死者の岬

北川 聖

第1話 死者の岬

私を取り巻く全てが嘘に思える。

自分が自分でいることがつらい

他人がいることがつらい


他人の存在が信じられない

他人への不信感がある


全てが嘘に思える

この不条理劇はいつ終わるのか




死にたい夜

人間への嫌悪感が増していく

なぜ奴らが死なないで俺が死ななきゃならないんだ


不条理感に苛まれる


俺が死ぬ時は人間の死ぬ時

全てを滅ぼしてから死にたいと強く思う


存在に耐えられない

虚無の世界へ行きたい


まず人間を殺してからだ

滅亡の焼野原を一人彷徨う




 いつからか自分以外の全てのものが嘘に思えてきた。もう上の詩で全て言い尽くしているのだが、手記を書きたいと思う。詩だけでは分からない人種がいるからだ。死ぬ前に手記を残すのは時代に反している。今の流行は遺書を残さずに静かに死ぬことだ。だが私という男はそれでは飽き足らないらしい。なんとかして死んでいく過程を描写したいらしい。


 何から書こうか。それは私が数十年経った今でも覚えているあの女の子の言葉だ。言霊といってもいい。ずっと残るのだから。子供の時、裏の道にある近所のお兄さんを訪ねた時だ。その女の子は言った「変な人」。この何でもない言葉が今でも心に突き刺さっている、そうか、俺は変な人なんだな、だから変な人としての人生を送らなければならないんだ。その子は裏にある牛乳屋の女の子だった。何気ないひとことだったんだろう。子供が無邪気に感じたままの言葉を喋ったに過ぎない。だからこそ私の心を抉りいつまでも消えない言葉になっている。子供は正直だ。ありのままを言っている、そうか、やはり俺は「変な人」なんだな。それが私の一番古い傷の記憶である。まだまだあるが、順を追って書いていく。


 時間は飛ぶが、高校の頃、人殺しと言われたことがあった。そう、確かに見方によっては私は人殺しだった。だがその頃には柔な心は厚い鉄板に覆われていた。私は何を言われようと高校に通った。最低だった成績はその事故により考えること多くなり上がっていった。普通なら自殺しかねない事故だったが私は一切考えなかった。受験勉強に励んで、東京の有名大学に受かることができた、故意による殺人と事故とは違う。私は相手に恨みはなかったし、第一知らない人だったんだ。だが鉄板はやがて錆びその言葉はいつまで経っても私の心に残ることとなった。


 大学の思い出はほとんどない、私は大学へ通おうとしなかったからだ。もうその頃には人間関係に嫌気がさしていた。普通なら青春真っ盛りの時期を灰色のペンキで塗りつぶしていた。

 次は会社に勤めている時だな。私は会社から独立して事業をやっていた。それがなかなかうまくいかなくなり、再び会社員生活に戻った時だ。その頃には非正規雇用となっていた。私はこれを奴隷雇用と呼んでいるのだがひどい制度だ。

 その新しい会社では私は真面目に仕事をしているのにやけに同僚に嫌われた。私が仕事以外では全く付き合おうとしなかったからかもしれない。だが正規社員と非正規社員が何を話すっていうのだ。話すことなど何もない。私がそこを辞めたのは上司がみんなの前で「君はみんなに嫌われている」と言ったからだ。私は大いに傷ついた、もうそこでやることは何もないと思って辞めた。もうその頃には人間嫌悪が皮膚に張り付いていた。そこを辞めてからは私の希望する仕事はなくなった。世間の大部分が気に入った仕事をしているわけではないだろう。だが私は地に落ちてまで仕事をしたくない。貯金が尽きたら死のうと思った。私はほとんどお金を使わなかったため、貯金はある程度あった。それが尽きる時、私のこの世での生活は終わる。実にわかりやすい、理想的な死に方だと思った。死に方は色々考えた。精神科医を騙して睡眠薬が大量にあったのでこれで死ぬことはできる。しかし劇的な死に方とは言えない。やはり崖で身を投げたい。即死でなければ苦しいだろう。だが今でも相当苦しいのだ。40歳、自殺するには遅い年齢だ。自殺を常日頃考えている人間は20代30代で死んでいる。私がそれほど遅くなったのは外界に対する恨みだ。自分が死ぬ前にこの世が滅びよといつも考えていた。それがなかなか人生の敗北である自殺へと向かわせなかったのだろう。だが今はもういい。敗北でも何でもいい。精神的に健康な人が理解できない自殺者の心理を書いてやる。人はこうやって死んでいくんだよ。


 外界が薄まった影のように半透明になっていく。外界の重さがなくなる。人が人形に見える。人生が瞬間的に流れていく。何も聞こえなくなる。半透明がさらに濁っていく。最後には真っ黒になって昼でも夜と変わらなくなる。


