9 宣戦布告※

 春一番、と呼ぶにはあまりに強い突風が吹いた翌日。いつものように防御設備の強化を進めていた智哉の下に、便宜上無線室と名付けた建物二階の客間から、至急来て欲しいとの連絡が入った。無線の監視を担当している遠野理沙が、何かを聞き付けたらしい。急いで智哉が駆け付けると、デスク前の壁際に整然と並べられた無線機の一つがノイズ混じりの音声を垂れ流していた。

「……ザッ……れか聞いて……ザッ……ますか? こちらは……ザッ……のグループ……ザッ……通信しています。聞こえて……ザッ……応答……ザッ……ださい」

 現在のところ、施設の屋根の大部分を占有する太陽光パネルで作られた電力は、大半がこの部屋に置かれた雑多な種類の無線機器で消費されている。通信を傍受するだけなら広帯域受信機ワイドバンドレシーバーで事足りるが、応答も視野に入れるとなるとどうしても複数の機材を併用せざるを得ないのだ。それによりアマチュア無線愛好家が言うところのシャック(無線小屋)の様相を呈した室内の中心では、椅子に腰掛けた理沙が困り顔で真正面に据えられた小型の液晶モニタを凝視していた。その彼女に、いつからだ? と智哉は声をかけた。美鈴と同学年という理沙を智哉はここに来るまで知らなかった。前の避難所では顔を合わす機会がなかったのだろう。物腰にも表情にも地味な印象を受ける少女で、肩にかかる程度のストレートな黒髪を二つ結びにしただけのシンプルな髪型にもそれは当て嵌まる。実際、几帳面な性格らしく、無線機の前にひたすら坐り続けるだけという退屈極まりないこの仕事にも不平一つ零すことなく黙々とこなしていた。その理沙が戸惑いを隠し切れない表情で答えた。

「五分ほど前からです。呼び出しチャンネルに突然、聞こえてきました」

 呼び出しチャンネルとはその名が示す通り、通話先を呼び出す際の専用チャンネルとして割り当てられている周波数のことだ。普通はこのチャンネルで交信する対象を募り、首尾よく相手が見つかれば他の呼びかけを行う人の邪魔にならないよう空いている別のチャンネルに移ってやり取りするのがマナーとされている。受信ワッチ側からすれば原則このチャンネルを聴いていれば良く、それを知るこの発信者はある程度無線に慣れた人間である可能性が高い。

「他に何か言っていたか?」

 理沙には傍受するだけで呼びかけがあっても答えないように言い渡してあった。

「同じことを繰り返しているみたいですが、途中で何か暗号のようなものが混じっていました。たぶん、英語だと思います。意味までは理解できませんでしたが」

 その時、スピーカーから別の内容が聞こえ始め、これです、と理沙が言った。

「……リエッ……ザッ……ノベン……ザッ……ツー……えていたら……ザッ……応えて……ザッ……交信……た人でも……ザッ……わない」

 どうやら暗号と思われたのはフォネティックコードのようだ。しかもジュリエットノーベンバーツーと聞こえる。この中途半端なコールサインは先日、助けを求めてきた英司が使ったものに違いない。もちろん、彼はここに居るので本人ではあり得ない。だとすれば、あの交信を聴いていた何者かがジュリエットノーベンバーツーを呼び出していると見るのが妥当だろう。無線は聴くだけなら誰でも自由だ。

 内容から察するに応答はジュリエットノーベンバーツーの通話相手だった智哉でも良さそうではあるが、どうするべきか迷った。何しろ、あの時交信していたのは自分達だけではないのだ。そこには例の凶悪なグループも加わっていた。呼びかけの主はどうやら男で無線に出ていた女の声とは違ったが、奴らの仲間でないという保証はどこにもない。女が誰かの指示を受けていたのは確実だったからである。

 雑音の多さから距離的にはかなり離れていると感じられたが、万一近くの場合、応答した電波でこの場所が特定されないとも限らない。安全のためには無視するのが一番だったが、やはりわざわざ相手を名指ししてきたことが気になり、短時間だけという制約付きで応じることにした。一応、別の無線で英司も呼び寄せておく。

