死神・小説・コーヒー
人生をうまく生き抜くためには、良い人を辞めた方がいいのかもしれない。そう思うことがある。悪人の方が、人生をより良く生きられるのではないか、そう思うのだ。人の感情を斟酌せず、自分というものに拘泥せず、誰の迷惑も考えずに好き勝手やればいいんじゃないか。僕はそんなことを思った。
夜の公園。苛々して、思わず手に持っていたカップのアイスコーヒーを花壇に投げつける。花々は冷えたコーヒーを受けて濡れる。黒い涙が滴り落ちる。カップは花壇の隅へ転がっていく。
「おい。何をしているんだ」
振り返ると、中年の男性が立っていた。仕事帰りなのだろう、スーツ姿である。
「すみません」
僕は謝った。
「わかっているのか?この花壇を綺麗に整えて、花に水をやっている人がいるんだ。君は彼らの頑張りを否定するような、踏みにじるようなことをしたんだ。君は自分がしたことをわかっているのか?」
「わかっています。すみません。つい、やってしまいました」
「まったく。最近の若者は」
常套句を吐いて、その男性は立ち去った。僕は頭を下げ、彼が公園を出るまで頭を上げなかった。
夜空を見上げた。星は街の明かりに消されていた。月だけが、僕を見つめていた。
死神が僕の元を訪ねたのは、その夜だった。
「さて、君はあと何年生きたい?」
彼は僕に言った。僕は心底どうでもいいという風に、
「何年でも」
と言った。本当に何年でもいいと思ったのだ。2秒後に死んでもいいし、300年後に死んでもいい。
「なら、君はまだ死ねないな」
「どういうことですか」
僕らは古いアパートのリビングで会話をしていた。ラジオでは英語講座をやっている。間抜けな光景だった。
「君が心から生きたいと願ったとき、私は君の命を奪いに来る。その時を楽しみにしていてくれ」
死神は消えた。彼こそ大悪党だと思った。どんな独裁者よりも性質が悪い。
夜だけが僕の親友だ。夜はすべてを包み込んでくれる。彼こそ善人だ。彼こそ聖人だ。夜はどこまでも寛容で、僕をとことん甘やかしてくれる。
しかしあの忌々しい死神が現れるのも、夜だった。
「どうだ。あれから二週間経ったわけだが、心境に変化はあったか」
「ないですよ。そもそも時間感覚が失われているんです。昨日医者に行ってきました。僕の中にある時計はぶっ壊れちまっているらしい。今日が何日だとか、そんなこともわからないし、たとえば昨日は何時間公園にいたのかとか、そういったこともわからない。時間に関するすべての感覚が損なわれている。そういう欠陥らしいです」
「そうか。じゃあ、あと何年生きたいと問われても、返答のしようがないというわけか」
「そうです。だからもうどうでもいいんです」
「それでも私はお前を生かそう」
「どうしてですか」
「私は性格が悪いからだ」
死神は消えた。何分喋っていたのか、わからなかった。あるいは何時間、何週間、もしかすると何年も話していた可能性がある。年単位で会話をするというのは非現実的に思えるが、時間の感覚が失われた僕にとっては、あり得ることだった。
空はもう白んできていた。
僕はいくつなのだろう。死神が僕の元に訪れてから、何年経ったのだろう。鏡を見ても、外見上の変化は見受けられなかった。隈が濃くなっているように感じるだけだった。
僕は小説を書き始めた。長い小説だ。内容は整合性がなく、荒唐無稽で、節操がなかった。文体も定まっていないし、登場人物の名前も覚えられないし、とにかくひどい小説だった。退屈極まりない。書いている作者でもそう感じるのだから、読者はなおさらだろう。こんな小説を読む暇があるのなら、過去の名作を読んだ方がいい。短編にも名作はたくさんある。星先生や芥川先生の作品を読むべきだ。僕はそう思う。
それでも僕は書き続けた。誰が褒めるわけでもないし、誰が貶すわけでもない小説を。誰にも読まれることのない、自分のためだけの小説を。
僕がその小説を書き終わったとき、これまで体験したことのないような充実感が僕を包んだ。天に昇るような気持ちだった。たしかに退屈な小説だ。下らない小説だ。歴史に残ることは決してない。文学史に何の影響ももたらさない。読者を獲得できるはずがない。何の賞も獲れやしない。箸にも棒にも掛からない。
でも、僕にとっては唯一無二の小説だ。
美しい小説だ。素敵な小説だ。素晴らしい小説だ。
気づけば、辺りはしんと静まり返っていた。ベランダに出ると、世界は滅んでいた。
「時間だ」
死神が僕の背後から話しかける。もっと小説を書きたい。傑作を書きたい。でも、その願いは叶わない。
だからこそ人生は、美しいのかもしれない。
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