7 乱気流(タービュランス)
「バッテリーの残量を確認してくれるか? それと機体に異常がないかも見て欲しい。どうぞ」
英司はカメラ越しに見える映像の中で、いそいそと着衣の乱れを直す少女に向かってそう言った。先程までの熱量はすっかり失せ、男なら誰でもそうであろうが射精後の余韻も急速に醒めつつある。それに取って代わり湧き上がってきた気恥ずかしさを胡麻化すため、必要以上に冷静に振る舞おうとしている自分が自覚できた。もっとも沙織に指示したのはそればかりが理由ではない。バッテリー残量は手許のタブレットでも確認できるが、念のため、離陸前には機体側でも常にチェックするよう心掛けているのだ。いつものルーティン通りに彼女が機体を操作し、インジケーターに示された電力の残りを伝えてくる。
「三分の二くらい残っているけど、どうする? 新しいバッテリーに入れ替えるなら取って来なきゃならないんだけど。どうぞ」
少し考え、英司は言った。
「いや、その必要はないよ。それだけあれば問題ないだろう。もしヤバくなったら長谷川さんの方で交換して貰うから」
ドローンの帰還が危うくなった場合に備えて、それぞれの場所に予備のバッテリーを保管しておいて貰っている。交換の手順もレクチャー済みだ。だが、今回はその必要はなさそうである。
「……じゃあ、そろそろ行くよ。長谷川さんをあまり待たせても悪いしね。じゃあ、また今度」
「うん。了解。またね」
それだけ伝え合うと、英司は無線を切ろうとした。名残惜しさは当然あるが、電池のパワーは無限ではないので仕方がない。電源ボタンを押しかけたその時、ちょっと待って、パパが何か喋っている、と緊迫した模様の沙織の声が飛び込んで来た。
こういう時は送信か受信のいずれか一方しかできない単信式の無線機はつくづく不便だと感じざるを得ない。例えば電話なら僅かながらも通話先の様子を知ることができるが、今はそれが不可能だからだ。事態が掴めず焦れた思いで応答を待ち受けていると、やがて声だけでも慌てふためく姿が容易に想像できた沙織が告げた。
「ねえ、どうしよう? ママが倒れたみたい。気分が悪いって吐いているの。まさか死んだりしないよね? どうしたらいい? どうすればいいの?」
とりあえず落ち着いて、と言おうとして、向こうが送信スイッチを放し忘れていることに気付いた。無論、そうなればこちらからの呼びかけは一切できない。五分経てば無線機の連続送信を防止するタイムアウト機能により自動的に受信へと切り替わるが、一刻も早くこちらの言葉を伝えたくて、指を放すんだ、と英司は心の中で念じ続けた。
その甲斐あってか、暫くするとスケルチテール(送受信を切り替えた際に「ザッ」と一瞬響く雑音。テールノイズとも言う)が聞こえて、送受信状態が切り替わったことが知れた。英司は間髪入れずにPTTスイッチを押し、一気に捲し立てた。
「状況は聞いたから、とにかく落ち着くんだ。それと送信を終えたらスイッチを放し忘れないこと。そうしないとこっちの声が届けられない。いいね? それで今、お母さんはどうしている? どうぞ」
「スイッチのことは気を付けるわ。ママは……床に寝かせてパパが面倒を見ている。熱はないみたい。呼吸が荒くなってて脈拍が弱いって。ねえ、これって何の病気? 治るわよね? どうぞ」
そう訊かれても医学の心得など無きに等しい英司に答えようがないのは自明の理だ。まさかこの季節に熱中症ということはないだろうから、乏しい知識で他に思い付くことといったら過呼吸か貧血くらいなものである。しかし、それなら自分より経験豊富な孝和の方が適切に対処するに違いない。
「お父さんは慌てたりしていないんだよね? だったら今は任せるんだ。何か言われたらそれを手伝って。そのためにも君が冷静でいないと。俺にできることがあれば何でもするから。お父さんにもそう伝えて欲しい。どうぞ」
「うん。そうだよね、わかった。なるべく冷静でいるよう心掛ける。落ち着かせてくれてありがとう。一旦、無線を切るね。何かあったら連絡するから待機しておいて欲しいんだけど。お願い」
そうして無線交信を終えると、英司は一先ずドローンを手許に戻すことにした。向こうにあっても役に立たないと考えたためだ。長谷川にも連絡して事情を伝え、何かあった場合に備えて無線の電源は切らずにいて貰う。
一時間ほどして英司の下へ孝和から経過報告がもたらされた。それによると幸いなことに、晴美はあれから落ち着きを取り戻し、現在は容態も比較的安定しているという。
「しかし、原因がどうもはっきりしない。医者でないのだから当たり前だが、ただの過労とは思えないんだ。どうやら私や娘には心配をかけまいと内緒にしていたようだが、暫く前から度々眩暈に襲われていたらしい。気付かなかったとは迂闊だったよ。こんなことでは夫失格だな。それに娘には聞かせられないが、どうやら段々と悪化してきているみたいなんだ。一刻も早く医者に見せるべきなんだろうが、この状況ではそうもいかないからね。このままだと、いずれは……いや、すまない。今のは聞かなかったことにしてくれ。情けない話だが、こんな弱音が吐けるのも君とは男同士だからだろうな。とにかく娘から聞いたが心配してくれたそうでありがとう。一先ずはそれを言いたかった」
孝和の気持ちは英司にも痛いほど理解できた。晴美には申し訳ないが、もしこれが沙織の身に起きていたなら、やはり居ても立ってもいられなかっただろう。だからと言って自分に何ができるというのか。悩んだ末に、英司はある提案を孝和にぶつけてみることにした。
「一つだけ……考えがあります。上手くいくとは限りません。むしろ、思い通りにいかずに失望する確率の方がずっと高い。それでも何とかなる可能性はゼロじゃない。それは広域無線通信で助けを求めてみるという方法です。どうぞ」
「無線で? しかし、それなら今までも交信してきたし、もし聞いている人がいるのならとっくに反応があって然るべきだったんじゃないのかね?」
孝和が言っているのはデジタル簡易無線のことだ。だが、英司が提案したのは別の手段である。そのことを孝和に説明してやる。
