第230話 勇者は、逃走を図るも……

 ゾクリ……。


 そのとき、勇者アベルは背筋に寒気がしたことを感じた。


「どうかしましたか?アベル殿」


「いや、なんでもない」


 皇太子が不在となったこの大広間で、一連の作戦を主導するトルネオと呼ばれる男に声を掛けられて、アベルはそう返答した。但し、経験則から言えば、こんなときは必ず厄介ごとが待ち構えていることが多い。


(……となれば、やはり見限って逃げるべきか?)


 アベルの脳裏にそのことが過った。トルネオの見立てでは、大賢者が積極的に介入してくることはないということだが、本当にそうなのかと疑っている。そして、彼と戦うことになれば、とてもじゃないが敵うとは思えない。


 つまり、今の寒気は、ここにいれば戦う羽目になることを暗示しているのではないかと考える。


(それに、よくよく考えれば、娘を傷物にして許してくれるわけがないよな……)


 王宮に帰る道すがらでは、アリアが自分のことを忘れられず、その彼女に頼まれて大賢者はこの地に探しに来たのではないかと、お花畑な事を考えていたアベルであったが、冷静に考えればそれはおかしいということに気づいたのだ。それならば、あのとき戦う必要はなかったと。


(普通に考えれば、やっぱり怒っているよな……)


 ゆえに、復讐のためにこの場にやって来るのではないかと、アベルはようやく核心に近い答えに辿り着くことができた。……となれば、このような目立つ場所にいるべきではないと思い至り、行動に移る。


「少し、席を外すぞ」


「どちらへ?」


「……トイレだ」


 実際の所は、このままドロンしようと考えているが、そのことを顔に出すことなく、アベルはトルネオにそう言った。しかし、瞬時に出口の扉が塞がれた。


「おやおや、勇者ともあろうお方が逃走ですか?」


 どうして気がついたと内心で思いながら、アベルはトルネオに言い返した。「何を馬鹿なことを」と。しかし、扉は開けては貰えない。


「おい、漏れそうなんだが……」


「そこにオマルがあるでしょ。それ、貸してあげますので、そこの隅で……」


「……おまえ、ふざけているのか?」


 アベルは威嚇するように言った。返答次第では殺してでもこの部屋から出る、そういう決意を込めて。これには流石にトルネオの顔色が変わる。


「じょ、冗談ですよ。本気に取らないでくださいよ」


 トルネオは冷や汗を拭いながらそう返すと、部下に命じて扉を開けさせた。すると、アベルは何も言わずにそのまま出て行った。


「ふぅ……」


 その姿を見送った後、トルネオは大きく息を吐いた。そして、相手の心を読む魔道具のスイッチを人知れずオフにする。その直前、「オマルはないよな……」という部下の心の声も聞こえたが、当然無視した。


「よかったのですか?計画では……」


「わかっている。これで我々は対ハルシオンの手札を失ったということはな。……だが、あのまま計画通りにこの部屋に押し留めようとしても、それは叶ったと思うか?」


 ほぼ確実に、この部屋にいた者全てが殺されて、どのみち逃走されていただろうとトルネオは魔道具で読み取った勇者の思考を元に部下にそう語った。勇者はどうやら腐っても勇者なのだ。そのことを侮っていたことを素直に認めて。


「まあ、皇帝陛下の身柄と玉璽を押さえている以上、あの者がいなくなっても勝利は揺るぎません。西の塔はアジズ殿が固めているのでしょう?」


「はい。万が一にも大賢者が現れた場合に備えて、魔封じの罠も仕掛けているとか……」


「それは、頼もしいですね」


 まさか、すでに皇帝の身柄が奪回されているとは露とも思わず、トルネオは安心したような笑みを浮かべた。





 一方、大広間を出たアベルは、一先ず自分の部屋に戻った。このまま旅立つことも考えたが、先々のことを考えて金目のモノを持てるだけ持っていこうと。だが、これが自らの運命を決定づける結果となった。


「それで、あとどれくらい歩けばいいのよ」


「そこの角を曲がれば大広間があります。きっと、そこにいるかと……」


 アジズの誘導により、アリアたちは今まさに、アベルが先程までいた大広間に迫ろうとしていた。そして、アベルの部屋は大広間から左程離れてはいない。


 もし、このとき部屋に寄らずにそのまま王宮を立ち去っていれば、アベルは間一髪で復讐者の襲撃を躱すことができたかもしれない。


「おっ……これを忘れていたな……」


 しかし、身に迫りつつある危機に気づかず、呑気にも壁に掛けられていたお気に入りの絵画を丁寧に布で包んで、魔法カバンに仕舞うアベル。背中には再び寒気が走ったが、金に目がくらんだ彼は愚かにもそれを無視するのだった。

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