魔法の消えた日

 僕は魔法が使えた。大した魔法ではない。強く念ずると、指定した場所に花を咲かせることができるというものだ。つまらない魔法で、クラスメイトに教えても、見向きもされなかった。花なんか咲かせたところで、何にもならないよと言われた。それに、僕が咲かせた花は一時間ほどで萎れてしまうのだ。そのことを言うと、本当に意味のない魔法だと言われた。

 だから僕は、この魔法が使えることを、誰にも明かさないと決めた。

 

 僕は世界で一人ぼっちなのだということを、本当に知ったのは、高校生になってからだった。ある日、僕は誰にも明かさないという自分の決まりを破って、親友に魔法が使えると言う秘密を告げた。彼は僕のすべてを受け入れてくれていると思っていた。でもそうではなかった。彼は僕のことを気味悪がった。翌日、クラス中に僕の秘密は広まった。僕はひどく傷ついた。僕はそのまま学校を早退し、家に帰って、自分の部屋に籠った。カーテンを閉め、暗がりの中で泣いた。僕は世界を呪った。今思えば、その感覚は誇張されすぎていて、いささか滑稽な感じもするのだけれど。

 僕は机の上に花を咲かせた。名の知らぬ花だ。赤い花で、微かに光を放っていた。暗がりの中で揺れる光り輝く花。その光景は何だか神聖な感じがして、僕は圧倒された。僕は初めて自分のために魔法を使った。僕は決意した。これからは自分のためだけに魔法を使おう。


 半年ほど学校を休んで、僕は転校した。見知らぬ遠い土地へ引っ越した。僕をまったく知らない場所へ行きたかった。

 特に何の支障もなく高校を卒業することができた。


 大学に入り、僕は心理学を専攻した。自分の傷ついた経験から、僕はカウンセラーを目指そうと思ったのだ。心理学の講義は楽しかった。自分の精神や心理を俯瞰してみることができた。心は山のようであり、海のようでもあった。狭苦しい洞窟のようでも、果てしのない宇宙のようでもあった。奥が深い。僕はその深みに、少しの恐怖心と大きく膨らんだ好奇心を持って進んでいった。

 大学2年生の時に、彼女ができた。同じ映画サークルに所属している、文学部の人だった。僕らは好きな映画が一緒で、すぐに意気投合できた。

 付き合って3か月が経った頃、僕は彼女に秘密を打ち明けるかどうか悩んだ。

 また否定されるのではないか。また傷つくのではないか。僕は怖かった。何日も何日も悩んだ。彼女に嫌われたくない。でも僕のすべてを知ってほしい。その2つの感情の間を振り子のように揺れ動いた。

 決心のつかないまま、僕は彼女と休日にデートをすることになった。


 日曜日。僕らは映画を観て、映画館の近くのカフェに入って軽く食事をした。食後のコーヒーを飲みながら、雑談をした。窓の外では人がひっきりなしに行きかっていた。

 テーブルを挟んで向かい側にいる彼女。その瞳を見つめる。彼女の瞳はどこまでも澄んでいて、宝石のようだった。映り込む景色によってさまざまな色を照らし出した。僕は彼女の瞳を見るのが好きだった。それでよく彼女に怒られたものだ。あまりにも黙ったまま彼女の瞳を覗き込んでいたから。

「どうしたの?」

 彼女が僕に問いかける。彼女は両手でアイスカフェラテのグラスを包み込んでいた。グラスは結露によって水滴がついていて、その水滴がグラスの側面をつたって落ちた。

「何でもないよ」

 僕はまだ迷っていた。今日にでも言ってしまおうと思っていたのに、なかなかその話をすることができなかった。勇気が出なかった。

 彼女が今日観た映画の話をし始めた。

「映画、面白かったね」

「うん」

「ラストはちょっと微妙だったけど」

「そうだね。結局主人公は告白できなかったものね。ある意味バッドエンドだったから」

「そうじゃない」

「そうじゃない?」

 彼女はアイスカフェラテを一口飲んだ。愛おしそうに、しっかりと味わうように飲んだ。その姿を眺め、僕はカフェラテに少し嫉妬した。

「私は、監督が自分の作風を曲げてあのラストにしたのが微妙だと思ったの」

「そう言われれば、そんな感じはするけど」

「そうでしょ? いつもの監督だったらあそこは強引でもハッピーエンドにしたはず。それなのにバッドエンドにしたのは、プロデューサーか誰かに言われたんだと思う。切ないラストにしましょうって」

