5 逆襲
「一体、いつまで俺達に我慢させる気なんだろうな、あの人はよ」
不服げな男の声がトイレの壁越しに聞こえた。別段、聞かれても構わないと思っているからだろう。声を潜める素振りすらなく、あたかもそれを不快に思う者など存在しないかのような振る舞いだ。その言葉に別の男の声が被さる。
「しょうがねえだろ。あの岩永って奴にはまだ使い途があるって言うんだからよ。人質の奪還を諦められちゃ拙いんだろうぜ。そんなこと、できるわけねえのによ」
「そんなの黙ってりゃわかんねえだろうが。さっさとやっちまって、知らんふりをしてりゃいいんだよ」
「馬鹿言え。バレたらまた撃たれるぞ。こっちは逃げ出せねえんだ。格好の標的になるのは目に見えている。そんなリスクは冒せねえってことだろ。焦らなくてももう暫くすりゃ好い目に遭えるって。三上さんもあいつを長く生かしておく気はないって言ってたしな。こうして住む場所は手に入ったんだ。あとは喰い物さえ自分達で作れるようになりゃ野郎は用済みだ。そのあとは──」
「だったらよう。俺はあの美鈴って娘と真っ先にやりてえな。そんな愉しみでもなきゃやってられねえぜ。お前はどうだ?」
「俺だったらあの看護師だな。実を言うと最初から目を付けてたんだ。これだけは譲れねえ」
廊下から聞こえてくる男達のそんな卑俗な会話にも自然と聞き耳を立ててしまう自分に軽い自己嫌悪を覚えつつ、塚原朋美は鏡を見てそっと溜め息を吐いた。わかってはいたことだが、改めて自分達の置かれている立場を慮ると、絶望の二文字しか浮かんでこない。この数日間で人質達の間には同じ境遇に置かれた者同士という連帯感が生まれ、すっかり仲間意識が芽生えていたが、それでも自分が一番可愛いことには変わりない。話題に挙がった美鈴や日奈子には悪いと思ったが、人質の中では最年長とはいえ、まだ三十代に差し掛かったばかりで女盛りと自負する己の名が真っ先に出なかったことがせめてもの慰めと言えようか。もっとも彼女達に比べれば確かに地味な存在であることは否めない。性格も総じて凡庸。決して人の輪の中心にいるような人気者ではなかった。その自覚は今もある。学生時代も社会人になってからも周囲には常に同世代の平均として見られ、これまでの人生で主役になれたことなど数えるほどしかなかったのだから。しかし、それはそれで悪いことばかりでもなかった気がする。美人過ぎると却って男を寄せ付けないものなのか、存外、職場の華と持て囃される同僚よりも朋美のような平凡なタイプの方が口説くにはうってつけらしく、言い寄る男には不思議と不自由しなかったのである。おかげでこればかりは平均よりも早く、二十代の半ばにして結婚にも漕ぎ着けた。相手は朋美の価値観では中の上辺りといった男で、高望みし過ぎない程度には満足できていた。ただし、結婚=女の幸せとならないのは世の常らしく朋美も御多分に洩れず、可もなく不可もない夫婦生活は夫の浮気というこれまたありがちな理由により二年余りで破綻し、子供はいなかったことから離婚もあっさりと成立した。もはやバツイチくらいでは不幸を気取るわけにもいかない現代だが、それでも昔気質の両親はやはり良い顔をしなくて実家には近寄り難くなり、昔からの友人達ともどことなく顔を合わせにくくなってしまった。それはまだ結婚に夢見る彼女達の幻想を壊したくないという遠慮も少しはあったが、平凡な女が人に先んじて幸せになろうとするからそういう目に遭うのだと言われているような、多少被害妄想めいた思いが皆無だったとは言い切れない。いずれにしても三十路を越えた今、事務系の派遣社員という立場には若干の不安が残るものの、女一人の気ままな独身生活を満喫している──はずだった、本来であるならば。それが一変した出来事については今更、語るまでもないだろう。ともあれ、ここまで生き延びて来られたのも独り身の身軽さと、またしても言い寄る男に苦労しなかった賜物と言える。これが子供を抱えての逃走劇や両親を庇いながらの脱出行であったなら、とてもここまで辿り着いた自信はない。それを幸運だったとは思いたくないが、実家から離れて暮らしていたことに安堵した後ろめたさがあるのもまた事実だ。おかげであの世で両親と再会した時に顔向けできないのではないかと、ふとした瞬間に考える。だが、そんな悪運もどうやらこれまでのようだ。避難先であれこれと面倒を見てくれた行きずりの男達も皆、死んでしまった。その全員と寝るほど節操なく過ごしたつもりはないが、中にはやるだけやって知らん顔という男がいなかったわけではない。そんな相手でさえ生きていればそれなりに拠り処にできたかも知れないのだが、例外なくいなくなった現在、映画やドラマのように颯爽と駆け付けてくれる知り合いの当てもなくなり、やはり自分は脇役止まりなのだと自覚せざるを得ない。美鈴達のようにはなれないのだ。
