深海魚と青春と虹

 いつも心の中に虹がある人が羨ましい。僕はいつも水圧に押しつぶされるように生きている。醜い深海魚だ。暗闇に目を凝らして、いつも虹を探している。明日はどこだろう。僕の向かうべき先はどこだろう。

 紙を破いてみた。少し胸がすく思いがした。でもそれは一瞬だった。何をしているんだか。

 空を見た。空はいつものように、どこまでも青くて、美しい。まるで青春のような空だ。あるいは青春が空のようだというべきか。掴みどころがなく、どこまでも果てしない。そして青臭い。

 青春。

 僕はこの青春というものとは全く無縁の人生を送ってきた。小学生の頃から人付き合いが苦手で、部屋に引きこもってばかりいた。僕の青春は灰色だ。部屋の中で完結した人生。何とも空虚だ。

 深海魚は救いを求めていた。でも深海までわざわざ潜ってくれる人はいない。

 僕は一応高校を卒業できた。

 大学は落ちたので、今は浪人生という扱いだ。両親も僕を半ば見放していて、賢い弟の方に愛情を注いでいるようだ。僕はいつも通りパソコンでネットサーフィンを続けている。わかっている、こんなことを続けてもどうにもならないということは。でも、もう自分の力では海面まで浮上することができないんだ。僕は水面から虹を眺めたい。しかし、それはきっと叶わないだろう。


 7月。蝉の声が聞こえだした。僕は空を見ることはなく、日光はカーテンで遮られているため、部屋は薄暗い。今日も下らないネットの海を泳ぐ。深海にいる僕らは、こうすることでしか息ができないのだ。

 ふと、あるネット掲示板の投稿が目に入った。

「あなたのことを殺します」

 ただ一文。何のことかわからなかった。悪質な殺害予告とも取れた。でもその丁寧な口ぶりから、裏の意味がありそうだという感じもした。その投稿にネットの住人たちは罵倒か、嘲笑するかしていたが、僕には不思議とこの投稿はそう馬鹿にできないのではないかという気がした。特に根拠があってそう思ったわけではない。ただの直観である。

 よく見ると、その投稿主はURLを貼った投稿も行っていた。何のサイトのリンクだろうか。なぜかその時の僕は、警戒心もなく、そのリンクをクリックした。

 クリックした次の瞬間、画面が暗くなり、2秒後に正常に回復した。

 どういうことだ? 僕の心も暗くなった。

 僕は焦った。何か犯罪に巻き込まれたのではないか。生来の臆病が全身に溢れ、洪水のように僕の理性を流した。僕は正常な判断ができなくなった。ただ部屋を歩き回り、どうしようと何度もつぶやいた。そうだんできる相手もいない。僕はいっそここで人生を終わらしてしまおうかとも思った。飛び降りてしまおうか。僕はカーテンを引きちぎるように乱雑に引いて、窓を開けた。

 窓の外に、人がいた。

 僕は驚きで声も出なかった。ここは二階だし、この部屋にベランダはない。つまり、彼は宙に浮いているのだ。

「やあ」

 爽やかすぎるほどの声で彼は僕に手を差し伸べた。

 彼は頭に白いターバンを巻き、スーツ姿で宙に浮いていた。妙な恰好だった。

 彼は僕が握手をしないので、手を引っ込めた。その代わり窓から僕の部屋に入ってきた。

「誰なんですか」

 やっと言葉が出た。

「殺し屋だよ」

 彼はにやりと笑った。


「殺し屋?」

「ああ。殺し屋だ。しかし、一般的な殺し屋と一緒にしてもらっては困る」

 一般的な殺し屋をあまりよく知らないのだが、僕はそうなんですか、と言った。

「俺は心の殺し屋だ。顧客を一度殺し、生まれ変わらせるのだ」

「生まれ変わる?」

「ああ。望むなら、俺は君を生まれ変わらせる」

 確かに、僕は変わりたいと願っていた。こんな自分を変えたいと思っていた。

「僕も、みんなと同じように水面まで上がれるでしょうか」

「もちろん。君は哺乳類だから、そろそろ息継ぎが必要な時期だろう」

 僕は呼吸を整える。恐怖心がないわけではない。鼓動が早まっている。手汗がひどい。僕は深呼吸を二度して、言った。

「お願いします」


 彼は夢を重視しているようだった。夢は精神とつながりが強いと言い、内面の世界を変えるためには、夢で旅をする必要があると言った。

「君は今から眠る。自分のペースで眠りにつくんだ。これは催眠術とは異なる。どちらかと言えば呪術的なものとも言えるが、それも正確ではない。物語的な療法と言った方が真実に近いのだと思う」

