猫の旅
がらりと戸が開いたと思えば、それは夢の中での出来事だった。僕は眠たい目をこすり、大きく伸びをした。昨日の疲れはまだ残っていたが、そんなことを考えていても仕方がないので、僕は立ち上がり、布団を畳んで押し入れにしまった。
洗面所で顔を洗う。鏡を見ると、ひどい顔をした男が映っている。青白い顔をした死人のような男だ。髭が伸び放題で、目の下にはクマができている。寝ぐせで髪は鉄腕アトムのようだ。大きくあくびをすると、銀歯が鏡の中で光った。
歯磨きを済ませて、洗面所を出る。窓を開けて、外の景色を眺める。遠くの方で海が見える。ちょっとしたオーシャンビューだ。早朝のため、人々はまだ眠っているようで、町は静寂に包まれている。僕は騒がしい場所が嫌いだ。世界が常に静寂で満ちていれば、心をかき乱さず、穏やかに暮らすことができるのに。
僕は大学生で、文学の研究をしている。昭和期に活躍したある文豪の研究をしていて、卒業論文の執筆で忙しい毎日を送っている。僕は息抜きも兼ねて、その文豪が泊ったことのある旅館に一人で訪れたのだ。日々に忙殺され、死人のようになっていた僕には、ちょうどいい休暇だといえるかもしれない。
僕はもう一度大きなあくびをした。外はいい天気だ。
古い旅館で、最近一部をリフォームしたらしいのだが、それでも古いという印象は拭えない。丁寧に掃除が行き届いているし、きちんと建物を綺麗に維持しているものの、時の流れに勝てるはずもなく、今にでも崩れてしまいそうな感じだ。遺跡に泊まっていると言っても過言ではない。
旅館の女将は、僕を自殺をしに来た人だと思っているらしく、何度も部屋にやってきた。お茶を淹れに来たり、部屋を掃除しにきたり、とにかくいろいろな用事を作っては僕の様子を見に来た。確かに僕は人生に疲弊していたし、決して楽観的な人間ではないけれど、自殺するような人間ではない。いや、この先のことはわからない。そういう心境になるかもしれない。ただ、現時点では自殺をする気はさらさらなかった。
煙草を吸う。煙を眺めながら、猫になりたいと思った。僕は時々猫になってみたいと思う。猫は気楽そうだし、のんびりできるし、見た目もかわいらしいから、僕は猫になりたい。でも、猫は猫できっと大変なことも多いだろう。結局どんな生物になろうとも、苦労は絶えないものだ。
もう一度あくびをする。眠くなってきたな。
そこで僕は何だか奇妙な感覚を覚えた。何だろう。何かがおかしい。僕は少し考えた。そしてわかった。視線が妙に低いのだ。窓の景色を見ているのだが、なぜかさっきより見ている景色が低くなっている。そして手足と目線の距離が近くなっている。
どういうことだ。
女将が僕のことを呼んでいる。また部屋に来たのだ。でもうまく返事ができない。どこかで猫の声がする。どこから聞こえてくるのだろう。そう遠くない場所だ。
女将は僕がとうとう自殺したのだと思ったらしく、部屋に勝手に入ってきた。女将は部屋の中を見渡し、押し入れを開けたり、洗面所を覗いたりした。そして、
「どこへいったのかしら」
と言った。
何を言っている?僕はここにいるのに。
「あら、何かしらこの猫。ここではペットを連れ込んじゃいけないって言ったのに。いや、でも首輪がないから野良猫かしら」
女将は僕を見て言う。
猫。
だんだん状況が飲み込めてきた。おそらく僕は本当に猫になったのだ。
女将は僕を持ち上げ、外へ連れ出した。やはり視線が低い。鏡があればいいのだが。
せっかくなので、僕は町を散歩してみることにした。
町はそれなりに賑わっていた。観光客らしき人も多かった。僕は適当にそこらをぶらついた。僕を撫でてくる人も多かった。そこで僕は気づいた。撫で方には良い撫で方と悪い撫で方があるのだ。
猫の視点で見ると、町の営みは何だか奇妙に見えた。滑稽に思えた。昔読んだ小説にこんな話があったな。
ひょいと塀に飛び乗り、歩いていると、一人の青年に声をかけられた。
「おい、どこに行っていたんだい」
青年は平屋の縁側に腰かけて茶を飲んでいた。僕を飼い猫と勘違いしているのだろうか。僕は塀を降りて、その青年のもとに駆け寄った。青年は僕を持ち上げ、膝の上に乗せた。
僕を膝の上に乗せ、何分か僕を撫でまわしていると、突然、青年は話を始めた。
ねえ、と彼は僕に呼びかけた。
「ねえ、僕は君のおかげで毎日がとても楽しいんだ。君を見ていると、素敵な気持ちになれる。明日も頑張ろうと思える。どうしてだろう。君は人を元気にする、特別な才能があるのかもしれない」
青年は急に饒舌になった。僕は外の景色ばかり見ていたが、ちゃんと青年の話に耳を傾けていた。
「いつか、僕ら離れ離れになってしまっても、僕は君のことを忘れないよ。毎朝、君のことを思って起きる。毎晩、君を頭に浮かべて眠る。約束だよ、どこへ行っても君は僕を忘れないでね」
彼の飼い猫は寿命が近いのだろうか。僕はどう答えるべきか迷った。よく見ると、彼は目を異常に細めながら外の景色を見ていた。近眼なのかもしれない。そうか、それで僕を飼い猫と勘違いしたのか。
僕は彼の膝から庭へ飛び降りた。そして塀に飛び乗った。彼をもう一度見る。僕に寂しそうな顔を向けていた。
旅館に帰ると、僕は人間の姿に戻っていた。旅館に置いてある鏡を見る。やはり人間に戻っていた。いつ戻ったのだろう。僕にはまったくわからなかった。記憶が少々混濁している。前後の記憶があいまいだ。青年と話したような記憶があるが、勘違いかもしれない。
部屋に戻る。枕元に置きっぱなしになっていた本を手に取る。昔、僕が自費で出版した本だ。タイトルは「世界」。何だかスケールの大きなタイトルだ。高校生の頃の僕は、自分なりに世界を表現してみたいと思ったのかもしれない。
猫には猫の世界があり、人には人の世界がある。それらは独立して存在しているように思える。でも、その一人一人の世界(あるいは一匹一匹の世界)は時に混じり合い、新しい世界を生むことがある。世界は散らばって存在しているのではなく、きっとすべての世界はつながっているのだろう。
何だか眠たくなってきた。僕は「世界」を枕元に置き、夢の世界へと入っていった。
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