8 温泉宿※

「落ち着いたら聴力検査とグリセロールテストというものを行います。これはメニエール病の本態が内リンパ水腫──内耳の膜迷宮というところにリンパ液が過剰に溜って起きる症状なので、その有無を調べて診断の手掛かりとするためです。具体的には内リンパ水腫を一時的に軽減するグリセロール、これは一般にはグリセリンとして市販されているものなので入手はしやすく、これを用い、服用前と服用後の聴こえ具合を測定します。この検査で陽性の反応、つまり改善の兆しが見られれば内リンパ水腫であると推定できるわけです。内リンパ水腫疾患が必ずしもメニエール病であるとは限らないんですが、現状ではそれ以上の検査は不可能なので、一先ずはその前提で治療を進めていくしかありません。病気の進行度合いによっては外科的治療を行う場合もありますが、もちろんここではできませんから、内服治療が中心となります。それにはイソソルビドという利尿剤が第一選択となるので、入手でき次第これを当面の間服用して貰います……と、ここまでは内リンパ水腫と推定された場合の話です。グリセロールテストで推定できなければ、残念ながら看護師である私にはそれ以上の判断はしかねます。ごめんなさい。その際は生活習慣を整えるといった対症療法をしていくしかないでしょう」

 目下の避難先である温泉宿に到着するなり、辻本一家は私服姿では到底看護師に見えそうもない日奈子からそのような説明を受けていた。家長である孝和を始め、その妻で患者当人の晴美、一人娘と聞かされた沙織の三人は一言も聞き洩らすまいと真剣な面持ちで耳を傾けている。一方で、一家の後ろにどこか所在無さげな様子で突っ立っていた青年は、傍を通りかかった智哉を目聡く見つけると、その場から抜け出すチャンスとばかりに声をかけてきた。

「岩永さん……でしたよね。助けていただきありがとうございました」

 関谷英司と名乗った青年は、そう言って深々と智哉に頭を下げた。それを見た智哉は面倒臭げに手を振って応えた。

「礼なら俺にじゃなく他の奴に言え。元々俺はお前達を助けるのに乗り気じゃなかったんだ。あいつらがどうしても何とかしてやれとしつこく頼むから仕方がなく手を貸したまでだ。それもドローンと無線のアイデアがあってのことだけどな。それを思い付かなきゃ誰に何と言われようと見捨てていたさ」

「そうだとしても来てくれて本当に感謝しています。助かりました」

 助かったかどうかはわからんぞ、と智哉はにべもなく言い放った。

「ここが安全だという保証はどこにもないんだ。俺達の間でも大勢の人間が死んだ。この先も犠牲が出ないとは限らない。他の奴らにも言っていることだが、足を引っ張るようなら容赦なく追い出すからな。そのつもりでいろ」

 はい、と英司は神妙に応じた。この人なら本当にそうしかねないと思った。それは英司がこれまでの学生生活では味わったことのない、この場の張り詰めた空気感からもわかる。失敗しても許される学校や家庭とは違うのだ。

 それを意識しつつ、英司は暫し逡巡した末、あのことを俎上に載せた。

「それにしてもゾンビに襲われない人がいるなんて、実際に見ていなかったら未だに信じられないところでした。だから、みんなを護ってこられたんですね」

 英司や辻本一家には、最初から智哉がゾンビに無視される体質であることを隠してはいない。どうせ、ここに居る全員に知れ渡ってしまった以上、隠し果せるはずがないからだ。だが、これだけは言っておかねばならない。

「いいか。俺がゾンビに襲われないことと、お前達が無事に暮らせることは別物だ。それを勘違いした奴らは真っ先に死んでいく。もっとも俺も初めのうちはそう思っていたよ。その気になれば全員を護り抜くなんてわけもないってな。とんでもない思い上がりだった。俺一人でやれることなんてたかが知れている。考えてもみろ。俺がずっと付きっ切りでいられるわけじゃないんだ。俺が出かけている間、誰がここを護る? それとも俺に代わってお前が物資の調達に出向くか? ちょうどメニエール病の治療薬も探しに行かなきゃならないようだしな。まあ、無理だろう。その一事を考えてもわかるはずだ。最後の最後に自分の身を護れるのは自分だけだ。絶対に安心できる場所などどこにもない。ちょっとした油断や隙で奴らはすぐに現れるぞ。常に死と隣り合わせの世界だってことを忘れるな」

