後悔と反省と、幸福のスパイス
家に帰ってきて、すぐに自分の部屋に入ると鞄を机の上に乱暴に置いて、制服のまま、ベッドに突っ伏していた。
余裕がない。
言ってしまえば、それだけのこと。
どちらの、そう問われれば、どちらも。
彼には終わるまでの
私には終わらせないための
足りないものが多い。必要なものがわからない。なにが正解なのか、なにが間違いなのか。私が選んだ道は正しいのか、他の道があったのか。
わからない。わからない。わからない。
だから、聞いた。いつものように揶揄い交じりに、ただ一言一句を聞き逃すまいと意識を全力で天城くんに向けながら。
天城くんは知らない。今日話したことは私が覚えている限りで四回は聞いていること。私が彼から聞いた最初の秘密ということも。
他にもたくさんある。
負けず嫌いなこと。寒いのが苦手なこと。嘘をつくとすぐ顔に出ること。家事が得意なこと。得意料理はオムライスなこと。コーヒーは好きだけどミルクと砂糖がないと飲めないこと。洋菓子よりも和菓子が好きなこと。甘いものよりも辛いものが好きなこと。猫はダメでも動物は基本好きなこと。虫は苦手ではないが、昔刺されたから蜂だけはダメなこと。感動系の作品を見ると絶対泣いちゃうこと。ハッピーエンドが好きで、バッドエンドが嫌いなこと。ホラー系はちょっと苦手なこと。乗り物酔いが酷いので長距離の移動は苦手なこと。そのせいで遠足や修学旅行そのものは好きだけど移動中はほぼ寝ていること。方向音痴でよく道に迷うこと。みんなと遊ぶのが大好きだからはしゃぎすぎて、よく怪我をすること。漫画やアニメやゲームが好きなこと。スポーツは観るのもするのも好きなこと。両親が共働きで一人っ子だったから一人でいるのが苦手なこと。賑やかなところが好きだからバイト先に飲食店を選んだこと。人の笑顔が好きなこと。みんなを笑顔にできる正義の味方に憧れていたこと。将来の夢は警察官だったこと。ただ、少し拗らせて厨二病みたいになっていたこと。それでも、困っている人がいれば一もニもなく助け回っていたこと。中学の時の初恋の相手に告白して振られたこと。振られた理由が『良い人だから』ということ。それを理由に不必要に人助けをするのをやめようとして、結局やめられなかったこと。やめられなかったからよく怪我をしていたこと。やめられなかったから顔も知らない誰かの為に死んでしまったこと。
挙げていけば、それこそ百個はゆうに超えるだろう。
知っている。覚えている。刻み込まれている。
私の脳が、心が、キミのことを。どんな些細な事でも忘れたくないと。
でも、それでも。
足りない。変えるには足りない。彼から教えられたすべてを持ってしても、天城くんは終わる。無常に、残酷に、ただそれが必然であるかのように。定められた運命であるかのように。
……ふざけないで。冗談じゃない。私はそんな運命は認めない。そんな結末は受け入れられない。彼の死を含めて、全てが正しい形だとしても、私だけはそれを否定する。彼の死が正しいとするなら、そもそも、歪んでいるのはこの世界の方だ。
そのためには、まだ訊かないといけないことがある。あるはずなのだ。天城くんを必ず助けられる、そのためのヒントが。
そのはず、なんだ。
それを得られていない。どれだけの時間を経ても、『天城総悟の死』だけは耐えられない。耐えられるようになんて、なりたくない。
その為には多少強引なやり方でもしかたない――とはいえ。
「あれは……やりすぎ、だよね」
ベッドの上で仰向けになり、ほんの数十分前のことを思い出し、また一つ、溜め息を吐く。
問い詰めるところまではよかった。多少強引ではあったかもしれないけれど、理不尽ではなかった。加えて、話の発端は天城くん。
問題はなかった。
けれど、その後。私は事を起こした。
普段通りに聞いても、返ってくる答えは私の聞いたものになる。であれば、天城くんを普段通りで無くしてしまえばいい。