「いえ、現在、僕達が使っているのはデジタル簡易無線機で、それだと普通に使えてもせいぜい五キロほどしか交信範囲はありません。もちろん、自分達にはそれで充分だったわけですが。今、考えているのは特定小電力無線というやつで、これは文字通り出力が弱く街中では数百メートルほどしか届きませんが、何と言ってもデジタル簡易無線じゃ認められていない中継器が使える。その上、改造が違法というだけで不可能なわけじゃない。それらを上手く利用すれば恐らく相当な範囲まで電波を届けられるはずなんです。具体的にはドローンに出力を上げた中継器を搭載して上空に飛ばそうと考えています。どうぞ」
「そんなことがやれるのか……というのは愚問だな。できないことを君が提案するはずがない。しかし、問題があるんだろ? そうでないなら既に試していなければおかしい。違うかね?」
孝和の言う通りだった。やろうと思えばいつでもできた。それを今日まで実行しなかったのは、ひとえに失敗した時の損失の大きさ故である。
「おっしゃる通りです。一つは最初に言ったように上手くいく見込みが薄いから。でも、最大の理由はそれじゃない。失敗しても単に失望するだけなら構わないんですが、背負うリスクが大き過ぎるんです。状況次第では僕達が頼りにするドローンを失いかねない。もちろん、これまでだってそのリスクはあったんですが、少なくとも経験のないことはしていません。しかし、今度の場合は違う。ドローンというのは本来、国内の法令で高度百五十メートルまでしか飛ばせないことになっているんです。僕もそれ以下でしか飛行させたことはない。メーカーが保証する安全な限界高度も五百メートルまでというのが殆どです。でもスペック的には富士山より高く飛ばすこともできて──あくまでそれは電波が届けばという条件付きですが──ただし、そんなところまで飛ばせばどんなアクシデントに見舞われるか予想も付きません。GPSが利用できない以上、フェイルセーフ──電波が途切れた際に自動で手許に戻る機能も使えない。一方で通信範囲を拡げようと思えばなるべく上空から発信すべき。無線の種類にもよりますが、実際、山の上から通話を試みて百キロ以上も先の相手と繋がったという報告もあります。特に多くの人が無線を聞いていることに期待できない現状では、如何に遠くまで電波を届かせられるかが助けを得られる鍵になると言って間違いないでしょう。まして特小無線は本当なら近距離でやり取りされるものですから、この状況下では使用率という意味でも微妙です。他の通信方式──デジタル簡易無線やアマチュア無線とも相互にやり取りできれば良かったんですが、それは無理なので。つまり困るのはドローンをできるだけ高く飛ばしたい、しかし安全マージンをどこまで取れば良いのかさっぱりわからない、ということなんです」
デジタル簡易無線におけるタイムアウトである五分までにはまだ余裕はあったが、ここで一旦、英司は送信権を孝和に譲った。
「だったら初めからアマチュア無線機を使ったらどうかね? 以前ほど盛んでないとは聞くが、それでも一定の愛好家はいるんだろう? 君も確か免許を持っていると話していたのではないかな? どうぞ」
「四アマ──四級アマチュア無線免許なら一応、取得しています。もっとも僕の場合はドローンを飛ばすのが目的で、人と話したことはないんですが。一応、こうなって以降は機材を稔に調達して貰って、何度か呼びかけてはみたんです。結果は何の応答もありませんでした。大規模な通信設備でもあれば別でしょうが、量販店で揃えられるようなハンディ型のアマチュア無線機ではデジタル簡易無線と性能的に大差ないからだと思います。それでもレピーター、いわゆる中継局が生きていれば状況は違ったかも知れませんが。大抵そういったアマチュア無線用の中継局は辺鄙な山の上とかにあることが多くて、維持管理も有志の方がボランティアで行っていますから、何かあれば途絶するのはやむを得ない。特小の中継器のように簡単に入手や設置ができるものでもありませんしね」
他にも広域で無線通信をやり取りする手段としては、インターネット経由で全国の中継局と結ぶ方法や携帯電話網を利用するIP接続などがあるが、いずれも通信インフラが無事であることが前提だ。要するに余程の設備を有していない限り、現在の通信では範囲が限定的にならざるを得ない。
「総合的に考えれば君の言う方法がベストということか。しかも、それだけのリスクを冒して他の生存者を見つけ出したとしても助けて貰える保証は何もない。そういうことだね?」
「ええ、普通に考えたら不可能なことでしょう。仮に向こうにその気があったとしてもまずどうやってここに辿り着くのかという問題があります。もしかしたら自衛隊とかレスキュー隊とかに繋がってヘリで迎えに来て貰う、なんて都合の良いことが絶対に起きないとは言い切れませんが、それならこれまでに見かけることがあっても良かったはずです。でも最初の頃を除けばこの数ヶ月、そんなものは見なかった。それにこれは考え過ぎと笑われるかも知れませんが、接触した相手が必ずしも信用できるとは限らない。もしかしたら悪意ある連中で、嘘やデマでこらちを惑わそうとしてくるかも知れないんです。そんな奴らと関わりになるくらいなら初めからしない方が良い、そうした思いもあってこれまでこのやり方は避けてきたんです」
だが、一刻を争うような事態となれば話は別だ、と付け加えた。直接会えなくても相手に医療関係者がいれば治療のアドバイスを貰えるかも知れない、それだけでも試す価値はある、そうも言った。方法とそれに伴うリスクは説明し終えた。あとの判断は孝和に委ねようと英司は思った。何と言っても今、救いの手が必要なのは彼の妻なのだから。
「君の話は概ね理解した……いや、理解できたと思いたい。これは私一人で決めて良い問題ではないようだ。何しろ、全員の今後が懸かっているのだからね。長谷川さんにも相談しなければなるまい。それでも敢えて言わせて貰おう。私は妻を助けたい。彼女のためにできることがあるなら何でもしてやりたいと思う。例え望み薄だとしても、その代償が他の人を危険に晒すことであってもだ。それが私の本音だよ。エゴイストと言われても構わない。身勝手との謗りは甘んじて受けよう。私から言えるのはそれだけだ。あとは君と長谷川さんの判断に任せよう。仮にそれが不本意な結論であったとしても従うよ。娘のことは気にしないでくれ。私が責任を持って説得する」