それにしても他の男達が次々と犠牲になる中で、あの岩永という自分に劣らず平凡で鋭い目付き以外これといって特徴のなさそうな人物だけが唯一、平然と生き残ったのには心底驚いた。しかも、その理由がゾンビに襲われないというストレート過ぎるものだったので、呆気に取られ言葉も出なかった。もっともそれだけの特技を持ちながら、未だ逃げもせず三上達に従っているのは理解に苦しむ。さすがに不死身ということはないだろうから、殺されてしまえばどんな能力だろうと関係なくなるではないか。自分ならそんな幸運──否、奇跡に恵まれたら、さっさと行方を晦まして安全な居場所を確保するに違いない。実際、男達の会話でも殺害が仄めかされている。人質の中に余程大切な相手がいるのだろうが、命を懸けてまで取り戻したい存在というのがよくわからない。これまでの自分にそうした相手はいなかったからだ。ところがそんな彼が仕掛けたとおぼしき盗聴器は悉く発見されてしまった。三上達はここに到着するやいなや家探しを始め、僅かな換気口の隙間や家具の裏側は言うに及ばず、抽斗の奥深くから果てはテレビの内部に至るまで徹底的に調べ尽くして取り去ったのである。恐らく一個たりとも残ってはいまい。きっと盗み聞いた会話から救出のきっかけを探ろうという腹積もりに相違なかっただろうが、相手の方が一枚も二枚も上手だったわけだ。こうなると失望よりも焦りの方が大きくなる。銃を撃ったので勘違いしていたが、聞くところによると彼はごく普通の一般人らしい。こうなるまで銃には触ったこともなかったそうだ。幾らゾンビをものともしないと言っても所詮、その辺にいる素人のすることに期待していた自分が可笑しい。
やはり他人は当てにできない。自分の身は自分で護るしかないようだ。例え女の武器を使ってでも──。
「おい、いつまで用を足してるんだよ」
そう覚悟を決めかけた矢先、突然、乱暴にドアが押し開かれ、見張りの男達が我が物顔で闖入してきた。もちろん、ここは女性専用のレストルームだ。本来ならそんな傍若無人な振る舞いが許されるはずもない。だが、この場に咎める者はおらず、それがわかっているからこそ彼らも面白がってそうしたのだろう。
驚いた朋美は慌てて後ずさる。
「すみません。まだこれからです。すぐに済ませます」
だから出て行ってくれ、とは言えない。そんなことを口にすれば彼らがますます調子付くのは間違いないからだ。
「何をもたもたしてやがる。さっさと終わらせろ」
反射的に踵を返して、男達の視線を背中越しに浴びながら、急いで個室に飛び込むのが精一杯の反応だった。扉を閉めて中からしっかりと施錠する。暫く経つと男達が出て行く気配と扉の閉まる音が聞こえた。一先ずホッと胸を撫で下ろす。落ち着きを取り戻し本来の目的である用を足そうと便座に坐りかけたところで、ホルダーのトイレットペーパーが切れていることに気付く。新しいペーパーを背後の戸棚から取り出してセットし直した。改めてズボンと共に下着を下ろし、ひんやりとした便器に尻を付ける。一週間以上履き替えられていない足許の下着はなるべく目に入らないようにして、下半身に意識を集中する。すぐ近くからは男達の粗野な笑い声が響いてくる。女性がトイレに入っているのに、気遣うつもりはまったくなさそうだ。こんな状況でなければ他人の、それも男の存在が間近に感じられる場所で用を足すなど考えられなかっただろうが、今は耐えるしかない。少しでも音が外に洩れないことを祈りながら手早く済ませると、腹いせとばかりに真新しいトイレットペーパーを勢い良く引き出した。