 智哉は向こうが待機状態になったのを見計らい、卓上のマイクを手にした。送受信切り替えスイッチを押し、ひと息で畳みかけるように話しかける。

「そちらの声は聞こえているが、雑音が多くてはっきりしない。どうぞ」

 交信ルールを頭から無視して、いきなり電波状態についてそう告げた。確かアマチュア無線ではRSレポート(Readability=了解度とSignal Strength=信号強度の頭文字)と呼ばれる互いの通話品質を数字で伝え合う方法があるにはあったはずだが、智哉は詳しく知らないし、向こうに通じるとも限らないので平易な会話でだ。すると、辛うじて聞き取れる言葉で、少し待て、と言われ、一分ほど待機しているとアンテナの向きでも調整し直したのか、これでどうか、と前よりは若干聞き取りやすくなった声が届いた。

「さっきよりは幾分マシになった。ただし、長くは話していられない。五分間だけだ。用件は手短に頼む。どうぞ」

 今も尚、あの連中がどこかでこの無線を聞いているかも知れないと思うと正直に言って気が気ではなく、一刻も早く通話を終えたい気分というのは偽らざる本音だ。もっとも先方にそんな事情は理解できないだろうが。

「……訊きたいことは色々だが、まずは確認させて欲しい。そちらはジュリエットノーベンバーツーなのか?」

 一先ず、長話ができない理由の詮索は後回しにするようだ。賢明な判断と言えるだろう。

「いや、違う。ジュリエットノーベンバーツーと後から話していた者だ」

 傍らには既に英司も到着しており、凡その状況は呑み込めたと思われる。なお、ジュリエットノーベンバーツーこと英司と合流したことは、相手の目的が不明なうちは伏せておくつもりだ。

「了解した。気付いていると思うが、我々もあの無線は傍受していた。もっとも設備の不具合から即座に応答はできなかったんだが。その後、何とか送信状態を整えることができたので皆で相談した結果、他に生存者がいるなら連絡を取ろうということになり、こうして発信してみたわけだ。無事に繋がって良かった。これでこちらの事情は納得して貰えたか? どうぞ」

 やはり思った通りだった。英司が行った呼びかけは意外と遠くまで届いていたのかも知れない。

「そちらがジュリエットノーベンバーツーを知った理由はわかった。目的は話をすることか? それなら役には立てない。こちらは交流を求めていない。どうぞ」

 ここまでの会話において一人称が我々という複数形である点や皆で相談したとの内容から個人ではなく集団であると推察されるが、無論そう思わせる手口の可能性も排除できない。何にせよ、有意義な接触とはならないだろう。たまたま英司達を助けはしたものの、本来なら他グループと協調する考えはないのだ。無線を傍受しているのはあくまで自分達に迫る脅威を事前に察知するためであり、生存者を見つけるのが目的ではない。

「待って欲しい。それは情報交換にも応じないということか? 会うのが困難なことはこちらも承知している。ただ、行き来するのは無理でも生き残った者同士で助け合えることは他にもあると考えているが、どうか?」

 恐らく、智哉が普通なら至極真っ当な意見として捉えたに違いない。だが、良くも悪くも智哉は普通ではなかった。少なくともこうなった元凶であるゾンビを意に介さない程度には。そんな智哉にとって他人は桎梏しっこくにこそなれ、労働力以上の価値を見出せないのは当然であろう。既にここに留まっている者についてはこれも成り行きと諦めているが、現状を上回る苦労を背負い込む気がないのは誰の目にも明らかだった。故にこのような冷淡な態度を取るのも彼を知る者からすれば駆け引きなどではなく、本心だと容易に気付く。

「助け合うとは例えば何を指すのか? 具体的に答えてくれ。ちなみに残り時間は三分を切った」

「……我々には有意義な情報がある。ただし、それを話すにはそちらが信用にたる相手か知る必要がある。無論、こちらのこともよく知った上で信用して貰いたい。それには三分ではとても足りない。まずは双方が今日までどうやって生き延びてきたか教え合うことを提案する。そうすれば理解や共感が得られるはずだ。何なら私の方から話しても良い。どうぞ」

 この返答に智哉は無線機の前で顔を顰めた。根本的な意識のズレが垣間見えるからだ。向こうにはこちらが警戒して協力を拒んでいると思われているようだが、そうではない。単純に助けを期待していないだけなのだが、果たして協調こそが生き残る道と信じて疑わない相手にどう伝えるべきか──。