この話を切り出した時点で英司の胸の裡は決まっていたも同然だったので、残るは長谷川夫妻の意見ということになる。よって英司は待機状態で孝和とのやり取りを聞いていたであろう長谷川達を呼び出すことにした。
「長谷川さん、聞いておられますか? 聞いていたら応答してください。お二人はどうお考えになられますか? どうぞ」
そのまま暫く待つと、無線機にこれまでとは違った声が流れた。
「長谷川です。話は聞いていました。技術的なことははっきり言ってチンプンカンプンだが、辻本さんの奥さんを助ける手立てがあるなら、何を置いてもやるべきだと女房とは意見が一致したよ。これは何も辻本さんに同情して言っているわけじゃない。私達だって同じ立場になればそう願い出るだろうからね。だから我々に気兼ねせず、思う存分やって欲しい。それが私達の願いだ。何、安全策を取っていたって失敗する時はするんだ。怖れることはないさ。どうぞ」
複数台で無線交信を行う場合、送信者が次の発言相手を指名するのがルールだが、当然、そんなことを長谷川が知るはずもない。ここは英司が自分で引き取っても良かったが、たぶん孝和が何か言いたいのではないかと思い、敢えて応答せずに待った。すると案の定、僅かな逡巡の間を感じさせた後、ここは私に話させて欲しい、と孝和から申し出があった。
「長谷川さんには何と御礼を申し上げて良いのか……ありがとうございますとしか言えないのがもどかしい。娘もこのことを知ればきっと同じ気持ちになるでしょう。本当にお二人には感謝してもし切れません。──それで関谷君、肝心の君の気持ちをまだ聞いていないんだが、どうするつもりだね? 我々に配慮して相談という形を取ってくれてはいるが、実質的には君がノーと言えば誰にもそれを覆すことなどできないのが現状だ。それを不満に思っているわけではないよ。ドローンに一番詳しいのは君なんだから当然だ。だから最後には君が決めてくれ。どうぞ」
「もちろん、僕に異存はありません。というか、そうじゃなきゃそもそも提案なんかしていませんよ。あ、だからってこれ以上、礼なんて言わないでください。もう充分に聞きましたから。どうぞ」
「……そうか。なら君への感謝は心の中に留めておこう。それで急かすようで悪いんだが、やれるとしたらいつ頃に実行できそうかね? 一刻も早く妻を楽にしてやりたいんだ。無論、準備に手抜かりがあってはならないが、なるべくなら早めにお願いしたい」
用意が整い次第行う、と英司は請け負った。それには一日ほどかかる予定だとも伝えた。
「稔……お前の準備が役に立ったよ。サンキューな」
翌日の昼過ぎ。英司は屋上で誰に聞かせるともなく呟いた。その手には銀色に輝く箱型の機械と、それに繋がる一メートルほどのアルミ製アンテナが握られている。本来なら特定小電力トランシーバーは免許も登録も不要な半面、出力を上げることは元より純正のホイップアンテナを取り換えてもならないという決まりがある。だが、今は非常事態だ。そんな悠長なことは言っていられない。こんなこともあろうかと稔に本体と中継器の違法な改造を頼んでおいたのだ。その成果は今、英司の手許にある。送受信のテストは午前のうちに済ませて特に問題はなかった。あとはドローンに取り付け上空に飛ばせば、電波を遮るもののない恰好の発信源となってくれるだろう。
「お前はやっぱり役立たずなんかじゃなかったよ」
もう一度そう囁いて、英司は残る取り付け作業にかかった。そうして全ての支度を終えると、念には念を入れ再度バッテリー残量を確かめてフル充電であることを認めた上で、ドローンを起動させた。まずはメーカーが定める安全限界の高度五百メートルを目指して離陸する。国内航空法が制限する百五十メートルを難なく突破して尚も高度を上げ続け、予定通り五百メートル地点に到達したところで、
「CQ、CQ、CQ。こちらはJN2──」
CQとは通信可能圏内に存在する全局に向けて呼びかけている符号。要するに誰でも良いから応答求むという合図だ(ちなみにCQは通信黎明期に多用された略符号で特に意味はないとされる)。続くアルファベットと数字の羅列は、アマチュア無線局におけるコールサイン。無線免許証を取得した際に付与される世界で唯一自分だけが持つ識別信号のことだが、現在使用しているのは免許不要の特定小電力無線のため、厳密に言うとコールサインは告げなくとも良い。好きな呼ばれ方を自由に名乗れるが、それにも関わらず半ば無意識のうちに正規のコールサインを宣言しようとして──。
「……くそっ、あとは忘れました。こちらはJN2、
使っていなかったとはいえコールサインを忘れるというアマチュア無線免許保持者にあるまじき失態を犯しながら、それでもアルファベットとフォネティックコードと呼ばれる通信規則(MとNのように発音が似ているものの混同を避けるためAをアルファと言ったりする映画などでお馴染みのアレ)に則り二度呼びかけてみたが、応答はない。さらに高度を上げて、千メートル地点でもう一度試みるも同じく何の反応も返ってこなかった。
(やはり駄目か……)
半ば予想できたとは言うものの、失望感は禁じ得なかった。だが、更なる危険を冒してもっと高みを目指すべきかと悩んでいた時、
「──コールサインって何? えっ、言わなくても別にいいの? よくわかんないけど、聞こえています。どうぞ……でいいんだよね?」
望みはしたが期待はしていなかった不測の出来事に、暫し英司は絶句し反応を見失う。慌てて気持ちを立て直して、女性であろうその声の主に応じた。
「こちらは
「こちらは……生存者のグループよ。無線に慣れていないから、答え方が間違っていたらごめんなさい。どうぞ」
思わずガッツポーズをしかけて送受信機を落としそうになり、何とか持ち堪える。とはいえ、まだコンタクトに成功しただけで、助けになると決まったわけではない。糠喜びで終わる可能性の方が依然として高いのだ。故にここから先の会話はひと言ひと言が自分達の命運を左右しかねない重要な決定力を持つ。そのことに気を引き締め直して英司は再び口を開いた。
「いえ、応答の仕方は気にしなくていいです。まずは呼びかけに応じてくださりありがとうございます。こちらも生存者のグループです。
「よくわからないし、何でもいいわよ。普通はどうやって名付けるの? 何かルール的なものはあるのかな? どうぞ」