ガラガラと思いがけず騒々しい音を立てて五十センチほど伸ばしたところで、ふと手を止めた。ミシン目の途中に注意して見ないと気付かないであろう小さな斑点のようなものを見つけたからだ。顔を近付けて確認すると、それは矢印の紋様をしていた。元よりあるプリント柄ではなく、後から誰かが書き加えたもののようだ。それがロールの根元の方を指している。まるでこの先に何かがあるみたいに。朋美は一瞬躊躇ったがすぐに意を決し、高鳴る胸の鼓動を必死で鎮めながらペーパーを引き出していく。今度は音を立てないように慎重な手付きで。矢印はほぼ等間隔で現れ、全て同じ向きだった。それが三度ほど続いたのち、漸く別のものが出現した。
(これで只の悪戯書きだったらマジで怒るからね)
朋美は祈るような気持ちでその部分を凝視した。
「そこにメッセージがあったというわけね」
朋美を取り囲むようにして輪を描いた人質一同を代表して、絵梨香がそう訊いた。
トイレから戻るなり、唇に人差し指を立てて皆を集めた朋美が、事の顛末を小声で説明し終えたところだ。
「それ以上、長居したら怪しまれると思ったんで一旦、戻って来たんだけどさ」
「何て書かれていたの?」
場所だけだ、と朋美は答えた。今いる女子トイレの三つある洗面台、その一番奥の排水パイプを探れ、としか書かれていなかったらしい。人質が行けない場所では意味がないので、同じ場所にしたのは納得できる。そこに何があるのかは調べてみないとわからない。
「そのトイレットペーパーは?」
「捨てたわよ、もちろん。そうしろと書かれていたしね」
でも、どうしてそんな見つけにくいところに伝言を仕込んだんだろう? と、これは絵梨香の斜向かい陣取った七瀬の疑問だ。やったのは智哉で間違いないとして、わざわざ新品を使わずともホルダーに元からセットしてあるペーパーに書けばもっと早く気付けたのに、というわけだ。
「それに、ここのトイレって新品のロールが山積みになってましたよね? その中から塚原さんがメッセージのあるロールを手にしたのって偶然じゃあ……? それとも全部に書かれているんでしょうか?」
七瀬の言葉を受け絵梨香は少し考えてから、たぶんだけど、と切り出した。
「書いたのはそれ一つで他にはないと思う。その証拠にこの三日間でペーパーを取り替えたことはあったけど、誰もメッセージは目にしていない。建物内は隅々まで調べられるのを予期していたんじゃないかしら? トイレも探られて、もしかしたらホルダーやそこにあるペーパーもチェックされると考えたのかも知れない。でも、さすがに新品を全て取り出して中まで調べるのは現実的ではないものね。全部に書かなかったのは無作為に一つや二つはそうする可能性を考慮して、発覚のリスクを最小限に抑えるためだと思う。その分、気付くのは遅れるでしょうけど、見つかってパァになるよりはマシという判断でしょう」
その話を聞いて美鈴はあることに思い当たり、あっ、と小さく声を上げた。
「もしかしたら盗聴器は最初から見つかることが前提だったんじゃないでしょうか?」
「そうね、このメッセージを見た限りじゃ、その可能性は高いと思う。盗聴器もバレなければそれに越したことはなかったんだろうけど、猜疑心の強いあいつらのことだから何も仕掛けてなければ却って怪しまれる。そうなると何か見つけるまで家探しは止めなかったはず。見つかった盗聴器は本命から目を逸らすためのダミーと考えるのが妥当でしょうね」
(そうだったのか。てっきり仕損なったとばかりに思っていた盗聴器にそんな目論見が隠されていたとは気付けなかった)
朋美は内心で侮っていた智哉にこっそりと頭を下げた。
他の人質達も、あー、なるほどね、といった感じで顔を見合わせる。
「とにかく、そこに何があるのか確認するのが先決ね。私が行くわ」
そう言い、立ち上がりかけた絵梨香に美鈴が待ったをかけた。
「待ってください。絵梨香さんは警戒されています。ここは他の人が行くべきだと思います。私に行かせてください」
「でも、もし不審に思われたりしたら……」
何をされるかわからない、と言いかけて口を噤んだ。そんなことは承知の上であることが表情を見てわかったからだ。
「大丈夫です。覚悟はできてますから。それにこう見えて手先は器用なんですよ。岩永さんにも誉められたことがあります」