「──遠慮する。有意義な情報とやらにも興味がない。話したければ勝手にそうするがいい。だが、最初に言った通り、五分経ったら通話は打ち切る。こちらに関心があったのはジュリエットノーベンバーツーをどこで知ったかだけだ。それがわかった以上、もう用はない。そちらの期待には沿えない。どうぞ」

「考え直せ。そんな態度で生き残れると思っているのか? はっきり言おう。我々はゾンビを無力化する手立てを見つけた。このやり方でなら外へ出て水や食糧を入手するのも容易だ。君達だって喉から手が出るほど欲しい情報じゃないのか? それを教えようと言うんだ。少しはこちらの意見にも耳を傾けろ。後になって後悔することになるぞ」

 横で会話を聞いていた理沙が、もしやといった表情で智哉を見た。その視線が、聞くだけ聞いてみたら、と訴えている。ひょっとしたら元の生活が取り戻せるのではないかと思ったのかも知れない。だが、智哉の考えは違った。

「それが本当なら何故出し惜しみする必要がある? ゾンビに支配された現状を打破するきっかけにもなり得る発見だろ。むしろ、積極的に拡めて然るべきじゃないか。何も聞く耳を持たないと言っているわけじゃない。そちらが一方的に話す分には構わないと告げたはずだ。条件を付ける意味がわからない。どうぞ」

「それは……あんた達も警戒していただろ? 危険な連中もいるからそいつらに知られないためだ。何も間違っちゃいない。どうぞ」

「だとしたら信用なんて尚更意味のないことだ。仮に信用を得て話せるようになったとして、この無線を他の人間が聞いていないとどうやって調べる? それが危険な連中じゃないとどうしてわかる? 端からそちらの言い分には無理があるんだよ。それなのに先程から妙な駆け引きをして交渉を長引かせようとしているな。道理に合わないことをしているのは俺かあんたかどっちだ? 勘違いと言うならそれでも構わないが、通話を打ち切るというこちらの方針を変える気はない」

 言外に、これでお開き、とのニュアンスを込めた智哉の言葉に、相手は焦った様子で声を張り上げる。

「待て。駆け引きをしているというのは……誤解だ。興味を繋ぎ止めたかったのは事実だが……それにはきちんとしたわけがある。理由を聞けば納得して貰えるはずだ。説明のための時間が欲しい」

「どちらでも構わないと言った。方針を変える気がないとも。そろそろタイムアップだ。諦めてくれ」

 そう言い、智哉が交信を打ち切ろうとした時、悲痛な叫びと共に予想外の反応が無線の向こう側からもたらされた。

「駄目だ。切ったら殺される」

 そのひと言で智哉は瞬時に全ての事情を察した。自分が巡らせた想像で途端に血の気が引き、その必要がないにも関わらず大急ぎでマイクのプラグを引き抜く。唖然とした表情で智哉を見返す他の二人──英司と理沙にも何があろうと絶対に無線には出ないようきつく念を押す。そうしておいてから受信のみを引き続き行った。

「頼む。何か言ってくれ。沈黙が一分続く毎に仲間を一人ずつ殺すと脅されているんだ。そう聞けばもう何があったかはわかっただろう。以前にあんた達の無線を聞いたというのは出鱈目だ。昨日、突然得体の知れない連中が押しかけて来て施設は乗っ取られた。彼らに無理矢理交信させられている。このままだと俺達は皆殺しになる。助けられるのはあんた達だけなんだ。会話を続けてくれるだけでいい。お願いだ。応えてくれ。どうぞ」

 当然、智哉は動かない。こんなことをする相手に心当たりは一つしかなかった。この電波の先にはほぼ間違いなくあの凶暴極まりない連中がいるに違いない。奴らに交信を強要させられていたとしたらこれまでの不明瞭な態度も腑に落ちる。目的は言うまでもなく、こちらの居場所を突き止めるためだろう。会話の中で直接聞き出せれば申し分なく、そうできなくとも発信源から凡その方角は割れる。既に知られてしまった分についてはどうしようもないが、これ以上の手掛かりを与えることだけは是が非でも避けねばならない。例えどんな犠牲を払おうとも。

 こうなると最低限の返信に留めておいたのは正解だった。無線の送り主達にとっては不運としか言いようはないが。漸く事情を呑み込めたと見える二人に智哉はきっぱりと言い切った。

