20
急な呼び出しに何事かと慌てていくと、どうやら自分より先に来客があったようだ。
「来てくれると思っていた」
「用って何よ? サッサと済まして帰りたいわ」
二十二時を過ぎて鳴った電話の呼び出し音に驚いてスマホを見ると相手は杉山だった。すぐに相談したいことがある、来てくれないか、と言われ、急いで支度し、タクシーを呼んだ。
もうすぐ日付が変わるころ、教えられた住所に着く。都内の一等地、見るからに高級そうなマンションのエントランスで、やはり教えられた部屋番号を入力し呼び出しボタンを押す。そして思う。
部屋を見つけ、インターホンを鳴らすと、応答なしにいきなりドアが開いた。ドアの向こうで待ち構えていたようだ。引っ張られるように中に入れられ、すぐさまドアが閉じられる。そしてあれよと思う間もなく抱きすくめられる。
「会いたかった……」
まるで若い恋人たちのよう、そう思いながら、わたしもよ、と思う。だけど、口では
「何を甘ったれているのよ」
としか言えない。
「すごいマンションに住んでいるのね」
と嫌味のようなことしか言えない。
杉山が苦笑して
「お茶でいいよね……コーヒーの飲み過ぎで、胃がおかしくなりそうだ」
と、部屋の奥へと由紀恵を招いた。
通されたのはダイニングキッチンで、奥にはソファーセットが並び、こちら側にはカウンターに横付けされたダイニングテーブルがある。カウンターの向こうはキッチンだった。
湯を沸かし始めると杉山はいったん姿を消し、ガチャガチャと音を立てて食器を運んでシンクに置いている。どうやら使用済みのようだ。
「ほかにも誰かいるの?」
由紀恵の問いに、
「さっきまで
と杉山が答える。
「ケンちゃん? 懐かしいわ……元気なの?」
古い知り合いの名に由紀恵が微笑む。
「なんだ、剣持が懐空の大学の教授とは知らなかったか?」
と杉山が笑うと、そうだったんだ、由紀恵が複雑な顔をする。
「どこで縁が繋がっているか、判らないものね」
と、感無量と言った顔をする。
「それにしても広そう……何部屋あるの?」
「ここと三部屋――3LDKってやつだ。そう広くはない。一部屋は仕事部屋兼書斎、もう一部屋は応接室のように使っている。さっき下げた食器はそこで使ったものだよ。で、もう一部屋は寝室だ」
「一人暮らしには充分過ぎるくらい広いわよ」
なんで私は
「うん……一緒に住むかい?」
どうせ断られると思いながら杉山が言う。由紀恵の返事は聞けなかった。
結婚は承知してくれたけれど、一緒に暮らすと確約を取ったわけではない。同居するのでなければ、今より大っぴらに会えると言うだけで、何も変わらない。それを寂しいと思うのは僕だけか、杉山は恋慕が募るのを感じる。由紀恵への執着が強まっていく。
それで用って何なの? と由紀恵が催促する。
「うん、
由紀恵が息をのむ。
「来客は剣持と、もう一人は出版社の副社長で
「それで? それで何と答えたの?」
「うん? もちろん、懐空はわたしの子だと答えた」
「……それって?」
「隠してなんかいないって言ったよ。隠すつもりもないってね ―― こないだキミに話した私小説、その企画を提案した」
「それで?」
「松原は最初難色を示した。危険だ、とね。この際、杉山
「そんな、あなた ―― 懐空はまだこれからなのに」
「もちろん、潰させはしない ―― やっぱりわたしは物書きなんだと、しみじみ感じたよ。なりたくて作家になったわけじゃない、って、いつも思っていたのにね。誰にも否定できない美しい物語、それを書いてやると思った」
「書けるの?」
「判らん!」
「
笑う杉山を由紀恵が真剣に
「判らないならやめて。あなたと懐空の関係も、懐空に子どもがいることも、どちらも何とか隠せないの? それができれば平和に暮らせるじゃないの」