確かに美鈴の容貌なら大抵の男はそれに気を取られて油断するに違いない。この役割には打って付けの人選と言えるだろう。絵梨香もしぶしぶながらそれは認めざるを得なかった。ただし、一人では危険ということで、遠野理沙という美鈴と同い年の少女が同行を申し出た。昔の文学少女を彷彿とさせる大人しそうな見た目の娘だ。彼女達の年代なら連れ立ってトイレに行くのも珍しくないということだろう。早速、揃って席を立った二人に、朋美が背後から声をかけた。
「あいつら、平気で人様が用を足そうとしているトイレにまで入って来るから気を付けてね」
十分後、何事もなく部屋に戻って来た二人に朋美が訊ねる。
「どうだった?」
答える代わりに美鈴は胸元からビニールに包まれた箱型の小さな機械を取り出して絵梨香へ差し出した。
「これだけ……なの?」
隣から覗き込んだ朋美が掌にすっぽりと納まりそうなサイズを見て、思わずがっかりとした調子で呟く。
「仕方がないわよ。パイプの中じゃ、隠せるとしたらこれくらいが関の山でしょう。最初から銃やナイフが仕込んであるなんて期待してないわ」
それはそうだけど、とまだ納得できなさそうな朋美が、結局それは何なのか、と訊いた。
「見たところ、無線機のようね。ここまで小型軽量なのは私も初めて手にするけど」
ビニールを開封した絵梨香が、慎重な手付きで取り出し、そう言った。恐らく市販されているものの中では最小の部類に入るのではないか。それだけに性能的にはあまり期待できそうになかったが、今回は特に問題にはなるまい。何故ならさほど遠くと通話することにはならないだろうからだ。
その予想通り、無線機に同封されていたメモに従い、指示された時間にスイッチを入れると、直ちに反応があった。
「──どうやら見つけたみたいだな。思ったよりも早くて助かった」
ノイズ混じりの音声ながら智哉の声がはっきりと聴こえてきた。その感じから思いの外近くにいるようだ。いつ連絡があっても良いよう、どこかで待ち受けていたのだろう。
全員の無事を確認した上で、すぐさま本題に入る。
「のんびりと会話をしている暇はない。時間が経つほど連絡を取り合っていることに勘付かれる危険性は増すからな。急いで行動に移るぞ。できれば今日中に片を付けたい」
智哉がそう宣言すると、元自衛官らしく余分なことは一切口にせずに恐ろしいまでの潔さで絵梨香がそれに応じた。
「私達は何をしたらいい?」
「奴らは露天風呂を調べたか?」
やや考え込んで、絵梨香は答えた。
「いいえ。建物内は熱心に調べていたけど、外まではそれほどじゃなかった。まあ、探索範囲を考えれば当然でしょうけど」
「なら、たぶん見つかっていないはずだ。露天風呂の脇に銃が埋めてある。女湯の入口から数えて四つ目の庭石の裏だ。二メートルほど奥の灌木の下を掘れ。できるか?」
何とかやってみる、そう言って絵梨香はみんなの顔を見渡した。露天風呂に行くには口実が必要だ。それには全員の協力が不可欠となるに違いない。
「それで銃を手に入れたら、その後は?」
戦いに関してはずぶの素人である智哉にそこまでの見通しがあるとは思えなかったが、念のため訊ねてみる。案の定、作戦とは到底呼べない策が返ってきた。
「無線でタイミングを見計らって、よーいドンで内と外から同時に攻撃を仕掛けるだけだ。アマチュアの俺に細かい作戦なんてあるわけがないだろ。立てたところで対応できないだろうしな。不意打ちで混乱している隙に一気に畳みかけるしかない」
それしかないだろう、と絵梨香も思った。まったく戦闘訓練を受けていない智哉にあれこれ指図しても混乱を招くだけだ。それなら自由に行動して貰った方が良い。その点では智哉の判断は正しいと言える。幸いにも相手も素人なので、不意打ちの混乱から立ち直るには相当の時間がかかるものと予想される。少なくともその間は有利に立ち回れるだろう。
「いいわ。それでいきましょう。こっちは私一人でやる。他のみんなにはどこかに隠れていて貰うことにするわ。そうじゃないと、誤射が心配で思い切った行動が取れない」
周りにも聞こえるようにそう言った。手助けと称して他の者にウロチョロされるよりその方が有り難いのだ。
