30
「聞いているとあんたは言い訳ばかりだ」
あぁ本当に、自分で言うようにあんたは大人になり切ってない。こんなヤツが僕の父親? 情けなくて涙が出る。そう思ったが、それを懐空は声にできない。頭のどこかに否定する自分がいる ―― それがこの人の魅力なんだ、と思っている。
「作家になるつもりなんてなかった? そうだね、最初はそうだったかもしれないね。でも、初めて小説を書いてみて、あんたは判ってしまった。書くということに喜びを感じている自分にね ―― だから『由紀恵が帰ってくるかもしれない』と自分に言い訳しながら今まで書き続けてきたんだ。書き続けてこられたんだ。書き続けていたかったんだ」
杉山は微動だにせず懐空を見つめ続けている。
懐空が再び杉山に視線を戻す。
「小説家に小説を書くな、なんて言えない。書くな、って言っても、書くに決まってる」
この人は、甘え上手なんだ、と思った。自分でも気が付かないうちに相手の心に忍び込んで、捕まえてしまうんだ。母さんもそれでコイツに捕まった。名前を呼んだだけでコイツは母さんの心を捕まえたんだ ―― そして僕もまた、こんなに腹立たしいのに、理由をつけて許そうとしている。書かれるのは嫌だと思っているのに、だって書きたいんでしょう? と思ってしまっている。仕方ないよ、と思っている。
「どこをどう切り取って、どう演出するつもりか知らないが、先生なら上手に仕立てるのでしょうね。完成したら拝読しますよ ―― これで用事は終わりですね? 帰ります」
「いや! 待て、まだ話は終わりじゃない!」
ドアに向かおうとする懐空を杉山が慌てて腰を浮かせ、引き留める。
「まだ終わっていない ―― 肝心なことが残っている」
「肝心なこと?」
振り返った懐空に、腰を浮かせた杉山が、
「頼むから、もう一度 座って話を聞いて欲しい」
と
軽く溜息を吐いて懐空が元の場所に腰かける。同じように座り直した杉山は懐空の顔を見続けたままでいる。
「お茶を淹れるわ」
と、席を立つ。
「わたしは……」
杉山が
「わたしは……そうだね、懐空、キミの言う通りだね」
苦笑とともに、やっと視線を懐空から外す。
「キミがダメだと言っても、きっとわたしは書くだろう。キミが言うとおり、わたしは書きたいんだ」
また言い訳を続けるのだろうか? と懐空は思う。だったらもう帰りたい。酷く疲れている――
「だから好きなように書く」
そう言いながら杉山に表情に迷いが見える。
そこへ湯呑を持って戻った由紀恵が懐空に話しかけた。
「話は違うんだけどね、懐空」
「え?」
「今、お茶を淹れてて思い出したの。思い出した時に訊かなきゃ忘れちゃうから今、言わせて」
杉山が、おい、と止めようとするのを無視して由紀恵が続けた。
「
「あ……
「そうなのよ……早いものね。買った時、確か築10年で。メンテナンスはそれなりにしているからまだ住めるとは思うけど、どうする?」
今、ここでその話をするか、と思ったが、どうも由紀恵は話を決めてしまいたいようだ。こんな時、別の話をしようとしても、由紀恵は強引に話しを続ける。だったら、さっさと結論を出してしまったほうが早い。
「母さんはね、できればあそこに住んで欲しいの ―― 自分は杉山の所に移ろうと思っているけど、手放したくないの」
由紀恵の隣で杉山が、参ったな、という顔で湯呑に手を伸ばしている。杉山も、由紀恵が結論を出すまでこの話をやめないと、懐空同様思っているのだろう。
「愛実さんはあの家を気に入ってくれていた。だから住むって言ってくれるように母さんは思うんだけど、懐空、あなたはどう思う?」
「うん……僕もそう思う」
「それじゃ、決まりね ―― もし、母さんが帰る前に満里奈ちゃんがまた聞きに来たら、買う事にしますって言ってね」
「えっ? 買うの? お金は?」
驚く懐空にうっすら由紀恵が笑う。
「そんな心配は無用よ―― 家賃は安くしておくわね」
「あ……」
そうか、家賃か。母さんがいないあの家に住むなら、僕は母さんに家賃を払わなきゃいけないんだ。そうだ、その通りだ。
