生活
キッチン。薬缶で水を沸かす。コップに入れたインスタントコーヒー。お湯を注いでいく。コーヒーのいい香りが広がっていく。僕はコップを持って、それを鼻に近づける。安っぽいコーヒーの香りが、僕を落ち着かせる。
一口飲む。ふと、心からこの日々が続けばいいと思う。朝にコーヒーを飲んで、小鳥の囀りを聞くような、そんな日々が。
コップを片手に、書斎に入る。机に向かう。コップを机の脇に置く。パソコンを開いて、文字を打ち込んでいく。その文字列はやがて意味を持ち始める。何らかのメッセージを伝えようとする。
本棚から本を取る。海外のミステリーだ。探偵は華麗に事件を解決していた。初歩だよ、ワトソン君。
ペン立てからペンを取る。手に持って、くるくると回す。ペンを落としてしまう。拾い上げ、またペンを回す。その間、色々なことを考える。これまでのことや、これからのことを、そっと考える。例えば、幼い頃虫取りをした思い出。日々の忙しさに殺された思い出たちを蘇らせる。
また初めからやり直したいと思う。でもそれは面倒だとも思う。このままでいいやと思う。やっぱり今のままじゃ駄目だと思う。どうすればいいのだろうと悩む。悩んでも仕方がないと感じる。どうでもいいやと放り投げることもある。明日考えようと延期する。考えても仕方がないと考える。
コーヒーをもう一口飲む。いつからだろう、コーヒーをブラックで飲めるようになったのは。
天井を見上げる。天井を見上げたのはいつ以来だろうと思う。すべての事柄を鮮明に思い出すことができたら、寂しい気持ちもなくなるだろうか。忘れてしまうからこそ、人生は切ないものになるのだろうか。でも僕はこれまで起きたことすべてを覚えていたいとは思わない。本当はきっと、これまで起きたことは全部この小さな脳の中に記憶されているのだろうけど。
椅子をシーソーのように、前後に揺らす。そういえば、小学生の頃にこの座り方をしていて、先生に怒られたなあ。遠い昔の話のように感じる。あの日々は全部嘘だったんじゃないかとも思う。それくらい今の生活とかけ離れている。学んだことや思い出を全部を思い出すことはできないけど、それらは僕の中の大切な箱にしまってあるから、そう簡単に出し入れできないようになっているのだろう。
ペンを回す。ペン回しを教えてくれたあいつは、今頃でどこで何をしているのかな。
もう一度パソコンに向き合う。ニュースは様々なことを報じている。愉快なニュースは少ない。誰もが損をしたくないから、情報をいくつでも飲み込んで、誰かを蹴落とそうとしている。そんな風に見える。それは僕の心が荒んでいるからだろうか。
パソコンにまた文字を打ち込んでいく。個人的な悩みや、日々の恨みや、素敵な物語や、くだらない評論や、愉快なエピソードや、仕事仲間へのメールなど、色々な文章が綴られていく。
僕はパソコンをシャットダウンさせる。机の上に置いてある緑の小さなラジオをつける。星野源の知らない歌だった。僕は音楽に耳を澄まし、脳裏に情景を思い浮かべる。様々な色が行ったり来たりして、心の奥にたまった埃を払っていく。ギターと共に心はかき鳴らされ、小さな自分だけの世界を変えていく。
ゆっくり呼吸をしてみる。僕の友達は病気で大学を休学している。失恋で酒に溺れた奴もいる。バイク事故を起こした奴もいる。そいつは今でも松葉杖が手放せない。
結婚した奴もいる。子供の写真をやたらと僕に見せてくる。最近ペットを飼いだして、日々が楽しいという人もいる。新しい仕事に挑戦している奴もいる。留学している奴もいる。
ダイエット本を買いあさっている奴や、人知れず小説を書いている奴や、ネットに悪口を書いている奴、映画を観て泣いている奴。
世の中には、実に色んな人がいる。
色んな嫌なことがあって、色んな素晴らしい出来事がある。それらすべてを生活と呼ぶ。
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