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 先生! と呼ばれて杉山すぎやまがハッとする。呼んだのは顔なじみの編集者だ。

「いや……寝不足かな、ついボーッとしてしまった」

苦しまぎれの言い訳をする。打ち合わせ中に物思いにふけっていたとは言えない。


「で、何の話だったっけ?」

「だから! 対談の企画があるんです。若手作家との対談。お願いできますよね?」


「あぁ、雑誌の企画だったっけ? 一年間、毎月かぁ。わたしに務まるかなぁ」

「話題はこちらで用意しますから。先生はそのテーマに沿って話していただければいいようにしておきます」


「わたしはお世辞にも話し上手とは言えない。ほかに適任がいるんじゃないのかね?」

「そんなこと、言わないでくださいって。新作も、あっという間に増刷、三十年に渡って不動の人気を誇るベテラン作家から、若手作家にエールを送る、そんなコンセプトで考えてるんです」


「うん? まだ三十年経ってないんじゃなかった?」

「正確には二十八年ですね。でも、一年連載した後に、デビュー三十周年記念の一環として出版しようと考えているんです」


「ふぅん、つまり三十年を記念して大作を書け、そしてキミの出版社から出せ、そんな話か」

 杉山が苦笑すると、編集者が『バレますよね』と笑った。


「お願いしますよ、先生。ほかの出版社からも同じようなお話があるでしょうけど、ぜひ我が社で ―― 副社長 直々じきじきに、絶対 のがすなって、言われちゃったんです」

松原まつばらから?」

 松原は杉山がデビューした時の担当者だった。


「松原の頼みじゃ、無下むげにもできないか」

「それじゃ、先生!」


「いや、即決はできないよ」

 笑う杉山に編集者がさらに食い下がる。


「それじゃ、せめて対談の企画だけでもOKを貰えませんか?」

「対談か……相手は誰だろう?」


「第一弾は大野おおの懐空かいあでどうですか? 杉山先生は大野先生のデビュー作を随分買っていらしたし」

「ふむ……」

杉山の背中に冷たい汗が流れる。


 懐空には関わらないよう、意識してきた杉山だ。特に同席は避けたい。


 由紀恵ゆきえにそっくりな懐空だか、やはりどことなく自分に似たおもちの懐空と並べば、誰かが勘繰かんぐるのではないか? それ以前に、何の意図もなく『似ている』と言われただけでも、自分が動揺しそうで怖い。


 君子危うきに近寄らずではないが、わざわざ自分から墓穴を掘りに行くことはないと思っていた。しかし露骨ろこつに避けて、自分が懐空を嫌っていると懐空に思われたくもない。


「いや……対談はやめよう」

「先生、そんな……」


「しばらく執筆に専念するよ。キミがさっき言っていた『大作』とやらの構想をじっくり練るのも面白いと思えてきた」

「え? それじゃ、うちに?」


「いやいやいや……そう事を急くな。ま、考えておくよ」

 編集者を半ば追い出すように帰して、再び杉山は考え込む。考え込むのは由紀恵と懐空のことだ。


 取り戻した由紀恵を二度と離すものかと思う。二十九年前の喪失感をもう味わいたくない。よみがえった充足感はなにものにも代え難い。由紀恵といられるのならば、金も名誉も仕事も、すべて投げ出して構わない。


 できることならば、由紀恵と結婚し、関係を公にし、『コバルトの海に燃えて』の懐海なつみはこの人だ、嵐の海に飛び込んでまで、僕が愛を願ったのはこの人だ、と宣言したいくらいだ。


 何を若造のような、と自分でも思うが、由紀恵を失ったあの若い日、それが戻ってきたのだと感じる。


 懐空のことさえなければ、なんとしてでも由紀恵を口説き落として結婚していただろう。なぜ由紀恵はもっと早く、懐空の存在を知らせてくれなかったのかと、恨みがましい心持になる。


 由紀恵と再会したのは春の初めだった。確か懐空が応募した新人賞の締め切りもそのころだったはずだ。判っていれば選考委員を辞退することだってできた。だがそれを今更言っても始まらない。


