31
幼稚園の送迎バスから降りてきた
「ママ! 明日はお休み! 嬉しい?」
と、いつものように訊いてくる。
バスを見送った後、ニコニコ顔で言うナツミに
「今日ね、ナツミ、誕生日なの」
「そうなんだ? おめでとうだね」
「だからね、ママがケーキ作ってくれるの。咲菜ちゃんも一緒に来ちゃダメ?」
えっ? と母親同士が顔を見かわす。咲菜ちゃんママの手を取って咲菜ちゃんが、ママ、いいでしょ? と見あげている。
「わたしが作ったから、お店のケーキみたいにはいかないけど、よかったらいかがですか?」
「あぁ、失敗した……こんな日に限って夕飯の支度が全く手付かずなのよ」
困り顔の咲菜ちゃんママの後ろをタクシーが通り過ぎる。
「だったら、咲菜ちゃんだけ、家に来る? ケーキ食べたらお
「咲菜、行く!」
「迷惑でしょう?」
「迷惑なんかじゃないわ」
少し離れたところで、車のドアがバタンと閉まる音がした。通り過ぎたタクシーが停まり、客を降ろしたようだ。二人のママがなんとなく音がしたほうを見る。
「じゃあ、そうしよ ――」
愛実に視線を戻した咲菜ちゃんママが途中で言葉を切る。
「ナツミちゃんママ?」
咲菜ちゃんママの様子にナツミが愛実を見、愛実の視線の先を見る。
「ママ……?」
愛実に視線を戻したナツミが呼んでも愛実は答えない。持っていた荷物が愛実の手から滑り落ちる。
「ナツミちゃんママ、大丈夫?」
咲菜ちゃんママが呼んでも答えない。タクシーから降りた客を見つめ続けている。
「……
不安げに愛実を見ていたナツミが、愛実の小さな声に、パッと顔を輝かせた。そしてこちらを見たまま動かない男へ向かって駆けだした。咲菜ちゃんママが慌ててナツミを止めようとするが間に合わない。
「ナツミちゃん! 行っちゃだめ! 愛実さん、しっかりして!」
懐空は愛実を見つめていたが、ナツミが近付くと腰を
「パパ!」
ナツミの嬉しそうな声が響く。
「パパ?」
咲菜ちゃんママが驚いて愛実を見る。愛実は相変わらず何も言わない。じっと男を見つめている。だが、その頬が濡れているのを見て、ナツミが言うとおり、あの男はナツミちゃんの父親なのだと察した。
ナツミを抱いたまま、懐空が愛実に近づいてくる。咲菜ちゃんママが、娘の手を引いて、ケーキは今度ね、と
「大人って不思議よね」
と、懐空に抱かれたままナツミが
「会えないって泣くのに、会えても泣くのね」
懐空の腕にしがみ付いて泣く愛実の頭をナツミが撫でた。
ナツミを降ろし、愛実の足元に落ちたままの荷物を懐空が拾うと、こっちよ、とナツミが懐空の手を引く。メソメソしたまま動こうとしない愛実に
「あみ、行くよ」
と、懐空が声をかけ、ナツミがもう片方の手を愛実と繋いだ。
部屋に着くころには愛実もさすがに泣き止んでいた。ナツミの世話をあれこれ焼く横で、懐空は黙って部屋の様子を見ている。本棚の前では並べられた自分の著書を眺めているようだった。
「パパ! ご本読んで!」
愛実の手から逃げ出したナツミが懐空の足に絡みつく。
「うん、どれを読もうか?」
「その一番上の!」
今、懐空が眺めていた場所だ。
「うーーん、あそこにある本は文字ばかりだよ?」
「そうなの? ママはよく見てるよ。読むって言うか見てるの」
「へぇ……」
懐空としては苦笑するしかない。本は買ってくれるけど、読んでくれなかったということか? そんなはず、ないんだけどなぁ、と思うがナツミにそれを言っても仕方ない。
「じゃあね、こっち。猫のお話」
自分で本を引っ張り出して懐空に渡す。ナツミが選んだ本は、主人公の猫が出会いと別れを繰り返し、気の遠くなるような時間を経て、初めて『愛』に巡り合い人生の意味を知る、そんな内容の絵本だった。
愛実が出した座布団に座ると、ナツミは懐空の膝に座った。すると懐空が本を広げても、それを見ることもなく、
「今日ね、ナツミ、誕生日なの」
と、懐空のほうを向いたまま言った。
「だからパパ、来てくれたんでしょ?」
しまった、と思ったがもう遅い。知っていれば何か用意できたのに。でも、この可愛い誤解を解く必要はあるだろうか?
