第270話 女商人は、結婚式を挙げる
重厚な扉がゆっくりと開かれた。アリアの隣には、父親のフランツ2世がいる。これから司祭を勤める教皇ミハエル・マルティネスの前に立つ、花婿レオナルドの下へエスコートをする役を担っているのだが……
「パパ?」
一向に歩み出そうとしない父親に違和感を覚えて、アリアが小さな声で語りかけると、
「いやだ……おまえを渡したくない……」
目を潤ませて、そう呟いたのだった。アリアは「はあ」とため息をついた。
「パパってホント、見苦しいわね。この期に及んで、一体何がしたいのよ」
「だってな……あいつ、おまえという婚約者がありながら、浮気をしていたチャラ男だぞ。そんな男と一緒になったら、おまえが不幸になるんじゃないかと……」
だから、もう一度考え直してくれと、フランツは言った。アリアは呆れてもう一度、ため息をつく。
「それって、前に解決した話でしょ?浮気者のパパに、レオのことをとやかく言う資格はないという結論で」
「うっ!……まあ、そうではあるが……」
「それに……わたし、レオに幸せにしてもらうつもりなんかないわよ。わたしがレオを幸せにするの。この子と一緒にね」
アリアは少し膨らみを帯びたお腹を優しく摩りながら、駄々をこねる父親に微笑んだ。
「だから、パパは何も心配しなくていいのよ。ほら……みんな待ってるから行きましょ。これ以上、ごちゃごちゃ未練がましいこと言ったら、わたしだけで行くわよ?」
流石に扉が開かれて、音楽も奏でられているというのに前に進もうとしない二人に場内の視線が向けられている。これ以上は延ばせないわよと、アリアに止めを刺され、フランツはがっくりと項垂れて前へと歩を進めた。
(それにしても……静かね……)
赤い絨毯を一歩一歩進みながら、アリアはマルスとアンジェラの結婚式を思い出して、そう思った。あのときも同じように、アンジェラが父親と一緒に司祭のイザベラの下にこうして向かっていたが、もっとにぎやかだったようなと。
(なんか、さみしいわね)
この国の重鎮や高位の貴族たちが集まっていて、その衣装はとても豪華で華やかではあったが、マルスたちの結婚式と比べて温かみがない。本当に自分たちを祝福しているのは、マグナレーナや母エレノア、ユーグさんといった家族に、ハラボーやクロヴィル隊長、それに北部同盟の特使として参列しているボンとイザベラくらいだろう。
「どうしたの?何かさえない顔をしているけど」
フランツからレオナルドにようやく引き渡されて、そんなアリアの顔を見たレオナルドが心配そうに訊ねてきた。もしかして、具合が悪いのかと。
「大丈夫よ。そんなんじゃないわ」
アリアはただ一言だけそう言って誤魔化した。目の前に教皇がいるというのに、この結婚式は気に食わないから、あとでオランジバークでやり直すことに決めたとは、口が裂けても絶対に言うわけには行かない。
讃美歌の合唱が始まり、ついに結婚式が始まった。
一方、時を同じくして、この聖ノブール大聖堂の地下では、別の儀式が執り行われようとしていた。即ち、新勇者選定の儀式である。
「それでは、ただいまより新勇者ランス・アッシュベリーに、勇者の祝福を授けます!」
この場を仕切る筆頭枢機卿ロサリオが居並ぶ神官たちを前に宣言すると、部屋の扉が開かれて赤子を抱えた女性が姿を現した。
「おお……あれが……」
「なんと、聡明そうな顔をしているのだ……」
一部の神官たちからは、そのような声が上がる。この歴史的な儀式に立ち会うことができたことを名誉に思いながら。
「しかし……筆頭枢機猊下自ら祝福を授けるらしいが……」
もちろん、今までとは違うやり方に疑問を呈する者もいる。通常なら、もっと下の神官が執り行うのではないかと言って。だが……
「何でも、前の勇者の子らしいぞ。それだけ、期待をかけているということだろう」
その都度、予め仕込んでいた手の者によって軌道修正が図られる。
(今のところは問題ないようですね)
ロサリオは、一同を見渡して胸を撫で下ろした。そして、カミラに向き合った。
「それでは、始めますが、よろしいですか?」
「はい」
事前に詳細は説明しており、最早それ以上の言葉は不要。ロサリオは、サッと手をかざしてランスの額に当てる。
「神よ……新たなる勇者の誕生を祝いたまえ……」
青白い光がランスを包んだ。そして、アリアの時と同じく一瞬の後にそれは消えた。
「おめでとうございます!これで、ランス殿が次の勇者となりました!」
そう高らかに宣言するロサリオ。神官たちは歓声を上げた。狂言であることに気づかずに。
「枢機卿様……」
「大丈夫です。あとは、今まで通りエデンでお過ごしください。その子が16歳になったら、改めてお迎えの使者を送りますので」
全世界には新しい勇者誕生を告げるが、幼子のうちは何も成すことができないことは誰もが知っていること。例えその名が知れ渡ろうが、期待を抱きつつ見守るだろう。今はそれでよいのだと、ロサリオは自分を言い聞かせて儀式を終えるのだった。
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