6 ドローン・サバイバー※

 アラームを鳴らすことなどとうに止めてしまっているのに毎朝決まって同じ時間に目を醒ます、それがこの春大学二年生になるはずだった関谷英司の一日の始まりだった。それから洗顔と歯磨き。洗顔は夜の間、外に干しておいて僅かに湿気ったタオルで顔を擦るだけだが、歯磨きは大きな災害が起きるたびに口腔ケアの重要性が取り沙汰されるので特に念入りに行う。もっとも口を濯いだ後の貴重な水は吐いたりせずに呑み込んでいるが、当初は抵抗があったこの行為も慣れてしまえばどうということはない。それから午前中は機体の点検や整備に費やし、午前十一時頃になって漸く朝昼兼帯の食事を摂る。といっても大したものが用意できるわけではなく、大抵はアルバイト先の飲食店で覚えた手軽なメニューが中心だ。中でも葱油餅ツォンユーピンという台湾の屋台料理には随分と助けられた。作り方は至って簡単で、麺棒で薄く拡げた小麦粉の生地に塩と油と葱を散らし、端から巻き上げて、細長い筒になったものをくるくると円盤状にまとめ、それをさらに麺棒で伸ばしてフライパンで焼いただけのもの。外側はカリッとして、中はもっちりとした食感が特徴だ。小麦粉や塩は長期保存が利くし、葱はベランダのプランターで大量に栽培しているのでそこそこ材料の入手には困らない。焼くのもカセットコンロが一台あれば事足りる。不足する栄養分はビタミン剤で補うようにして殆ど毎食をこれで済ませているため、さすがに飽き飽きしているが、飢えることを思えば我慢するしかない。そして午後になって天気が良く風が吹かなければドローンの出番だ。ドローンとは本来、無人航空機の通称であるが、日本では遠隔操縦のマルチコプターを指す場合が多い。英司が現在所有しているのも重量が約五キロと大型な部類に入る六枚羽根を持つヘキサコプターという種類のそれで、価格は十五万円以上もした三台目の機種となる。最大積載量からバッテリーやカメラなどを含む機体重量を差し引いたペイロードは独自の軽量化カスタマイズを施した結果、約四・五キロまで増強済みだ。フル充電で最長三十分の飛行ができ、航続距離はアマチュア無線用の周波数を使っているだけあって凡そ四キロに及ぶ。バイト代のほぼ全額を注ぎ込み、このドローンを飛ばすためだけにアマチュア無線四級の免許をわざわざ取得したほどの熱の入れようなのだ。ちなみにアマチュア無線のアマチュアとは素人という意味ではなく、業務には使えない私的な学究や技能向上を目的としていることに由来する。

 ここまで英司をドローンに熱中させたきっかけは中学二年の夏休み、実家近くのキャンプサイトで開かれた無料体験会に参加したことによる。そこで初めてドローンに触れ、以来その愉しさに夢中になった。最初は小遣いを貯めて一万円程度の機種を買い、高校生になるとアルバイトをするようになってもう少し上位の機種に移った。大学に入ってからは親元を離れ一人暮らしを始めたので、あまり浪費はできなくなったが、毎月の生活費を切り詰めてまでドローンにかかる費用を捻出した。それでも飛ばす機会は多くても月に二、三度しかない。理由は飛ばせる場所が日本では限られているからだ。特に二百グラム以上の機体は航空法の規制対象となり、様々な法的制約を受ける。近所の公園で気軽に飛ばすというわけにはいかないのだ。そこで頼りになるのがクラブなどの有志の集まりである。もちろん、手間さえ惜しまなければ自力で飛行可能エリアを探し出すこともできるが、やはりこうしたクラブは大抵がスクールを兼ねているので、安心して飛ばせる場所を確保している上に情報交換も盛んで参加は有意義なのだ。英司も今暮らす学生マンションから程近いクラブに所属していた。そこはドローン撮影のプロ達も参加する本格的な集まりだったが、当然ながら現在活動はまったく行われていない。今はいつどこで飛ばしても誰からも咎められなくなった代わりに、趣味で行っていたような気楽さは失せている。故に事前の準備は真剣そのものだ。

 今日もそうした午前の作業をひとしきりを終えると、新しいバッテリーに換装したドローンを持ってマンションの屋上に上がる。住人は英司を除き既に全員が退去したか死亡したと思われ、この五ヶ月弱の間、誰とも顔を合わせていない。それというのも異変が始まってからの最初の二週間余りを部屋から一歩も出ずに過ごしたせいである。郷里は遠く離れていて帰るわけにもいかず、元よりドローンを飛ばす以外に興味がなくて碌に人付き合いをしてこなかったため、心配する相手にも心配される相手にも心当たりがなかったことが引き籠った最大の理由だ。実家から米や野菜が送られて来たばかりだったというのもそれを後押しした。また、ドローンを飛ばすことで街中や避難所の惨状を知り得たことも大きい。避難勧告に従っていたら今頃、自分は生きていなかっただろうと思う。ただし、幸運はそれだけではなかった。