英司が思い出せないでいるコールサインは自動的に割り振られたものなので、自分で付けたことはない。自ら名乗る場合、慣例では地名やイニシャル、ニックネームなどにちなんだものが多いと聞くが、別に拘る必要はないだろう。
「好きなもので良いと思いますよ。渾名でも偽名でも。呼び方がわからないと不便なだけですから。どうぞ」
「……そう。だったらCS4と呼んで頂戴。さっき言ってたジュリエット何たらみたいな言い方だとどうなるのかしら? どうぞ」
「それなら
よろしく
ここまでの会話の流れでは無線に不慣れという以外、特に目立った不審さは感じられない。交信が覚束ないのも生き残った者が偶然無線を手にしたと考えればむしろ自然と言えるだろう。もっともそう思うのは相手が女性ということが多分に影響していないとも限らないが。グループということで、どの程度の規模なのか確かめておくべきかも知れない。それによっては交渉の仕方も変わってこよう。
「
「……こちらは三十人ほどいるわよ。今、傍に居るのは数人だけど。そっちはどうなの?」
「それは──随分と大所帯ですね。自分達は全員で六人です。といっても、ここに居るのは僕だけなんですが」
果たして別々の場所に避難していることまで話してしまって良いものなのか、英司は迷った。幸いにも部屋に居るのが英司一人と解釈されたみたいで、それ以上追及されなかったことを儲けものに、とりあえず黙っておくことにした。
「えっと、それで
ここまで来て目的を隠し立てすることに意味はないと思えた。どの途、事情を説明しなければ助力を求めようがないのだ。掻い摘んで英司は理由を説明し始める。
「実は助けて貰いたいことがあるんです。仲間に急病人が出てしまって、ここには手当できる人間がいません。それで医療の心得のある人が見つからないかと、こうして交信を試みたわけです。厚かましいお願いとは思いますが、そちらに医者や看護師はいらっしゃいませんか? もしお見えになるなら助けてください。どうかよろしくお願いします。どうぞ」
そんなに都合良く見つかるとは思えなかったが、藁にもすがる気分でそう訴えた。ところがそんな予想に反して、医者ならいるけど、とまるで血液型がAB型の人を募るみたいな気安さで返事があった。
「でも、ゾンビに噛まれたのなら医者がいても無駄よ。どうやっても治せないもの。悪いことは言わないから、その人は早く処分した方が良いわよ。どうぞ」
「いえ、ゾンビで感染したわけじゃありません。恐らく何かの病気じゃないかと思われます。もし本当に医者がいるなら──いや、疑うわけじゃないんですが、あまりに上手くいくので驚いてしまって──その方を呼んで貰えませんか? どうぞ」
お誂え向き過ぎる展開に疑問を抱かなくもなかったが、元々医療関係者を見つけることが狙いなのだから、それが叶うたびに疑っていては切りがない。第一、ここで自分達を騙して彼らに何の得があるというのか。どうせ嘘ならすぐバレるに決まっている。さすがに英司も見ず知らずの相手の言葉を端から鵜呑みにするほどお人好しではない。
「ええっと、ちょっと待って頂戴……その人は今、この場にはいないのよ。離れた場所にいて……別の無線機で繋がっているから私が伝えるわ。とりあえずどんな症状なのか聞かせて欲しいそうよ。助けられるかはそれ次第ってことみたい」
当然と言えよう。そもそもどうやって助けるというのかも謎だが、交信できる時間は限られているので、一先ず詮索は棚上げして先方の指示に従うことにする。
「わかりました。僕が直接、病状を診たわけではないんですが、暫く前から眩暈が続いていたそうです。それで昨日、倒れて起き上がれなくなった。その時は吐き気があり、熱はなかったんですが、呼吸が荒く、脈も弱いとのことでした。調べられたのはそれくらいです。他に確認すべきことがあれば言ってください。すぐに確かめます。どうぞ」
一分ほどの沈黙が続き、漸く応答があった。
「お待たせ。今の話を伝えたわ。相当に深刻な状態のようだって。それで無線では埒が明かないから、こちらに来て貰った方が良いそうよ。それなら診察もできて治療も引き受けるですって。どうぞ」
「しかし、行くといってもどうやって? 外はゾンビに取り囲まれています。とても出られる状況にない」
「それなら心配要らないわ。こちらから迎えに行くわよ。そこの場所さえ教えてくれたらね。この無線を使っているってことは、そう遠くないってことでしょ?」
迎えに? 仮に近場だとしてもそんなことが可能なのか? 英司は信じられないものを聞いた思いだった。
「
「あら、そうなの? でも問題ないわよ。無線じゃ詳しく話せないけど、こちらには移動する手段があるのよ。それで今日まで水や食糧を確保してきたってわけ。こうして話せていることが何よりの証拠でしょ? そちらにも何か生き残ってきた秘策があるんじゃないの? まあ、無理に聞き出したりはしないけどさ。あなた達六人くらいを受け容れる余裕ならまだあるわ。それともこちらと合流するのに何か不都合な点でもあるのかしら? 大体、私の話を疑っているなら居場所を教えるくらい問題ないはずよね? そちらに行きようがないんだから。どちらにしろあなた達に損はないと思うんだけど。どうぞ」
言われてみれば確かにその通りだ。彼女の話が本当なら望み通りに助けて貰え、嘘だとしてもこちらが動く必要はない。どう転んでも害のない話ではある。ただ──。
「どうしてそうまでして助けてくれるんですか? 水や食糧だって貴重なはずだ。簡単に分け与えるなんて信じられません。どうぞ」
「……水や食糧に関してはさっきも言ったけど、余裕があるのよ。人が減ったおかげで物資自体は大量に残っているからね。手に入れる算段さえあれば調達するのは難しくない。困っているのは労働力なのよ。グループは三十人ほどだって言ったけど、実は大半がお年寄りや子供なの。だから人数に対して働き手が不足していて。あなた達に加わって欲しいのはそのためよ。仲間になったならしっかりと働いて貰いますからね。それが私達からの条件。納得して貰えた?」
そういうことなら先程の話も理解できる。無論、働くということにも異存はない。漸く安心して居場所を告げようとした矢先──。
「止せ、言うな」
英司がPTTスイッチを押すより一瞬早く、無線に聞き覚えのない男の声が割り込んできた。
「
