第112話 女商人は、困窮に付け込んで事業を乗っ取る

「それじゃあ、予想通り夫人が署名した委任状が見つかったのね?」


「ええ。……まあ、あの様子ですから、ほぼ間違いなく、彼女は何も知らずにサインをしただけでしょう。放っておいても、遠からず無罪放免になるかと……」


 ヴァンナが総督府に設置された捜査本部に連行された後、担当したダグラス・ロレンツィ少佐から報告を受けて、アリアは自らの計画を達成するための条件が整ったことを知った。


「じゃあ、手筈通り、彼女に会わせてもらえるかしら?」


「それはもう。どうぞこちらへ」


 ダグラスはそう言って、アリアを地下牢へ連れていく。そこに先程ヴァンナ夫人を収監したからだ。もちろん、不測の事態に備えて、レオナルドも同行しているが。


「この先です。わたしはここで控えておきますので、終わられたら、声をおかけください」


 アリアは頷いた。





(ぐすん……。死にたくない……。どうして、わたしがこんな目に……)


 冷たい石畳の部屋に備え付けられている粗末なベッドの上で蹲り、ヴァンナ・ブラス夫人はただ一人、少しずつ近づいてくる死の足音に恐怖しながら、涙で頬を濡らしていた。


「……夫人?ヴァンナ夫人ですよね?」


 ゆえに、牢の外から聞こえた声にもすぐ反応することができなかったが、それでも、何度も呼びかけられれば気づくというもの。視線を向けると、そこに若い女性と、護衛と思われる男性が牢の間口にいることに気づいた。


「どなた……かしら?」


 誰だったのだろうとヴァンナは記憶を手繰ろうとするが、思い出せない。すると、女性の方が気づいてくれたのか、アリア・ハンベルクと名乗ったうえで、初対面であることを告げてくれた。


「実は、わたしたちは、亡くなったブラス会頭に非常にお世話になった者でして……」


 その身なりからして、恐らく商人仲間だろうとヴァンナは思いながら、アリアの話に耳を傾ける。


「そのご恩に報いるためと言ってはなんですが、夫人がここから出られるように取り計らいたく……」


「ホント!?ここから出してもらえるの?死刑にならなくても済むの?」


「……ええ。わたくしどもにお任せいただければ。国家調査官のトップにいささかならぬご縁がございますので……」


 ヴァンナは狂喜した。おそらくは、何かしら交換条件はあるのだろうが、死なないのですむのなら、何でもいいとさえ思った。


「ただ……誠に申し上げにくいのですが、そのためには条件があります」


「条件?」


「さすがに、あそこまで証拠が残ってしまった以上、何らかの責任を示す必要があります。……どうでしょう。商会をすべてわたくしどもに委ねてはいただけないでしょうか?」


 そら来たとヴァンナは思った。どうせそういうことだと。


 しかし、一方で考える。仮にここを出れたとして、自分に商会を潰さずに運営することができるのだろうかと。数秒考えて、それは無理だな、という結論に至った。


「わかったわ。死ぬくらいなら、その条件飲むわ。だから、必ず助け出してよね」


「承知しました。あと……これは、事業譲渡にあたっての条件です。問題がなければ、こちらの契約書にサインを……」


 そう言って、アリアは、譲渡条件書と契約書と、サインするためのペンを手渡してきた。


「うそ……本当にいいの?」


 譲渡条件書に目を通したヴァンナが驚きのあまりに声を上げた。


 そこには、今日付けで事業を無償譲渡する代わりに、向こう20年間、引き継いだ事業における収益の1割をヴァンナに支払うことと、ヴァンナの娘サリナが成人したのちに望めば、商会の幹部に向かえる用意がある、と記されていた。


「もちろん、このまま潰れたり、赤字になった場合は支払えないけど。どうかしら?」


 アリアは心配そうに訊ねてきたが、ヴァンナの気持ちは固まっていた。ニーノに求められた時と同じように、素早くサインして契約書を返すのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る