最近の自殺者が遺書を残さないのを分かったような気がする。

遺書を書くと自殺への意志が弱まるからだ。

書くことによって解放される。

やり直して生きようと思う。

恐らく自殺者は何度も何度もこの経験をしたのだろう。

書くと死にたくなくなり、書かないでいると死にたくなるのが遺書というやつだ。


 私の場合、筋金入りの自殺志願者なのでそういうことはない。誰かを誘うこともない。人畜無害な自殺者だ。ビルから飛び降りれば下に歩いている人にぶつかるかもしれない。海へ飛び込めば魚の餌になってお終いだ。苦しみは一瞬だ。

 簡単に自殺へと向かう経緯を書いたが、そんなに複雑で長くなるはずもない。芥川のように長い遺書めいた小説を書く必要はない。生きるための小説はいっぱいあるが、死ぬ人のための小説はほとんどない。それは小説を書く気力もないからだ。だからほとんど簡単な遺書になる。それが正当なんだと思う。私のように長々と死ぬ過程を描く人間はいないだろう。本当に死ぬ人は無言で死ぬ。私は大袈裟なんだ、こんな長い書き物を残すなんて。でも別に発表するわけでもない。崖の上の石の下に挟んで置くのだ。風で飛んで仕舞えばそれでよし、誰かが読んだとしてもそれでよし。どうでもいいのだ。それこそ風まかせだ。私という人間の重みはその程度の軽さだったのだ。こう書いてくると自己嫌悪が強くなる。書いていて嫌になる。しかし書いていて高揚するような文章とはどういうものだ。馬鹿らしくて読めないだろう。戦時中の文学みたいなものだ。私のように素直に書けばいいのだ。あるがままに心の底を描けばいいのだ。読んでいる人にも心当たりはあるかもしれない。


 何しろ生まれてきて一度も死にたいと思わなかった人間はいないそうだからな。本当は誰もが心の底では少しばかり死にたいと思っているのだ。しかしその気持ちが強くないために顕在化しないだけの話だ。


 ずいぶん長々と書いてしまった。これは遺書なのか小説なのか、はっきりさせた方がいい。こんな長い遺書はあるものか。私はどちらでもいいと思っているのだ。受け取る側に任せていいと思う。


 さてまだ書くことはあるだろうか。要するに私は過激な適応障害なのだ。この世の現実に対して完全な適応障害なのだ、この世で生きていけない、だから死ぬだけの話だ。簡単だろう。人の一生なんてこんなものだ。逆に聞きたい、それ以外に何がある。子供は産むだろうな、それだけだな、生きていた意味があるのは。だが今どき血縁で結ばれた親子なんて信じるのは時代遅れだ、ただ財産を継承するのに意味があるくらいだ。子供は親の死を少なからず望んでいる。これはいくら否定しようとも否定することはできない。あなたの心に聞いてみるがいい。深く考えればそうであることがわかる。みんな建前で生きているから親子の愛情なんてことを言い出す。だが嫌悪感の方が強いはずだ。


 さてまだ書くことがあるだろうか。私の血筋のことも書いて置いてもいいかもしれない。私の叔父と甥は知的障害者だ。生活保護で生きていた。父は母の方の血筋が悪いと言ってしょっちゅう詰っていた。確かに母の方からの因果かもしれない。だが父の方からのものもあるかも知れない。何しろ戦争で人殺しをしてきたからな。戦争であろうと何であろうと人殺しには違いない。親子で人殺しというわけだな。



真っ青な空を見つめていると死にたくなる

私はこれが正常だと思う


異常なのは人間を含むこの世界の方で

不公平、嘘、略奪、虚栄、不寛容に満ちている


だから南洋の真っ白な砂の誰もいない島に憧れるんだ

そうした光景を見ると幸せで死にたくなるね


不幸だけでなく幸せでも人は死にたくなるんだ



 場所はあの岬がいいだろう。行方不明になる確率が高い。誰にも知られず誰にも調べられず消えることができるのは嬉しい。別名「死者の岬」と名前がついている。こちらの方が有名だ。もう用意はできている、と言っても身ひとつで投じるのだから全てを捨ててゆく。昨日、下見に行ってきた。午前5時から午後9時まで見回りが来る、がそんなのないと同じだ。深夜、早朝に飛び込めばいいのだから。それにしても昨日から気分が悪いのは何故だろう。気持ちを無にして跳躍しなければならないのに現実への未練があるのか。何の未練だ。それは私が自然を美しいと感じる気持ちだ。昨日は抜けるような青空だった。水平線がはっきりと見えた。この世はこんなに美しいのに何で自分だけ死ななければいけないのかという思いだ。

 そんなの偶然だ。もし曇天だったらどう思うのだ。まさに死にふさわしいとでも言うのか。そうさ、たまたまいい天気だったにすぎない、風雨の吹き荒ぶ嵐だったらどうだ。私は確実に死ぬだろう。お前は天気予報をして自殺するのか、愚かなやつだな。


