21

 神経が立っていたようで、眠ったのかどうかも判らないまま、気が付けば六時だった。懐空かいあの身動きに気が付いたジョイが顔をのぞき込んでくる。はい、はい、ご飯だね、と、階下に降りる。


 ドッグフードと水を用意し、いつものように『よし』と声をかけると、今日のジョイは珍しく、クンクンと懐空の耳元に鼻を寄せてから食べ始めた。こんな時間に起きることのない懐空だ、褒められた、と思った。


 湯を沸かしながら、冷蔵庫の中を見る。食べなかった昨日の夕食はカレイの煮つけと生野菜とポテトサラダだった。煮魚をレンジで温め、そのまま朝食にした。


 今日もいい天気だ。食事を終えて庭に降り、水を撒いた。日照り続きで植栽がくたびれているように見えた。ついでに金柑の枝から、多過ぎる実を摘んだ。それからジョイの散歩に出かけた。


 久々に海岸に出る。海辺を見ると真夏と違って、早朝の人影はまばらだ。とは言え、八時を過ぎている。道行く人は登校や出勤で、特に駅の近くには人が多い。


 駅のホームで電車を待つ人影に、僕は出勤しなくていい分、楽をしているんだな、と思う。どんな職業にもそれぞれの苦労があると言うことか……そんなことを考えながら、駆けだしたそうなジョイのリードを引く。今日はゆっくり歩いていた。頭も体もどんよりしていた。天気のように快晴とはいかなかった。


 散歩を終えるとコーヒーを淹れ、帰りに持ってきた郵便物に目を通す。銀行から資金運用、そして税理士からは今年の確定申告の案内が来ていた。


 お金のことは母親に任せっきりで、自分にどれほどの預金があるかも把握していない。毎月、同じ金額を降ろしてきて貰い、そのほとんどを母親に渡していた。家に居っぱなしで、せいぜいタバコ代しか使わない。衣類など、必要なものはインターネットで購入し、クレジットカードで支払っていた。


 母さんが結婚したら、そんなに甘えていられないな、と思い、溜息ためいきく。好き勝手やらせて貰っているんだ、と、しみじみ思った。面倒なことは全部母さん任せだ。これからは自分で自分のことは管理するようにしなくちゃダメだ……


 久々に夕飯でも作ろうか、きっと夕方には帰ってくるだろう。ここのところ、炊事は任せっきりだった。あぁ、そうだ、部屋の掃除もしなくっちゃ。


 食材を確認すると、冷凍庫に生姜焼き用の肉があった。それとマカロニとゆで卵のサラダにしようと思った。そこにトマトを添えて、だったら、帰ってきてから作れば充分間に合う。中途半端に残っていた白飯を昼用におにぎりにする。そして夕飯のため、米を炊飯器にセットしてタイマーを掛けた。


 時計を見るともうすぐ十一時だ。少し眠ればすっきりするかもしれないと思った時、インターホンが鳴った。満里奈まりなだった。


「由紀恵おばさんは?」

「出かけてる。どうかした?」

「うん……」


 借地契約を更新するかを聞いて来いと親に言われてきたらしい。更新じゃなく、なんだったら買い取ってくれてもいいと言う話で、先月、由紀恵ゆきえには言ってあるけれど返事がまだだと言う。


「ごめんね、うちの親父、せっかちだからさ ―― 解約はしないでしょ?」


 家が建っている土地が借地だと言うことは懐空も知っている。詳しく聞くと、契約期間は三十年、満期まであと一年だという。


「親父さ、懐空が稼いでるだろう、って。だからもっといい所に移るんじゃないかって思ってるみたいよ。でも、懐空たちが出てったら、もう、借り手がいないかもしれないから焦ってるみたい。できれば売りたいみたいよ」

「そうか……うん、母さんに言っておく。早めに返事するようにって」


「なによぉ。出てくつもり、あるの?」

「いや ――」


 母さんは、結婚したらどこに住むつもりなのだろう? 具体的なことを何も聞いていない。


 もし、母さんがこの家を出て、相手の男の家に住むようになったら、僕はこの家に住み続けるだろうか。一人で住むには広すぎる ―― でも、愛実はこの家を知っている。ここに住んでいれば、愛実が帰ってくるかもしれない。


「まぁ、僕にはどっちみち決められない。この家は母さんのものだし、借地の契約者も母さんだ」

「ま、そりゃあそうだけどね ―― そのうち引っ越そうとか考えてるの?」

「ん? なんで?」


「だって、家は由紀恵おばさんの持ち物なんだし、引っ越しを考えてなきゃ、更新を迷わないかなって。買うとなると資金の面もあるから、どうかなって思うけど」


 由紀恵は結婚する、いっそそう言おうかと思ったけれど、この家をどうするかを決めるのはやはり由紀恵なのだから、迂闊うかつなことを言って誤解させてはいけない。何しろ僕には判らない、そう言って満里奈には帰ってもらった。


