23

 地上に出た途端、場違いな場所に来た、と思った。都会は太陽の光さえ殺伐さつばつと、突き刺さるように痛く感じる。こんなところには住めない、僕には無理だと思った。


 出口を間違えなければ、そこから三分ほどのマンションだ。外観も調べてある。地下鉄を降り、きょろきょろと出口表示を探した。行きかう人々はちゃんと目指す場所を知っているらしい。迷うことなく足早に過ぎていく。自分だけ取り残されている。


 目的のマンションに辿り着き、判ってはいたけれど、やっぱり圧倒される。画像で見るより実物は立派に見えた。


 まるでホテルのようなエントランス、でも管理人はいない。堅実なセキュリティーシステムに守られ、人の目など必要ないらしい。あるいは他人との関りをわずらわしいと感じる住人への配慮なのだろうか。


 教えられた通り部屋番号を入力すると、寸時後にガラス張りのドアが開いた。少し先にランプが点滅しているエレベーターが見える。そのエレベーターに乗れば目指す階に連れて行ってくれるが、ほかの階では降りられない仕組みだと聞いている。セールスマンなどが勝手に入り込めないようになっているのだろう。


 家を出たタイミングで届いた由紀恵ゆきえからのメッセージを思い出す。お昼、何食べたい?――つまり、昼食を一緒にしたいと言うことだ。気が重かったが、昼前に来いと言われた時点で気が付くべきだった。寿司と蕎麦以外、夜は天丼の予定、と、返信した。


 懐空かいあが由紀恵の住む家に帰る前、月に一度はあの家に男が来ていたらしい。正月に帰った時、寿司屋の娘の満里奈まりなから『毎月特上寿司を取ってくれる』と言われて、由紀恵に男がいると気が付いた。男はきっと寿司が好きなのだろう。


 そして懐空の好物は蕎麦とエビ、天丼にエビがつきものだから、この二つも除外された。由紀恵はきっと昼食に何を用意するか迷うことだろう。迷って結局、用意しなければいいのに、と思う。一緒に食事するなんて、気が重すぎる。


 エレベーターを降りて右、部屋はすぐに見つかりインターホンを鳴らす。もっとドキドキするかと思っていたのに、そうでもなかった。すぐに開いたドアの向こうに、由紀恵が立っていた。


 男に会ったらなんて言おう。母がお世話になっています、ありきたりの挨拶が厭味に聞こえはしないだろうか? ほんの少しもそんなこと、思ってないのだから厭味に聞こえて当たり前だ。でも、そう言うしかない。どうせ向こうは顔合わせをして、形ばかりでも了承を取ったことにしたいんだ。僕だって反対しようなんて思ってない。反対はしないけれど、している訳じゃないってだけだ ―― 反対なんかしちゃと思っているだけだ。


 通されたのはリビングダイニングキッチン、大きな窓の向こうはバルコニーなのかもしれない、レースのカーテンが光を受けて輝いている。


「そっちよ……」

 由紀恵が促す先にはソファーセットがあって、男が一人、懐空のほうを向いて立っている。男が一人立っている ―― この男……


 衝撃に、勝手に肺が大きく息を吸い、そして止まった。よく見ようとでもいうのか、目が見開かれ、瞬きも止まる。いや、それ以前に歩みが止まった。


 この男、こいつは。


「懐空……」

「―― うん」

 不安げな由紀恵の声に、我に返る。でも、状況を把握しきれていないと感じる。それなのに視線を男から外し足元を見た。もう見たくないとどこかで思っている。止まっていた息が再開し、大きく肩を上下させる。一気に高まった緊張で耳鳴りがしそうだ。


「懐空……」

 再び由紀恵の声がする。

「いや……」

落ち着け、と自分に言い聞かす。ゆっくりと深く呼吸し、息を整える。きっと思い違いだ。由紀恵の恋人に会うのは初めてだ。似ているだけだ、きっとそうだ。


 うつむき加減の視線を、おもむろに男に向ける。向こうもじっと懐空を見ている。そうか、やっぱりそうか、似ている訳じゃない、本人だ。由紀恵の恋人は杉山すぎやま涼成りょうせいだったんだ ――


「は……ははは……」

 不意に口から笑いが漏れた。なるほどね、と思った。由紀恵の杉山を嫌っているような素振りは、関係を懐空に知られるのを恐れての芝居だったんだ、と思った。なるほどね、なるほどね……