「ちょっと見回りの人に挨拶しにいこうかな」

 双眼鏡を持って辺りをさっきから確認している人がいる。

「やあ、ご苦労様です。そうやって毎日監視して自殺を防いでいるんですか、それが何になります。死なせてあげましょうよ」

 すると監視の年配の人が「何を抜かすか。お前は誰だ」

「僕はただの自殺志願者ですよ。あなたの厄介にならないように海の彼方に消えますから」

「お前、からかっているのか。そういう人間は自殺しない。長年の勘でわかるんだ。

「勘なんて当てになりませんよ。死ぬことの何が悪いんですか。あなたの信念は何ですか」

「死んだら悲しむ人がいるだろう。岩に落ちたら骨がバラバラになるぞ。本当の死を見ていないからそんなに鷹揚でいられるんだ。お前さんは無惨な死体を見た事があるのか。それを見れば死にたい気分はなくなる」

「僕はね天涯孤独の医者くずれなんですよ。死体は嫌というほど解剖したなあ。死体が気持ち悪いのはわかるけど慣れですよ。僕は死体と添い寝したことなんて何回もありますよ」

「じゃ、何だな。俺たちは死のうか死ぬまいか迷っている人を救っているんだ。あんたのような人も見てきた。死を馬鹿にするようなね。俺たちに用はないだろう。どうせあんたは死なないよ」

「おじさんは人間ていうものを知らないね。笑いながら飛び降りるのもいるんだよ。生と死なんて僅かな差じゃありませんか。ほとんど同じですよ」

「あんたはどうかしているんじゃないか。医者も待機している。診てもらえ」

「えっ精神科医ですか。精神科医は今やみんなに馬鹿にされているんですよ。医者に馬鹿にされ患者に馬鹿にされ生きていてもしかたがないなあ、彼らは」

「お前さんと話している暇はない。私は忙しいんだ」

「何なら手伝ってあげますけどね。僕は人が飛び降りてから伝えますけどね」

「ふざけんな!」


 監視員は怒り出した。でも外面上の怒りだった。彼らは人の生き死にの現場を見てきた。彼らが怒るのは容易く安易に命を投げ出してしまう人だ。私のようにイカれたやつが飛び降りると思っていないのだろう。恐らくその勘は当たるだろう。でも私は特殊なんだよな。そんなに死が怖いかい。特攻隊は死を恐れたか。彼らは死ぬのを潔しとした。恐れを微塵も出す事ができなかっただろう。だが彼らの多くは生きたかったのかもしれない。


 恐らく私は生と死の美酒に酔っているんだなあ。もうすぐ死ぬかと思うと身震いと共に興奮がやってくる。私は誰も道連れにしないよ。最近はみんな仲良くっていうのが流行っているんだなあ。気持ちは分かるけどね。死に対しては一人だけで対立しなければね。殺してもらうなんてどうかしていると思うよ。私は監視員になおも話しかけた。

「おじさんは死にたくなる事ないの」

「俺は無惨な死体をたくさん見てきたから死が怖いんだ。だから自殺しない」

「何だ、おじさんも死にたいことあるんだね、それなのになんで自殺志願者を助けるような仕事しているの」

「俺のは使命だ。一人でも多くの命を救うのが俺の救いでもあるんだ」

「なるほどね、おじさんもスネに傷持っているんだね。よかったら聞いてやるよ」

 監視員は彼を睨みつけた。どうも娑婆にいた人の目つきじゃないようだ。


「おじさん、怖いよ、その目つき、人を殺したことのある人の目つきだね」

「そうさ、俺は人を殺した。ヤクザだったんだよ。もう刑を満了して抜けたがね」

「人殺しが人を救っているのはおかしいなあ、マザー・テレサが人殺しをしているのよりおかしいよ」

「何だ、その例えは、よく分からねえな。俺は一人でも救うことで俺が殺した人の霊を慰めているんだ」

「おかしいね、ダメだね、一度犯した罪はどんなことをしてでも消えないからね。こんな人助けは自己満足に過ぎないね。あんたが殺した人を生き返らせたら褒めてやりますよ。そんなキリストみたいなことできますか。自分は徹底的にダメ人間だと日頃から思っていないから殺人を起こすんですよ。あなた相当粋がっていたんじゃないの。人を殺したら自分も死ななければ合わないじゃないですか。さあ今からでもいいから飛び込みなさいよ。そうしたらあなたの罪はなくなるでしょう、どうですか飛び込めますか」