「いいか、下手に良心を働かせて余計なことをするんじゃないぞ。仮に応答しても彼らが助かる見込みは殆ど無い。生かしておく必要性が見当たらないからだ。用が済めばどの途、殺されるだろう。こちらからはどうしようもない。脅迫に屈すれば共倒れになるだけだ。それを忘れるなよ」

 俺には最後まで聞き届ける義務があるが、お前達までそれに付き合う必要はない、聞くに堪えなければ表に出ていろ、そう言ってやると理沙は青白い顔ですぐに席を立ったが、英司は動揺を隠し切れないながらも残る選択をしたようだ。その間も絶え間なく向こうの声は送られてくる。

「……あと十秒で一人殺される。なあ、聞いているんだろ? あいつらは本気だ。実際にもう何人も殺されている。そんなことを見過ごしていいのか? ──おい、黙っていないで何とか言えよ」

 唐突に相手の口調が非難がましいものに変わる。だが、そう言われても手出しできないことに変化はない。ゾンビを物ともしない智哉とて万能には程遠いことを思い知る外なかった。

 きっかり十秒後、再び男の嘆きが聞こえる。

「今、目の前で仲間が一人殺された。ナイフで喉を切り裂かれてな。あんたにとっては見ず知らずの他人かも知れない。でも、俺にとっては親友だった男だ。次は彼の奥さんの番だそうだ。起きたことを逐一説明しろと言われているからこうして話している。この分だと俺の家族の順番が回ってくるのもそう遅くはないだろう。あんたが応えないせいだ。逆恨みだろうとどうだっていい。あんたが俺達を見殺しにするんだ。奴らからあんたに伝言を預かっている。『この前の交信では世話になった。お前の見立ては正しい。殺すために接触を図ったもので、邪魔されなければ上手くいっていた。よってその償いをして貰う。どこに潜んでいようと必ず探し出して訊ねて行く。先に首を突っ込んできたのはそちらだ。余計なことをしなければここに居る人間も死ぬことはなかった。見つけるまで他でも同じことを繰り返す。何人犠牲になったら辿り着くか愉しみにしておけ』だそうだ。聞いたな? あんたらがどんな経緯で連中の不興を買ったのかは知らん。だが、俺達はそれに巻き込まれて殺されるわけだ。自分達の身代わりに無関係の人間が死ぬのはどんな気分だ? 是非とも聞かせてくれよ。……………………………………………………………………………………………………………………………………………………やっぱり応えないか。いいさ、せいぜい俺達を踏みつけにして長生きするんだな。どうせ奴らに見つかるまでの間だろうが。あの世から見ていてやるよ。どうだ、何か言ってみろ。……………………………………………………………………………………………………………………………………………………本当にこれ以上話しても無駄なようだ。何を言っても応える気はないんだろう。俺も喋り疲れた。残された時間は家族と一緒に過ごしたい。そんなものが与えられるならだが。あとは奴らとあんた達で勝手にやってくれ。例え殺されても俺はもう降りる。以上だ」

 それっきり通話は途絶えた。その後、十五分ほど待機していたが、やはり交信が復活することはなかった。

 それだけ確認すると、室外にいた理沙に、今日はもう無線を切っておくよう言い置き、その場を後にする。英司とは特に話すこともなく廊下で別れた。狙われていることは明確になったものの、差し当たって今やれることは何もない。噂だけが先行するのは逆効果なので、二人には一旦口止めしておき、他の者には夕食の折にでも伝えるつもりだ。

 気を取り直して、というにはあまりにハードな内容だっただけに、さしもの智哉もすぐには作業に戻る気にはなれず、何とはなしに辺りをぶらぶらしていると、山のような洗濯物を携えた沙織と出喰わした。英司と共にやって来たこの辻本家の一人娘とは、これまできちんと話す機会が殆どなく、順当ならこの春に高校生になっていたということくらいしか知らない。学年で言えば美鈴や理沙の二個下、加奈の二個上に当たるわけだが、年齢よりも若干大人びて見えるせいか、姉達とはすぐに打ち解けたようだ。そんな彼女が洗濯物を抱えているのは、もちろんこれから洗うためだろう。洗濯は当番制で現状では洗濯機に回す余剰電力はなく、全て手洗いでこなさざるを得ない。それ故、かなりの重労働と聞き及んでいるが、ここの一員となったからには沙織も例外でないのは当然だ。本人もそのことは自覚しているみたいで、特に不満を抱いた様子も窺えない。それだけに尚のこと智哉の彼女に対する興味は薄く、今も、どうも、と挨拶されたので、ああ、と素っ気なく返しただけだった。そのまま脇を通り過ぎようとしたのだが、あの、ちょっと良いですか、と呼び止められてしまった。