 そう言われて、英司はこれまでの自分が如何に奇跡的な幸運の数々に恵まれていたかを思い知った。たまたま近所に長谷川夫婦が住んでいて、彼らが水と食糧を確保しており、それを気前良く分けてくれる人達であったから、あるいは稔が食べ物よりもゲームを優先するようなオタクで家電量販店に潜んでいたので、はたまた辻本一家がペットフードすらない店舗に逃げ込んでいなかったため、そして自らが中二の夏休みにドローンの体験教室に参加したことも、恐らくそのどれが欠けていてもこの場に自分達はいなかっただろう。もしかしたらそれは智哉も同じではないか。彼とて一切の幸運の手助け無しに、ここまでやって来れたわけではないのかも知れない。それを裏付けるように、彼は言った。

「それに脅威はゾンビだけとは限らない」

 何のことを指しているのか、英司は即座にピンと来た。

「例の、僕が最初に無線で話した人達のことですね。岩永さんが目撃したという同じくゾンビに襲われない集団。しかも、他の生存者を狙っているっていう。岩永さんの話を聞くまでは半信半疑でした。実を言えば今も、あのまま居所を告げていたら危なかったということに現実味があまり湧かないんです。もちろん、岩永さんの言葉を疑っているわけじゃないんですが」

 俺だって自分の目で見ていなけりゃ信じなかったさ、と智哉は大真面目な表情で語った。その顔に先ほどまでの余裕は失せているように英司には感じられた。

「とにかく何度も言うようだが、奴らは俺の知る限りでは最悪の連中だ。ここに来る途中で話したよな、俺達もついこの前まで裏切り者に囚われていたって。そいつらより遥かに質が悪い。ゾンビに襲われないというアドバンテージが通用しないというだけじゃない。狂気の沙汰が段違いだ。とても説得や交渉が通じる相手じゃない。遭遇したら即殺し合うしかない連中だと覚えておいた方が良い」

 それだけ話すと智哉は、もう用はないはずだと言わんばかりに、英司を置いて去りかけた。その直後、ふと足を止め、振り返った彼から、後でドローンについて詳しく教えてくれ、と英司は言われた。どのように役に立つか検証してみたいという。その上でこうも告げられた。

「手に入れたものは有効に活用していく。人でも道具でもだ。ドローンを飛ばすのに足りないものは調達して来てやるから、お前もいつ出番が来てもいいように常に準備を怠るなよ」


 大して数は多くないものの、日中の陽光をたっぷりと吸い込んだソーラー充電式の提燈ランタンが廊下の辻々で、見ようによっては幻想的と思えなくもない電気の灯りを仄かに点す中、自らも足許を照らすランプを手にした美鈴は一人、建物の西の端へと向かっていた。以前に智哉から貰った左手の腕時計は、若い女性がするには如何にも武骨で不釣り合いなデザインだが、頑丈で農作業などをするのに多少乱暴な扱いをしても壊れにくく、暫く前から愛用している。その時計の針は午後十一時を少し回った辺りを指していた。秒単位での正確な時刻を知る術は失われてしまったが、幾つかのまだ機能していた時計を頼りに自分達の標準時間を決めてしまうと、さして混乱もなく済んでいるから不思議なものだ。とはいえ、陽が落ちればやれることはほぼなくなり、燃料節約のため自家発電式かソーラー充電式のライトの下で、せいぜい本を読むくらいしか過ごしようがない現状では、この時間に起きている者は疎らなはずだった。美鈴も普段なら就寝している頃合いだが、この日はやっとのことで本格始動し始めた菜園造りに向けた資料を読むのに没頭し過ぎた余り、気付けばこんな時間に風呂へ向かう羽目になっていたのだ。既に入浴は生活習慣の一部で特別なことではなくなっていたから、一度くらい抜かしたところでどうということはないのだが、やはりうら若い乙女の心理としては一日たりとも欠かしたくない。それに入れる時に入っておかなければいつ何時、そうできなくなるかも知れないというのも嫌というほど味わった。そうしたわけで一人で浴場に足を向けたのだが、廊下の四つ角で違う方向からやって来る智哉を見かけ、多少躊躇いながらもその場で待ち受けることにした。