 監視員は私の言葉に傷ついたようだった。シワが深く刻まれたそこから一筋の涙が伝わった気がした。

「俺は飛び込めねえ、怖いからよう」

「相手も怖かったんですよ、拳銃かナイフか分かりませんが、痛かったんですよ、即死ならいいけど、急所を外れると苦しみと痛みしかありませんからね」

「俺にどうしろというんだ」

「飛び降りるんですよ、さあ早く、ここから」

 監視員は私から目を逸らし去っていった。


 私は監視員をからかうのが楽しかった。言葉がどんどん出てきて追い詰めるのが快かった。

 今はお昼頃だな、腹も空いたな。いくら死にたくても腹が空くのが面白かった。岬の店にはそこらへんから湧いて出たような人が長蛇の列を作って並んでいた。なんかみんな虚ろな目をしている。この人たち、みんな自殺志願者かな。愉快だ、最後の晩餐はいつになるんだろう。私は列の最後に並んだ。誰も何も話さない。みんな一人で来たのだろうか。観光の人もいるだろうに。ちょっと目を逸らした。すると家族連れの人もいた。そうさ、いくら自殺の名所って言ったって、それ以上に観光名所だろう。だが私はまだ知らなかった。この家族連れは数日後に軽自動車で崖を突破して飛び降りたのだった。30分以上並んでようやくおにぎりと飲み物を購入した。私は崖に座り遠くを見ながら食べた。うまかった。こんな時でもうまいものはうまいんだな。辺りを見ると私と同じようなのがいっぱいいた。この人たち、みんな自殺するのだろうか、愉快だ、笑いが止まらない。自殺者は基本的に滑稽なんだな。

 ところでこの人たちを見ていると希死念慮が薄れていくような気がした。同類を見ていると何か愉快になってしまうんだな。私はいつ決行するのだろうか。生きても死んでも同じなんだな、面倒臭い、だが岬を離れようと思う気は起きなかった。あのゴミゴミした都会、雑多な人々が猥雑な生活を送っている街に帰る気持ちは全くなかった。じゃどうするんだ。ここで生活するわけにもいかない。死ぬのさ。私の希死念慮はあの街で育まれたんだな。全くの片田舎で育った方が私にはよかったんじゃないか。そうすれば鬱病になることもなくのびのびと育ったんじゃないか。そんな夢のようなことを考えた。私は自分が鬱病だとは認めないがね。あのクリニックの先生だけだ、私を患者扱いするのは。あの先生は元患者じゃなかったのか。そんなことを考えた。


 岬を見渡せるところにホテルがある。私はそこで眠ることにした。窓を開けるとちょうど夕日が沈むところで美しかった。私は詩を作った、作詩は私の趣味である。




夕日が沈んでいく


私の心のように


明日には朝日となって照らすだろう


でも心は沈んだまま


今はただ休もう


いつか環境が変われば


再び活力を取り戻すだろう


心が憂鬱に沈む時はただ諦める


何も考えず何もせず心のままに


死にさえしなければやり直せる


いつか心も朝日のように甦るだろう




 詩を作るのは自由だからである。私がどんな状況にあっても詩は生まれる。詩には詩の世界がある。現実とは異なっていようと構わない。私の心がどんなに鬱屈していようと詩には関係ない。詩は自立して生まれる。首をくくる前でも希望の詩は書ける。私は椅子に座りながら暮れていく空を見ていた。食事は豪勢だった。私が自炊して作る料理とは比べ物にならなかった。当たり前であるが、食事はいいものを食べた方が心にもいい。毎日お茶漬けじゃお茶漬けの心になってしまう。

 今日は下見だけだったな、監視員をからかって面白かったな。また会うかな。まさか心がめげることはあるまい。明日からどうしよう。どうしようもないのさ。死ぬのを待っているだけだからね。私はぐっすりと寝て子供の頃の楽しい夢をたくさん見た。


 昨日が終わり今日が来た。当たり前だ。だが死にゆく私にとって当たり前のことはない。それは誰でも同じことだが気が付かない。いつ決行してもいいんだが、それも今日でもいいのだが、私は自殺志願者の群れに少々興味が出てしまった。

 監視員からが壮絶な人生を送っている。その監視員が監視する自殺志願者とはどういうものだろう。朝日が昇って来た。

「出たぞ~出たぞ~」という声が聞こえる。

 それで目が覚めたのだ。何が出た? ここはどこだ、ああそうか、自殺者が出たんだな、私は身なりを整えると現場に行って見た。好奇心は死ぬまであるらしい。昔なら土左衛門というべきだが新鮮な死体は腹が膨れ上がらない。みんな礼儀を守って離れて見ている。その中央で医師が生死の判断をつける。診断自体は5分もかからなかかった。どうやら死んで相当時間が経っているらしい。死者が面倒なのは鋭い岩のところまで降りていき引き上げなければならないことである。だから私の死は確実に海に沈むこと、見つからないこと、すぐに打ち切られることを目標にしている。

 女の死体だった。みるも無惨だ。まだ若そうなのに人生を放棄した。理由は本人しか分からないが、そんなに死ぬ理由が多いわけではない。崖から引き上げる時みんなが手を合わせた。

 私はそれから毎日のように引き上げられる死体の様子を見るのに夢中となった。凄まじい死体もあれば綺麗な死体もある。いろいろだ。自分が生きて人が死ぬというのは何となく愉快だ、興味深きことだ。ああした人たちは借金苦や病気、失恋、その他大勢の理由があるのだろうが、私から見ると甘っちょろいと思えた。死ぬほどのことか、要するに原因が問題ではない、そこから付随する鬱が生きるのを諦めさせるのだろう。