 うつらうつら眠り、目が覚めたのは十六時だった。やっぱりジョイが足元にいて、由紀恵はまだ帰宅していないんだな、と思う。何時頃に帰るのか聞いてみようかと、スマホを探すがない。そうか、一階に置き去りにしたっけ、と階下に降りる。


「……」

 スマホは着信を知らせていた。不在着信の電話の後にSNSにメッセージがあった。どちらも由紀恵からだった。


 メッセージを見ると、『今日も帰らない』とあり、『明日か明後日、都合のいい時間でいいから、こっちに来て』と続いていた。すぐには返信しなかった。


 ボーっとしながらコーヒーを飲み、それからジョイの散歩に出かけた。途中にあった肉屋でコロッケとメンチカツを買った。料理する気なんか失せていた。


 母さんは、このまま相手の家で暮らすのだろうか? それはさすがにないだろうと思う。けれど、夜に出かけ、翌日も帰ってこない。しかもあのメッセージの感じだと、懐空が行かなければ、明日も向こうに泊まるだろう。


 なんだか母親を人質に取られた気分がした。母親を返して欲しくばこっちまで会いに来い ―― そう考えて、吹き出しそうになる。なに、馬鹿なことを僕は考えてるんだ? 母さんは自分の意志で男のところへ行き、自分の意志で男の部屋に泊まっている。そして頭の隅で、誘拐事件も面白いかもしもれない、と小説のネタを考え始めている自分に嫌気がさした。


 コロッケとメンチ、それにキャベツの千切りを添えて夕飯を済ます。一人だと、やけに静かで家が寒々しく感じる。大学一年の正月に、由紀恵が虫垂炎で入院した時のことを思い出す。あの時も、この家がひどく寂しく感じた。


 この家で母さんは四年間、一人で暮らしていたんだ ―― きっと寂しかったことだろう。だからジョイを飼うことにした。犬の世話なんてできるのだろうか、と心配したけれど、一人でいるより、世話をする誰か――この場合はジョイだけど――がいたほうがずっと生活に張り合いが出たんだろうな、と思う。


 でも、ジョイだけでは寂しさを埋められなかったのかもしれない。それに、一人息子も結婚すればいなくなるかもしれない。そう思った時、共に生きる相手が欲しくなっても不思議じゃない。


 実際、懐空は愛実あいみと出会い、結婚するつもりでいた。愛実は由紀恵と一緒に暮らしたいと言ったが、それはたまたま愛実がそういうひとだったからだ。懐空が選んだ相手が別の女なら、そうはなっていなかったかもしれない。


 五年前、愛実がいなくなったことで崩れかけていた時、海岸で遭遇した杉山すぎやまりょうせいのことを思い出す。由紀恵に無理やりジョイの散歩を押し付けられて行った海岸で、杉山は海を見ていた。


 あの時、なぜか懐空は、初対面の杉山に愛実の話を聞いて貰った。杉山が選考委員を務めた新人賞を受賞し、デビューが決まっていた懐空のことを杉山は知っていたようだ。もちろん懐空は、作家の大先輩、時にはテレビに顔を出すこともある杉山のことを知っていた。


 懐空の話を聞いて驚くようなことを杉山が言った。昔、わたしの恋人も、同じ内容の手紙を置いていなくなった ――


 参考になどならないかもしれないけれど、と杉山は自身の体験と、どう立ち直ったかを懐空に話してくれた ―― 自分に向き合った。杉山の答えはそれだけだった。まずはしっかり自分が生きて生活することだ、そう言われた気がした懐空だった。


 母さんは母さんの人生を選んで生きていく。僕は僕の人生を選んで生きていく。いくら親子でも別人なのだから、それが当たり前だ。母さんの人生を僕は認め、そうして応援していく。それが僕自身の人生をしっかり生きることにつながるんだ。


 食事の後片付けを終え、スマホを手に取ると、SNSを開く。


「明日にするよ。何時でもいい」

するとすぐ返信が来た。

「それじゃあ昼頃に」

そして住所が書かれていた。


 明日……なんとなくカレンダーを見る。水曜日だ。


 三年前に仕事を辞めた由紀恵はともかく、平日の日中に時間が取れると言うことは相手の男ももうリタイアしているのだろうか?


 職業を聞いた時、由紀恵は答えなかった。でも知っていると言った。その感じから、働いていると受け取っていた懐空だ。それとも、たまたま水曜が休みなのだろうか?


 まぁ、いいか、明日会えば判る。教えられた住所をもとに行き方を検索し、懐空は電車の時間を確認していた。

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