逆行(あるいは海と壁)

「海と壁」


 憂鬱とは夢のようなものである。

 ぼんやりと頭が霞がかって視界が不透明になり、あらゆる思考能力が奪われ、気づけば独り。暗澹たる思いは夜の闇よりも深く、そして恐ろしい。かつての人間が火や電気を使い闇を払ったように、私もこの心の闇を拭い去ることができたなら、と思う。

 しかし、そんな楽観的な思いこそが本当は夢と呼ぶべきものなのかもしれない。

 ぐったりとした体と心でそこまで考えたところで、テレビが停電によって突然消えるように、私の脳は思考を停止した。ぷツーン。あとは砂嵐が流れるばかり。

 文句なしの青空のはずが、心次第でこんなにもうざったらしいものになるとは。人の心というのは本当に不思議なものだ。

 そう、私は今草原で仰向けになり、青すぎるほどの空を眺めている。太陽の位置からすると、今は4時くらいか。ちょうど晩夏に入ったような時分で、やや涼しい風が全身を撫でる。

 私が居るのは小高い丘である。周りを木々が覆い、ちょうど私の居る辺りだけ木が生えていない。私の足先の2メートル先は崖になっており、私の住む街が一望、とまではいかないにせよ、かなり見渡せる。私の家はここからすぐそこであるので、当然ここから眺めることができる。まあ、見たって仕様がないが。

 私はよく憂鬱になるとここへ来る。小中高、そして大学生になった今でも、何か嫌な出来事があったり、辛いことがあったりすると、この丘へ来て、寝そべり、気分転換をする。それは結局一時の現実逃れでしかないが、それでも私の心の安定を保つためには欠かせない大切なことだ。

 今日、この丘へ来ているのは、つまり、そういうことだ。

 嫌なことがあったのである。

 いや、嫌というのも少し違うかもしれない。

 けど、とにかくそれは起こってしまったのだ。

 そしてもう後戻りはできず、全ては終わってしまった。

 君に、今日の出来事を語ろうと思う。

 聞いてくれたら嬉しい。


 それは昨日の午後から起こった出来事だ。いや、本当はすでに1年前から起こっていたことなのだが、私がその異変に気づいていなかっただけなのだ。


 ここまで書いて僕は筆を置いた。僕は急にこの物語を完成させる自信を失ってしまったのだ。僕は両親に隠れてこの小説を書いている。いや、両親だけではない。国に見つからないようにしながらこの小説を書いているのだ。

 どうして国に見つからないように、小説を書く必要があるのか。

 それは、国の政策のためである。国は、小説が人々に与える悪影響を考慮して、国が選んだいくつかの小説を別として、一切の小説を破棄し、新たに小説を執筆することを禁じたのだ。国は小説によって国民が弱体化してしまったのだと主張した。もちろん文学者たちはこの主張に抗い、小説の愛好者たちはデモを行った。でも結局、巨大な力の前に、彼らは屈せざるを得なかった。

 それはなぜか?

 一つには、強力な監視体制の構築がある。技術の発展と密告の制度によって、国は強力な監視体制を築き上げた。ジョージ・オーウェルが描いた世界が現実となったのだ。民主主義国家の成立に向け動いていた人々は処刑され、あっという間に独裁国家が成立してしまった。皆、油断していたと言うこともある。先の三度に渡る大戦で痛い目を見たのだ、今さら独裁国家にはならないだろう。そうたかを括っていた部分もあった。その他にも様々な要因があるが、とにかくこの国は一変したのだ。

 僕は子どもの頃から小説が好きだった。戦時中でも隠れて読んだ。小説の持つ力を信じていた。このままでは小説の持つ力が失われてしまう。そういった思いから、僕は筆を執って、この原稿用紙に物語を綴ろうと思ったのだ。

 昨日、詩を書いていた弟が政府に捕まった。僕にも疑いの目が向けられていると思う。両親も僕の部屋に用事もないのに訪ねてくる。僕に残された時間は少ない。きっとこの小説を最後まで書くことはできないだろう。この世界はまさにディストピアだ。最後はハッピーエンドになるはずだと信じていた。しかし、それは物語の中でだけということなのかもしれない。

 それでも、僕は物語の持つ力を、小説の持つ力を信じる。

 この「海と壁」という小説は、僕が体験したことをもとに作った物語だ。最後は悪の組織を倒し、僕たちの世界を守るのだ。僕の切実な思いをすべて込めるつもりだ。弟を救い出し、世界を元の姿に戻す、兄の物語だ。

 部屋のドアが開いた。きっと政府の者だろう。ああ、この小説を最後まで書くことはやはりできないのか。

 僕は涙を流して、両手を後ろに回した。当然のように、そこに手錠が嵌められた。

 憂鬱とは夢のようなものである。

 僕は、この憂鬱は夢であってくれと願った。

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