「お前も今から風呂か?」

 美鈴が手にしたタオルを認めて、智哉の方から声をかけてきた。

「はい。岩永さんもですか?」

 ああ、と答えた智哉の首にもバスタオルが掛かっている。二人共、着替えは背中のボディバッグの中のようだ。それとは別に双方が肩にいかつい散弾銃を担いでいた。智哉はいつものセミオートショットガンであるベネリM3スーパー90を、美鈴が持つそれはいつぞや彼から託された上下二連式のミロクMS2000だ。常に対ゾンビ戦線の先頭に立つ智哉や元自衛官の絵梨香が銃を持つのは当然として、美鈴を含めた全員にも日頃から一人で行動する際は必ず武器を携行するよう言われているし、そのための扱い方も習っていた。美鈴自身もなるべくなら片時も手放したくないというのが現時点での偽らざる本心だ。ただし、今夜のように智哉が一緒だとわかっていたら置いて来ても良かったかも知れない。

「やっぱり異常な世界ですよね。お風呂に行くのに銃が必要なんて。しかも二丁も」

 並んで浴場へと歩き出しながら美鈴はそう言ってみた。

「まあ、気休めみたいなものだけどな。携行すると言っても洗い場まで持ち込むわけじゃないし。そもそもゾンビに一斉に襲いかかられたら、撃退するより逃げることを考えた方が賢明だ。銃を使うのは最後の手段。追い詰められて余程どうしようもなくなった時の備えだと思っておいた方が良い。そうならないようにすることが肝心だ」

 その言葉通り、美鈴達が解放されてからというもの、智哉は連日、宿の防衛策に腐心していた。敷地全体は大人の背丈を優に超える高台にあって、垂直に近い斜面は手掛かりも少なく、ゾンビといえども登り切るのは容易ではない。その上、下の道路に直結する唯一の出入口は側面を鉄板で補強した大型バスをバリケードとして停めてあるので、正面からの突破はまず不可能とのことだった。その分、出入りの際には誰かがバスを動かさなければならないが、そのくらいのことは安全と引き換えにしていると思えば大した手間ではなかろう。さらに敷地の外縁には万一ゾンビが高台を上って来た場合に備え、さすがにコンクリート壁や頑丈な鉄柵で囲うような土木技術は持ち合わせていなかったため、代わりに高さ三メートルほどにまでタングステン性のワイヤーを張り巡らせている。上部には先端を尖らせた杭を外側に折り曲げた、俗に言う忍び返し付きだ。もっとも何十人も一度に押し寄せて来られたらこれでも心許ないが、高台が一ヶ所に集まりにくくしているのに加え、早期発見の観点からすれば充分に役割を果てしていると言えるだろう。また、敷地内に入り込まれた場合でも建物一階の外側に面した窓は全て板を打ち付け塞いであり、館内に二ヶ所あった階段は一つを取り壊して二階への経路を限定すると共に、新たに付け足した跳ね上げ式の鋼鉄製扉がいざという時には下ろされて侵入を防ぐ仕組みになっていた。しかも、これらの防衛策の幾つかは智哉が実際にゾンビを使い──当然、フルフェイスのヘルメットを被せるなど安全対策をしっかりと講じた上で──検証するという念の入れようだ。それだけに余程のことがない限り、普段の生活を怯えて過ごすということはなくなったものの、依然として油断や過信が禁物なのは言うまでもない。

 そうしたことを思い返していると、前の避難所が襲われた光景が甦り、美鈴は一瞬身震いした。幸いにも隣を歩く智哉には気付かれずに済んだようだ。そのまま何事もなかったように中庭に面した渡り廊下を横切り、暖簾を潜って、男女別々の脱衣所の前で彼とは別れる。その部屋の中や湯殿にも廊下と同様に提燈ランタンが当番の手によって点されており、夜でも一応の明るさは保たれていた。美鈴はまず肩から下ろした散弾銃の銃身を根元で折って安全確保したのち、棚の上へと無造作に預けた。国内において銃の取り扱いを所管する公安委員会の人間が見たら目に角を立てそうだが、ここにはそれを盗む者も悪事に使う者もいないので、問題ないはずだった。それから着ていた洋服を脱いで着替えと共に籠の中に押し込めると、いそいそと浴室へ向かう。曇り硝子の仕切り戸の先は何度目にしても溜め息を誘う光景である。ただ、その奥には更なる景勝の露天風呂が控えているとあって、内湯と外風呂のどちらにしようかと贅沢な悩みを抱えていると、隣から勢い良く扉の開く音がして、誰かが先に外の浴場へ足を踏み出したのがわかった。状況からいって智哉で間違いあるまい。ひとしきり逡巡した後、美鈴は意を決して露天風呂に続くドアを開け、野外に出て行く。薄ぼんやりと灯火に照らされた湯船の中央に、こちらを見上げて唖然とした表情の智哉の姿があった。

