5
あの日、わたしは嘘を
階下で眠る母親を気にして、避妊具の用意がないことを気にして、あの時、
本当は判らなかった。基礎体温をつけると懐空に言ったけれど、とうの昔に忘れていてその頃はさっぱり測っていなかった。周期を考えるとそろそろ危なかった。だけど……
一緒に暮らそうと、懐空の母が言ってくれた。『お母さん』と呼べる相手がそこにいて、一緒に食事をし、冗談で笑ってくれる。それが嬉しくて幸せで、懐空のお陰だと思い、懐空が愛しくて、恋しくて、どうしても愛し合いたかった。
愛実の母は、愛実が『お母さん』と呼べば
安心して『お母さん』と呼べる、一緒に食事ができる、目があえば微笑んでくれる、ずっと欲しかったものが目の前にある。そしてそれは懐空が運んできてくれた。
幸せ。幸せ。これが幸せっていうものなんだ。そう思わずにいられない。そしてその幸せを噛み締めたかった。懐空、あなたがわたしの幸せ……だから嘘を吐いた。吐いてしまった。騙すつもりなんかなかった。ただ、
だけど懐空、と愛実は思う。あの時、あなたもわたしが欲しかったのでしょう? あなたのキスは仕方なく応えるものじゃなかった。キスさえも燃えるように熱かった。
それが聞こえているかのように、懐空が愛実を満たす。何度も、何度も、何度も。
遠慮が却って深さを呼び濃密さを呼び、喜びを呼んだ。
懐空が愛を
一月、それまでと変わらず、家にいるときはほぼパソコンの前にいる懐空を横目に、愛実は引っ越しの準備を始める。大学最後の試験があると懐空は言っていたが、パソコンを覗き込んだりなどしない愛実には、彼が勉強をしているのか、執筆しているのかなど判らない。せめて、そろそろバイトを辞めてもいいのではないかと思う。
二月、卒論の面接も終わった、卒業できるかどうかの心配はなくなった、と懐空が言う。高校までしか行っていない愛実は漠然と『よかった』と思う。卒論に面接があるなんて知らなかった。どんな面接なんだろうと思った。
昼間、大学に行くことなく、それでも懐空がパソコンに向かうのは小説を書いているのだろうと思った。昨年の十二月、懐空は新人賞を受賞して、作家としてのデビューが決まっていた。その頃は二作目の執筆で忙しかった。
時おり、懐空は怖い顔をしてパソコンの画面を
そんな時、愛実は心配でたまらない。懐空が悩んでいる。でもきっと、悩みの種は小説の内容のことだ。何もできない、どうすることもできない。私にできることは、せいぜい時間を見て、お茶を運んであげるくらいだ。
もう一つ、愛実には心配なことがあった。懐空は四月には就職することも決めていた。いくらデビューが決まったからって、収入が保証されたわけじゃない、と言った。愛実と暮らすための安定した収入を懐空は欲しがっていた。でも愛実は、それが懐空の夢 ―― 作家への道を邪魔しないか心配だった。
ある夕方、パソコンに向かう懐空の横でアラームが鳴った。どうやらバイトに行く時間をセットしていたようだ。前日、作業に夢中になりすぎて、遅刻したと懐空は照れ笑いした。
バイトから帰っても、しばらくは寝ないでパソコンに向かう。愛実が起きる時間には、すでに起きていて、キーボードを叩いている。ちゃんと寝たの? と問えば、笑ってごまかす。
そんな生活が続くはずがない、破綻が目に見えている。そう愛実が言おうと思う頃、懐空が先に決断する。
「あみに迷惑かけてもいい?」
懐空は愛実を『あみ』と呼んだ。愛実がそう呼んで欲しいと言ったからだ。自分を愛さなかった実親と同じ呼び方を懐空にして欲しくなかった。
就職は辞退して、執筆に全力を注ぎたい。安定して稼げるようになるまで何年かかるか、見通しなんか全くない。それでも、一緒にいてくれるだろうか?
「迷惑なんかじゃない。そうして欲しいと思っていた」
愛実の返事に懐空は微笑んで、
「六月には最初の本が出る。そしたら、婚姻届けを出しに行かないか」
と言った。
本当は結婚式をちゃんと挙げて、愛実の花嫁姿を見たいと思ってた。だけど懐空の実家、懐空の母親の家に同居するのだからケジメをつけておきたい。式はまた、生活が安定してからでも挙げられる。
「改めてプロポーズはするから ―― 考えておいて欲しいんだ」
幸せだった。今すぐでもいいと思った。でもそれはできない。三月の半ばに卒業式があって、その翌日には懐空の母のもとに引っ越しする。
新生活が落ち着いてから、きっとそう懐空は考えているのだと思った。母の由紀恵にちゃんと話してから、そう思っているんだと思った。それには六月はいい頃合いだ。その『いい頃合い』、デビュー作が出版されるその日に婚姻届けを出そう、きっと懐空はそう考えたんだ、と愛実は思った。
卒業式に来ていくスーツは愛実が用意した。四年前、愛実が住むアパートに懐空が引っ越してきて、懐空の大学生活が始まった。桜の木があるそのアパートで、二年を過ごし、二人は愛しあうようになった。そのアパートが取り壊されることになり、朝日が差し込む部屋に引っ越して同棲を始めた。
初めて懐空の顔を見た時、真直ぐな瞳を
それが、この人がいなければ生きていけないと思い、この人がいるから生きていてもいいんだと思う相手になっている。そして『少年』はこの四年で『男』になった。わたしを守ろうとする『男』になった。その門出に身を包むスーツを愛実は懐空に贈りたかった。
もうすぐ三月になろうかと言う頃、愛実の体を不調が襲った。
最初は胃のむかつきを、食べ過ぎたのだろうと思った。一晩で収まった。でも、その後も吐き気を感じることが多くなり、食欲が失せた。そう言えば、もう二か月も来ていない。妊娠した、元旦の早朝に感じたあの予感は確信に変わった。
懐空に相談することなく、愛実は迷っている。産むか、それとも諦めるか。
いつか懐空は言っていた。自分の子どもを殺すなんてできない。だから懐空に打ち明ければ必ず、産んで欲しいと言うだろう。わたしだって産みたい、と愛実は思う。
でも、懐空の言うとおりだ。このタイミングでは『ダメ』なんだ。
今、子どもができたと知ったら、きっと懐空は夢を諦める。そして就職するというだろう。
せっかく決まっていた就職先はすでに断ってしまった。再度探すとなると、以前よりもずっと条件が厳しいはずだ。
それなら、懐空に黙って中絶する? その選択肢を愛実は選べない。自分の子どもを殺せない、懐空はそう言った。懐空の子はわたしにだって殺せない。それに ――
高校生の時、二度中絶している。実父から性的虐待を受けての妊娠だった。もう妊娠できないかもしれない、そんな恐れが愛実の中にはあった。ここでまた中絶すれば、きっと今度こそ妊娠できなくなるだろう。
思い違いでないことを確認するために行った産婦人科で、妊娠十一週だと告げられる。懐空の卒業式まであと十日だった。
エコー画像には、もぞもぞ動く『人らしき』ものが見えた。こんな小さくて、無事に育つのだろうかと不安になった。同時に、無事に育てたい。産んであげたい。愛実はそう決断していた。そのために、わたしは懐空を諦めよう、そう決意していた。
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