 五階建てのマンションは階下に行きさえしなければ表のゾンビに見つかることはないので、自室から階段を使い一つの上の屋上に出ると、まずはコンパスキャリブレーションを行う。これは機体に内蔵された電子コンパスに基準となる正しい方角を教えるための手順で、これをしないと正確な飛行は覚束ない。具体的にはドローンを水平に構えてその場でひと廻りする。さらに垂直方向にも三百六十度回転させ、こうすることで全周囲から地磁気を浴びせて誤差を修正するのだ。そのため本来なら磁気に影響が出やすい鉄筋製の建物などでは避けるべきだが、この状況では多少の不都合さには目を瞑るしかない。これでエラーが出なければいよいよ離陸テイクオフとなる。現在はGPSが使えなくなっているため、Pモード(Position modeの略。GPSや障害物感知システムなどにより自動的に安定した姿勢制御を行うフライトモード)による飛行はできず、Aモード(Attitude modeの略。ATTIモードとも。気圧センサーによる高度維持を除く全ての姿勢制御を操縦者が行うフライトモード)のみでの操縦となり、英司にかかる負担は少なくないが、その練習は充分に積んできたという自負はある。なので躊躇うことなく手許の送受信機プロポを操作してプロペラを始動させる。スロットルを開け、機体をゆっくりと上昇させた。身長ほどの高さでホバリングを維持しつつ、挙動に異常がないかを自分の目で確かめる。一度だけドローンを送り出した先で飛行が不安定になったことがあり、その時は先方に手順を説明してキャリブレーションをやり直したことで何とか治まったが、唯一の命綱と言えるドローンを失いかけて相当に焦った。二度とそうした事態を引き起こさないためにもしっかりと点検した上で、漸く高度を上げると目的地に飛行を開始した。重力など物ともせず一気に加速度を増したドローンは、あっという間に目視では追えなくなる。航空法では操縦者が見える範囲でしか飛ばせないことになっているが、それを守っていては目的が果たせないので無視する。これより先は送受信機に取り付けたタブレット端末に映し出されるFPV(=First Person View。ドローンから見た一人称視点)の映像だけが頼りで、あたかも自分が機体に乗り込んでいるかのような浮揚感を味わいながら蒼穹を舞うこと凡そ五分──。

 そこは英司が居坐る学生マンションから三キロばかり離れた問屋街の一角、食品卸の看板が掲げられた古い建物だった。問屋とはいえ小売りもしていたようで、一階には店舗兼住居らしき入口も見えるが、今は厳重にシャッターで閉じられている。いつものように建物に沿ってぐるりと周回したのち、二階の開け放たれた大きめの窓から滑り込むように室内に侵入する。直後、手許のモニター画面に二つの人影が映り込んだ。それを見ても英司は慌てることなくゆっくりとドローンを寄せて行き、二メートルほど手前の床に静かに着地させた。そしてプロペラを停止させると、腰にぶら下げたハンディ型トランシーバーを取り出し送信スイッチを押して、こんにちは、長谷川さん、と呼びかけた。

 沈黙が数秒間続いた後、こんにちは、関谷君、と反応があった。画面では年配の男性が拙い仕草ながら同型のトランシーバーを操る姿が映し出されている。その横では男性とほぼ同年代の女性がにこやかにその様子を見守る。

 この二人は御夫婦だ。男性の名は長谷川健一さん、四歳年下の奥さんは美千代さんとおっしゃり、ここは御二方の住まい兼仕事場。英司も詳しい内情は知らないが、先代から続く食品原材料の卸売業を営まれており、一階がその事務所と倉庫になっているそうだ。今は二階の住居部分に二人だけで避難されている。お子さん達は既に全員が独立されていて近所に住んでいなかったためらしい。

