22

 アラームが鳴って我に返る。すぐに懐海なつみの幼稚園の送迎バスが、園児を送ってくる時間だ。少しばかり身だしなみを整えてから部屋を出る。


 残暑厳しく、容赦なく日差しが照り付ける。日傘を持ってくればよかったと思うが、今更遅い。目指す先には顔見知りが先に待っていた。


「ナツミちゃんママ、大丈夫? 顔色が悪いわよ?」

「そう? 寝不足かしら……それより咲菜さなちゃんママ、そろそろ歩くのも大変なんじゃ?」

「そうなのよぉ……」


 咲菜ちゃんママが幸せそうに笑う。明らかに妊婦とわかる体形が、はち切れんばかりに命の輝きを見せている。もうすぐ二人目が生まれるのだ。


「ナツミが咲菜ちゃんを羨ましがってたわ」

「あら、そうなの? だったらナツミちゃんママ、そろそろ次の人を探してみる?」


 ママ友たちはわざわざ愛実あいみにパートナーがいないことをいちいち詮索したりはしない。別れたのか、もともといなかったのか、あるいはすでにこの世にいない……その三通りしかないし、どれであったにしろ、本人から話し出さない限り、あれこれ聞くのは遠慮するものだ。


 たまにずかずか立ち入ったことを聞きだそうとする人もいたが、そんな人からはそれとなく遠ざかった。少なくとも愛実はこの五年間、そうしてきた。


「次の人?」

「そうよ、次の人。どんな事情があるか知らないけれど、昔の人は忘れて、この先一緒にいてくれる人を探すのも悪くないかもしれないよ」


 あぁ、そういうことか ―― 別の誰かなんて、考えたこともなかった。それに、とは思っていなかった。


「どんな人がいいか言ってくれれば、てがないわけじゃないのよ。主人の友達に独身男が何人かいてね、いい人がいないかって言われてるの」


 そう言いながら咲菜ちゃんママが愛実を見る。そして愛実の戸惑う顔を見て、少しだけ笑む。


「ごめん、無理よね ―― 咲菜が言ってた。ナツミちゃんがね、『ママはパパを待っているの』ってお話ししてくれたって」

「ナツミが?」


「うん……ナツミちゃんのパパはひょっとして亡くなったの? まぁ、どっちにしても、ナツミちゃんのママの心の中には今もその人が住んでいるのよね ―― それじゃあ、次の人なんか無理よね……あ、バスが来た」


 バイバイ! また明日ね! 子どもの明るい声が響く。遠ざかるバスを見送って、それぞれの親子も別れていく。

「ありがとう、咲菜ちゃんママ」

愛実の言葉に、ママ友は笑顔で答えた。


「咲菜ちゃんママと、どんなお話ししてたの?」

 愛実を見上げてナツミが問う。このところ、好奇心が旺盛になってきたようで、いろいろなことを知りたがる。『なぜなぜ?』『どうして?』攻撃はまだないけれど、そのうち始まるのかしら、と期待と不安が入り混じる心境の愛実だ。


「赤ちゃん、もうすぐね、って」

 少しはそんな話もした。まるきりの嘘じゃない。


 あぁ、と、頷いてナツミが笑む。なんとなく、大人の真似をしているように見えて、心の中で笑ってしまう愛実だ。

「弟なんだって。咲菜ちゃん、妹がよかったのに、ちょっとがっかりなんだって」

「へぇ……でも、生まれてきたら大喜びよ」

「うん、弟だってきっと可愛いよね!」


 アパートの階段をのぼりながら、暑いわねぇ、と呟くナツミに、あら、ひょっとしてわたしの真似? と愛実が思う。


 ナツミは意識してそうしているのかしら? それとも親子だから真似ているように見えるの? それとも、一緒に暮らしているから、口癖や仕草が似てくるの? 見た目はともかく、きっとその全部で親子って似てくるんだろうな、と思う。


 かしたサツマイモのおやつを食べながら、晩ご飯はなぁに? とナツミが訊いてくる。


「そうね、ナツミは何が食べたい?」

「エビ!」

「エビ? 珍しいわね、エビが食べたいなんて初めてね」

「うん! パパもエビ、好きでしょ?」

「え?」


確かに、懐空かいあはエビが好きだった。でも、なぜナツミがそれを知っている?