 それこそ今更だが、こんなことなら作家になんかならなければよかったと思う。所在不明になった由紀恵を思いきれず、大学も辞めて自暴自棄になっていた杉山に、その体験を小説にでも書いたらどうだ、とそそのかしたのは友人の剣持けんもつだった。


「愛しい人の気を引きたくて嵐の海に飛び込むなんて、ドラマチックな話じゃないか」

と、剣持は笑った。

「普通はできないぞ。本当に命がけの恋だ。実際おまえはもう少しで溺死するところだった」


 それに、もし小説が売れたら、彼女も帰ってくるかもしれないじゃないか……帰ってくるかも、その一言にまんまと乗せられて杉山は、書いたこともないのに一編の小説を書き上げた。


 剣持にしてみれば、杉山の気を紛らせるのが狙いだったのだろう。だが出来上がった作品を読んで驚かされる。


 どうせ日記に毛が生えた程度のものだろうと思っていたのに、事実に沿ったフィクションは、海からは潮の匂いがし、足の裏が焼けそうな砂浜を感じ、人々からは息遣いが聞こえ躍動していた。そしてそこには眩しい夏の光があった。自らが作家を目指していた剣持は、伝手つてを頼って杉山の原稿を出版社に持ち込んだ。そして、あれよあれよという間に、作家 杉山すぎやま涼成りょうせいが出来上がった。


 杉山の才能に圧倒された剣持は、作家になるのを諦めた。今でも剣持は酒の席で杉山に言う。おまえに小説を書けと勧めたのは、人生最大の功績であり失策だった、と笑う。


 あの時、剣持に乗せられることなく、兄に従ってきちんと大学を卒業し、父の会社に勤めていたら、随分と違う人生だったことだろう。父が他界した今、再会した由紀恵と問題なく一緒になれたかもしれない。


 でも、本当にそうだろうか? 父の敷いたレールに乗っていたら、五十に手が届こうかと言う今まで、気ままな独身を気取っていられただろうか? 勧められる縁談を断り切れず、誰かと結婚していなかったか? そもそも由紀恵と再会できたのだって、自分が作家だったからだ。


 作家なんか辞めてしまおうかとも思うけれど、何の解決になるわけでもない。杉山が作家だったことが消えるわけではないのだ。


 杉山と由紀恵が一緒になれば、少なくとも作家杉山涼成が、作家大野懐空の母親と結婚、と騒がれる。杉山のデビュー作のヒロインが懐海なつみであり、杉山の本名がなのだから、懐空が誰の子か知られずにいられるわけがない。


 懐空のことだけを考えるのなら、由紀恵と会うことすらやめたほうがいいのは判っていた。逢瀬を重ねていれば、誰かに見つからないとも限らない。でもできない。本心を言えば毎日でも会いたい。由紀恵を失うなんて耐えられない。


 堂々巡りで出口の見えない物思いの中で、ふと杉山は思った。


 もし、懐空が自分の父親が杉山だと知ったら、どう思うのだろう?


 由紀恵は、懐空は一度も父親のことを訊いたことがないと言っていた。初めから父親はいないと思っているみたいだと言っていた。


 子どもの時はともかく、父親がとは、さすがに懐空だって思っていないだろう。


 わたしがおまえの父親だ、そう告げたら、懐空はどんな顔をするだろう。


 一度だけ会って言葉を交わしたことがある。あれは五年前、恋人に去られた懐空は悲嘆にくれていた。


 名や顔は知っている程度の杉山に、あの時懐空は苦しさを打ち明けてくれた。どれほど杉山は驚いたことか。自分から去った由紀恵と同じように、懐空の恋人は懐空の前から姿を消した。


 少しでも懐空を励まそうと、杉山は由紀恵が消えた時の自分を思い出しながら懐空に話した。参考になるほどの話などできなかった、もう少しマシな話をすれば良かった、と今でも思う。


 目の前でぽろぽろと涙をこぼす懐空に、つい貰い泣きしそうになった。わたしの息子がこんなに打ちひしがれている、それが辛かった。何もしてやれない自分が情けなかった。


 そして実感した。


 由紀恵にそっくりなこの子は、二十数年前のわたしと同じ顔をしている。間違いなくわたしと由紀恵の間にできた息子なんだ、と。

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