「襲撃は二人だけでということだな。銃も一丁しか用意できなかったし、それが良いだろう。そっちのことはそっちに任せる。ただし、開始のタイミングだけはこちらに合わせて貰うぞ。俺の方から上手く合わせられる自信はないんでね」
絵梨香は了承した。元よりそうするつもりだったので何ら問題はない。それともう一つ、と付け加える。
「もしも戦闘中に敵を挟んでお互いが対峙することがあったら、無理に戦おうとはせず私に任せて欲しいの。すぐに身を隠すようにして。決して銃口をこっちに向けないこと」
こんなことを言ったら心外だと思われるだろうか? だが、狭い室内での
「わかった。その場合はそちらに任せるよ」
智哉があっさりと同意したことで、絵梨香は胸のつかえが取れた。それさえ守ってくれれば味方から撃たれる心配も、味方を撃つ心配も格段に減る。何より智哉が己の腕前を過信していないことがわかって安心した。これはゲームではないのだ。付け焼刃が通用するほど本物の戦場は甘くない。もっともそういう自分も生きた人間相手に殺す覚悟で挑むのは初めての経験となる。どこまで冷静さを保てるかということにおいては智哉と大差ないかも知れない。
さらに細部を詰めて一旦、交信を打ち切った。作戦の成否は如何に三上達に気取られず事を運べるかに懸かっていると言っても過言ではない。そのため、武器の回収には細心の注意を払う必要がある。
その銃の隠し場所──露天風呂にはその気になれば二十四時間、いつでも入ることができた。ただし、これまでは男共を刺激しないよう入浴は一切避けていたのだ。ここで温泉に浸かりたいと申し出れば連中が鬱積させているであろう獣欲を暴発させかねないが、この際は仕方がなかった。せめて全員で入ることで少しでも抑制が効くことを期待する。交渉には自ら志願した朋美が赴くことになった。
いざとなったら元人妻の色香で堕としてやるわ、そう軽口を叩きながら出て行った朋美だが、二十分経っても還って来なかったことから少々心配された。やがて成功とも失敗ともつかない複雑な表情を浮かべて戻り、一応の了解が取れたことを告げた。
「でも、時間は十五分しか認められなかった。刑務所じゃないんだからって抗議したけど、駄目だったわ。それ以上長くなれば誰かを見に行かせるって。ずっと入浴を避けてきたのに、ここに来て急な申し出でしょ。どういう風の吹き回しかって訝しがられたみたい。目の前に温泉施設があって、一週間以上も着替えていない上にシャワーも浴びていないんじゃ、さすがに限界だと言ったら納得したようだったけど」
どの程度の警戒心を抱かせたかは神のみぞ知るといったところだろう。それにしても十五分では掘り返すので恐らく精一杯だ。詳細な作動確認までは行えそうにない。しっかりと密封されてはいるだろうが三日間以上も土の中にあったことが動作にどう影響するのかは絵梨香も試したことがないのでわからない。しかし、今の自分にとってそれは贅沢な心配事だと開き直ることにした。丸腰で挑むことを思えば雲泥の差である。せいぜい腔発しないことを願うとしよう。
それと同時に戦闘中のゾンビの動向も気にかかる。周辺のゾンビは予め智哉が始末しているはずだが、こればかりは見落としがないとも限らない。音に惹かれて集まって来ることもあり得る。万一にもゾンビが押し寄せて来て手に負えない事態ともなれば、この場所の放棄も考えなくてはならないだろう。その点についても智哉とは打ち合わせ済みだ。脱出にはここへの移動に使った冷凍車があるのでそれを用いるとして、問題は行き先が船に戻るか以前に智哉達が根城にしていたスーパーマーケットに行くくらいしか思い付かないことである。だが、いずれも距離がある上、時間的に深夜の強行軍となりそうなので、なるべくならそれは避けたい。そのためには迅速に戦闘を終結させることが肝心だ。
(そうなると、やはり投降はさせられないか……)
仮に三上達が降伏や恭順を示した場合の対処は決めていなかった。それを絵梨香はそうさせないことが前提であると解釈した。つまりは全ての決着をここで付け、のちに禍根を残さない冷徹な決断を下す必要がある、と。
(もしかしたらあの人はそれを自分だけでするつもりで口にしなかったのだろうか?)