「ちょっと、何勝手に入って来ているのよ。今、私達が話しているんだから邪魔しないで頂戴」
先に交信していた相手がそう告げると、後から横槍を入れてきた男の方が妙なことを言い出した。
「そこに彼女もいるのか? セーラー服を着た中学生くらいの娘のことだ。子供は彼女だけだったはずだろ。年寄りはいなかったな。仲間が三十人というのも嘘だ」
「何でそれを──じゃない、何のことを言っているのかわからないわ。変な言いがかりは止めてよね。
これは一体、何が起きているというのか。とりあえず場の混乱を鎮めようと、英司は双方に向かって呼びかけた。
「どちらもちょっと待ってください。
「……半分は当てずっぽうだったが、今の反応を見る限り間違っていなかったみたいだな。そいつらは危険な連中だ。下手なことは言わない方が良い」
「それじゃあ、答えになっていない。あなたも無線を聞いていたならこちらの事情は理解できているはずだ。病人がいて、今すぐ医者の助けが必要なんだ。
「こちらを信じる必要はない。要は向こうが信用できるかだ。本当に医者がいるなら何の病気が訊いてみるんだな。どうせ答えられっこない」
英司は折角救いの手を差し伸べてくれた相手に対し試すような真似をしては気を悪くされるのではないかと危惧したが、そう言われると確かめたい衝動が堪え切れなくなった。つい思うがままを口にしてしまう。
「
暫し無言の末、英司が内心で焦り始めた頃になってやっと返事があった。
「……ええ、答えられないそうよ。だって当然じゃない。患者を診てもいないのに、憶測だけで適当な診断を下せるはずがないでしょ。どうせ病名を告げたらそれを理由に偽医者呼ばわりするつもりじゃないかって言ってるわ。言いがかりもいい加減にして欲しいわね」
今の質問はそういう意図だったのか。自分が騙す側なら気付かずに適当な病名を答えていたに違いない。しかし、そう考えると、やはり本物の医者がいるのではないかという気がしてくる。ところが、鎌掛けをあっさり看破されたにも関わらず、無線の男は動じた様子もなく、言った。
「確かにそうだ。これで何かしらの病名を口にしていたら、そこを突くつもりだったさ。けどな、そもそも診断できないのは何故だ? 情報が圧倒的に不足しているからだろ? だったら、どうして患者のことを詳しく訊かない? 少なくとも性別や年齢くらいは真っ先に訊いて然るべきじゃないのか。無線を聞いていた限りじゃ、そんな質問は一切出なかったよな」
指摘されて初めて英司も気付いた。普通、対面での診察なら見ればわかることなので、気に留めなかったのだろう。しかし、これは無線である。伝えなければ男か女かさえもわからない。医者が見つかったことに舞い上がって、そのことを疑問に思わなかった。ただし、それだけで嘘だと決め付けるには弱い気がする。疑われた方もそう感じたようだ。
「あなたが邪魔しなければ、この後、訊ねるつもりだったのよ。どちらにしても無線じゃ診断が下せないことに変わりないでしょ。後からでも問題ないと思ったのよ。でも、ついでだから訊いておくわ。
「……性別は女性です。年齢は恐らく四十歳前後。持病の有無は今はわかりません。必要ならすぐに確認を取ります。──後から割り込んできた人、指摘がそれだけなら我々はやはり
命綱であるドローンを失うかも知れないリスクを冒してまで通話を試みた自分達にとって、医者と巡り合える千載一遇のチャンスをふいにするなど到底できようはずもないのだ。はっきりとした確証がない以上、多少疑いの目が残るとしてもすがるしかない。
すると、無線の男は呆れたような声を出した。
「こっちに医者はいないが、看護師ならいる。俺はもう放って置けと言ったんだが、そいつが何か話したいことがあるそうだ」
僅かな間が空き、すぐに若い女の声に替わった。
「交替しました。私は看護師です。医療従事者として
沈黙。応答はない。仕方がないので英司が代わりに口を開いた。
「
「……こっちの医者は今、無線に出られないのよ」
「だったら手が空くまで待ちます。どれくらい掛かりそうですか?」
実際はドローンが今の高度を維持するのにバッテリーの消耗が相当激しく、保ってあと数分以内に交信を切り上げ、地上に戻さなければ墜落の恐れがあった。果たしてそれまでに回答が得られるだろうか。英司は内心の焦りを表に出さないよう気を付けながら様子を窺った。
「待って。今、連絡があったわ。質問に答えても良いそうよ。でも、その前に一つだけ聞きたいって。その答えが正解かどうかを誰が見極めるのかですって。こちらが正しい解答をしても向こうが間違っていると嘘を吐くかも知れないわけでしょ? だったら返答する意味がないわ。その上で答えるとしたら──呼吸器疾患よ。気管支喘息や肺炎などに使われることが多いそうね。どうせ、あっちは違うって言うんでしょうけど」
確かに英司に真偽を見分ける能力はない。誤りだと言われても嘘か本当かを見抜きようがないのだ。故に余計な口は挟まず、成り行きを見守ることにした。
「その通り間違っています。でも、それは薬の適応についてじゃない。サクシンって言ったけど、ヒドロコルチゾン製剤の医薬品名は正しくはサクシゾンと言うんです。サクシンは動物の殺処分に使われたりもする筋弛緩剤で、現在は別の商品名になっています。何故だかわかりますか? 聞いたように名前が似ているため、以前は取り違え事故が度々あって患者が死亡するということも起きました。だから医療関係者ならこの二つを絶対に混同したりしない。サクシンではなく、それはサクシゾンだと言うべきなんです。断言します。誰が何と言おうとそこに医者はいません。私から伝えられるのは以上です」
そう言った後、初めの男に替わって、とにかく警告はしたから後の判断はそっちでしろ、と素っ気なく告げられた。
「待ってください。まだ訊きたいことがあります。
「……手の込んだ作り話よ。でも、もういいわ。折角、助けてあげるって言ってるのに、疑われたんじゃ心外だもの。好きにすればいいじゃない。こっちは手を引くわ。あとで泣きついて来てももう遅いわよ。じゃあね」
止める間もなく、交信は打ち切られた。その後、英司が何度呼びかけても応じる気配はない。
(本当にこれで良かったんだろうか……)
未だに英司はどちらの話も半信半疑だ。恐らく、
(そうすべきだろうか?)
