32


「で、しなくていいって言ったのに、僕も認知された ―― まぁ、それはどうでもいい。で、落ち着いてよく聞いて欲しい」

 懐空かいあ愛実あいみに改めて向き直る。


「親子揃って一度は逃げられた女と結婚して、しかもその女との間に子どもがいた、なんて、世間が喜びそうな話だ ―― だから迷惑とかって話じゃない、泣くな、よく聞け」

 泣くなと言われ、唇をかみしめる愛実に懐空がクスリと笑う。


「そういうヤツらは僕たちがどんな思いでそうなったかなんてお構いなしに面白おかしく話を盛ってしまう。でもさ、ヤツらは飽きるのも早い ―― あみ、少しだけ辛抱してくれるかい?」

「でも、それで懐空は? 懐空の仕事は?」


「うん……はっきり言って判らない。でもね、そんなことで潰されるのなら、しょせん僕はその程度ってことだ」

「でも……ダメ、やっぱりダメ」

「何が? 何がダメなんだろう?」


 愛実の頬を濡らす涙を拭いながら懐空が愛実を覗き込む。


「僕が大学を卒業し、専業で行くか兼業にするか迷っていた時、愛実は僕に挑戦しろ、と言わなかった?」

「うん、言った。夢に向かって進んで欲しいと思った」


そう答える愛実に懐空が頷く。

「あみ、その時と同じ。僕はまた挑戦しようと思う―― 僕はあみとナツミを取り戻し、これから先も小説家としてやっていく。結果はやってみなくちゃ判らない。でも、これは、この挑戦は、あの時以上に僕にとっては有意義だ」


「――ごめんなさい」

 うつむいた愛実が急に謝罪し、懐空がぎょっとする。


「なに? 何を謝ってるんだ?」

「やっぱり、あの時、傍を離れていなければ、こんなことにはならなかった、って思ったの」


「もういいよ、過ぎたことだ。肝心なのはこれから、だろ?」

「懐空が卒業式に出かけてる間にいなくならなきゃよかったの」


もう気にするな、そう思ったが別のことを口にする。このほうが愛実は納得すると思った。


「そうだね、もう二度とあんなことをするな ―― 一緒に生きていくって約束したんだから、困ったり悩んだりしたらお互い相談しよう。独断禁止だ」

「うん……」


 愛実が自分の頬を拭う。薬指にめられたリングが光る。

「あみ……」


 愛実の手にそっと懐空が触れて、引き寄せる。

「このリング、しててくれたんだね」

「当り前じゃない」

「でも、指が違う」

「あ……」


愛実が止める暇もなく桜の花弁はなびらかたどったリングが引き抜かれ、中指に嵌め直される。Aimi is my all. と刻まれたリングだ。


「あ……」

再び愛実が声をあげる。別のリングを懐空が薬指に嵌めた。プラチナにダイヤモンドが輝いている。


「初めてリングをあみにあげた時、約束したよね。この指に相応しいリングをプレゼントするって。気に入って貰えるといいのだけれど」

「懐空……」


「明日、婚姻届けを出すのに今日じゃ遅すぎだけど、ま、いいよね?」

頷くのが精いっぱいで何も言えない愛実だった。


 懐海なつみが昼寝から起きるまでの間に、懐空は愛実の本籍地を聞き出し、明日の土曜は開庁していることを確認した。婚姻届けを出すのは懐空の住所 ―― 本籍地にして、保証人は由紀恵ゆきえ杉山すぎやまに頼むことにした。


「ジョイの世話があるから家に来てもらった。なにも二人揃って来なくてもいいのにね」

 由紀恵と杉山のことだ。


「真由美がね、杉山先生はとっても懐空のお母さんのことが好きだ、って言ってた。真由美 相手に惚気のろけたらしいわ」

それを聞いて懐空が苦笑いする。


「僕を目の前にしても平気で惚気たり痴話喧嘩したりしてるよ ―― でもなぁ……父さん、とは呼べなくてね」

「なんて呼んでるの?」


「杉山さんとか先生とか」

「お母さん、怒らない?」


「嫌そうな顔はしてるね ―― でも、自分の蒔いた種だから言えないんじゃない?」

「懐空、今の顔、すっごく意地悪そう」

そうか、と懐空がニヤニヤ笑う。


「僕は幸せだな……ナツミはすぐに懐いてくれそうだ」

「あのね……」


 愛実が申し訳なさそうに言う。

「わたし、寝言を言うみたいなの」

「うん、よくムニャムニャ言ってる」


「でね、懐空ってよく言ってたって」

「うん……」


「それでナツミ、パパの名前は懐空って判っちゃったみたいなの」

「そっか ―― あみさん、浮気なんかしたらすぐにバレそうだね」

「しないもん!」

真っ赤になって怒る愛実に、そうだね、そうだよね、と懐空が愉快そうに笑う。


 その笑い声で目が覚めたのか、ふすまが開いてナツミが部屋を覗き込んでくる。そして

「パパ!」

と懐空に駆け寄って抱きつく。

「よかった、まだいた」

と、笑顔を見せる。


「どこにも行かないよ……ナツミ、明日、パパの家に行こう。で、そこでずっと一緒に暮らそう」

「パパの家?」


「うん、海の近くにあるんだ」

「ママも一緒?」

「もちろん、ママも一緒」

 振り向いてナツミが愛実を見る。そして愛実が頷くと嬉しそうに笑った ――




 どこから漏れるのか、一か月後には杉山涼成と大野おおの懐空が親子関係にあり、大野懐空に婚外子がことが取り沙汰されるようになった。杉山も懐空も一切そのことについてコメントすることはなかった。