 私はいかにも死者が出そうな曇天の日に辺りを見渡した、監視員がいる、あの監視員はあれから私に近寄らない。人殺しでも反省する気持ちがあるだけいい、世の多くの人は反省するが、すぐに忘れる、生きていかなければならないからだ。死んだ人は生き返らない。私は最近生き返らない方が悪いのじゃないかと嘯いている。何度殺されようと人は生き返るべきだ、そうすれば殺人者の罪はずっと軽くなるだろう。

 私は岬の突端でいかにも飛び降りそうな人に声をかけた。

「風が吹くから危ないですよ、もっとこっちに来なければ」

 その男は50歳くらいだろうか、

「あなた、死ぬ気ですか」私は声をかけた。

「放っとしてくれ、もう俺は借金で首が回らないんだ」

「そんなの自己破産しちゃえばいいじゃないですか、社会は死ぬほど追い詰めたりはしませんよ。知恵です、知識です、大体無知な人が自殺するんだな」

「俺は俺が築き上げた会社や人生を他人にめちゃくちゃにされるのが嫌なんだ。最後は自分で決めたい」

「へーっ、そんなのが自殺の理由になるんですかね、まだまだ再起する機会はあるように思えるけど」

「あのな、波が岩に打ちつけるだろう。ああいうのを見ていると俺たちの人生って何だろうと思うんだよ、何で生きていかなければならないんだ。家族を養わなければならないんだ、もうそうしたことが負担になっている」

「生きなければならない理由はありませんよ、死ななければならない理由もないけどね。思い詰めてんじゃない、岬の店で温かいものでも食べれば気が変わりますよ」

 それでも男性が動く気配はなかった。


 私はこういう人たちの人間模様を見聞きするたびに自分の自殺が確固たるものだと思わざるを得なかった、哲学的自殺が一番強固な理由になる、「借金だ、駆け落ちだ、病気だ」なんてことは何ら大したことのない理由に思えた。頭を働かせればどうにでもなる、重態の患者はここには来ない。

「この世が何であるか、なぜ無ではなく在るのだ。この世は無からできたのか、もともと存在があったのか、ならばその存在はどこから生まれたのか、なぜ我々はここにいるのか、なぜ死んでいかなければならないのか。なぜそもそも生まれたら生きなければならないのか」

 この理由の方が絶対に回答不可能なため容易に自殺する理由になる、藤村操の死こそ、合理的で、超自然的で、最も納得できる死なのだ。私はここに来て人間の弱さをたっぷり見た気がする。私の方がよっぽど強い、私は死ぬ必要はないのではないか。哲学的諸問題は解けない。私が死ぬ時はそれに絶望した時だ、ならば私の自殺は確定している、哲学的自殺を論破できる思想は何もないからだ。私から見ればその辺りで生きている人間こそ何も考えない頭の空っぽな人たちに思える。そしてあの監視員、笑いが出てくる。あいつはピエロだな。柄にもないことをやろうとするから滑稽に見えるのだ。


 もっとも私の死はそういうところだけではない。初めに詩を書いただろう。間にも詩を書いた。詩こそ文章で書き表せない「何か」を表現できるのだ。私の理由はそちらの方が大きいかもしれない、詩はいっぱいある、どれも文章では表現できないものばかりだ。私を理解したいなどという奇特な方がいたらお目にかかりたい。


 昼間は自殺志願者や観光客は岬から突端の方に行ったりして過ごしている。区別はつかない、だが日が暮れてもまだ岩場にいるような人がいる。そうした人は監視員に連れられて岬の店に連れられていく。大した理由はないのだ。ただ苦悩することに疲れているのだ、苦しみに耐性のない人が多い、だから彼らはすぐに死にたいと思う。気分障害だな、言ってみれば。何か楽しいことがあれば吹っ飛ぶような悩みばかりだ。ただ楽しいことなど滅多にないからな。宝くじに当たりたいと思って人生を棒に振った人もいるかもしれない。

 私は普段人に関心がないのだが、自殺志願者は色々なものが凝縮されているから面白い。しかも自殺という人生最大の不幸を目の前にしている。そしてそれを決行しようとしているのだから興味深い。私は自分のことは棚にあげてそんなことばかり考えていた。