その名案は、果たして天城くんから冷静さを根こそぎ奪った。ついでに私からも冷静さを奪った。
あの時は少し不味かったかもしれない。自分から仕掛けておきながら、空気に呑まれていた。冷静であるべき人間が全然冷静じゃなかった。
あの時の自分に喝を入れてやりたい、と思うことは多々あれど、今回は特にそう思う。
そう思う……けど。
もし。もしも、だ。
天城くんが照れていなかったら。引き剥がさずにそのまま抱き締めていたら。それどころか天城くんの方も顔を近づけてきてそのまま――
そこまで考えたところで、私は近くにあった枕を取り、顔に押し当てて絶叫した。
吐き出したのは羞恥心と自己嫌悪と罪悪感、それとほんの少しだけの喜び。
人間にはパーソナルスペースと呼ばれる他人に近づかれると不快と感じる空間がある。
性別、性格、社会文化、民族、そして人そのもの。
これらの要因によって、他人が自分にどれだけ近づいてもいいか、あるいは領域を侵されることを許しているのかを決めている
アメリカの文化人類学者のエドワード・T・ホールはこれを『密接距離』、『個体距離』、『社会距離』、『公共距離』の四つのゾーンに大別し、それらをさらに『近接相』と『遠方相』の二つに分類した。
その中で、今日の私が踏み込んだのは四つのゾーンの中で最も近いとされる『密接距離』かつ『近接相』――ごく親しい人間のみが許される、特別な距離。
天城くんにとって、自分が女子の中で一番親しい友人である自負はある。男子も含めると一番と言い切れはしないけれど、上から数えた方が早い自信もある。
それでも、実際に見るまで、感じるまで、不安はあっても、確信はない。
例え、これまでの彼との関係性において、そうであったとしても、今回もそうであるとは限らない。実際、何度かは異性の友人の一人でしかなかった。
だから、こうして天城くんとの関係性の深さを実感すると、どうしようもなく、浮かれてしまう。
今がどれだけ危機的状況なのかわかっていながら、この幸福感だけは抑え切れない。
数十秒。
ベッドの上でじたばたとひとしきり悶絶しながら、ありったけ吐き出したところで、一呼吸つく。
いつものように今日あった出来事を控えるために、ベッドから体を起こし、勉強机に向かう。
椅子に手をかけたところで、ちらりと姿見の方を見て、思わず変な声が出た。
そこに映るのは当然今の私。いつも通りの余裕のある表情――とはかけ離れた、にやついて、だらしのない表情をした自分がそこにいた。
「……チョロすぎ。まだなにも解決してないでしょ。浮かれるな馬鹿」
軽く握った拳をこんこん、と額に当てて、戒めるように呟く。
……これは気分を一旦リセットしたほうがいい。このままでいたい気持ちはあるけれど、そんな余裕はないのだから。
部屋の換気と、気持ちの切り替えるために窓を開けると、ひゅう、と風が吹き込んでくる。
「っ」
春風、というにはまだ暖かさのない、肌寒さを感じさせるそよ風が頬を撫で、私は眉根を寄せる。
この風が嫌いだ。
終わりと始まり。寂寥感と無力感、そして喪失感。それを嫌でも認識させられる。
いつ終わるかわからない線香花火のような時間は、私に多大なストレスを与えている。
おかげさまで満足に睡眠も取れていない。朝なんてとても人様に見せていいような顔をしていない。
いつものことだ。
――いや、最初の数回よりは幾分マシになっているかもしれない。最初の数回は食事が喉を通らず、日に二時間眠るのがやっと。そして、まだ慣れていなかった頃の他者とのコミュニケーション。
今の比じゃない。一日をただ過ごすことに限界を感じたのは一度や二度の話じゃない。
そうならなかったのは、彼の
私のような小娘一人の力では、運命は覆らないと教えてくれた
次こそは必ず救うと望んで、次こそは必ず終わらせると覚悟を決めて。