 英司がこの二人と出遭ったのは偶然からではない。立て籠もりが常態化して二週間ほどが過ぎ、一向に事態が解決する様子もなく食糧も尽きかけた段になって、ようよう彼は誰の助けも当てにせず唯一の特技であるドローンを活かして自分一人で生き抜く覚悟を定めた。そのためには電気や水道が通じている今のうちに、水や食糧を確保する算段を付ける必要があると考え、周辺のそれらしい建物を片っ端からドローンで探索することにした。何か見つかればその時に回収する方法を考えるつもりで。折りしも野外で充電するためにノートPC用のソーラーバッテリーチャージャーを新調したばかりだったので、最悪、今停電しても即座にドローンが飛ばせなくなるという不安要素はない。それより問題はどこから飛ばすかということだった。これまではベランダから無理矢理送り出していたが、それではちょっとした操作ミスなどで壁に激突し墜落する恐れが付き纏う。やはり安全な飛行のためにはそれなりに開けた場所から離着陸させる必要があり、意を決してマンションの屋上に出向くことにした。事前にドローンで偵察していたとはいえ、途中でゾンビと出遭うこともなく、以降も継続して飛ばせる環境と確認できたのはツイていたと言えよう。そしてその後の探索の過程で見つけた数少ない生存者のひと組が長谷川さん御夫妻だったというわけだ。とはいったものの、最初から円滑なコミュニケーションが取れていたかと言えばそうでもない。突如現れた見慣れぬ物体に初めは只々驚かれるばかりだったので、まずは意思の疎通を図る手段が必要だった。それで小型無線機を詳細な操作手順を添えてドローンで送ったのが交流の始まりである。それによってここが粉類や乾物、雑穀、調味料などを扱う卸業者であり、倉庫には出荷を控えた大量の商品が眠っていることがわかった。しかも以前は一部鮮魚も扱っていたそうで、倉庫内には使われなくなった生け簀に引く井戸が残っており、飲み水まで入手できるという有り難いおまけ付き。二人が今日まで無事でいられたのもそうした恵まれた環境であったからに相違ない。当然ながら英司は現在の自らが置かれている状況を話し、水や倉庫内の食糧を分けて貰えるように頼んだ。夫妻はどうせ二人では消費し切れないからと快くそれに応じてくださり、好きなだけ持って行って良いとの承諾を得た。ただし、問題が一つあって、それは商品を保管している倉庫が一階なため、取りに行くのがゾンビに襲われる危険性と常に隣り合わせであったことだ。今までは回数を減らすことで極力リスクを避けてきたが、頻繁に赴くとなるとそうはいかない。これは英司がドローンで事前にゾンビがいないか周辺を見回ることで解決した。先刻、到着前に建物の周りを飛び回ったのはそうした理由からである。

「周囲の安全確認はしてきました。ゾンビは見当たりません。下に降りて貰っても大丈夫です。どうぞ」

 無線で英司がそう伝える。元々この辺りはシャッター通りだったらしく、住んでいる人は疎らだったようだ。相対的にゾンビを見かける機会も少ない。

「そうか、ありがとう。なら早速取りに行くとしよう。関谷君は何が必要だい? どうぞ」

 英司の言葉を信用し切っているのか、長谷川は不安そうな素振りも見せずにそう訊いた。

「僕の方は先週頂いた分がまだ充分に残っていますから今日のところは後ほど水だけお願いします。一先ずは辻本さんに届ける分ですね。水と雑穀の何か、それと砂糖があれば欲しいと言ってました。どうぞ」

「うん、わかった。用意して来るから少し待っててくれ」

 そう言うと長谷川は画面外へと消えて行く。一階の倉庫に向かったのだろう。

「辻本さん達はお変わりないかしら? どうぞ」

 その場からいなくなった夫に代わり、妻の美千代が何とか使い方を覚えた無線機を手に話しかけてくる。事態を考えれば無駄な交信は少しでも避けて電池を節約すべきだが、こんな時でもないと他人と話す機会はないので、この程度は許されるだろう。

「ええ。昨日話した時は何も言っていませんでした。奥さんの調子が悪いのは相変わらずのようですが。どうぞ」

 話題に出た辻本とは英司が見つけた別の生存者一家で、ここから程近いペットショップに立て籠もっている。共に四十代となる両親と、本来であればもう間もなく高校に進学するはずだった娘さんとの三人家族で、長谷川達と同様、定期的に連絡を取り合う間柄だ。わざわざペットショップに籠城するくらいだから余程の動物好きかと思いきや然に非ず。ゾンビに追われてたまたま逃げ込んだ先がそこで、身動きが取れなくなったというのが真相らしい。駆け込んだ時には既に無人で、動物達しかいなかったそうだ。そうした話を最初に英司にしたのは娘の沙織で、出逢う前のひと月近くを一家だけで過ごしたことを聞き、水はともかく食糧がよく保ったものだと感心しかけてふと思い付いたことがある。恐る恐るその疑念を口にした時の会話はこのようなものだった。