 実のところ、元々は露天風呂も内湯と同じく男女別に分かれていたのだが、三上達と対決した折に間仕切りであった竹垣の一部を壊していて、そののち修復すべきかを検討した結果、死角をなるべく無くすという安全上の配慮に加え、その時は男が智哉一人であったため、かち合う機会も少なく、仮にそうなっても混浴が嫌なら内湯から出なければ良いということで、浴場の境は完全に取り払われていたのだ。それがわかっていながら智哉がいるはずの露天風呂に、よもや美鈴が現れようとは思いもせず呆気に取られたのだろう。美鈴自身が己の大胆な振る舞いに驚いたくらいなのだから。

 といっても智哉が呆けていたのはほんの数秒で、すぐにいつもの太々しさを取り戻し、美鈴の肢体を無遠慮に眺める。裸は幾度も見られているはずなのに一向に恥ずかしさが収まらないのは何故だろうと益体もない考えに囚われながら、美鈴はそそくさと掛け湯をして女湯側から湯船に浸かり、智哉の視線を遮った。本来の明るさであれば居たたまれなくなっていたこと請け合いだが、辛うじて夜の帳が美鈴の羞恥心を覆い隠してくれている。一方で智哉の方はどうかというと、チラリと視線を送ったところ、その顔は既にあらぬ方向へ向けられていた。ホッとすると同時に、どこか口惜しく思えたのはきっと気のせいに違いない。そういえば、こうして二人きりになるのはいつ以来ぶりになるのか。もう思い出せないくらい遥か遠い昔の気がする。智哉も似たような感慨を持ったのか、何だかこうしているのも久しぶりだな、と呟いた。

「病院を除けばスーパーの屋上以来か……と、お前には触れて欲しくないことだったな。すまない」

 そう言われると、うん、とも、いいえ、とも反応し辛く名状し難い複雑な心境が湧き上がるのを意識せざるを得なかった。確かにあの当時のことは二度と顧みたくない記憶ではあるが、岩永智哉という人物を知る上では不可欠だったことも今では納得している。それをどう表せば上手く伝わるのかと考え、恐らく言葉では無理だろうという結論に至ったので、ここは曖昧に胡麻化すことに決めた。

「随分と変なことをさせられましたから気にしてないと言えば嘘になりますけど……それよりゾンビ対策の方は進んでいるんですか?」

 些か強引とも取れる受け流しだったが、智哉は別段気にも留めなかったようで、ひと通り手を着けてみたという感じだな、と答えた。

「まだまだ強化したいことは山ほどある。高台の法面はもっと登りにくくしたいし、ワイヤーの本数も増やしたい。監視カメラの設置は電源をどうするかがあって現在、検討中だ。太陽光充電なら燃料の心配は要らないが、雨や曇りの日に使えないんじゃ困るしな。建物の窓も今のところはただ塞いだだけだが、そのうち頑丈な格子を取り付けようと思っている。人手も増えたことだし、全部俺一人でやらなくても済みそうなのは有り難い」

 そう話す智哉の顔を美鈴は直視できなかった。お互いに裸ということもあるが、肩から下はお湯の中に隠れている。恥ずかしさだけが原因というわけではあるまい。

 お前の方はどうだ? 菜園造りは進んでいるのか? と逆に訊かれ、まあ何とか、と美鈴はドギマギしながら答えた。

「ホウレン草や小松菜などの収穫しやすいものから始めています。それとジャガイモの植え付けは何としてでも成功させたいです。主食にもなるし、色々な料理に応用が利きますから。もう少ししたらトマトや人参にも挑戦しようと思っています。夏に向けて西瓜を育ててみるのも良いですね」

「すっかり土弄りが板に付いてきたな。もう誰もお前を女子高生とは思わないんじゃないか?」

 智哉は軽い冗談で口にしたのだろうが、その言葉はある種の寂寥を以て美鈴には伝わった。思わず声が暗くなってしまう。

「そう……かも知れませんね。こんな堆肥の匂いをさせている女の子なんて他にいないでしょうから」

 どうせ臭いです、と美鈴はやや拗ねた口調でそっぽを向く。そんなつもりで智哉が言ったわけでないことはわかっていたが、ついいじけた調子になることが避けられなかったのだ。そうであったにも関わらず、智哉は怒るでも不快になるでもなく、さも当然の如く言い切った。