 何を言っているのかはわからなかったが、彼が僕に何かを伝えようとしていることはわかった。

「まずは眠ることだ。そして、夢の中で君は旅に出るんだ。その精神的な旅を通し、君は虹を見ることができるだろう」

 彼の声が遠のいていく。思ったよりも早く、眠ることができそうだ。


 気が付くと、僕は研究室にいた。どこの研究室だろう。僕にはわからなかった。ただ、研究室だということだけは理解できた。

 研究室のドアが開く。誰が入ってくるのだろうか。僕は緊張しながら、そのドアを眺める。

 青年が入ってきた。短髪の爽やかな青年で、人当たりがよさそうだった。

「おお。レポートをやっていたのかい?」

 彼は僕に話しかけた。よく見ると、目の前にパソコンがあった。

「ええ」

 僕はそう答えた。

「そうか。明日提出なんだろう?」

「はい。でも大体終わりましたよ」

 僕の意思とは裏腹に、言葉は出てくるようだった。ゲームをプレイしているような感覚だ。あらかじめ、僕が発する言葉は決められている。

「面白い話があるのだが、どうだい?」

 僕は彼を眺めた。悪そうな顔をしていた。僕は頷いた。行動も定められているのだろう。

 彼の話はこうだった。

 彼は新しい事業を始めていて、それは精巧なVR技術によって、殺人を疑似体験できるというものだった。出資者は結構いて、これから伸びる産業になるので、僕に一口乗らないか、という話だった。これから体験してみないかとも誘われた。

「それは倫理的に問題にならないのですか」

 僕は訊いた。

「もちろんなるさ。だから裏でこそこそやっているんだよ。商店街の奥の奥に店はある。一見さんお断りで、絶対に警察にばれないよう工夫してある」

「犯罪になるのですか」

「どうだろう。そこはまだ調べていないから何とも言えないんだけど、その他にもいろんな事業をしていて、それが犯罪に相当するから、店は隠れて開いている」

 人を殺したい。その欲望を誰もが一度は抱いたことがあるのだろう。悲しいことだけれど、僕も誰かを殺したいと思ったことはある。でも実際に誰かを殺したことはない。僕自身が殺されたくないし、殺しが常態化した世界を見たくないと心から思っているからだ。

「どうだい?」

 彼の問いかけは蠱惑的に響く。でも僕の決意は固かった。

「お断りします」

 その答えだけは、僕の意思で発することができた。


 眠りから覚めると、もう夕方だった。窓の外では夕焼けが綺麗だった。

「どうだった?」

 ターバンを巻いた彼が僕に問いかける。

「どう、と言われても。ただ、勇気を持って何かを決意することはできました。大切な何かを」

「自分にとって大切な何か」

「はい。それを再確認することができたと思います」

 天井を見ると、窓から差し込む夕日でオレンジ色に染まっていた。水面のように、ゆらゆらと揺れていた。不思議な光景だった。

「これから歩めばいいんだよ。これまでのことを後悔しながら生きていても、暗くなるだけだ。その生き方は悪いことばかりではないけれど、極端に過ぎると、精神のバランスを崩してしまう可能性がある。君の青春はこれからはじまるんだ。自分にとって大切なものを一つでも見つけたのなら、雨はあがって虹が出てくるはずさ。心の埃は払われ、くっきりとした視界がやがて開ける」

 彼はそう言うと、窓の外から出ていった。僕は窓に駆け寄ったが、彼の姿はもう見えなかった。

 心は少しだけ軽くなっていた。



 


 

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