「あの、付かぬことを聞くけど、もしかして動物達をその……食糧に?」

「馬鹿、止めてよ。そりゃ他にどうしようもなかったらそうしたかも知れないけど、そんな必要はなかったんだから。ペットショップなんだからペットフードくらいあるでしょ。それで食べ繋いできたのよ。正直、美味しいものじゃなかったけど、贅沢は言ってられないもんね。薄味にさえ目を瞑れば案外食べれたし。今度送るからあなたも試してみなさいよ。オススメはチキンよりマグロ味だから。動物達は……面倒を見る余裕はなかったから全部逃がしたわ。餓死させるよりはマシだろうってパパが言ってね。だから食べてない。わかった?」

 なるほど、そうだったかと英司は何故かホッとした。そうしたやり取りがあったおかげか、それ以来、沙織とは打ち解けた会話をする仲になった。もちろん、今は英司が定期的に長谷川から分けて貰った水や食糧をドローンで届けているので、ペットフードを食べる羽目には陥っていないはずだ。一家からは代わりに人でも非常時に使えるペット達のトイレ用品や、どういうわけか人間用のものが売られていたサプリメント、実際に自分達で試してみて平気だったというペット向けのシャンプーやリンスなどが提供された。

「それにしても関谷君に教えて貰ったツォン……何とかも美味しいけど、毎日そればかりではさすがに飽きてしまうわね。かといって、うちでは肉や野菜はないし。せめてキャベツでもあればアレが作れたんだけど。どうぞ」

 英司が回想に浸っている間に、美千代が残念そうにそんなことを言う。

「アレって何ですか? どうぞ」

 我に返った英司も話を合わせる形で訊ねた。キャベツを使った料理──その答えは単純明快だった。

「お好み焼きよ。私、出身が広島なの。子供の頃からよく食べていてね。こちらに来てからも週に一度は口にしないと気が済まなかったくらい。家でもしょっちゅう作っていたから今では主人の大好物にもなっているわ。どうぞ」

 それならば英司も店で何度か食べたことがある。実家ではお好み焼きと言えば関西風だったが。そのせいで出たひと言が余計だったらしい。

「ああ、広島焼き・・・・ですね。僕も好きですよ。どうぞ」

 そう言った途端、美千代が、あらやだ、と何やら剣呑そうな声を発した。

「関谷君、あなた、随分と命知らずなのね。広島県民に向けてそんな言葉を使うなんて。言っておきますけど、あれこそが正統なお好み焼きなのよ。『広島焼き』なんて本家の傍流みたいな言い方しないで頂戴。どうぞ」

 どうやら「広島焼き」は彼女にとって地雷のようだ。もっとも後半は笑いながらだったから、本気で怒ったわけではないのだろう。

「えっと、どうも失礼しました」

 英司も冗談めかした口調で謝罪を口にする。

 そんな軽口を叩き合っている間に、倉庫から長谷川が戻って来て両手に抱えた荷物を一旦脇に置き、ドローンに搭載した籠へとバランス良く入れていく。持てる重さは予め伝えてあるので、その範囲内に収まるよう計算されているはずだ。もちろん、英司も飛行に支障がないことを確かめてから出発するのは忘れない。全て載せ終わると、奥さんから無線機を受け取った長谷川が準備の完了した旨を告げた。

「それじゃあ、とりあえず運んで来ます。向こうの品で何か入り用な物はありますか?」

 英司がそう訊ねると、今日のところは特にないよ、という返事だった。

「気を付けて行っておいで。あちらの御家族によろしく頼んだよ」


 世界がこうなる以前はそれが当たり前のように存在していた毎朝差し出される母親お手製の飲み物──林檎と小松菜とハチミツ入りのスムージー──を掻き混ぜるミキサーのけたたましさにも似た羽音が徐々に大きくなって、辻本沙織にドローンの来訪を知らせた。一足先に気付いた父親の孝和が腰を上げ部屋を出て行こうとする傍らで、母親の晴美は気怠そうに横になったまま動こうとしない。数日前から具合を悪くしているのだ。本人は疲れが溜まっただけで暫く休めば元通りになると気丈に振る舞っているが、無理をしていることは隠し果せていない。そんな母親の身を案じつつも沙織はいつものように運搬の手伝いをすべく自らも買い物袋代わりのペット用キャリーバッグを手に立ち上がった。これから向かうのは今いる二階の上層、即ち屋上ならぬ屋根である。ここは一階が普通に動物を展示し売り買いするための店舗だが、二階はペットホテルになっていて、普段、家族はそこで寝起きしている。ホテルと言っても単に飼育ケージが並んでいただけのだだっ広いスペースで、それを片付けた現在、一台きりの暖房器具や折り畳みの座卓を除くと沙織達が階下から集めた大型犬用のクッションやらマットやらブランケットやらが敷き詰めてある以外には何もない。救いだったのは想像していたよりも清潔に保たれていたことで、こればかりはどうしようもない動物特有の匂いが鼻に付くものの、慣れてしまえば普通の部屋と同じように過ごせた。だからといって、見つけた適当な布地をカーテンや壁紙代わりにして部屋を自分好みに飾り付けてしまう母親の神経はどうかと思うのだが。そんなどんな時にあっても平常を失わない彼女だからこそ、辛そうにしているのは尚更心配になる。一人にすることに一抹の不安を覚えるが、遠くに行くわけではなく何かあればすぐに駆け付けられると自分に言い聞かせて、沙織は父に続いて部屋を後にした。廊下の途中にある点検用ハッチの梯子を上って屋外に出る。