 面倒な用件でなければ良いが、内心でそう思いながら、厄介事なら誰に押し付けようかと思案しつつ、何事か、と訊ねると、母親のことで智哉に頼みがあると言う。一応、彼女の母親である晴美の病状について看護師の日奈子からは、やはりメニエール病の疑いが強いとの検査報告を受けていた。智哉が入手して来た薬での治療も始まったはずだ。そのことを念頭に、智哉は沙織の発言を先読みして言った。

「薬の効果が現れるのはもう暫く先だと聞いているが、何か問題でもあるのか?」

 だが、沙織は治療のことではないと答えた。

「ここに来た時に他の人から聞きました。役に立たない人は置いて貰えないって。もしママの病気が良くならなくて、皆さんの足を引っ張るようなことになっても追い出さないでください。その分は私とパパとで人一倍頑張るようにしますから。ここから出て行けと言われたらたぶん私達は生きていけません。そんなことはしないで。お願いします」

(なるほどな。そういうことか)

 年の割にやけに聞き分けが良いと見えたのは、どうやら母親を負い目に感じていたかららしい。確かにそうした話は事ある毎にした気がする。そのことを誰かから耳に入れたのだろう。それにしても自分は随分と冷血漢に思われているようだ。まあ、これまでの行いを顧みれば無理もない。

 とはいえ、病人を無理に働かせようという考えは智哉も持っていなかった。大体が荷物になることを前提としていなければ、最初から受け容れたりはしなかったのだ。従って沙織の心配は既に杞憂である。そのことをどう伝えようかと悩んだ挙句、結局は当り障りのない言い方に行き着いた。

「心配しなくていい。追い出したりしない。俺が役に立たないと言うのは、そうできる能力があるにも関わらず手を抜いてやらなかったり、勝手なことをして皆に迷惑をかけるような奴のことだ。以前の世界とは違い、ここでは一つの判断ミス、一つの油断が死を招く。そう成りたくないだけで、初めから無理なことがわかっていれば問題ない。それより君達がお母さんの分まで働いてくれると言うならその方が有り難い。当然、無理は禁物だがな。お父さんにもそう伝えておいてくれ。本当に心配しなくても大丈夫だ」

 話しているうちに、智哉は美鈴と加奈、それに優馬との四人で暮らしていた頃を思い出した。あの当時の美鈴も妹の加奈や保護者代わりを自認していた優馬を護るために、今の沙織と似た気持ちで自分に抱かれていたのだろう。懺悔して許されることではないが、少しでも償えるものならそうしたい。沙織の訴えを無下にできないのも、そうした思いが少なからず影響していることは否めない。

(まったく。こんなはずじゃなかったのにな)

 本当なら今頃はもっと勝手気ままな生活を送れている予定だった。それがどこをどう巡ったのか、気付けば他人のために駆けずり回る日々に陥っている。いつの間にか美鈴とは、恋人とも家族ともつかないような関係性になってしまった。この特異な状況下であればこそと断言できるが、その一方で七瀬とも続いているのだから随分とおかしなことになったものだ。こんな自分を『女は他にも大勢いる』と証した涼子が見たら何と言うだろうか。ほら見なさい、やっぱり言った通りだったでしょう、と笑うだろうか。それとももう私を忘れたのかと呆れるのだろうか──。

 幾ら考えても答えは智哉の想像が及ぶ範疇の先にしかなかった。


「やはり先日の強風で流されたみたいね。自分達の奪ったものの管理くらいしっかりしておけ、と言いたいところだけれど、今更後の祭りよね」

 無線で絵梨香が憤懣やるかたないといった調子で感想を口にした。ここは囚われていた彼女達が最後に上陸した漁港の片隅。即ち、本来なら三上達に乗っ取られた観光船「レインボー丸」が係留してあるはずの桟橋だった。だが、冷凍車の荷室でカメラ越しに外を眺める絵梨香が嘆息したように、レインボー丸の姿は港のどこにも影も形も残っていなかった。しっかりと舫っていなかったと見え、沖合に流されるか沈没するかしたらしい。苦労して手に入れた側からすれば恨み言の一つも言いたくなるのは当然だろう。そうかといって既に鬼籍に入った者に責任を取らせるわけにはいかないのも確かなので、ここは気持ちを切り替えるしかないのだが。