 私の自殺念慮は少しばかりの素敵な音楽で容易に崩れる。音楽それもジャズを聴いていればこの世の悩みなどどこかへ行ってしまう。だからノイズキャンセリングイヤホンは常に耳にある。これがないと世界が退屈さで色塗られ灰色になってしまうからだ。だがいつもつけているわけには行かない。仕事の最中にはつけられない。私は帰り道に死にそうになりながら音楽を聴いて生き返る。だけどもうそんな人生にも疲れてしまったからここにいる。音楽は幻想だ。幻想に頼って生きるのもどうかと思った。自分の人生を幻想にしてしまおうと思った。あってもなくても同じようなこの人生を夢に変える。それはどうしたらできるのかといえば劇的な自殺だ。もう人生は終わらせたい。つまらない人生ならない方がいい。私の心を砕き、他者の視線を僅かに動かせると言ったら自殺しかない。他者はすぐに忘れるだろうが、私の中で劇的な自殺をしたという生前の願いは達成される。他者はどうでもいい。私の気持ちの問題なのだ。死ぬ瞬間は苦しいだろうが後に永遠の無が待っている。なかなかいいではないか。私は人生のつまらなさに辟易しているのだ。いいことは何もなかった。ただただいつ死ぬかを考えているような人生だった。私は楽しみに縁がないのか。誰もが楽しみを経験して生きている。私は楽しみを楽しむ方法も忘れていたのかもしれない。


 もういつ飛び込むかだけなんだけど自殺志願者の人たちを見るのが楽しみになっている。朝に昼に夕に彼らは危険な岩場の近くにいる。それは私も同じなんだけど。彼らから見れば私は無気力などうしようもない人間に見えているだろうね。お互いがお互いを鏡にしているんだ。

 昨日、30歳くらいの若い女性に話しかけてみた。

「こんな岩場で何をしているんですか」

「う~ん、何となくね、ここから離れられなくなっちゃってね」

 もう長いのですか」

「長いわ、3ヶ月になるもの」

「3ヶ月も何を考えてここにいるんですか」

「あなた、マスコミの人?」

「とんでもない、マスコミなんて大嫌いです」

 女性は不審気に私を見たがそれ以上の感情を起こす気力がないようだった。

 そのまま生きていれば後50年生きていられる命、それをここで落とそうとしている。

 私は単刀直入に言った。

「客観的に見れば自殺は見るも無惨ですよ。主観的に見れば綺麗に死ねると思うかもしれないけど」

「分かっているわ、魚の餌になるかもしれないこともね、でも私好きで魚を一杯食べてきたからおあいこなんだけど、焼き場で焼いちゃ勿体無いでしょう。少しは役に立つこともできるのよ。最後にね」

 なぜ死のうとしているのか聞こうとした、こういう人たちの中には聴いて欲しい人もいるんだ。


「幼い時に虐待されてそれがトラウマになっているのよ。会社で怒られる時なんかそれを思い出しちゃってね。重い気持ちになって何日も出社できません。人が怖いのよ。この世は私のいる世界じゃないと思ってね」

「でも他に世界はあるんですか。この世の他に。知っているなら教えて欲しいなぁ」

「少なくとも意識は消えないと思う。意識は次の旅へ出かけるんだわ」

「へえ~、ちょっと信じられないけど、オカルトっぽいね」

「すぐにそう規定するから話したくないのです」

「僕は全くの無になる派だけどね。1ミリも残りたくないのさ、自分の存在を消すために飛び降りる、多分僕の方が正解だと思うよ。こんなの合っていようといまいとどうでもいいんだけどね」

「そうね、死んだ時に分かるわ」

「そこですよ、死んでみなきゃ分からないなんて不条理だと思いませんか。生の科学はあるが死の科学はない。生の哲学はあるが死の哲学はない。似かよったものならありますけど、異端扱いされちゃいますね。あんまりおかしな主張をすると現代の魔女狩りが始まりますからね。もう大胆なことは内部でしか言えないんですよ、誘うのは強引でイカサマを使いますけどね。それに騙されるほど愚かじゃありませんよ」

「私も猫が死んだ時、しばらく呆然としていて、それを見かけた新興宗教の人が色々と嘘をでっち上げて誘惑しようとしましたが、私は信じませんでした。猫は心の中に生きていますからね」


 昼間この岬は太陽は中天にあり光に包まれ、自殺の名所などという暗いイメージは全くない。見物客も多く賑やかだ。でも夕方になるにつれ櫛の歯が欠けるように寂しくなっていく。残った者の何%かは自殺志願者だ。

 この前のとは違う監視員に声をかけた。

「出ますかねぇ」

 すると監視員は妙なことを言うとこちらを向き顔を見た。

「何だ、出て欲しいのか」

「いえ、そんなことは思っていませんよ。立ち直って欲しいと思っているんです」

「あんたは観光客か、自殺志願者か、どっちだ」

「どちらとも言えるしどちらとも言えませんね」

 監視員は訝しげにこちらを見ると睨み、再び双眼鏡を手にした。

「僕はね。自殺志願者を助けるのと、追い込むのと両方やっているんですよ、死にたい人が無理して生きていても仕方がないですけど、再起する場合もありますからね」

「あんた、無理して生きるのも人生じゃないか。寿命が来るまで死んではいけないんだ。人の命や体は借り物なんだ。粗末にしてはいけない」


 私は命は借り物だと言う話に興味が湧いた。

「誰から借りたんですか」

「お天道様だよ」

「へぇ、太陽から借りたんですか、体は確かに太陽の恩恵を受けていますが、太陽に命発生機があるんですか」

「人間を作ったのはこの宇宙だよ。俺はそれをお天道様と言ってみたんだ」

「へぇ、それじゃ、宇宙は何からできたんですか」

「お前、それは偉い先生が考えているだろうよ」

「それは解答不能な質問なんですよ」

「お前とそんな話をしていても仕方がない。俺は目の前の人を救うんだ。生きていてよかったと言う人がいっぱいいるぞ。お前も生きることを考えろよ。ただ生きればいいんだ。それ以外何も考えんな」