 単に平らになっただけの二階の屋根には、当然ながら塔屋もなければ落下防止の柵もない。普通なら絶対に立ち入ることのなかった場所だろう。そこを目掛けてゆっくりとドローンが舞い降りて来る様子が目に入った。先に来ていた父親は既に無線機を取り出して交信の準備を整えている。ドローンが屋根のほぼ中心に何の迷いもなく着地し、プロペラを完全に停止させると、それを合図に沙織は近寄って、カメラに片手を軽く振って見せてから機体下部に取り付けられた籠の中身をキャリーバッグに移し出した。その間に父親は英司と会話を始める。

「見えていると思うが、ドローンは無事に到着したよ。今、娘が荷物を取り出している最中だ。いつも届けて貰って済まない。長谷川さん御夫婦には後日、交信した時にでも改めて礼を言うとしよう。どうぞ」

 父親がPTTプッシュ・トゥ・トークスイッチから指を離すと、次いでトランシーバー型無線機を通じて聞き慣れた英司の声が流れる。

「長谷川さんに助けられているのは僕も同じです。その長谷川さんが辻本さんによろしくとのことでした。どうぞ」

「よろしくなんてとんでもない。あの人達がいなければ私達家族は生き残れていなかっただろうからね。まさに命の恩人だ。もちろん、君もだよ、関谷君。どうぞ」

 裏表のない父親の率直な謝意は、若い英司には照れ臭かったようだ。僕なんてただ運んでいるだけですから、と謙遜する言葉しか出てこない。

「ところで頼まれていた物はそれで良かったですか? どうぞ」

 さりげない話題転換でそう訊かれた父親が視線で確認を求めてきたので、沙織はもう一度バッグの中身を見渡して頷き返した。大体は事前に伝えた要望通りになっている。そうとはいえ、種類の豊富さはもちろんだが、量としても親子三人が十全と過ごすのに満足とは言えない。バッテリー消費との兼ね合いで一度にドローンで運べる重量が限られているせいだ。その上、充電にも時間がかかるため、今のペースで精一杯なのだという。だが、何もないよりは遥かに助かっている。父親の感謝の気持ちはそのまま沙織の思いでもあった。

「間違いないようだ。こちらから何か持って行く物はあるかね? あればすぐに用意するが。どうぞ」

「今日のところは特にありません。それで燃料の方はまだ足りてますか? どうぞ」

 燃料──この場合は主にカセットコンロで使う携帯ガスボンベのことを指す。暖房器具で使用するような灯油やガソリンは今のところ英司でも入手の目処が立っておらず、寒さは基本的に厚着や毛布などで凌ぐしかないからだ。どうしても耐え切れない場合だけ店に残されていた唯一の暖房器具である石油ストーブを爪に火を点すようにして使っている。このところ暖かくなってきて、早晩それは必要としなくなりそうだが、調理用の燃料についてはそうもいかない。これまでは英司がある場所で入手したものをドローンで送ってくれていたのだが、ここに来てそれが急にできなくなった。そのことを心配してくれているのだ。

「実を言うと少々心許ない。何とかこの場にある不要品を燃料代わりにできないかと考えてはいるんだが、そもそも燃やせるものが少ない上に万一にでも火事になることを思うと、軽々に試すわけにもいかないからね。まあ、いざとなればまたペットフードに戻れば良いわけだが……。君にしても状況は似たようなものだろう? つくづく彼の存在の大きさが今頃になって身に染みてきたよ」