だが、英司の中の何かがそれを拒んだ。理由は自分でもよくわからない。敢えて挙げるとすれば、後から話しかけてきた男の、無理に信じさせる気のない冷淡な態度が気になったということであろうか。
いずれにしても残された救いの手はそちらにしかないのだ。今はそれを手放さないよう全力で繋ぎ止めるしかない。
「割り込んできた人、聞いていますか? 応答してください。どうぞ」
しかし、既に受信を止めてしまったのか、何の反応もない。祈るような思いでもう一度、英司は呼びかけた。
「お願いします。聞いていたら、どうか返事をしてください。お願いだ」
「……話なら手短にしろ。ただし、さっきの連中も聞いていることを忘れるな」
漸く先刻の男の声が応じた。英司はホッと胸を撫で下ろす。
「なら、単刀直入に言います。僕達を助けてください。病人を診てくれるだけでもいい」
「無理だ。何故かと訊くだろうから先に説明してやる。あいつらが無線を聞いていることは言ったな。仮に合流できる手段があるとしても場所を言えば奴らもそこにやって来る。危険な目に巻き込まれるのは御免だ。だからこちらも行けないし、そっちも来られない」
取り付く島がないとはまさにこのことだ。だからと言って、ここで引き下がるわけにもいかない。
「そんなに危ない人達なんですか? いえ、今そのことはどうでもいい。あの人達さえいなければ合流できるということですか?」
「答える必要はないな。それよりさっきの看護師から伝えたいことがあるそうだ。替わるぞ」
まだ話の途中だと抗議しても相手には届かないので、英司は黙って受け容れるしかなかった。受信機から再度、若い女の声が聞こえた。
「簡潔に済ませろと言われているから用件だけを伝えます。本来なら迂闊に病名を口にすべきじゃないけど、たぶん他に当てはないでしょうから推測で言っていると理解した上で聞いてください。患者は四十代の女性で断続的に続く眩暈の症状、これは有名なところでメニエール病の症例と似ています。特に視界がグルグルと廻る回転性の眩暈なら可能性は一段と高まるので本人に訊いて確認して見てください。ただし、これと似たような症状の病気は多くて、一概にそうだとも言い切れません。グリセロールテストがやれればもう少し精度の高い判別ができるんだけど、それは無理そうだからこの先はメニエール病と仮定して話します。メニエール病の原因は不明です。なので根本原因を取り除いて治療することはできません。このまま病気が進行すると眩暈だけじゃなく耳鳴りや難聴が常態化して、最終的には不治、つまり治療しても治らなくなります。ですが、患者本人の苦痛は別にして、メニエール病自体は悪化しても直接命に関わる病気ではないんです。もっとも病人を抱えることそのものが生存率を著しく下げる現状じゃ何の慰めにもならないでしょうけどね。とにかく過度のストレスのない生活を心がけ、塩分の摂取はなるべく控えるようにしてください。言ってる自分でも難しいことはわかっていますが。今、やれることと言ったらそれくらいしかないんです。お役に立てなくてごめんなさい」
向こう側で無線機を受け渡す気配が伝わる。やがて、また男の声に替わった。
「俺達がしてやれるのはここまでだ。そろそろ交信を終えるぞ」
それを聞いて、英司は慌てて引き留める。
「待ってください。そこに行けば治療は受けられるんですよね? だったら出向く方法を考えます。何とか場所さえ伝えて貰えれば……」
「それは無理だと言ったはずだぞ。今、こうして話しているだけでも場所を特定される恐れがあるんだ。長話はできないと言っただろ。諦めろ」
男の言うことは即座に理解できなかった。交信するだけでそこがどこかわかると言うのか? それが本当だとしてもどうしても諦めが付かない。思わず絶叫に近い声を張り上げることになった。
「時間がかけられないのはこっちも同じなんだ。もうすぐドローンのバッテリーが尽きる。そうしたら手許に戻せなくなって何もかもがお終いだ。あと数分でそうなる。こんな機会はもう二度とないんです」
事実とはやや異なる説明をしながら、英司は頼むと願った。冷静に考えれば相手の言うことがもっともで、自分の方が無理難題を押し付けているのだ。例え場所がわかったところで、そこへ辿り着ける可能性など殆ど無きに等しい。しかし、何故かこの時、英司には自分達を救えるのはこの男しかいないという奇妙な予感があった。
そして、その懸命な願いは英司の思惑とは幾分掛け離れた形で男の興味を誘ったようだ。
「ドローン? ドローンを使っているのか?」
「え……ええ、中学生の頃からずっと飛ばしています。ドローンの扱いなら多少の自信があります。今も中継器をドローンに取り付け飛ばすことで交信範囲を拡げて、あなたと話ができているんだ。助けてくれたらきっと何かの役に立つ」
もはや自分に残された手札はこれしかないとばかりに、英司は必死になってアピールした。恐らくポーカーで言えばワンペアにも充たない頼りない手。
だが、やはり英司が危惧したように、暫くすると、ふーん、と男が呟いて、練習すれば誰でも飛ばせるようになるだろう、と一蹴されてしまった。
「危険を冒してまで助けるほどの価値はないな」
ただ、そう言った直後に、他に特技はないのか、と問われ、アマチュア無線免許を所持していると答えた。そこで初めて男の反応に微妙な変化が現れたように感じた。
「アマチュア無線家か……だったら、特小以外の無線機も用意があるのか?」
「普段はデジタル簡易無線機を使っています。でも、それだとそちらには恐らく届かない」
無線の種別を変えれば傍受されないということだろうか? しかし、向こうに同じ備えが無いとは限らない。秘話機能を使うにしても暗号コードを伝えなければならない以上、同じことだ。
男は、ドローンに無線、と独り言のように繰り返した後、何も訊かず今から言う質問に答えろ、と英司に言った。
「そちらの大まかな居場所を知りたい。あくまで大まかに、だ。はっきりと場所を特定されるようなことは言うな。何とか市の北西部、くらいの感じでいい」
英司は何故そんなことを訊ねるのか不思議に思ったが、質問するなと言われていたので素直に従い、凡その居所を教えた。十キロ四方ほどの範囲であるため、それだけで見つけ出すのは困難だろう。
「……いいだろう。約束はしないが、手助けできないか仲間と検討してみる。二時間後に連絡するからこのチャンネルで待て」
それだけ告げると、有無を言わせず通話は途切れた。バッテリー残量も限界だったので、英司は止む無くそれ以上の交信を諦め、ドローンを手許に戻すしかなかった。結局、救いの手が差し伸べられるのかどうかさえわからず、彼はその後の二時間を焦慮しながら待ち受けざるを得なかった。