いずれにしても自分のすべきことは決まっている。これからの数時間は女であることを一切捨て去る。元陸上自衛隊一等陸曹としてこれまで培った経験の全てを戦闘に注ぎ込む。そして再び自由を手にするのだ。例えどんな無慈悲な行いをしようとも。その決意を示すかのように勢い良く立ち上がると、そこにいる全員の顔を見回して絵梨香は言った。
「さあ、お待ちかねのバスタイムよ。さっさと行きましょう」
浴場は今いる二階の客間から階段を下りて一階の西の端、中庭に面した渡り廊下を伝った先にあった。そこまでは狭く薄暗い通路を行くことになる。当然ながら部屋の外には見張り役の男二人がいて何やら話し込んでいたが、人質達が入浴するという旨は早々に伝わっていたようで、目の前を通り過ぎてもニヤニヤと意味ありげな視線を送って来るだけで止められることはなかった。ただ、さも当たり前の如くどちらも無言で後を付いて来る。途中、一階のロビーを横切る際にはフロントで貸出用のタオルを拝借し、食堂の脇を通り過ぎ、渡り廊下を越えたところで紺地に大きな文字で『ゆ』と白く染め抜かれた暖簾を潜った。その先は二ヶ所の入口に分岐しており、後ろにいる男達の視線から逃れるように女湯と書かれた方の脱衣所にそそくさと足を踏み入れる。さすがにそこまでは男達も追って来なかった。もっともそれは今だけのことかも知れないが。
十畳ほどの簡素な板張りの部屋には無論、先客は誰もおらず、人質達はそれぞれ自由に脱衣籠が置かれた棚の前に立った。美鈴も妹の加奈と並んでそのうちの一つを自分のものとし、着ていた洋服を脱ぎ始める。銃を取りに行くだけなら裸になる必要はなさそうだが、万が一にも見張りが入って来た時、服がなくて不審がられないようにだ。本来なら例え同性同士と言えども人前で肌を晒すのは抵抗を覚えるところだが、今は恥ずかしがっている場合ではないので手早く裸になると、フェイスタオル一枚だけを持ち、先に脱ぎ終えていた妹の後を追って隣の浴室とを隔てる擦り硝子の戸へ向かった。扉の前で妹に追いすがり片側を嵌め殺しにした引き戸を開いた途端、白い湯気が視界の大部分を覆う。だが、それも刹那の尻込みで、すぐに四散した湯気の向こうに恐らく檜風呂と思われる縦横五メートル四方はあろうかという巨大な内湯を発見して、思わず陶然としかけた。しかし、目的はそこではないことを思い出し、不本意ながらさらに奥の全体が硝子張りとなった壁の隅へと視線を転じる。智哉の話によればそこが外の露天風呂に続く出入口で、その先に銃が隠されているらしい。美鈴が湯船の豪華さに見とれている間に、いつの間にか女性らしさを増した腰付きの加奈が、大股ですたすたとそちらに歩いて行く。とはいえ、その姿に恥じらう様子はなく、中身の方はまだまだ子供のようだ。美鈴もそんな妹に遅れじと先を急いだ。
総檜造りの内湯も素晴らしかったが、外に一歩踏み出てみると、そこはまさしく桃源郷を思わせる別天地だった。周囲を石積みされた畳約八畳分ほどの湯船を中心に、ちょっとした日本庭園と見紛うばかりの大小様々な樹木が取り囲み、高台から見える背景の木立には薄っすらと雪が積もるという、何とも野趣溢れる景観が拡がる。露天風呂はよく見ると、一つの湯船を竹垣で真ん中から仕切ってあり、向こうは似た造りの男湯のようだ。こんな状況でなければここまで来て温泉情緒を満喫しないなどバチが当たりそうなものだが、もちろん今の美鈴達にそんな贅沢なひと時を愉しむ猶予は許されていない。
「お姉ちゃん、こっちよ。早く」