 父親が言っているのは英司が自分達より先に見つけた生存者──菊池稔という青年のことだった。無論、沙織に直接の面識はない。会ったことは当然だが、画面を通じての顔も知らない相手だ。無線を介しても連絡を取り合うのは主として父親の役目で、沙織は英司と一緒のグループ通話で何度か話したことがあるといった程度の関係性でしかない。なので彼に関して知っていることはその殆どが英司から伝え聞いたものばかりである。それによると、年齢は英司より二つ年上の二十一歳。情報関連の専門学校生。家の近所の家電量販店に一人で隠れ住んでいたところを発見した。水も食糧も手に入りそうにないそんな場所に何故、というのがそれを聞いた沙織が最初に思い浮かべた感想で、英司も似た疑問を持ったらしい。それに対する稔の回答は、ある意味常軌を逸したものだったと言って良い。

「いやぁー、俺なんて見ての通りデブだし、彼女がいたこともないからさ。ゾンビ映画じゃ真っ先に死ぬタイプだろ。どうせ生き残れないなら最期に好きなことを思う存分してやろうと思ってさ。俺、ずっとゲームばっかりして過ごせる生活っていうのに憧れていたんだよね。でも自宅じゃ持っている機種もソフトも限られているし、何より大画面でやりたかったからさ。百インチのテレビなんて貧乏人には夢のまた夢だもんな。ここに来れば全部揃うってわかってたから、必死で辿り着いたんだよ。さすがに俺みたいな馬鹿は他にいなくて、いたら一緒に対戦とかできたんだろうけどな。まあ、それも当然か。普通だったら喰い物はないし、停電したら何もできなくなるって思うよな。俺もそのつもりで、やれるだけゲームをやったらあとは満足して死ぬだけ……のはずだったんだけどさ」

 気が変わったということだろうか? いや、それ以前にこのひと月をどうやって生き延びてきたのかが謎だ。英司はそう思い、当然の質問を投げかけた。

『一体、食糧はどうしたんだよ?』

「それがさ、確かこの辺にチラシがあったはず……ああ、これだ。読むぞ。日頃の御愛顧に感謝して月替わりプレゼントキャンペーンを実施中。今月は合計金額五万円以上お買い上げのお客様の中から毎日抽選で有名ブランド米詰め合わせセットを進呈します」

『はぁ?』

「だから何かのキャンペーン中だったみたいで、賞品としてどういうわけか店頭に米が置いてあったんだよ。おかずは無しだけど、炊くのは余裕でできるからな。これで飯が喰えるって思ったら急に死ぬのが怖くなってさ。それで無茶苦茶焦って色々と備え出して、何とかこれまで生き延びてきたってわけ。ちなみにここにある炊飯器は片っ端から試したから、もし買う気があるなら色々とアドバイスできるぞ」

 結果的にこの出逢いがなければ無線機も調理器具もその他諸々も用意できなかったわけだから偶然の巡り合わせに感謝すべきだろう。二人は妙に馬が合ったらしく、それからも頻繁にやり取りを重ねていたのだという。

 余談だが、初めて遭った頃の稔は英司に言わせると、本人が気にするほど太っていたというよりむくんでいる印象だったらしい。あれほどやりたがっていたゲームにもさほど熱中することなく、日がな一日ぼんやりしていることが多かったそうだ。英司はビタミンB1不足による脚気の初期段階を疑っていた。精白米が上等な食事とされ副食をあまり摂らなかった江戸時代の上流階級で流行した「江戸煩い」と同じ症状である。最悪死に至るその病も英司が知り合った長谷川から味噌や雑穀を融通して貰い届けるようになると、次第に稔の健康状態は回復していった──のだが。

 原因が何であったのかは今となってはもはや知りようがない。不注意なのか、運が悪かったのか、いずれにしても英司がそれに気付いた時には既に手遅れだった。いつものようにドローンで物資を届けに行った英司が見た光景は、建物内に続々と侵入して来るゾンビの群れ。すぐに危険を知らせたが、逃れる場所などどこにもない。やがて英司が見守る前で屋上の片隅へと追い詰められた稔は──。

 彼が身を投げる直前、英司に残した言葉を沙織は聞く機会があった。

「ありがとな、英司。俺さ、子供の頃から友達とはそこそこの付き合いしかしてこなくてさ。だからお互いのことを苗字じゃなく名前で呼び合うなんて初めてだったんだよね。実はそういうのにずっと憧れていたんだ。青春ドラマみたいで何かカッコいいだろ。きっと逃げ込んだ先が良かったんだろうな。必要とされる物資がある場所でホント、助かったよ。そうじゃなきゃ、俺なんて何の役にも立てなかっただろうし。お前はドローンも飛ばせて、他の人達も助けられて、マジで凄えよ。自慢の友達だ。俺の最期はこんなんだけどさ、お前は頑張れよ。──じゃあな」