なんでも識っている私。なんでもわかっている私。
そんなものに価値はない。失敗を繰り返した果ての副産物であり、救えなかったことの証左でしかない。
反吐が出る。どれほど知識を得ても、経験を積んでも、恩人の、愛しい人の命一つ救えないのだから。
出来ることは増え続けるのに、一番したいことが出来ない。
こんな滑稽で惨めな話はない。小説なら三流もいいところだ。
或いは、昔の私なら、こんな
「……」
体温とともに頭もいい具合に冷えた。これで日課に取りかかることができる。
窓を閉めて、今度こそと、思ったところでベッドの上に放りっぱなしにしていたスマートフォンが断続的に振動音を発する。
音がしたのは二回だけだから、多分電話じゃない。二回に分けてメッセージを送ってきているみたいだ。もしくは別々の人からメッセージが送られてきたか。
どちらにせよ、相手をしている余裕はない。
今日は調子が悪かったから、すぐに返事ができなかったということで、明日返信するか。
そう考えて、ベッドの上にあったスマートフォンを取り、ロック画面上に表示されているメッセージと送り主を確認する。
送り主は――天城総悟。
それを見た瞬間、さっきの思考はどこへやら。私はロックを解除し、トークアプリを起動する。
『しつこい、って言うのはわかってる』
『でも、やっぱり自分の身体は大切にしろ。お前になんかあると学校中のやつが心配するし、俺も寝覚めが悪くなる』
なんというか、実に天城くんらしい、持って回ったようなメッセージに苦笑する。
いつものように大丈夫と返すのは簡単だけれど、それでは天城くんは納得しない。
かと言って、天城くんを揶揄って話を逸らすのも違うだろう。
ここは『風邪気味』ということにしておこう。
季節の変わり目だし、体調を崩すこと自体は疑問に思われない……はずだ。
今日のやりとりのせいで、それを信じてもらえるか、あまり自信はないけれど。
そんなことを思いながら、スマートフォンの画面をタップし、メッセージを打ち込んでいく。
『すまん。さっきの訂正』
「?」
今まさにメッセージを送信しようとしたその時、追加でメッセージが送られてきた。
訂正ってなにを? そんなところあったかな。
さっきのメッセージを読み返してみても、誤字脱字はなく、言葉選びも、今の私と天城くんの仲なら問題はない。
はて、と首を傾げていると、次のメッセージが送られてきた。
『無理しないでくれ。他の誰かどう思ってるかとか関係なく、俺はお前に元気でいてほしい』
「……難しい注文」
ぽつりと呟く。
天城くんの願いは極力叶えてあげたい。
でも、無理をしないなんて私の選択肢にはない。そもそも、無理をしても届かないのだから、今まで以上に無理をすることはあっても、その逆はあり得ない。
あちらを立てればこちらが立たず。
とはいえ、こればかりはしかたがない。私と天城くん。互いに相手の身を案じている以上、話は平行線のまま。
私は送信するはずだったメッセージを全て消し、打ち直してから送信する。
『了解。必要な時以外、なるべく無理はしないようにするよ』
『天城くんも体調には気をつけてね。私も天城くんには元気でいてほしいから』
だからまあ、落とし所としてはこんなところだろう。
どの口が言うか、と言うツッコミが来たらスルーする方向で。
送信したメッセージにすぐに既読の文字が表示される。
ただ、返信が来たのはそれから三分ほど経過したところで。
『わかった』
とだけ返ってきた。
その一言にどれだけの感情が込められているか、推し量れるものではないけれど。
ひとまず私はスマートフォンを机の上に置いて、いつも通りに日記帳を開いた。
嘘はついてない、とそんな言い訳をしながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます