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 サインした本を相手に渡そうとすると、遠慮がちに相手が話しかけてきた。

「すいません、こちらにもサインをいただけないでしょうか?」


横浜の古くからある商店街、老舗しにせの書店でのサイン会は杉山涼成すぎやまりょうせいの新作の出版をうけてのものだった。


 見るとその本は杉山のデビュー作で、数年前、映画化されたときに再版されたものだ。

「いいですよ」

と、杉山は差し出された本を受け取ると、表紙をめくった。


「こら、なつみ……」

本を差し出した女性が、ともすればどこかに行ってしまいそうな、つれていた女の子の手を引く。思わず杉山は女性を見た。


「ひょっとしてお子さんの名前は?」

と、図々ずうずうしいかと思いながら訊いてしまう。サインを求められたデビュー作のヒロインの名前も懐海なつみだ。


「えぇ……先生のご本から頂戴しました」

女性が恥ずかしそうな顔をした。

「それは光栄だな」

 杉山は微笑んで、女性が連れている少女の顔を見た ―― 知っている。この少女の顔は見たことがある。サインをしていた杉山の手が止まる。


「名前を入れましょうか?」

 心なしか杉山の声が震える。

「いいんですか? それならナツミと」

「―― お母さん、あなたのお名前は?」

ゆっくりと杉山が女性を見上げる。

「あなた、愛実あいみさんじゃないですか?」


 女性の顔がみるみる青ざめる。そして少女の手を取ると、サインされた本も持たず足早に去っていく。

「待って! だれかその人を止めて!」

杉山が立ち上がり、声を張り上げる。だが雑踏に飲まれ、女性の姿は見えなくなった。杉山の手元には二冊の本が残されていた ――


 数時間後 ――


 港を見下ろすホテルの一室で、杉山が項垂うなだれていた。テーブルには置き去りにされた本が二冊、積まれている。

「すまない ―― もう少し巧くやっていれば、ここに愛実さんを連れてこられたかもしれないのに」


 ソファーに座る杉山に寄り添っているのは由紀恵ゆきえだ。

「あなたが悪いわけじゃないわよ」


「あの少女は絶対、懐空かいあの子だ。由紀恵、キミにそっくりだった」

「……そんな事もあるかもしれないとは思っていたわ」

杉山から離れ、テーブルの本を手にすると自分のバッグに押し込んでから、由紀恵は杉山の対面に座る。


 テーブルに置かれたルームサービスのポットを手にしてカップに注ぐと、コーヒーの芳香が広がった。


「まさか、とは思ってた。わたしと同じ理由で愛実さんがいなくなった……本当はそう思いたくなかっただけよね」

「由紀恵……」


「あの時、あなたはまだ大学生で、親の脛齧すねかじりで、到底 子どもなんか育てられないって思った。自分一人で育てるしかないって思った」

「話してくれれば大学なんか辞めて働いた。キミがいなくなって、結局、わたしは大学を辞めたんだし ――」


「でもきっと、作家杉山涼成は生まれなかった」

「作家にだって成り行きでなった。ならなくったってよかった」


「そうね、判っているの。わたしは勝手だったって。あなたの気持なんか考えなかった。おなかの子を守りたくて、あなたよりも子どもを優先したの ―― それが正しいか間違っているかなんて、どうでもよかったの」


「……初めて懐空の作品を目にしたとき、『これは盗作だ』と、一瞬そう思った。この文章には見覚えがある。わたしが書いたものだ ―― でも違う。こんな作品は書いたことがない。では、誰だ、こんなにわたしの文体に寄せて書けるヤツは、そう思って作者の名を見た」


 由紀恵は黙ってカップを口元にあてている。

「名前を見て納得した。キミの苗字みょうじ大野おおの、そして懐空……キミとわたしの間にできた息子だと直感した。あの頃はもう、キミとこんな風に会っていたのに、よくもわたしに黙っていたものだ、と呆れたよ」


ここでやっと由紀恵が口を開く。

「人気作家さんに隠し子がいたんじゃまずいでしょ?」

「馬鹿な……」

杉山が鼻白む。


「わたしが懐空のことをおおやけにできないのは、わたしの息子だということで彼が正当に評価されなくなることを恐れているだけだ。キミとのことだってそうだ。すぐにでも父だと名乗りたいし、キミと結婚したいとも思ってる」

「懐空がデビューできたのは、やっぱりあなたのおかげ?」


 この由紀恵の言葉は、少なからず杉山の怒りを買ったようだ。ここまでの会話の中で、鬱積うっせきしていたのかもしれない。


「まったく、キミはどうにかしているんじゃないのか? 選考委員はわたし一人じゃない。懐空の受賞は満場一致だった ―― 悔しいが、彼はわたしなんかよりずっとマシな作家になる。一見した時はわたしのコピーのようだと思った文体も、完読して判った。わたしより遥かに華やかで隙が無い。計算尽くなのに、よくよく分析しなければ気が付けない。ただ読むだけの読者は、まんまと彼の仕掛けに惑わされるだけだ。才能だ、と思う。わたしなんか足元にも及ばない」


 そうね、わたしはどうにかしているわよね……悲し気に由紀恵がつぶやく。だから妊娠しても、そのことを子どもの父親に告げることもしなかったんだわ、と、心の中で皮肉った。


「まさかあの子が作家になりたがっているなんて、思ってもみなかった。受賞が決まってからよ、ホームページを見せられて、そこにあの子の名前があって……驚いたわ。やっぱりあなたの子なんだって思った。でも、選考委員にあなたの名前を見た時、ぞっとした」

「えらい嫌われようだ」


「あなたの依怙贔屓えこひいきで受賞したのだとしたら、あの子に将来はないと思った。そんなの長続きするはずない、すぐに消えていくって、そう思ったのよ」

「だから、そんなことしていないって……」


「うん、そうね。よかったわ ―― それより、いい加減、お料理をいただきましょう」

 テーブルでは、ルームサービスで頼んだディナーがとっくに冷めてしまっている。


 そうだね、と杉山も頷き、それとも別のものを頼みなおすかい? と由紀恵に尋ねる。そんな杉山を由紀恵が『 風空ふくは相変わらずお金持ちのお坊ちゃんなのね 』と寂し気に眺めていることに杉山は気付かない。


「ううん、わたしにはこれで充分。冷めていたって美味しいわよ」

 料理を口に運ぶ由紀恵に杉山も笑顔を向ける。


「うん、キミと一緒なら、何を食べてもおいしい ―― 今夜は泊っていけるのだろう?」

その笑顔に少しだけ不安の影が紛れ込む。そのつもりよ、と答えながら由紀恵は思う。


 わたしを失うことを、出会った時からずっとこの人は恐れている。それが判っていながら姿を消したわたしが、信じてとは言えないけれど、わたしだってあなたを愛しているのよ。


 ほぼ食べ終わるころ、何も言わずに杉山が自分の分のデザートを由紀恵によこす。デザートは由紀恵の好きなプリンだった。そんなことしなくていいのに、と思う由紀恵だが、いつも黙って受け取っている。受け取って、嬉しそうな顔を見せれば杉山が喜ぶことを知っているのだ。


 プリンをスプーンですくいながら由紀恵が溜息ためいきく。

「やっぱり、愛実さんのこと、懐空には話さないほうがいいわよね?」


コーヒーを口に運んでいた杉山がちらりと由紀恵を見る。保温ポットのおかげで、コーヒーだけはまだ熱い。ただ、少し味が落ちたようだ。


「彼女が懐空のところに戻る決断ができないうちは話しても意味がないと思うよ」

「戻る気になってくれるかしら?」


 杉山が考え込む。

「いや、今のままでは無理だと思う。キミもそう思っているんじゃないのか?」

「そうね……」

プリンの皿にスプーンを置いて由紀恵も考え込む。


「今、愛実さんが懐空のところに戻れば、それこそ『隠し子』って騒がれるわよね? 下手すると、今まで気が付かれなかったのか、単に問題と思われなかったのかは知らないけれど、懐空の戸籍に父親がいないことすら変に騒がれそう」

「うん……」


 由紀恵の言うとおりだと、杉山も思う。だからと言ってこのまま放っておくこともできない。


「懐空は自分に子どもがいると知れば顔が見たいと望むだろう」

「知らなければ?」

由紀恵の意地悪な質問に杉山が苦笑する。


「知らなければ、思いようもないだろうけれど……もし、自分の子がいるのなら、いるって事実を知りたいと思う。わたしはそうだった。懐空のことに気が付いた時、なぜもっと早く教えなかったと、キミを責めた。忘れたかい?」

「忘れるはずないじゃない」

今度は由紀恵が苦笑した。


「子どもがいるならもっと早く知りたかった。一緒に育てたかった。あやしたり寝かしつけたりしたかった ―― あなたの言葉にわたしが嬉しくて泣いたのを、あなただって覚えているでしょう?」


 愛実には戻ってきて欲しい。懐空の幸せはきっと愛実とともにある。杉山にしても由紀恵にしても、自分たちが失った時間の重みを感じずにはいられない。同じ喪失を懐空に味わわせたくはない。


 だが、どうする? もし愛実を見つけ出せたとしても、愛実が戻ってきたとしても、そこには新たな問題が待っていそうだ。


 時間が巻き戻せるものならば、と思う。愛実が失踪する前に戻って、いなくなることに意味はないと彼女に教えてあげたい。


 いや、むしろ……由紀恵が風空を残して姿を消す前に戻りたい ――

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