「ここは一見風光明媚な観光地ですがなぜ自殺の名所と言われるか知っていますか」

「知らん」

「ここは死体の上がらない確率が高いんですよ。そんな魅力的なところは日本で数カ所しかない。その中でも最高なのがここなんですよ。自殺仲間には評判なんですよ」

「何だ自殺仲間って」

「一人で死ぬかと思うと怖いらしいんですよ。雑誌すら出ていますからね」

「聞いたことないな。怖い思いまでして何で死のうとするんだ」

「堂々巡りだな。生きる方がもっと嫌だからですよ」

「話にならん。あっち行ってろ」


 監視員をからかうのは基本的に面白い。何故なら人を救うのは自明の理だと思っているからだ。それがただの慣習だと思わせてやろうとするのは楽しい。彼らの心を撹乱してやるんだ。でも彼らはあまり乗ってこない。理屈じゃなく情動で動いているからだ。死ぬ理由の論文なんて聞いたことがないからな。その反対もないけどな。

 人はあまり死なない。それは地球に適応して進化しているからだ。だが体は脆い。すぐに怪我したり病気になったりする。そうすると途端に生きづらくなるわけだ。


 そうこうしているうちに観光組と自殺志願者組が分かれ始めたようだ。だんだん夕闇が近づいてきた。

「ああ、何度繰り返し生きれば気が済むんだ」私は毒づいた。

 その夜画期的なやり方を考えついた。と言っても極めて原始的なやり方に過ぎない。自殺志願者のそばにいる時他の人の死角に入って蹴飛ばすか押すかすれば崖や岩場から落ちると言うわけだ。何度も偶然が重なれば私に疑惑が向くだろう。でもそれでもいいのだ。自殺幇助していただけだし、どのみち自殺する人の役に立つからだ。私は感謝されていい。

 追い詰められれば最初の目的通り自殺すればいいだけだ。実にいいだろう。


 私はその翌日の夜、なかなか岩場を去らない親子らしい二人連れを見つけた。監視員が見つけないうちに落とそうと思った。私は素早くそばに行き突き落とした。会話をすると面倒くさくなるから一気にやった方がいい。

 次の日の早朝、二人は死体で上がった。


 落ちた瞬間が分からなかったので、私に嫌疑が向くようなことはなかった。

 二人の遺品を調べていた警察はビニールに入っていた遺書を見つけた。病気による生活苦のための自殺らしかった。私は冥福を祈った。

 さて次はどうするか。何事にも次がある、面倒くさいことだ。時間が凍結してしまえばいい。面倒くさいがしばらくこの行為を続けることにした。別に理由はない。迷っている自殺者の肩を押してやるだけのことだ。そんなことに理由があるわけがない。

 こんな行為が10件ほど続いた。新聞を見ると全て生活苦だった。私は交番の警察に呼ばれた。長期滞在者に対する定期的な審査だった。私は警官の前に座った。名前と住所を聞かれた。

「実はね、最近、自殺志願者の自殺するペースが増えているんですよ、これはみんなに言っているんですがね。何か心当たりありますか」

 私は何も知らないと言った。この景観が気に入っているので住み着いていると答えた。日本中を旅していると言った。警官は何やら書きながら私の番は終わった。

 私は少しやり過ぎたかなと思った。何事にもリズムがある。そのリズムが乱れれば原因を解明しようとする、自然な事だ、警戒が増えるかもしれない。もしかしたら囮があるかも知れない、私はペースを落とした。一番危険なのは囮捜査である。その警官を崖の下へ突き落としたとしてもICレコーダーやいろいろな機械を仕込んでいるかも知れない。そこから割れる可能性もある。何事も過ぎたるは猶及ばざるが如し。私の楽しみがなくなった。場所を変えようかと思った。だいたい3割り増しなら怪しまれない。ちょっとやり過ぎたな。


 ところで自分の真の目的である自殺のことをすっかり忘れてしまっていた。気晴らしがあると忘れてしまう程度のものらしい。確かに面白かったが。さてどう過ごそうか。まだ自殺する気がないなら生きなければならない。またも面倒臭さに直面した。他の一般の人はいろいろなつながりがある、だから自分の死などについて考えることはほとんどない。だが私のような孤独者は常に生きるか死ぬかである。自殺は容易なのだ。止める人は誰もいない。NPOでそういう人のための活動があるらしいがそんなものに興味がなかった。生きる人のためのものだ。死ぬ人のためのものではない。そんなに金があるわけではない。なくなったら自殺するか、それでいい。

