2013.3.30 - 引越し②

 自室に入ると、僕は「ふうっ」と段ボールに腰をかけた。部屋には先に搬入が住んでいた勉強机とベッドがあるくらいで、ほとんど何もない部屋。十二歳の少年には上等に思えた。長距離の移動で疲れきってしまった僕は、うっかり眠ってしまいそうだった。しかし、そんな束の間の至福を阻んできたのは父親の声だ。

 「もうすぐご近所さんに挨拶へ行くから、すぐに着替えて下に降りて来いよ」

 本当は部屋から一歩も出たくはなかった。やっと掴み取ったプライバシー、そう易々と手放すものか。だが、“劣等生”の僕を両親を見逃してくれるはずがない。僕は反抗を諦め、玄関に降りた。

 「……まさか、目と鼻の先に住んでいるなんて俺も思わなかったんだがな。こうなった以上はな」

 「そうだね」

 母はため息をついた。両親がため息をつく場面をあまり見たことがなかったから、その様は新鮮に思えた。


 僕は促されるがままに、頭を下げた。

 それはあまりにも退屈な時間だった。圧倒的な虚無の中に、口にしたくない言葉を次々と口にしなければいけない。ほんの少しだけ、父親に同情した。「ミス埼玉」に選ばれたことがあるという母親は、一体どんな気持ちで頭を下げているのだろうか。僕にはわからない。

 「山本クン、次から頼むで。君は我が社のホープなんやから」

 「ありがとうございます」

 「それはそうと、随分と素敵な奥さんやな」

 上司の頬が緩んだことに気付いた父親は、咄嗟に母親を庇った。当時はそんな言葉は知る由もなかったが、“セクシャル・ハラスメント”とはこのことを言うのだろう。上司は父親の仕草に一瞬不機嫌な顔を見せたが、咳払いをした後、神戸支社での業務を事務的に説明した。僕と母親は別に一緒に聞かなくたっていいのだが、これも父親の面子のためである。痺れた足を奮い立たさなければならない。

 「よし、じゃあ明日から頼むな」

 「よろしくお願いいたします」

 上司は父親をじっと見つめた後、右手で「ここから立ち去るように」というジェスチャーで僕たちを送別した。僕は一見真面目そうで狡猾な上司の姿に苛立ちを覚えた。

 ずっと張り詰めた気持ちで上司の話を聞いていた父親も同じだった。「やっぱ、関西でも変わりそうにないや」と第一ボタンを外し、母親に苦笑いを向けていた。普段なら「ざまあみろ!」とでも言いたい所だが、さすがに今回は言えない。僕は慰め合う両親の姿を見て、「こんな大人にはなりたくないや」と心の中で何度も復唱した。

 僕たちは夕暮れの住宅街を歩き、新居に再び足を踏み入れた。嫌な上司との邂逅は、青春色に輝いていたはずの新生活が、どんよりとしたグレーに変わった瞬間だった。

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