「だったらこの場所にもう用はないな」

 自分にも言い聞かせるように智哉はそう呟いた。元々は物資の調達に出たついでに、温泉宿へ移って以来放置しっ放しだった観光船があわよくばいざという時の備えとして使えないかと様子を見に来たのだが、結果は先に述べた通りだ。新しい船を手配するにしても直ちにというわけにはいくまい。

「また一から出直しね……まあ、出直せるだけ良しとしましょう」

 絵梨香の主張はもっともだった。やり直せるだけ自分達は恵まれていると思うべきだ。そうできなかった者が大勢いるのだから。

 新たに船を探すなら漁も視野に入れた方が良いかも知れない。港を離れ、街中に戻って探索を始めながら、智哉はふとそう考えた。目に付いた店舗を片っ端から物色しているが、食料品などは腐敗や汚染が進み、まともな状態の物を見つけるのもひと苦労という有様だった。この分だと探索範囲を拡げてもさほど変わりなさそうである。加えて狙われているのが判明した以上、あまり拠点を離れるのは得策とは言えない。生活していくからには調達に出ないわけにはいかないが、何かあればすぐに戻れる範囲に留めておくのは必須だろう。

(そろそろ本格的に自給自足を確立しないと日々の糊口を凌ぐのも厳しくなりそうだ)

 これまでは自身に釣りの趣味がなかったことから敬遠していたが、事と次第によっては海での食糧確保も検討した方が良い事柄と言えた。素人にどこまでやれるのかという懸念は残るが、それなら次に選ぶのは漁船という選択肢もあり得よう。

 そんなことをつらつらと考えながら店舗を巡るうちに、気付くとかなり遅い時間になっていた。万一、あの連中が近くに迫っていたことを考え、慎重になり過ぎた嫌いがあったのも否定できない。おまけに天候を読み違えて、雲行きまで怪しくなってきた。急いで帰還しようと撤収し始めたところで、案の定、突然の激しい雷雨に見舞われる。雨は近寄る者の姿と気配を消し去るので、ゾンビを避けるには最悪と呼んで差し支えないコンディションなのだ。それでも智哉一人であれば大した問題とはならないが、絵梨香が一緒なことで如何様にも不測の事態を招き得た。無論、こうなることがわかっていれば当然外出は控えたであろうが、もはや何を反省しようと手遅れには違いない。更なる状況の悪化を防ぐ意味でもここは無理に戻るより、安全に留まることを優先すべきという判断を智哉は下した。幸いにしてこうした場合に備え、幾つかの退避可能な場所は事前に下調べしてあり、そのうちの一つである貸倉庫が近いことは承知している。一先ずそこで雨雲をやり過ごし、天気の回復を待つことにした。あくまで一時凌ぎの場所に過ぎず、お世辞にも快適とは言い難いが、中は一応の安全が保たれているし、野宿することを思えば遥かに過ごしやすくはある。宿に残る美鈴達には手早く事情を説明して、戻れなくなった旨を伝える。緊急の連絡があれば多少強引な真似をしても駆け付けることを約束して、その足で倉庫へ向かった。到着するなりまずは智哉が車両を降りて建物内を検分する。検分と言っても中は四十畳ほどのだだっ広い空間の端に小さな事務所と備え付けのトイレがあるだけのがらんどうで、鉄骨造りの壁には道路に面した出入口のシャッターを除けば人の背丈で届く窓も戸もなく、ひと目見れば危険かどうかの見分けは付く。それで安全を確かめると、智哉は車に戻って冷凍車を倉庫の手前に乗り付けた。荷室の扉を開けて狭い車中から絵梨香を解放してやる。ついでに車内に常備してある毛布やマットレスといった簡易な寝具と最低限のアウトドア用品も事務所に運んで、即席の避難所を作り上げた。暖房器具も一応は積んであったが、今日のこの気温なら必要ないと考え、そのままにしておいた。