「母さんはしばらくこっちにいるんだ?」
「そうね……このままここに居ようかな」
「そうなんだ ――」
二人を見ていた杉山がふと立ち上がる。その杉山を不安げに由紀恵が見ている。何も言わずに杉山がリビングから消える。
「どうしたのかしら……」
杉山はすぐに戻ってきた。
「そろそろわたしが話してもいいかな?」
と由紀恵に微笑む。
それでだ、と杉山が話し始め、懐空が身構える。
「さっきも言ったように、好きに書かせてもらうよ ―― でも、一応どんな話にするか、詳しく話そうと思って引き留めたんだが」
それは無用だと懐空が言おうとするのを、まぁ、聞きたまえ、と杉山が
「わたしから聞くより、自分で確かめたほうがいいと思い直した」
「自分で確かめる?」
「うん ―― 実は懐空に話していないことがあるんだ」
「
由紀恵が動揺する。つまり、母さんも知っていることか、と懐空が思う。
「何か隠している?」
「隠しているというより、どう告げたらいいか、告げていいものかどうか、判断つかなかった」
「……」
杉山が一枚の名刺をテーブルに置いた。先ほど杉山が席を外したのは、これを取りに書斎にでも行ったのだろう。名刺には懐空もよく知る出版社名が書かれ、所属先、役職とともに『
「裏面に書かれている電話番号は個人のものだ。彼女から話を聞いて欲しい」
「この人は?」
「愛実さんにテープリライトの仕事を回している編集者、高校からの友人だそうだ」
「えっ?」
「わたしには教えてくれなかったが、愛実さんがどこに住んでいるのか、懐空になら教えてくれるんじゃないだろうか」
杉山を見つめてから懐空は、名刺に再び視線を落とす。
「彼女から聞いた話を懐空にしようとしていた。でも、それ以上の内容を懐空なら彼女から聞ける。そう思ったのだよ」
懐空が名詞に手を伸ばすのを見守りながら杉山は
「愛実さんを取り戻せるのは懐空、おまえだけだ」
名刺を手にした懐空がもう一度杉山を見つめた。
そう言えば、呼び捨てにされている。今、気が付いた。それになぜだろう、なぜすんなりと僕はそれを受けているんだろう。
名刺と杉山を見比べながら、どこかで懐空はそんなことを思っていた ――
懐空が帰ってからポツリと杉山が
「痛いところを突かれた……」
そんな杉山をちらりと見て由紀恵が笑いを嚙み殺す。
「なんで反論しなかったの? 負けっぱなしなんて風空らしくない」
ん? と、杉山が由紀恵を見、クスクス笑う。
「そうか、言われっぱなしでわたしの負けか? 正直、話は半分しか聞いてなかった。やっぱり親子だな、怒るとなんて由紀恵に似てるんだ、怒り方もおんなじだ、って、そっちに気を取られて顔を見るのに夢中になってた」
そして笑いを少しひっこめる。
「巧くやれるかな?」
それに由紀恵が微笑む。懐空が愛実を連れ戻せるかを聞いているのだと思った。
「巧くやるわよ」
「キミは楽観的だね。羨ましいよ」
「そうでもないわよ――土地を買うお金をどうするか考えると胃が痛くなりそう」
ソファーに身を投げ出すようにしていた杉山が驚いて、飛び上がるように上体を起こす。
「おまえ……金もないのに買うって?」
「うん、言っちゃった……どうしよう?」
「で、幾らなんだ、あの土地は?」
嬉しそうな顔で由紀恵がそっと金額を告げ、その
「そんなにあの家が気に入っているんだ?」
「そうね、気に入っているわよ ―― 愛実さんがね、家に来た時に訊いてきたの。子どもができたら庭に桜の木を植えてもいいか、って。懐空が育ったこの家で、懐空の子を育てたいって言ったの」
「ふぅん……なんで桜?」
「そこまでは知らない。でも思った。この庭でお花見ができたらいいな、って」
「花見にはぜひ呼んで欲しいものだな ―― まぁ、判った。すぐ用意できる。心配しなくていい。養育費の後払いとでも考えれば安いもんだ」
困った人だ、と言いながら、笑みを消せずにいる杉山を由紀恵もまた微笑んで見詰めていた。
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