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相談すると、相手の男に会わせろと、真由美は息巻いた。愛実の懇願に呆れ、それでも助けると約束してくれた。
「あみ……あみがその人を好きなのはよく判った。それで、その人はあみのことを愛していないの?」
そう訊かれたとき、愛実はこう答えている。
「わたしは愛されてる。結婚したいって言ってくれた。だから傍にはいられないの」
それならどうして? 愛し愛されて、結婚まで申し込まれていて、子どもができたからって、なぜ別れる必要があるの? 真由美はなおも愛実に問い続けたけれど、愛実がそれに答えることはなかった。
懐空は卒業式の翌日、愛実がいなくても母が待つ家に引っ越すだろう。引っ越しの準備はほぼ済んでいる。引っ越し業者にも頼んである。懐空の母と相談して決めた処分する家財の手配も済んでいる。
卒業式に出かける懐空を愛実は引き止め、キスをせがんだ。これが最後のキスになる。懐空が出かけたらすぐこの部屋を出ようと、愛実は決めていた。懐空に別れを告げる勇気なんかなかった。懐空が別れを承諾するはずなんかなかった。
懐空に引き止められたらきっと決意は崩れてしまう。その腕に
愛してる。だからお願い、探さないで――
そう書いてテーブルの上に置いた。それが精いっぱいの言葉だった。
ペンを置いた時、愛実の目に懐空がくれたリングが光って見える。左手の中指に
『愛実は僕のすべて』そう刻まれたリングを眺めながら思う。わたしにとっても懐空、あなたがすべて。
だから、お願い。あなたは真直ぐな瞳のままで、前を向いて生きていて。あなたが真直ぐでいてくれたら、きっとわたしも真直ぐ前を向いていられる。
身の回りの物を詰めた段ボールを取りに宅配業者が来た後、愛実は部屋を出ている。鍵を閉めて、そのカギは封筒に入れて郵便受けに投げ込んだ。そして足早に駅に向かった。
横浜の片隅、懐空の住む湘南にもほど近いその街に、土地勘なんかなかったけれど愛実はそこに住むことに決めた。横浜育ちの愛実でも、地名くらいは知ってはいたが足を踏み入れることのない街だった。
できるだけ懐空の近く、でも、ばったり出くわすことがない場所、そんなところを愛実は探した。駅の近くはそれなりに賑わっていたけれど、少し離れれば山の多い、そんな自然の多い街ならば子育てにもきっと向いている、そう思った。山の多い横浜市でも、
そこで最初に産婦人科を探した。出産予定日は九月、それまで母子の健康管理は怠れない。幸い、最初に受診した病院は女医で、愛実との相性もよさそうだった。出産まで愛実は定期的にその病院を受診した。
仕事は八月まで
出産後は、いつから働けるようになるか、愛実には想像もつかなかった。家事も育児も、すべて一人で
いつからでも仕事を回せるようにしておくと、真由美は言ってくれたけれど、いつになるか判らない相手を当てにするはずはない。真由美だって愛実ばかりに仕事を回しているわけじゃないはずだ。それを考えると、できるだけ長く仕事を請けておくに越したことはない。
保育園に預けなくても、家でする仕事の愛実だ、子育ての合間に少しだけなら仕事もできるかもしれない。だがそれも、そんな都合のいい仕事が出てくれば、の話だ。締切の厳しい仕事は請けられないと思った。
九月に入ってからは、いつ陣痛が起きてもいいように備えた。幸い妊娠は順調で、年齢的に心配していた妊娠中毒症の症状も出なかった。
陣痛が始まったらすぐ呼んで、何を置いても駆けつけるから、と真由美は確約してくれた。不安の中、その言葉に愛実はどれほど救われたことだろう。いつも誰かに助けられ、励まされて生きてきた。親に貰えなかった分、別の何かがわたしには与えられているのかもしれない。そう思った。
陣痛が始まり、友人にメッセージを送る。すぐ行くと返信があった。出産の進行は思ったより早く、友人が到着する前に陣痛は五分おきになった。病院に確認し、すぐ行くことになる。これから病院に行くと、再度、真由美にメッセージを送った後、タクシーを呼んだ。妊婦に対応してくれるタクシーは事前に調べて、確認も取ってあった。
陣痛はどんどん強まり、あっという間に感覚も短くなっていく。
病院に到着し、受付しているうちに破水する。そこへ友人が到着した。
何か錠剤を飲まされた。助産師だか看護師だかが説明してくれたけれど、ちゃんと聞く余裕がなかった。言われるままに、運ばれるように、いろいろな処置がされ、分娩台に乗せられる頃には自分でも胎児がかなり下がってきていると感じた。
痛くて苦しくて、でももう後戻りできない。乗ってしまったジェットコースターは終わるまでもう降りられない。無事に産み落とすしかない。それがわたしの願い。それがわたしの生きている意味。苦しい中で愛実はそう思っていた。
「もう少しですよ、頑張って」
誰かの声が聞こえる。息んで、と言われ腹に力を込める。
「だめ! 引っかかってる!」
思わず叫んだ。赤ん坊の肩が引っ掛かっているのを感じる。痛い、激しい痛み、自分の体が、今、痛みを感じている部分しかなくなったように感じる。腕も足もどこに行った?
「会陰切開しますからね」
女医の声が聞こえ、スパッと切られる感触があった。息んで、と聞こえる。ダメ、もう頑張れない、そう思いながらも、力を込める。
「あ……」
何かが出ていく。赤ちゃんが出ていく。ずるりと出ていくのを感じた。
産声は、すぐそこから聞こえるのに、遠くから聞こえるように思えた。女の子ですよ、と言う声が自分に言われていると感じなかった。頬が涙で濡れていくのだけ感じていた。
産着を着せられた赤ん坊を
誰にも似ていないと思いながら赤ちゃんの顔を見ていると、あとでお部屋で会えますからね、と連れていかれてしまった。それから手助けされながら、分娩台から降り、車椅子に座らせられた。
部屋では真由美が待っていて、愛実を見て安心してくれた。
「安産だって、看護師さんが言ってた。病院に来るまで、家でずいぶん頑張ってたんじゃないかって言ってたよ」
真由美の言葉に愛実は何度も頷きながら、ぽろぽろ涙をこぼした。知り合いの顔に安堵し、出産は無事に終わったのだと実感した。
真由美に助けられて水を飲んでいるとき、赤ん坊が連れてこられた。さっきよりもしっかりした産着に変わっている。顔も綺麗になっているように感じる。
「どっちだったの?」
真由美は、赤ん坊の性別までは聞いていなかったようだ。
「女の子……」
愛実はぽつんと言った。そして、最初に見た時、感じたこととは別のことを言った。こうして改めて赤ん坊の顔を見て、しみじみと感じたことを口にした。
「パパにそっくりな女の子……」
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