「懐空……」

 再度、由紀恵が懐空を呼ぶ。そして懐空の腕に触れようとする。

「触るな!」

さっと腕を引いて、懐空がそれを拒む。怒りを隠さないけわしい口調に由紀恵がたじろぐ。それを見ていた杉山の表情が硬くなる。


「せめて座ったらどうだね? 立ち話はどうかと思う ―― 話を聞いてくれるために来たんじゃなかったのかい?」


 聞き覚えのある声がうつろに響く。聞き覚えがあるのは杉山の声じゃない、僕だ。僕の声とそっくりなんだ。そうか、こいつが僕の父親か、酷い男はこいつか。


 判らなかったことが、一気に解決に向かって走り出す。推理小説のクライマックスか? ここをしくじれば、失敗作だ。


 杉山に書置きを残して消えた女は由紀恵、その由紀恵は生まれた子どもに杉山のデビュー作のヒロイン懐海なつみから懐空と名をつけた。


 五年前、あの海岸に杉山がいたのは偶然じゃない。懐空を持て余した由紀恵が杉山に頼んだ。愛実と同じ立場だった由紀恵は懐空にかける言葉がなかった。だから、懐空と同じ立場の杉山に託した。


 でも、愛実のことはきっと話していない。息子が父親と同じ目にあったとは、そんな目に合わせた由紀恵には言えなかった。だから懐空から愛実のことを聞いた杉山は驚き、あんな話をしたんだ。


 なぜ杉山はあの時、自分がおまえの父親だと言わなかったのだろう? 残された謎はこれか?


 そうだ、あの時杉山は、作家を続けていたから恋しい人と再会できたと、確か言った。地元であった映画の撮影、再会の切っ掛けはそれか。はっ! 丸きりの偶然とは言い切れないシチュエーション、必然が呼んだ偶然、ありそうでなさそうでありそうな話だ。


 あぁ、そうか。すぐに僕に打ち明けられなかった理由も判った。僕が作家になったからだ。杉山があの賞の選考委員だったからだ。だから海岸の公園で愛実の話をした時、自分が父だと言えなかったんだ。これでまた、謎が一つ解けた。


 あれ? 杉山は僕を自分の息子と知って、受賞させた? 心臓に冷たいものが流れ込む。そうだとしたら、僕はどうする? って、僕は作家を続けられなくなるんじゃないのか? 僕の意思がどうとかじゃなくて。


 いや、待て、そんなことが世間に知られたら杉山だってダメージがあるはずだ。清潔なイメージが大きく損なわれる。三十歳近い息子がいて、その息子に不正に受賞させたんだ、騒がれないわけがない。


 三十歳近い息子 ―― 世間が知らない息子。そうか、僕は『隠し子』ってやつだ。そりゃあ秘密にしたくもなるか? そうか、僕の存在は迷惑なんだ。生まれてきて欲しくなかった、きっとそうだ。


 ―― あみ……


 キミは今、どうしている? 少しだけ、キミの孤独の辺縁に触れた気がする。アイデンティティを保てなくなる危うさにキミはいつも怯えていた、それはこんな感じだったんだろうか? 心がミシミシと音を立て、ぽろぽろと外壁ががれていく。


 背中に由紀恵の手を感じる。

「怖い顔で立っていないで、お願いだから座って ―― 座って話を聞いて」


 聞きたい話なんかないと思った。今、僕が考えたことがきっと正解だ。それとも真相は別に? 別の真相があるなら、聞いてみたいもんだ。


「いいや、だいたい判った。母さんは昔、この男から逃げて、一人で僕を産んだ。そしてあの映画の撮影がきっかけで、再会して焼け棒杭ぼっくいに火が点いた、違う?」


 懐空の言葉に杉山が薄ら笑いを浮かべる。それに懐空が突っかかる。


「何がおかしい?」

「いや……あらすじだけで読んだつもりになるタイプかと思ってね」

「あらすじ ―― どんな演出をするつもりか知らないけれど、結末が見えてたんじゃ読む気も失せる」


「あいにく演出なんかする気はない。ノンフィクションで行こうじゃないか」

「ノンフィクション? 事実だけを話すって? 嘘で固めていたくせに?」


 すると杉山が溜息を吐いた。

「うん、嘘を正して、罪を償うときが来たのだと思っている」

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