それでも約束の時間に間に合うよう再充電をしたドローンでもう一度中継器を飛ばし、交信の準備を整えたのは男の言葉を信じたというより、他に選択の余地がなかったからと言った方が正解だろう。だから約束の時間を少し回って本当に男から呼びかけがあった時は、嬉しさよりも驚きの方が勝っていた。
「
逸る気持ちを抑えて、英司はその声に応じた。
「こちらは
「時間がない。質問は無しだ。今から言う場所にドローンを飛ばせるか?」
男は誰もが知る有名百貨店の名を挙げた。市内にそれは一ヶ所しかない。英司も何度か行ったことがある場所なので、間違えようがなかった。ただし、ドローンを操る電波の受信範囲やバッテリーの消耗率を考えると、戻って来られる航続距離ギリギリと言えた。であるにも関わらず、英司は即答した。
「飛ばせます。ですが、そうするとこの通話はできなくなります」
「それは問題ない。なら、急いで屋上に向かわせろ。行けば意味がわかる」
またしても男は、必要なことだけ伝え終えると無線を切った。もはや英司もそれに慣れつつある。元より連絡が来た時点で何を指示されても従うと決めていたので、不満はない。言われた通り高度を下げながら、ドローンをその場所に向かわせる。数分後、百貨店の真上にドローンが到着すると、男が告げた意味はすぐに理解できた。屋上駐車場のど真ん中に、でかでかとスプレー塗料で落書きしたような文字が描かれていたからだ。『DCR』というアルファベットに続き、二桁の数字と少し間隔を開け五桁の数字が並ぶ。これを描いたのは無線の男本人か、もしくは彼の仲間ということで間違いないだろう。検討すると話していたが、既に近くに来ているようだ。そのことに驚愕を隠せなかったが、考え込んでいる暇はない。『DCR』はDigital Convenience Radioの略、つまりデジタル簡易無線局を指していると思われた。ならば続く二桁の数字はチャンネル番号に違いない。最後の五つの数字は──。
(秘話コードか)
英司は一旦、屋上にドローンを着地させ、すぐに辻本達と連絡が取れるように用意してあったデジタル簡易無線機を取り出すと、予想した内容を設定し呼び出しをかけてみた。果たして即座に男が出る。直ちに別のチャンネルと秘話コードが伝えられ、再度繋がったところで漸く落ち着いて話せるようになったと言われた。
「この通話は聞かれていないんでしょうか?」
「少なくとも二つ目の秘話コードを伝えるまで、屋上には誰も現れなかった。つまりあの後、誰かがメッセージを目にしてもこのコードは知られていないということだ」
なるほど。確かに屋上に描かれた設定で話したのはそれだけだ。その時、聞いた者がいなければ自分達以外、誰も知りようがない。それで急かしたのか。しかし、そうなると──。
「見張っていたんですか?」
「当然だ。奴らが先に来たら意味がないしな。ドローンの機動力なら大丈夫とは思ったが、偶然近くに居合わせることも考えられる。ただ、監視しやすい場所を見つけるのに少し手間取って連絡が遅れた」
何でもないことのように男は言ってのける。それで英司も遅ればせながら悟った。男が設定した二時間後というのは仲間と検討するためではなく、この準備に費やすのに必要な時間だったに相違ない。英司からすれば何とか初デートに漕ぎ着けようとしている相手が、玄関を開けた途端いきなり目の前に立っていたような心境である。心構えも何もないあったものではない。恐るべき迅速さだった。
だけど安心はするな、と男は言った。
「賭けであることには違いない。秘話コードと言ってもたかが数万通りの組み合わせに過ぎないからな。解読の仕方は色々ある。俺が危険だと言った連中がもしその方法を知っていたら、こんな小細工は無駄だ。それに止むを得なかったとはいえ、大体の探索範囲は絞られた。こうしている今も探していて、どこかで鉢合わせしないとも限らん。別に信じなくても構わないが、連中に出喰わしたら問答無用で襲って来るぞ。だからなるべく長居はしたくない。そちらの居所を聞いたらすぐに迎えに行って連れ出す。文句はないな? 移動は車でするが、ゾンビ対策はしてあるから心配するな。何か質問はあるか?」
矢継ぎ早に告げられる内容を何とか頭の中で整理して、英司は、ありません、と答えた。本当に連れ出せるのかという猜疑はここまで来られたことで解消されている。だが、まだ肝心なことを話していなかった。
「伝えてないことがあります。グループが六人というのは本当ですが、一緒に避難しているわけじゃないんです。三ヶ所に分散していて、ここには俺一人しか居ません。患者も別のところです。これまではドローンで物資を融通し合うことで生き延びて来ました。だから実際に会ったことはない。黙っていてすみません。断られるのが怖かったので」
男は押し黙った。拙かったかと思ったが、やがて再び話し出した。
「隠していることはそれだけか? あるなら今、話せ。後でわかったら即刻引き上げる。それで全員を連れて行くということでいいんだな? 場所はわかるか?」
他に秘密にしていることはないと英司は言った。
「急だったので他の人にまだ確認は取れていませんが、たぶん誰も反対はしないと思います。場所は案内できます」
「それならまずお前を迎えに行く。それから他を順に廻る。その人達にはお前が用意しておくように伝えろ。奴らは無線の発信源を辿っている。念のため、ドッグマーカーをばら撒いておいたが、効果があるかは不明だ。交信は最小限にしておけ」
ドッグマーカーとは狩猟を行う者が猟犬などを見失わないよう付ける位置情報の発信機のことだと英司は思い出した。大抵、狩りは山中で行われるため、予想外に電波の届く範囲が広がり、毎年狩猟時期になると思わぬところで混信を招いて、無線愛好家との間でトラブルが絶えないと聞いた憶えがある。そんなものまで用意しているとなると、真偽の程はともかく無線の男が本気で
誰にも相談することなく勝手に話を進めてしまったが、こうなったからにはもう後戻りはできそうになかった。とても相談する時間をくれと言える雰囲気ではなかったというものの、果たして事後承諾で納得して貰えるだろうか。英司は急いでドローンを呼び戻しながら、まずは辻本に連絡した。事態の進展の速さにはさすがに辻本も面喰ったようだが、元は彼の達ての願いで始めたことだ。当然、同意して、迎えを待っている、と言って貰えた。もう少し落ち着いていたなら、これが沙織との初顔合わせになると気付いただろうが、今の英司にそこまで思いを至らせる余裕がなかったのはこの場合、却って好都合だったかも知れない。