「それで、由紀恵は幸せかい? 懐空は幸せかい? わたしには幸せに傷が付いているように思えてならないんだがね」
「風空、欲張ればすべてを失う。すべてを手に入れられなくても不幸ってわけじゃない」
「確かに今のままでも不幸とは言えないね。ねぇ、由紀恵、懐空はなぜ小説を書き続けているんだろう?」
「え? それは、書くのが好きだから、って本人は言っているけれど?」
「彼の作品を読んだことはあるかい? デビュー作は復讐劇だった。第二作は姿が見えないストーカーから恋人を守る話だった。第三作から――」
「姿の見えないストーカー……」
「おや、キミも心当たりがあるか? まぁ、その話はあとにしよう―― 第三作からはそれぞれ趣向の違う内容だが、必ず恋人の心を見つめ、迷い、思い悩む人物が登場している。もちろん、焼き直し感なんか全くなく、ごく自然に登場させている」
「……」
「自分を投影させているんじゃないかな? あるいは愛実さんへのメッセージなのか……デビュー作に直球を投げたけれど、それでも足りなかった。うん、無意識にそうしているのかもしれないね」
「でも、なら……それなら、そうさせてあげていればいいんじゃないの? それで懐空の気が済むなら」
「由紀恵、それは本心?」
杉山を食い入るように見つめていた由紀恵が目を
「わたしだって、愛実さんに戻ってきて欲しい。でも、風空が書いたからって絶対帰ってくるとは限らない。そんな危険を冒す必要があるのか、ってわたしは言っているのよ」
ここで、あぁ、そうだ、と杉山が笑みを浮かべる。
「由紀恵に言っていないことがあった。いつも以上に判らず屋なのはこのせいか」
「なんの話?」
「愛実さんの友人を捕まえたんだよ。彼女は、愛実さんは懐空のもとに戻るべきだと言った」
「……いつ?」
「つい先日だ。キミには、今度会ったときに言おうと思ってた」
「愛実さん、どこに住んでいるの? すぐに会いに行きたい」
「馬鹿を言うな。そんなことして、また逃げられたらどうする? もっとも、どこに住んでいるかは聞いてない」
「なんで聞かないのよ!」
「怒るな ―― それに、泣くな」
由紀恵の激昂に杉山が
「怒るわよ、あたりまえでしょう? どれほど懐空が愛実さんを心配しているか判っているの? あなたは懐空が毎日どんな風に過ごしているか知らないから、涼しい顔をしていられるのよっ!」
「涼しい顔をしているつもりはないぞ?」
「してるわよ! 私小説とか言って、要は自分の仕事じゃないの。自分の仕事に懐空を利用してる、違うっ?」
「おいおい……」
「あの子はね、毎日毎日、書き続けているの。そうしないと自分が崩れちゃうの。愛実さんのことしか考えられなくて、考えないでいられるのは仕事しているときだけなの。あの子から仕事を取り上げないで」
泣き崩れる由紀恵に杉山がぽつりと言う。
「僕も懐空と同じだったんだよ。書き続けることで自分を保てた。その僕が懐空の身を案じていないはずないじゃないか。信じられないかい?―― 愛実さんは必ず戻ってくると僕は思う。愛実さんの友人がきっと彼女を導いてくれる」
「愛実さんの友人は言った。愛実さんは今でも懐空を愛している。そして懐空に愛されていると信じている……愛実さんが懐空のもとを離れたのは懐空の重荷にならないためだ。彼女が自分は懐空の重荷ではないと、心底思えるようになれば、彼女は帰ってくる―― 由紀恵もそう思うだろう?」
今夜はもう遅い。また明日、ゆっくり話そう。泊っていってくれるね? 遠慮がちにそう言う杉山を、最初からそのつもりで呼んだのでしょう? と、由紀恵が涙に濡れる目で睨みつけた。
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