「エビが好きだって、どうして知ってるの? パパに聞いたの?」

 まさか、と思いつつ、そう訊いてみる。夢ででも会ったのかもしれない。するとナツミは

「ううん、ナツミはパパに会ったことないよ?」

と、キョトンとした顔をする。


「それじゃあ、なんで、ナツミはパパがエビを好きだって知ってるの?」

「だってママが言ってたもん」

「ママが?」

「うん、『カイア、エビ好きね』って」


「懐空……?」

「カイア、ってナツミのパパでしょ?」

 血の気が引くのを感じる。


「……ママ、いつそんなこと言ったっけ?」

「エビ好きね、ってのは昨日。でも、いっつも言ってるよ、カイアって……夜、寝てるとき。ママ、ってナツミが呼んでもお返事しないの」

「あ……」


「カイアって言って泣いてるときもある。ママ、会いたくって泣いてるんだと思った。違った?―― あれ、ママ、泣かないで……」


 ナツミの発言は、自分の寝言が原因だったのだ。愛実に覚えはないものの、何度か繰り返される寝言を、きっとナツミはつなぎ合わせ、ナツミなりのストーリーを作り上げた。


 どうしよう……どんなに頑張っても、夢までは制御できない。これからも繰り返される寝言をナツミはどう受け止めるだろう。今はまだ判らないことも、物事への理解が深まるとともに知られることになる。


 そして愛実に聞くだろう。パパは死んだの? なんでパパは一緒にいないの? パパはどこにいるの?


 それよりも、懐空と言う名をナツミはすでに知っている。愛実の本棚に並べられた『大野懐空』といつか必ず結び付ける。漢字が読めないから気が付いていないだけだ。


 急に泣き出した愛実をナツミが心配そうにのぞき込む。

「少し疲れちゃったみたい ―― 一緒にお昼寝しよう」


 疲れると大人は泣くの? ナツミは不思議そうな顔をしたけれど、愛実に従ってベッドに潜り込んだ。そして添い寝する母親にしがみ付くように、やがて眠りにつく。その寝顔を見つめながら、真由美まゆみとの話を思い出す。


 杉山はナツミのことも、愛実に偶然会ったことも、懐空には知らせていないらしい。それどころか、懐空が杉山の子だと言うことも、今のところ知らせていない。


 愛実の予想通り、由紀恵は懐空を妊娠したと杉山に言わないまま離れていた。

「大野先生の母親は、自分のしたことがまわりまわって息子に帰ってきた、と感じているそうよ。ばちが当たったんだ、って」

「罰? わたしが懐空に、あるいはお母さんに罰を当てるため、懐空の前から姿を消したと言うの? 違う、そんなんじゃない!」


 愛実の抗議に真由美は

「大野先生の母親はそう感じているってことよ。それにあみ、わたしに言っても仕方ないでしょう。彼の母親か、本人に言えばいいのよ」

と呆れる。そして、ふと疑問に思ったことを愛実に聞いた。


「そういえば、大野懐空の母親っていくつなの?」

「今年六十三のはずよ。彼を産んだのが三十五の時、その時、杉山先生は二十か二十一」


「……そうだったんだ ―― そうね、それなら黙って身を引くってありそうよね」

 真由美が溜息を吐く。


「その事実を大野先生が知ったら、どう思うんだろう?」

「父親が杉山涼成すぎやまりょうせいだってこと?」

「うん、それもあるけど、母親が、父親に黙っていなくなったってこと、そして父親がずっと自分の母親を探してたってこと。しかも子供がいるなんて知らなかったってこと」


 答えない愛実に真由美が続ける。

「大野先生ね、あみがいなくなった時、あみが病気なんじゃないかって、相当心配したらしいわよ」

「わたしが病気?」


悪阻つわりだったんじゃない? 彼はそんなこと思ってもいないだろうから、病気で彼に負担をかけるんじゃないかって、あみがいなくなったのかも、って思ったみたい」

「……」

「役所に行って、警察に行って、病院もいくつか回ったって ―― どこにも手掛かりはなかったって。教えて貰えなかったってことだと思うけど。警察ではストーカーと間違えられたとか」


 真由美は愛実が何か言うかと待ったようだが、

「ねぇ、あみ、どうなの? 大野先生があなたにナツミちゃんがいると知ったら、どう思うと思う?」

と愛実に訊いた。

「それは……」


「杉山先生は、大野先生のお母さんを責めたそうよ」

 クスリと真由美が笑う。それを

「なんで笑うのよ?」

と愛実が責める。


「ごめん、あみを笑ったんじゃないの ―― その話をしてくれた時の杉山先生を思い出して、笑っちゃったのよ」

「――どういうこと?」


「ん、なんていうかな。ただの愚痴? それが顔をしかめて、そんなに僕は頼りなかったか、そりゃそうか、やっと二十を過ぎた程度だ、でも、少しは信じてくれても、って、グダグダだった」

「……」


「そうそう、こうも言ってた ―― 子どもを苦労して育てる楽しみを奪われた、そう思ったって」

「苦労して育てる楽しみ……」


「ねぇ、あみ。あなたの彼はなんていうかしらね? わたしは大野先生に会ったことがない。どんな人なのか判らない。でも、あなたなら判るんじゃないの?」

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