 どこにいたって役に立たなかったなんてことはない、友達付き合いが苦手なのは俺も同じだ、そう伝えられなかったことが心残りだと英司は話していた。それがひと月半程前の出来事だ。

 今は少し落ち着いたように思えるが、彼の死の直後は名前を口にするのも辛そうな有様だった。漸く普通に話せるようにはなったらしい。

「稔には随分と助けられました。あいつは自分を過小評価していましたが、バッテリーの充電方法とか、無線の扱い方だとか、色々と考えてくれてアドバイスを貰っていたんです。俺一人だったらここまで上手くやれていなかった。あの日も俺がもっと早くに向かっていたらあんなことにはならなかったかも知れないのに……」

 そこで英司は言葉を詰まらせた。送信権の交代は告げられていなかったが、トークスイッチから指を放すのがわかった。あなたのせいじゃない、沙織はそう伝えたかったが、父親の手に無線機がある以上、話に割って入ることは不可能だ。忸怩たる気分でせめてこの後にするであろう二人きりの会話では慰めてやろう、そう思っていたのだが、先に孝和が沙織の気持ちを代弁するかのように普段滅多に見せない強い口調で言った。

「それは違うぞ、関谷君。自分があの時ああしていれば何とかなったかも、と思うのは傲慢だ。菊池君が亡くなったのは彼自身を含めて誰のせいでもない。そのことを運命なんて言うつもりはないよ。それは人間の持つ自由意思への冒涜だからね。それでも受け容れるしかないこともあるんだ。認める、認めないに関わらず、そうしないと一歩も前に進めない。君よりは多少人生経験がある者のお節介な戯言と受け取ってくれて構わないんだがね。まあ、実際のところ、私も偉そうに人のことを言えた義理ではないんだ。私も君と同じでずっと後悔し続けている。特に世界がこうなってからは悔やまなかった日なんて一日もないさ。ただ、何もしなければ百の後悔をするところを前に進むことで九十九にできるなら全力でそうしようと思うだけでね。生きている人のためはもちろんだが、死んだ人のためにも。何しろ、私達はそれしかできないんだ。残念ながらね」

 長年、家族や友人を思いやってきた父親らしい実直な励ましだと沙織は感じた。願わくば英司にもそれが伝わって欲しい。

 そんな沙織の思いが通じたわけではないだろうが、ありがとうございます、おかげで少し気が楽になりました、と英司は素直に礼を述べた。

「そうですね。稔もそれを望んでいると思うので、今は後悔より前を向くことに専念します」

 だからというわけではないが実は試してみようと思っていることがある、英司は送信口でそう言い、彼が気持ちを切り替えたらしいことがわかって、沙織も安心した。

「ほう、それはどんなことか訊いてもいいかい? どうぞ」

「はい。生活に必要な物の多くは今まで稔が避難先で物色してくれていました。特に消耗品関係は全部あいつに頼り切りでしたから。それが失われたからには新しい入手経路を見つけなければなりません。ソーラー充電器で繰り返し使えているバッテリーや充電式電池もいずれは寿命が来ますし。それ以外でもはっきり言って今のままでは現状を維持し続けることは難しい。それでドローンを使って店内の商品を回収できないか考えてみたんです。籠を今のように機体に直接固定するのではなく、ぶら下げ式にして地面に置くとフックが外れるようにする。それを商品棚の前に置き、上手く棚の中身を籠に落とすことができれば、再び籠を引っ掻けて持ち帰れるんじゃないかと思って。棚の下段に置かれた品や扉がある場合には無理でしょうけど、高い位置にある品物ならやれるんじゃないかと。このアイデア、どう思われますか? どうぞ」

「うーん、私はドローンの扱いには詳しくないので何とも言えないが、それは相当に難しい操縦技術が必要になるのではないかね? どうぞ」

 父親の懸念はもっともと言えるだろうと沙織も思った。最悪ドローンを失いかねない気もするが、英司は自信がありそうだ。

「確かに簡単ではないと思います。開けた場所ならともかく、狭い店内をFPV──ドローンに取り付けたカメラ映像のみで飛ぶのでもかなりの神経を使うでしょうし。ただ、室内で障害物を避けながら行うレースがあったり、映画やミュージックビデオで入り組んだ場所を撮影したりすることもありますから不可能ではないかと。問題は大抵そうした用途には小型のドローンが使われることが多くて、今の機種では大きさがネックになりやすい点と籠を吊り下げた際の重量バランス、それとバッテリーの駆動時間です。焦って操作ミスをしちゃ元も子もありませんからね。それでぶっつけ本番ではさすがに無謀だと思うので、テストをしたくて。それを辻本さんに手伝って頂きたいんです。そちらの一階なら商品棚もあって店内を飛ぶ練習にちょうど良い。仮に失敗してもドローンは回収して貰えますから。是非お願いできないでしょうか? どうぞ」