「うん……でもごめんね。慌ててきたからプレゼント、忘れちゃった ―― 明日、一緒に買いに行こうか? 何がいいかな?」
するとナツミが目を見開く。
「明日? 明日もパパに会えるの?」
「うん、明日も明後日も、ずーーっと ―― ママとナツミと、三人一緒だ」
「パパ!」
立ち上がったナツミが懐空に抱きつく。それを懐空が抱きとめる。
「あれ? ナツミも涙、出てきた。嬉しくっても泣くのね ―― ね、パパ、早く読んで」
ニコッと笑ってから懐空に背中を向けて膝に座るナツミを包み込み、懐空は本のページを
膝に座ったまま、腕にしがみ付いて眠ってしまったナツミを起こさないようベッドに運ぶ。ナツミの寝顔を眺めている懐空を残し、愛実はキッチンに向かった。
あみ、行くよ。そう言ったきり懐空は愛実に話しかけてこない。
懐空がここに来たのが偶然だとは思えない。それにたぶん、ナツミのことも判っていた。駆け寄ってくるナツミに一瞬、
通り過ぎたタクシーは急に停まったように思える。意識して見ていたわけじゃないからはっきりとは言えないが、車窓から愛実を見かけ、慌てて停めたのだと思った。
だったら、偶然? でも、なんでこんなところを懐空が通る? それに、ずっと一緒だとナツミに言っていた。
ずっと一緒……懐空はわたしを迎えに来た、愛実は思わず目を閉じた。
「お茶も淹れないでごめん。コーヒーのほうがいいかな……」
後ろに近づいた気配にそっと抱き締められる。その腕に、だんだん力が
「……あみ、一人にさせてしまった。ごめんね」
耳元で
「戻ってきてくれるよね?」
優しい懐空、落ち着いた声で包み込んでくれる懐空……
「いやよ――」
愛実の答えに懐空が緊張する。
「お願いされても帰らない……帰って来い、って言って。なに考えてるんだ、って叱って」
その言葉に懐空の緊張が和らぐ。そして愛実に頬を
「戻って来い、あみ。おまえがいるところはここじゃない。僕がいるところだ」
とうにあふれ始めていた薬缶が愛実の手から落ちて、シンクで大きな音を立てる。振り向いた愛実が懐空の首に腕を回す。
「会いたかった ―― ずっと会いたかったの」
何も言わず愛実を抱き返すだけの懐空に、泣きじゃくりながら愛実が訴える。
「何度も後悔した。なんて馬鹿だったんだろうって ―― わたし、懐空のところに戻っていいのね? 懐空の邪魔にならないのね?」
懐空を見ると、穏やかに笑んだまま愛実を見つめている。
「ナツミもいるの。ナツミも一緒よね? ナツミがいたら迷惑にならない?」
懐空が返事をすることはない。こんな状態の愛実に話すより、もっと落ち着いてから話そうと思っている。それに、ナツミには用意しそこなったプレゼントだが、愛実にはちゃんと用意してある。それを渡す時が来るのを懐空はじっと待っている。
コーヒーは僕がするから、と
コーヒー豆がしまってある場所も、ドリッパーやフィルター、コーヒーサーバーもすぐに見つかった。愛実の収納の癖は、一緒に暮らしていた時と変わっていない。
そんな懐空を眺めながら愛実が問う。
「なぜここが判ったの?」
「うん……
「真由美に?」
「真由美さんの連絡先は
「そう……」
「真由美さんにお礼しなくちゃね」
「うん……」
コーヒーの香りが漂い始めると、
「お茶菓子、買ってくるの忘れた」
と懐空が
「いらないわよ、そんなの」
「おや、甘いもの大好きなあみさんが珍しい ―― 駅前で何か買おうって思ってたんだ。でも、気持ちが
コーヒーを淹れ終わり、懐空が愛実の隣に座る。
「懐空……」
「うん?」
「―― 本当に、戻っても大丈夫?」
「うん……」
懐空がコーヒーを口に含む。
「結婚しよう、あみ。すぐにでも」
「えっ?」
「明日、届を出してもいい。もちろんナツミの認知もする」
「明日だなんて。そんなに急がなくても……お母さんにも挨拶してないのに」
「母は了解しているから心配ない。って言うか、母さんも結婚した。一週間
「え? ええっ?」
「相手は言わなくても判ると思うけど、杉山
ぽかんと愛実が懐空を見る。
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