「お前の匂いなら隅から隅まで知っているよ。臭いと思ったことなんて一度もない」

 途端に美鈴の頭の中は真っ白になった。一気に血圧が上昇した気がする。暫く何も答えられずにいると、智哉の方ものぼせてきたのか湯船から立ち上がり、縁の岩に腰掛け直すのが視界の端に見えた。一応、下半身はタオルで覆うというエチケットは守ってくれているようだ。美鈴も肩まで浸かっているのが、やや辛くなってきた。仕方がないので胸の前をフェイスタオルで隠して立ち上がる。七メートルほどの距離を向かい合う形で同じく岩場に腰を下ろした。この暗さでは表情までははっきりと視認できない。それは智哉も同様だろう。美鈴はこの機会にどうしても智哉に話しておきたかったことがあり、今なら言えると、意を決して口を開いた。

「あの──」

 何だ、と智哉が即座に訊き返してくる。この状態で沈黙が続くのは、向こうにとっても居心地が悪かったらしい。

「弘樹とはその……何もありませんでしたから」

 今は亡き幼なじみの名を告げた途端、胸の奥がキリリと痛んだ。だが、智哉にはそれを悟らせたくなかったので、なるべく自然に聞こえるよう努めた。

「……そうか」

 俺には関係ない話だ、や、死んだ奴なんてどうでも良い、といった反応も覚悟していただけに、拍子抜けするような返事だった。ただ、そこには短いながらもはっきりと哀惜の念が感じられ、弘樹達を救えなかったことには智哉なりに思うところがあるのだろうと窺わせた。美鈴としては何もなかったと言って信じて貰えたかは定かでないが、伝えるだけは伝えておきたかったので、胸のつかえが一応は取れた。それと、訊きたかったことがもう一つ──。

「そっちは……あったんですよね?」

 これ以上ないというほど簡潔な問いにも関わらず、智哉はその意味を完璧に理解した様子で、ああ、と頷いた。

「……七瀬さんが好きなんですか?」

 訊いてしまってから直ちに美鈴は後悔した。自分は一体どんな返答を期待しているというのか。気晴らしに付き合っただけとでも言って欲しいのか、大勢の中の一人とでも聞いたら満足するのか。いずれにしても自分が嫌な女であることに変わりない。急いで質問を撤回しようとするも一足遅く、智哉が言った。

「どうかな。自分でもよくわからん。護りたい相手であることは確かだ」

 それは美鈴が予期していた答えの中で、最も耳にしたくなかったものだったかも知れない。はっきりと自分との違いを見せつけられる気がしたからだ。

(やっぱり岩永さんは七瀬さんのことを特別な存在と見ているんだ)

 それに七瀬だけではない。絵梨香との間には自分が遠く及ばないような信頼関係が築かれているに相違ない。でなければ、ああも連れ立って外出することなど考えられないだろう。

「二人が羨ましい……」

 半ば無意識で力なくそう洩らした呟きに、智哉が心底呆れたような声を出した。

「もう一人が誰のことを指しているのか知らんが、護りたいというのはお前も同じだぞ。前にもそう言わなかったか?」

(えっ? 今、何て? 私も同じと言われなかっただろうか?)

 確かにそう聞こえた。空耳ではない。

 束の間、言葉の意味を掴みかねて美鈴の思考は停止する。漸く絞り出した科白は、本心とはやけにかけ離れたものだったことに当人も気付いていなかった。

「でも、それはそういう契約だったからじゃ……もう、そんな資格はないものだって、私はてっきり……違うんですか?」

「これは……俺が悪かったんだろうな。契約だの約束だの散々言っていたからお前に勘違いさせていたのか。いいか、一度しか言わないからよく聞けよ。あれは全部無しだ。俺がお前を護るのは俺がそうしたいと思うからに他ならない。それ以外に理由はない。だからお前が嫌だと言っても勝手にそうする。それは全てお前を手放したくない俺の我儘だ」

 何をどう応えて良いのか、もはや美鈴はパニック寸前と言えた。それでも辛うじて動揺をあからさまに表に出すことだけは避けられた。それよりも困ったのが、智哉に対して何かしてやりたいという気持ちが抑え切れなくなったことだ。今すぐ彼のために自分ができる精一杯のことをせずにはいられない。その結果、幾つかの葛藤と逡巡を乗り越え、口を衝いて出たのがこの言葉だった。

「あの、一旦、上がりませんか? 背中……流しますから」


【カクヨム運営より過剰な表現との指摘があったため、一部を削除しました。文章に繋がりがないのはそのためです。完全版の掲載はアルファポリス(https://www.alphapolis.co.jp/novel/201268578/431697946)、もしくはミッドナイトノベルズ(https://novel18.syosetu.com/xs8892a/)にて行っています】

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