次に長谷川へ事情を伝えた。これほど性急になるとは思わなかったが一応、途中経過は報告してあるので、呆れはされても賛同はして貰えるものと高を括っていた。ところがである。英司が掻い摘んで成り行きを説明し終えると、長谷川達はここに残ると言い出したのだ。
「関谷君、私達はどこにも行かないよ。逃げ出すのは君達だけでしてくれないか?」
「何故ですか? 相談もせずに勝手に決めたことなら謝ります。外に出るのが不安だというのなら僕が本当に安全に移動できるのかを見極めます。それで少しでも問題がありそうなら、断ってくれても構いません。なので、せめて準備だけでもしておいて貰えませんか?」
そうした英司の必死の訴えに、長谷川は、そうじゃないんだ、と穏やかに応じた。
「初めからそうするつもりだったんだよ。急に決まったことや移動手段がどうかは関係ないんだ。ただ、先にそれを言ってしまうと君が行動を躊躇うかも知れないと思ったから黙っていただけでね。話していなかったが、女房は脚が悪くてね。一人では満足に歩けないんだ。こんな身体ではどこへ行っても迷惑をかけるだけだと思い、避難の呼びかけにも応じなかったくらいだ。幸いここには食べる物も水もあって、私達二人くらいなら何とかなるだろうと思ったしね。だから私達のことは本当に気にしなくていい。引っ越しは君達だけでやっておくれ」
カメラ越しとはいえ、数ヶ月も会っていながら奥さんの脚の悪さに気付かなかった自分の不明を英司は恥じた。尚も英司が愕然としていると、その奥さんに交信相手が替わった。
「我儘を言ってごめんなさいね。でも、そうさせて欲しいの。関谷君や沙織さんはもちろんだけど、辻本さん御夫婦だってまだお若いわ。困難な状況にも頑張って立ち向かっていける。けれど、私達はそうじゃない。今、生きているのはおまけみたいなものなのよ。自分から死ぬつもりはない。かといって、どうしても生きたいとも思わない。流れに身を任せて死んでいくならそれでも良いかと思ってしまっているの。そんな人間が近くに居てはきっと必死で生き延びようとしている人達の邪魔になる。それだけは避けたいわ。わかって頂戴。もう無理はしたくないのよ」
もはや何を言っても聞く耳を持たれないのは明白だった。だったらせめて、と英司は絞り出すような声で、話し手を交替した長谷川に言った。
「充電池と充電器を届けます。それを持っていてください。もし気が変わったらいつでも連絡が取れるように」
「有り難いことだが断るよ。君達には私らの存在など気に掛けずに生きていって欲しいからね。それに貴重な物資を生き永らえる気のない老人のために無駄にするもんじゃない。この数ヶ月間、女房は君と話すのをいつも心待ちにしていた。こんな状況で不謹慎だが、私もそんな家内の姿が見られて嬉しかったよ。だから君には本当に感謝しているんだ。最後にありがとうを言わせてくれないか。さあ、もう交信は終えなさい。長く話していてはいけないんだろ」
それっきり長谷川が無線に出ることはなくなった。
それでも何度もしつこく呼びかけていると、そのうち耳許で聞き慣れた沙織の声が響いた。
「──英司君、もう止めよう。長谷川さん達は聞いてないよ」
「だけど、このまま置いて行くなんて……」
できない、そう言おうとしたが、声に詰まり言葉にならなかった。それを察したらしい沙織が、代わって口を開いた。
「ねえ、英司君、聞いて。これから向かう先が今より安全とは限らないわ。もしかしたら動かない方が危険は少ないのかも知れない。けど、それじゃあ、ママは良くならない。私、ママが倒れた時に決めたの。この人達は私が絶対に護るんだって。今は知恵も力もなくて何もできないかも知れないけど、きっと身に付けてみせる。だからその可能性がある場所に私は行くわ。少なくとも看護師さんがいるなら医学の知識は学べるでしょ。でも、英司君がそれに付き合う必要はないのよ。どうしても長谷川さん達を置いて行けないなら、英司君だって残ってもいい」
ただし、そうなれば二度と会えなくなるだろう、とは付け加えるまでもないことだった。
沙織の言葉を聞いて、英司はようよう決意した。そもそも迷う必要もなかったことなのだ。長谷川夫婦も辻本一家もそれぞれ譲れないものがあってそうすると決めたのである。その決断に誰が口を挟めるというのだろうか。ならば英司も己の心に問うしかあるまい。自分にとって譲れないものとは何か。答えはとうに定まっていた。
「──いや、俺も一緒に行く。ここには残らないよ。誰か一人を選ばなきゃならないなら初めからその相手は決まっているからさ。それを思い出せてくれて感謝するよ。もう悩まない。ここから先は前に向かって進むだけだ」
そう言うと、交信は短くしろって言われているからこれで切るよ、と英司は改めて告げて通話を終えた。その表情に迷いの欠片はもうどこにも見られなかった。
それから程なくした頃──。
英司が交信していたマンションから数ブロック離れた商業ビルの屋上に、幾つかの人影が現れた。彼らが見詰める視線の先では、トラックらしき乗り物がちょうど英司の居たマンションの玄関口を離れ、そことは正反対の方向へと走り出したところだった。それに気付いた人影の一つが舌打ちする。他の者もめいめい思ったことを口にし始めた。その会話が風に乗ってビルの谷間を漂う。もし聞く者がいたらこんな内容を耳にしていただろう。
──やっぱ、この辺に潜んでやがったか。
──行き先は逆方向だな。どうする? この距離じゃ撃っても当たらんと思うが、脅しくらいは掛けておくか?
──別にいいわ。焦って事故でも起こしてゾンビ相手に死なれたんじゃ詰まらないもの。
──あのトラック、何か細工がしてあるっぽいな。ゾンビに襲われないのはたぶんそのおかげだろう。
──こんなところまで出向いて結局、無駄骨だったってことか。今からでも追いかけた方がいいんじゃねえの?
──だったらお前だけ走って行きなよ。追いつけるもんならね。
──何だと、てめえ。馬鹿にする気か。
──二人共、止めておけ。そんなことで言い争っている場合じゃない。
──私のせいじゃないわよね? 言われた通りに無線で話しただけだもの。
──そういや、俺らのことを知ってるみたいだったが、何でだ?
──さあね。今まで襲った連中に生き残りでもいたんじゃない? 殺した後はすぐに引き払っちゃうしさ。どこかで見逃したのかも。
──どちらにしろ獲物に出し抜かれたのは初めてだな。
──ねえ、これからどうするの? また、あちこち彷徨き回るの?
──そろそろ落ち着く居場所を決めてもいい頃だとは思うが、どうしたい? 俺達はそれに従う。
──そうねぇ、うん、決めたわ。あの連中を追うことにする。必ず見つけ出して頂戴。私が心ゆくまで殺しを愉しめるように……。
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