 なるほど。英司はペットショップの一階を本番の店内に見立てて、上手くいくか試してみるつもりのようだ。それなら問題点があれば浮き彫りにできるだろう。

「それはもちろん構わないが、いつするのかね? できれば事前に準備しておきたいのだが。どうぞ」

 日時についてはこれからドローンを改造しなければならないし、用意ができ次第連絡するということで纏まった。

「そうか。では、そのつもりでいるとしよう。他に何か話し合っておくことはあったかな? どうぞ」

 いえ、特には、そう言いつつも英司はどこか歯切れが悪そうだ。用が済んだのなら交信を終えれば良いのだが、なかなかそうしようとはしない。その理由を正確に察した父親は、少なくとも表面上は素知らぬ顔で無線機を娘に手渡すと、あまり電池を無駄遣いするなよ、と言い残し、物資を詰めたキャリーバッグを担いで屋根から下りて行った。

「えっと、そのですね……お嬢さんは元気ですか? どうぞ」

「パパならもういないわよ。私と話がしたいなら娘さんに替わってくれって堂々と言えばいいのに。付き合ってもいないのにそんなんじゃ、そのうちヘタレの烙印を押されるわよ。どうぞ」

 無線の向こうで英司が一瞬、呆けた様子が伝わった。事実、自分達は付き合っているわけではない。少なくとも今はまだ。単に世代の近い仲間が他にいないため、晴天続きで充電に余裕がある時はお喋りに興じているに過ぎないのだ。別段、父親に臆する必要はないはずだった。もっとも最近はやましさがまったく皆無とは言い切れない秘密があるにはあったが。

「ちょうど次に言おうと思ってたんだよ。どうぞ」

 英司がやや向きになった口調で反論する。沙織は、どうだかねぇ、とからかい半分の声で応じた。

「でも、少しは元気が出たみたいで良かった。さっきのパパの励ましが利いたかな。だとしたら私の出番がなくなっちゃってちょっと悔しいけど。どうぞ」

 やや真剣なトーンに改めて沙織がそう言う。それに対する英司の返事は、こんな場所ではなく、こんな時にではなく、しかも面と向かって言われていたならそれなりに効果があったことかも知れない。

「そんなことはないよ。その……君の声が聞けて嬉しい」

 どうやら大真面目で告げているようだ。どちらにしても聞いた方は何と答えて良いのか困る類いのものであることは間違いない。同年代の中でとりわけ自分が奥手とは思わないが、色恋沙汰が得意というわけでもないのだ。結局、沙織は、どういたしまして、と述べるに留まった。返答として似付かわしいのか似付かわしくないのかよくわからないままに。

 父親に注意されるまでもなく、いざという時に電池切れでは洒落にならないので、あまり長話というわけにはいかないが、こうした現在ではすっかりお馴染みになった英司と二人だけの会話を、母親は温かく、父親は黙認という形で静観してくれている。どうせ直接会う機会はないのだから、何事も起こり得ないと思っているのだろう。確かに英司とはまだ一度も直に顔を合わせたことはない。映像がリアルタイムで見えているのも向こうだけだ。その不均衡さを多少なりとも是正すべく、通信機器としては今や無用の長物となったスマートフォンに保存した自撮り動画を送らせて、漸く顔を知ることができたくらいである。この場でも沙織には英司の声しか聞くことはできない。

 それ故か、最初の頃は当たり障りのない会話をしていたのが、いつの間にか面と向かっては到底言えないことまで口にするようになった。例えばエッチな話題や場合によっては性欲についてまで口走ってしまっている。お互いがどこまで本気か量りかねていたのだろう。無論、こうしたやり取りは他に聞かれることがないよう二人だけで取り決めた秘話コードを使ってだ。最近では会話のみならず、行動までもより扇情的な方向へ向かいつつある。沙織も敢えて止めることなく、刹那的な流れに身を任せていたので、結果、英司の要求はますますエスカレートの一途を辿っていた。


【カクヨム運営より過剰な表現との指摘があったため、一部を削除しました。文章に繋がりがないのはそのためです。完全版の掲載はアルファポリス(https://www.alphapolis.co.jp/novel/201268578/431697946)、もしくはミッドナイトノベルズ(https://novel18.syosetu.com/xs8892a/)にて行っています】

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