 話題になったからだろうか、想像に反して懐空の売れ行きが伸び悩むということはなかった。が、それまでと比べると、減速したと懐空は感じている。


 だが、杉山の新作『きみの嘘。ぼくの罪。すべてが「おもいでだ」としても』が出版されると事態は一変した。その内容が、杉山・大野に起きた実話なのではないかと憶測されたからだ。あの話の真相はこれか、と興味半分の野次馬の購入者も多かったことだろう。爆発的なヒットとなり、それに伴い懐空の作品も注目され、以前の勢いを取り戻している。


 この時も杉山と懐空はノーコメントを貫き通している。懐空に至っては、ほかの先生の作品のことなど判るはずがない、とボヤくこともあった。


 杉山は、近しい者たちは承知しているノンフィクションとフィクションの狭間はざまを、わざわざ明かすことはないと考えた。私小説だと発表すると息巻いていたのを取り下げたことになるが、それを知るのは当事者たちだけ、問題なしと判断した。


 桜の咲くころには懐空と愛実は身内だけを集め結婚を披露している。どうしても愛実の花嫁姿を見たいと懐空が希望したからだ。


 由紀恵に杉山、そして杉山の兄夫婦、そこに真由美を呼び、鹿児島からただ夫妻に来てもらった。自宅近くの割烹旅館での食事会だった。ウエディングドレスを着用することを考え、椅子席を用意した。


 愛実の様子にいち早く気が付いたのは梨々香だった。その時、梨々香は妊娠六ヶ月で、妊娠四か月に入ったばかりの愛実が少し前の自分と同じだと勘付いたのだ。


 そして季節は巡り、桜の花も三度目を迎える。


 愛実が帰ってきたときに植えた庭の桜もその年は懐空の背を超えて、細い枝にびっしりと花を咲かせた。その桜の木の下に敷いたレジャーシートに座り、懐空が花を見上げる。すぐ近くに横たわるのは、すっかり年を取ったジョイだ。掃き出し窓が開いても、少し耳を傾けただけで動く気配がない。


「パパ! お料理できたから運んでって、ママが言ってる!」

「判ったから、ちゃんと愛海まなみを見てなきゃ!」


 半ば悲鳴のような声を懐空があげる。ナツミの後ろにいる、まだ二歳のマナミが心配なのだ。ナツミの後ろに立ってニコニコ笑っている。何かの拍子でバランスを崩し、窓から落ちたら大変だ。


 懐空が窓際まで行くと、キャーと悲鳴を上げながらナツミが奥に引っ込む。マナミも真似してそれに続く。


「おい、こら! ママがお料理してるとき、走り回ったら危ないって!」

慌てる懐空を愛実がクスリと笑った。


 レジャーシートの上に小さな折り畳みテーブルを出し、重箱を広げる。一口大に作った稲荷寿司とおにぎりが並び、卵焼きとから揚げと筑前煮が詰められている。


「ナツミの好きな物ばかりだね」

 膝にマナミを乗せて世話を焼きながら懐空が言うと、

「ううん、今日の卵焼きは塩味なの。あたしが好きなのは甘い卵焼き」

と、筑前煮のニンジンを頬張りながらナツミが言う。そうか、と懐空は苦笑するほかない。


「はい、ママ、おにぎり!」

 ナツミが愛実の取り皿におにぎりを一つ乗せる。

「ありがとう、ナツミ」


「ううん、いいの。ママには元気な男の子を産んで欲しいから、いっぱいお手伝いするね」

来月三人目が生まれる予定だ。


「男の子かどうかなんて判んないよ」

 生まれた時の楽しみにしようと胎児の性別は聞かない事にした。でも、本音を言えば、懐空もナツミ同様、できれば男の子が欲しい。愛実の年齢と体力を考えると、これ以上の出産はさせたくない。だから男の子のほうがが、女の子ならそれもいいと思っている。


「えぇ? パパ、頑張ってるんじゃないの?」

「頑張る、って、何を?」

なにを言い出すんだ、と懐空が慌てる。


雄太ゆうたくんが言ってたもん。パパが頑張ってれば男の子だって。ママだと女の子なんだって」

雄太くんは、ナツミの同級生だ。


「そ、そうなんだ?」

一瞬浮かんだの疑念を払い、ナツミに話を合わせようとしたが、つい吹き出してしまう懐空だ。


「パパ! なに笑ってるの? 頑張ってないのっ!? ナツミは弟が欲しいのに? これからでもいいから頑張って!」

「パパ、怖い……」

笑い転げる懐空に取り落とされそうなマナミまで参戦し、

「こら、ナツミ、パパを笑わせちゃダメ、揺れるからマナミが怖いって」

愛実も声を張り上げる。


「あたしが笑わせたんじゃないもん。パパが勝手に笑ってるんだもん!」

「判った、判った、パパが悪かった。

いつか懐空が思った通り、懐空は家族カーストの最下位のようだ。


 傍らでジョイがクゥンと鼻を鳴らし、慰めるように懐空の腕に擦り寄った。その腕の薬指、そして愛実の同じ指に嵌められたリングが春の陽を受けて輝く。


 そのリングには懐空と愛実、二人の名前とともにこう刻まれていた。


 Everything, for my you ――



<完>

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きみの嘘。ぼくの罪。すべてが「おもいでだ」としても 寄賀あける @akeru_yoga

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