こんな夜には

 自分の人生がひどくつまらないものだと思うことが多くなった。酒に頼ることが多くなった。気づけば布団を切り裂いていた。あらゆることが嘘っぱちだという気がした。自分を殴りつけたこともあった。全身かきむしった。悩んで、悩み続けて、どこにも行けないまま、この世は最低だと、文章にしてみたり、歌にしてみたり、絵に描いてみたりした。でもそんなことは何にもならなかった。不安は増す一方だったし、眠れぬ夜は積み上がるばかりだった。

 自分はいったい何をしているのだと、時々、俯瞰してみたりして、お前はつまらない人間だと、思って、ついには口に出した。自分は駄目な人間なのだと、呪詛のように言い続けた。そんなことをしたって何にもならないのに、誰も止めてくれないから、自分を貶す言葉を吐き続けた。好きだった映画も、歌も、小説も、関心がなくなってしまった。何もかもがどうでもいい。

 親父がマルチ商法に引っかかって、下らない借金を作った。毎日見知らぬ大人がアパートのドアをたたく。親父はついに逃げ出した。母は半狂乱になって、首を吊って死んだ。俺は散々殴られて、血だらけになって、ああ畜生と誰かをののしって、結局一人で逃げ出した。行く当てはない。友人もなく、親戚も付き合いがない。俺は何も持っていない。ポケットに文庫本が一つ。『人間失格』。俺にふさわしい言葉だ。

 どれだけ自虐しても、笑えない。笑顔ってどんな表情だっけ。俺って何だっけ。俺は今、どこを走っているのだ。わからない。とにかく何もわからない。苦しい―それだけが確かなことだと思った。

 現実、現実、現実。どうして現実はいつも苦しいのだ。空想だけが俺の友達で、家族で、理解者だった。今日もどこかで戦争があって、誰かが誰かを殺している。今日もどこかで諍いがあって、誰かが誰かを罵っている。

 苦しい。

 誰か、助けてくれ。

 どれだけ心の中で叫んでも、誰も助けに来てはくれない。誰かが俺の心の中を覗いてくれればいいのに。そうしたら俺を助けてくれるのに。


 公園のベンチ。夜は更けて、みんな眠った。俺は目を開けて、空を眺めている。ただの暗闇。俺はこれからどうすればいいのだろう。俺はこのまま一人で死んでいくのだろうか。俺はこのまま生きていてもきっと仕方がないし、死んでもどうにもならないし、そもそもどうでもいいし、結局俺はどうしたいのだろう。

 苦しさをできるだけ遠くへ押しやろうと、歌を歌おうとしたけど、何だか馬鹿らしくなって、やめた。

 こんな夜には、死神がいて、俺の耳元で、甘い声で囁いてくる。その声に、魅了されて、母は暗闇の向こうへと消えた。俺もそうしてしまおうか。

 いつか日は昇るというけれど、太陽は俺を救わない。


 再び目を開けた時、夜はやっぱり夜のままで、死神は俺の傍にいた。

 ポケットにとある薬が一つ。それが俺を生かすのか、あるいは・・・

 

 歌が聴こえた気がした。昔の歌だ。たぶんビリー・ジョエル。

 歌に耳を澄ませる。空想の世界に浸る。誰も俺を責めない、誰もが俺を讃え、誰もが俺を愛してくれる世界。その世界では、誰も俺を傷つけない。そうか、苦しさを遠ざけるためには、まず現実を遠ざけなければならないのか。

 空想に浸る。『人間失格』を読む。これは俺の物語だ。太宰は俺のためにこの小説を書いたのだ。

 ビリー・ジョエルは、俺のために歌っているのだ。

 俺は薬をそっとポケットにしまった。

 涙は、出なかった。


 こんな夜には、優しい歌が聴こえてきて、俺を今日も生かしてくれる。

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