「どうやら当分雨は止みそうにないわね。今夜はここで過ごすことになりそうよ」

 早速、タオルで髪に付いた水滴を拭いながら寝床に腰を据えた絵梨香が、やや緊張を解いた面持ちでそう言った。

「そのようだな。けど、自衛隊の野営訓練に比べたらホテル暮らしみたいなものだろ?」

「ええ。それもヒルトンの高級スイート並みの豪華さね」

 余程、きつかったのか思い出したくもないといった感じの軽口を挟みつつ、適当に腹ごしらえしようと持って来たシングルバーナーでお湯を沸かしてカップ麺を作り、二人でそれを啜った。その間もずっと雷鳴は鳴り止まず、ガルバリウム鋼板の屋根がしきりとやかましい雨音を響かせていた。

 暫くしてどちらが先に休むかという話になり、日中運転し通しだった智哉がまずは休息すべきだと絵梨香が主張し、そうすることになった。三時間で交代のはずだったが、起こされたのは四時間を少し回った辺りだった。どうやら絵梨香が気を利かせて余分に眠らせてくれたらしい。そのことに礼を言うと、どうせ寝付けそうになかったから構わないという返事が返ってきた。

「体調がすぐれないわけじゃないから安心して。休息の重要性を忘れたわけでもないわ。ただ、こんな日は昔から良くないことが起きそうで不安になるのよ。子供みたいだって笑われそうだけど」

 どうやら絵梨香は雷が苦手のようだ。これまでにそんな素振りはなかったから意外だった。弱味を見せられる程度の仲には進展したということか。

「そんなに怖いなら手でも握っておいてやろうか?」

 智哉としては当然、冗談で口にしたつもりだったが、絵梨香の方は殊の外真剣な表情で相手を仰ぎ見た。少し考えて、そうね、お願いしようかな、と言い出した。そして本当に手を差し出してきた。

「まさか自分から言い出しておいて断るなんてことしないでしょ?」

 そう言われては智哉としても握り返すしかない。そのまま隣で横になった絵梨香と奇妙な形で手を繋ぎ合わせていると、いつしか雨は小降りになってきたようだった。

「前にも似たようなことがあったわね。あの時は私が寒さに震えていて、あなたがそれを温めようと抱き締めてくれたんだった」

「あれには参った。本当に雪女でも抱いているみたいだったからな。こっちまで凍えるんじゃないかと内心、焦ったよ」

 それはほんのひと月程前のことだ。そうであるに関わらず、やけに懐かしい感じがするのはいつもと変わらない。

「二人共裸だったものね。恥ずかしがっている場合じゃなかったとはいえ、よくあんな大胆な振舞いができたと思うわ」

「裸だったのはそっちだけだ。俺はちゃんと履いていたぞ。何もしなかったしな」

「キスはしたでしょ。もっともあれがなかったら女としての自信を失くすところだったけど。どうしてやらないのかって訊いたら、パートナーとの間に余計な感情を持ち込みたくないからだって言ったわよね? それって今も同じ?」

 あれは格好を付け過ぎたと自分でも後悔している、そう智哉は言った。

「つまり、今度は我慢しないってこと?」

 答える代わりに智哉は絵梨香を起こしてその肩を抱いた。何となくそうするのが正しいことのような気がしたからだ。絵梨香も特に拒絶することなく、黙ってその身を預けてくる。考えてみればこの一ヶ月ほどの間にそれまでの人生とは比べ物にならない経験をしたのは何も智哉ばかりではない。絵梨香もまた、自衛隊時代の仲間を全員亡くし、自らは人質となって、恐らくは殺人という禁忌にも初めて手を染めた。そんな行為を碌に整理する機会も与えられないまま今日まで必死に神経を張り詰めてきたに違いなく、ここに至って漸く弛緩したとしても何ら不思議ではない。

「……なあ、あの時の続き、今しないか?」

 自分もこれまでの精神的な消耗を意識しつつ、絵梨香をそう誘ってみた。彼女となら美鈴や七瀬と違い、弱さや憂懼を分かち合うこともできそうだ。

「気を使って言ってくれたわけじゃないわよね? でも、いいの? 美鈴さんや七瀬さんがいるんでしょ? いよいよカサノヴァ染みてくるわよ。私はそうなったからってあなたを独占する気はないけど、あの二人はそんなわけにいかないんじゃなくて? それともハーレムでも築こうってつもり?」