「作家性を封印して世間に合わせたっていうの?」

「感動的になるように」

「それはちょっと恣意的な見方なんじゃないかな」

「そうかな」

 彼女は窓の外を見た。僕はアイスコーヒーのグラスを手に持って、置いた。手に水滴がついた。僕はそれをハンカチで拭った。テーブルはかなり濡れていた。

「君は監督の思うままに映画を撮らせて欲しかったと思うってこと?」

 彼女は頷いた。

「でも、どうなんだろう。時には自分を押し殺してでも世間に合わせなければならないことってあるんじゃないかな。映画だけに限らず、僕らはどこか自分のわがままな部分をどうにか折り合いをつけて生きていくしかない。映画は売れなければスタッフに飯を食べさせることができないのだから、ある種の一般受けを狙うことは悪いことではないだろう? 作品は誰かに見てもらうことで成立するものなのだから」

 沈黙が流れた。僕の言葉は深く沈み込み、そのまま地球を貫いて落ちた。

「それはわかっている」

 長い沈黙のあと彼女は言った。

「でも好きな監督には自由に映画を撮ってほしいと思うの」

 その言葉は僕に向けられているように感じた。僕は自分のことを考えた。そして秘密のことを思った。彼女に打ち明けよう。そう決心した。

「実は」

 外では雨が降り始めていた。彼女は窓の外を見て、次に僕に向き直った。

 僕は次の言葉を言うことが出来なかった。でも彼女は黙ったまま、僕が言葉を発するのを待っていてくれた。

 僕はアイスコーヒーを一口飲んだ。冷たかった。飲んでも口の渇きは潤うことがなかった。掌に冷たさが残っていた。強くグラスを握りしめたから。

 僕は自分が今している呼吸に意識を向けた。そして言った。

「君に隠していたことがあるんだ」

 彼女はちょっと目を瞠って、微笑した。


 デパートの屋上。夜風に吹かれ、僕らは夜景を眺めていた。煌めく街は、宝石箱のようだった。雨は上がって、空には星がちらほら見えた。月は薄い雲に隠されていたけど、その存在を示すように微かな光を届けていた。

 屋上には誰もいなかった。いるのは僕らだけだ。

「トム・ハンクスの映画みたいね」

 彼女が言った。

 涼しい風が通り抜けた。彼女の黒い艶やかな髪は、風に揺れていた。僕は思わず息を呑んだ。

「話って何?」

 彼女は僕がなかなか話を切り出せずにいたので、僕に問いかけてくれた。その思いやりが、僕にはありがたかった。

「僕、魔法が使えるんだ」

 思っていたよりも簡単に言葉は出てきた。彼女が軽やかに問いかけてくれたからかもしれない。

「魔法?」

「うん。魔法。花を咲かせることができるんだ」

「素敵な魔法ね」

 彼女は笑った。

「馬鹿みたいだろう?」

「そんなことない。君らしい魔法だと思う」

「僕らしい魔法?」

「うん。ささやかだけれど、素敵で、人を喜ばせるのが好きで、いつも誰かの助けになろうとしている。そんな魔法」

「そうかな」

「そうよ」

 僕は彼女に魔法を見せたいと思った。さっきまでの不安は消えて、彼女を喜ばせたいという思いが強くなった。

「見て」

 僕はそう言って、自分の掌に花を咲かせた。赤い、淡い光を持った花だ。

「綺麗ね」

 彼女は微笑んで言った。花弁に手で触れ、優しく撫でた。彼女が触れると、光は強まった。

「言ってよかった」

 僕は心の底からそう思った。月は雲から顔を出した。

 月明かりが、スポットライトのように僕ら二人を照らした。


 その日から、僕は魔法を使うことができなくなった。どう工夫しても、魔法が出せなくなったのだ。

「そのうちまた使えるようになるんじゃない?」

 彼女は言う。

 でも僕はこう思っていた。

 もう魔法は必要ないんだ、と。

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