいな人間と友だちになれてしまう。


「ほら、昔はさ。小学生のくせに『一人にして』みたいなオーラ出してたじゃん。なんなら私、そう言われて拒否られたし」


「あったね。そういう時代」


「他人事みたいに言ってるけど、縁のことだからね?」


 遠い過去に思いを馳せるように答えると、沙耶ちゃんからツッコミが入る。


 実際、沙耶ちゃんと友だちになったのは、いつだったか。正確な時期が思い出せない。


 繰り返しの弊害だ。繰り返しの中で起きることは鮮明に覚えているものの、それ以前の記憶ーー高校入学以前の記憶は繰り返す度に朧げになっていく。


 そして繰り返しの記憶は蓄積されていく。誰かにとっては二週間前の出来事も、私にとっては数年前の記憶だったなんてことはよくある。


 沙耶ちゃんとの出会いもその一つ。かつての私は覚えていたんだろう。確信はないけれど、そう思う。


 現実では大して時間の経っていない出来事さえ風化して曖昧になって、思い出せないことに罪悪感を覚えないといえば嘘になる。


 それでも、私は選んだ。


 十数年積み上げてきたモノよりも、彼とのたった一年しかなかった素晴らしき日々を。


 後悔はないし、する資格もない。


 私に残されているのは、『天城総悟が生きている』という結果を手に入れる。それだけだ。


「昔は『私に構わないで』って言ってた子が、ちょっと見ないうちに好きな人見つけちゃって、こうなっちゃうんだもんねぇ。やー、わからないもんだなぁ」


「私も、正直ここまで熱を上げるとは思ってなかったから、最初は凄く戸惑ったよ」


 事実を受け入れて、自分を理解するまでに少なくとも一週間は費やした。その間、私は彼と顔を合わせることができなくて、四六時中逃げ回っていたのを覚えている。


「うんうん。青春してるね〜。経緯はともかく、今の縁はめちゃくちゃ良いと思うよ〜」


「良い?」


「そ。すっごく良い。前の縁も好きだったんだけど、今の方が私は好きかなぁ。感情を前に出すようなったし、変に斜に構えてないし、なにより幸せそうだもん」


 幸せそう、か。あの瞬間が来るまで、私にとっては確かに幸福なのかも知れない。


「今の縁ならわかるだろうけど。人間はさ。一人じゃ生きていけないんだよ」


「生物としてとか、社会インフラ的な意味じゃないよね」


「それもあるけど、もっと単純。相手は誰でも良いんだけどさ。ようは大切な人がいて、その人と一緒に過ごせたら、嬉しいし、楽しいし、幸せじゃん。別に一人が不幸ってわけじゃないけど……寂しい時とか悲しい時とか、一人じゃどうにもなんない時があったら、ずっとしんどいままじゃん」


 沙耶ちゃんの言っていることはなんとなくわかる。


 朝起きて、ご飯を食べて、仕事や学校に行って、帰ってきて、お風呂に入って、ご飯を食べて寝る。この行為を、果たして人間として生きていると言えるのか。


 昔の私はそれを肯定していた。


 人間の営みとしては成立しているし、なにより本当に無趣味の人間なんていない。本を読んだり、音楽を聴いたり、体を鍛えたり、映画を見たり、なにかしらの趣味がある。それこそ仕事が生き甲斐の人間だっている。


 その時点で、孤独が生きていけない理由にならないと思っていた。


 でも、今は違う。


 人間は一人じゃ生きていけない。そんな便利にできていない。


 追い詰められた時。挫折した時。絶望した時。当人の力では解決できない問題に直面した時。人間は簡単に折れる。


 今の私もそうだ。私は、もう私だけでは生きていけない。


 天城くんがいなければ、道明寺縁は前に進めない。


 この気持ちを天城くんに押し付ける気はない。私は天城くんを助ける。他でもない私自身のために。


「まぁ、私の個人的な意見だけどね。そういう意味で言えば、縁のは良い変化! 恋を知り、愛を知れば、人は成長する……あ、これ私の格言ね」


「はいはい。大変良いお言葉を賜りまして、恐悦至極にございます」


「うわ、テキトー。なんか私の扱い、昔より雑になってない? ダメだぞー、男にかまけて親友を蔑ろにするのは」


「しないよ。優先度に差はあるだろうけど、軽んじたりはしない。絶対にね」


「はっきり言われるといっそ清々しいな……そこまで言うなら、来年会う時は彼氏として紹介してよ。大好き彼の次に大切な親友との約束だ」


 沙耶ちゃんはこちらに向けて右手を伸ばして、小指を立てる。


「それは――」


 私もそうありたいと思っている。けれど、天城くんを助けられたとして、私が天城くんと付き合えると決まっているわけじゃない。


 もちろん、その努力は最大限しているつもりだけれど、最終的に選ぶのは天城くんだ。


 そうやって、逡巡していると、沙耶ちゃんは大きなため息を吐いて、席を立つ。


「わかりやすいんだから、もう」


 席を立った沙耶ちゃんは私の隣に来ると、視線を合わせるように中腰になって、もう一度小指を立てた右手を差し出してくる。


「や・く・そ・く。いい?」


「…………はい」


 沙耶ちゃんからの謎の圧力に耐えきれず観念して右手を差し出し、指切りをすると、満足げに沙耶ちゃんは頷いて、席に戻った。


 そこではたと思いだす。


 ああ、昔もこうやって押し切られてたんだっけ。


「できるとかできないとかそういうのは考えなくていいの。やってやるっていう気持ちが大切なんだから。もっと気楽に、強気にいこうよ」


「……うん、わかった」


「わかればよろしい……って、うぇ。コーヒーぬっる。パフェもアイスのとこ、全部溶けちゃってるし」


 言われて、自分のところにあるパフェに目を向けると、ドライフルーツはほとんど自然解凍されてしまっていて、アイスの部分は完全に液体化し、下のほうに溜まっていた。


「新しいの頼む? 奢るよ」


「え!? マジ!?」


「うん。沙耶ちゃんのおかげでちょっと元気出たから。そのお礼」


「やったー! 早速追加で注文……の前に今ある分、食べる!」


 そう言うと、沙耶ちゃんは温くなったコーヒーを一息で飲み、パフェを食べ始める。


 本当にありがとう。沙耶ちゃん。こんな面倒くさい人間と友達になってくれて。


 気楽にいくことも、強気にいくこともできないかもしれないけれど、今回はこれまでよりも少しだけ頑張れそうな気がする。


 さしあたって今のところは――


「……温い。美味しくない」


 このコーヒーとパフェをどうにかするところから始めよう。

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