「止してくれ。そりゃ禁欲家とは言わないが、二人については色々と複雑な事情があるんだよ」

 女たらしのように言われるのは心外だというニュアンスを込めて智哉が反論すると、ふーん、複雑なねぇ、と絵梨香は鼻を鳴らした。このままだと分が悪くなりそうなので、それにそんな物好きはもういないさ、と付け加えた。

「そうとも言えないんじゃないの? 辻本さんのところは御夫婦だから除外するとしても他に若い独身女性が六人もいるのよ」

「一人は中学生じゃないか。さすがに手は出さないぞ」

「まあ、そうか。それとあとから来た若い二人はお互いのことしか目に入ってなさそうだから、これも外して良いわね。となると、男があなた一人に対して七人の女性が取り合うってことになるわ」

「ちょっと待った。あとから来た若い二人って英司と沙織のことか? あの二人、付き合っているのか?」

 思わずそう訊くと、逆に気付かなかったのかと呆れられてしまった。

「みんな知ってるわよ。あれで本人達は懸命に隠しているつもりなんだから。見ているこっちが気を遣って知らんぷりしているくらいバレバレなのに」

「辻本さん達も知っているのか?」

「母親の晴美さんはわかってて黙っているみたいね。父親の辻本さんはそこまで確信は持っていなさそうだけど、何かあるとは思っているんじゃないの。まったくわかってなかったのはあなたくらいなものよ」

 そう聞いても思い当たる節は一向に浮かんでこないので、その件は一先ず頭の片隅に棚上げしておく。代わって言った。

「話を元に戻すが、仮に男女比がそうであっても全員が俺に興味を持つわけじゃないだろ。やっぱりあの二人や絵梨香との仲が特別なんだよ」

「普通に考えればそうかも知れないけど、今は普通とは呼べないでしょ。私だってこんな状況じゃなければ他に相手のいるあなたと寝ようとは思わないもの」

 そう言われては智哉に返す言葉はなかった。

「すがれるものなら何にでもすがり付きたいっていうのが本音ね。私を含めてみんなそう。あなたには身も蓋もない言い方になっちゃうけど、頼りになるなら誰だって良いのよ。現状、そんな相手はあなたしかいない。だからといって、あなたに魅力がないってわけじゃないからそんながっかりした顔をしないでよ。何て言うか、見ようによってはハンサムに思えなくもないし」

「涙が出るほど有り難くて救われるね。でも、お喋りはそろそろ止めにしないか?」

 これ以上心が折れる前に話を切り上げるべく智哉はそう言い、そっと絵梨香に顔を近付けていき、彼女と二度目の口づけを交わした。


【カクヨム運営より過剰な表現との指摘があったため、一部を削除しました。文章に繋がりがないのはそのためです。完全版の掲載はアルファポリス(https://www.alphapolis.co.jp/novel/201268578/431697946)、もしくはミッドナイトノベルズ(https://novel18.syosetu.com/xs8892a/)にて行っています】


「絵梨香に言っておきたいことがある」

 明け方近くになって智哉は、背中を向けて小休止する彼女の思いがけず華奢な剥き出しの肩を眺めながら、真剣な物腰で話し始めた。

 何? と言いたげな表情で絵梨香が振り向く。

「もし奴らと出遭って戦闘になったら、その時は俺に構わず自分の身を護れ」

 奴らとは無論、他の者を脅して居場所を探ろうとした凶悪な連中のことだ。智哉が目撃した時から変わりなければ男四人と女二人の六人組。対してこちらは外で遭うとしたら二人きり。只でさえ人数で圧倒的な差がある上に、その中でゾンビに狙われるのは絵梨香だけという理不尽さもある。恐らくは智哉にそれを気にかけている余裕はない。

「わかったわ。そっちも約束して欲しい。危なくなったら私のことは置いて逃げて」

 一切を承知した様子で絵梨香は智哉に向かい、そう告げた。

 もっともこの時点では宣戦布告を受けてからまだ二日しか経っていない。警戒するに越したことはないが、接触するとしてももう暫くは先だろう。

 しかし、そうした智哉の楽観的な予測はこの直後、考えもしなかった方法で裏切られることになった。

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