 私は日本海を旅した。全部野宿だった。10月だった。今はいいが、豪雪地帯を彷徨うわけにはいかない。冬は沖縄だな、と私は頭の中で勝手に思った。私は本当に死にたいのか疑問に思うこともあった。何故ならお金がなくなったらどんな底辺の仕事でもいい、やろうかなどと思い始めたからである。哲学的自殺は生活の安定があって初めて考えられる。生活の困窮者が哲学的自殺で死んだことなど聞いたことがない。私はどうするのだろうか。自分でもよく分からなくなった。自殺幇助も飽きてきたし危険である。牢屋で自殺したくない。私の最後は華々しい崖からの跳躍だ。自殺幇助はたまにやることにした。絶対警察に睨まれない程度に。


 長い旅の連続で疲れてきた。自殺幇助をしたら頃合いを見計って移動の連続だったからだ。自殺幇助をする理由もだんだんと曖昧になってきた。どうでもいいではないか、人のことなど。死にたいものが死ねばいい。私は本当に自殺したいのであろうか。生きたくないのではないか。生きたくないから自殺すると言うのも立派な理由である。もともと二つに一つなのである、人間の人生など単純なものだ。

 老いれば必ず死が待っている。つまりそれまでは生きると言うのが世間一般の考え方である。時間というものがあるから仕方がない。そうせざるを得無い。だんだんと私の頭の中は空白になっていった。何も考えなくなったと言った方が正確だろうか。華々しい最期の跳躍はどこへ行ったのだ。


 だが死にたいという気持ちはずっと去ることがない。意味があろうとなかろうと私は跳躍をする。生きているのがみっともないのだ。輝かしい人生を終える人も数多くいる。私も子供の頃素晴らしい人生を夢見ていたかも知れない。それがダメだと分かったのが、高校の時だ。私はかなり夢を持って生きていたと思える。高校に入るまでは思えたのだから。だが私の人生は荒れて転落する。今は何の夢もないから自殺するのだ。夢のない中で生きていけるほど私は落ちぶれていない。夢のない生より夢のある死を望んだのだ。夢のある死なんて言葉の上でしか成り立たない。

 どうせ死ぬのなら早く死にたい。生きながらえていることが苦痛になる。みんな自分が死ぬことを知っているのだろうか。必ず明日が来ると思って生きているのではないか。朝、目覚めないことなど全く考えていないに違いない。私から見るとみんな自信ありげで何の不安もないように見える。だから違和感を感じ自殺志願者の方へ寄って行ってしまうのだ。彼らの不安げな力尽き果てたような感じは私には分かる。とても惹かれてしまう。これが本当の人生だと思う。みんな自分を偽って生きているのではないか。人生には深い穴が空いているんだ。見ないふりをしてみんな生きている。その方が楽だから元気なふりをする。でも一秒後には死ぬか知れないんだよ。そうしたらみんなお終いなんだよ。誤魔化そうとしても無理だね。人生は綱渡りなんだよ。


 私は福井県にある自殺の名所にいた。ここに来てどうするんだろう。またあの岬のようなことを繰り返すのか。快感はあるがさすがに飽きている。絶叫を上げながら落ちてゆく様は滅多に見られる光景じゃない。人生はここにあるんだよ、あの絶望の表情こそ人間の真の顔だ。写真を撮って写真展にでも出せば評判になるんじゃないの。いや、その前に黒い布で覆われるかそもそも批評の対象にならないかも知れない。それは何故か。生々しいからだよ。グロテスクだからだよ。人間はみな程々で生きているのさ。見せちゃいけないものがあるらしい。私はその見方こそ滑稽に見えた。それは猥褻なものもそうだ。自分の体にくっついているのに猥褻だと言って避けようとする。あれと似ていると思った。私は絶望を見てしまった。もう元には戻れない。

 これからどうする。私はもう終わらせてもいいのではないかと思った。そろそろ「最期の跳躍」をしてもいいと思えた。だって他にすることがないからだ。何もなければ生きていても仕方がない。私は適当な崖を見つけた。ここから落ちれば助からないし、運が良ければ遠洋に流れて魚の餌になる。もう私は本当に疲れたし今夜、決行してもいいと思った。

 私は時計が午前零時を指すのを待った。本当に真っ暗闇で失敗しないかと思ったが、やることにした。私はここまでを手記に書き崖の岩の隙間に挟んだ。

 名誉ある輝きに満ちた「最期の跳躍」だった。私はあっという間に海面に落ち海水を飲み激しく喘いだ。だがこれこそ私の期待していた最期であった。私の全身から力が抜けた。これが死か、うっすらとした意識で考えた。


           了


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死者の岬 北川 聖 @solaris_sea

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