妹に急かされて後ろ髪を引かれる思いで湯殿を素通りし、灌木と灌木の間を文字通り身一つで分け入る。事情を知らぬ者が見たら痴女の覗きと勘違いされそうだ。足の裏を土で真っ黒にしながら二メートルほど奥に突き進んだ辺りで、殆ど周りとは見分けが付かないが、注意深く観察すると確かに他とは異なる様子の地面を見つけた。ここで間違いないだろう。遅れて絵梨香や七瀬もやって来て、他の人には外にいる男達の監視を頼むと、凍える中を裸の女四人で掘り始める。無論、道具などは一切なく素手での作業なので、あっという間に四人共全身泥まみれとなり、爪の隙間には容赦なく土塊が入り込んでくる。暫くすると悴んで指先の感覚も失われたが、それでも誰一人として手を休めることなく掘り続けたおかげで、十分ほど経った頃には何とか五十センチ近く地面の下に埋められていた細長い包みを取り出すことができた。幾重にも厳重に巻かれた梱包を絵梨香は中に土が混じらないよう慎重に解いていく。現れたのは美鈴も避難所でしょっちゅう目にしていた自衛隊の制式小銃だ。当然、絵梨香には馴染み深いものだろう。手に付いた泥をお尻の辺りで払い、早速慣れた手付きであちらこちらを引っ張ったり開いたりして確かめる。最後に肩の辺りで構えて照門を覗いてから、よし、と呟いた。
「銃は問題なさそうよ。身体の汚れを落としたら次の行動に移りましょう」
滔々と湧き出るお湯を前にしてその使い途を手足の泥汚れを落とすのみに留めるのは相当の努力を要したが、冬場のこの時期に濡れた身体で彷徨くわけにもいかず、泣く泣く諦めざるを得なかった。次は絶対に湯船に浸かると固く決心して、美鈴は桶に汲んだ温泉で手足を洗った。他の三人もそれに倣い、名残惜しそうにしつつも全身を濡らさないように注意して汚れを落とす。ここからは絵梨香とは別行動だ。美鈴達は襲撃の邪魔にならないよう一旦男湯側に身を潜めて、騒ぎが始まった時点で中庭を突っ切り一階の厨房に避難する段取りとなっていた。そこでなら暫くは見つからずに済むだろう。男湯に移動するには仕切り兼目隠しの竹垣を取り崩す必要があるが、七人でやればそれほど手間はかかるまい。さすがに裸のままでは風邪をひきそうなので、隠れる直前に服を取りに行く予定だったのだが、息堰切った朋美が駆け込んで来てそれが難しくなったことを告げた。
「大変よ。あいつらがやって来た」
あいつらとは見張りのことかと訊いた絵梨香に、うんうんと朋美が頷く。
「遅いから中の様子を見せろとか言って脱衣所まで来ている。今、他の子達が浴室の扉を必死になって押さえているわ」
不埒にも女湯に押し入ろうというのだ。それを留めても不自然には映るまいが、いつまで持ち堪えられるかはわからない。もし侵入を許せば落とし切れなかった身体の汚れやそこら中に散らばる泥土を見られて何をしていたかは一目瞭然となろう。
「何かつっかえ棒になる物を探して」
咄嗟に絵梨香はそう命じ、美鈴達は慌てて周囲を見回す。後ほど一部を壊す予定だった竹垣に目を付けて、その中の一本を取り出した。それを持ち急いで室内に立ち還る。浴室の奥では脱衣所に通じる硝子戸を日奈子や理沙、それに柴崎綾音という二十代半ばの、普段は殆ど自分から発言しないひっそりとした人質仲間が支えていた。彼女達が片開きの扉を押さえている間に、何とかつっかえ棒を噛ます。それだけでは如何にも心許ないが、男達も今は本気で押し入ろうとしているわけではなく、からかい半分で弄んでいるだけのようだ。だが、これで自分達も脱衣所に戻れなくなってしまった。
黙っていればそのうち諦めて出て行くことを期待して全員が息を潜める。ガタガタと戸を揺する音が暫く続くが、やがて開かないと見るや、チッという舌打ちが聞こえた。
「おい、開けない気か? だったらこっちにも考えがあるぞ。ここにあるものは要らないってことだよな」
曇りガラスの向こうでシルエット姿の男が怒鳴る。
「一体、何を……?」
思わず呟いてしまってから美鈴は慌てて口を閉じた。
何をする気なのかと戦々恐々で見守る中、続いて信じられない言葉が放たれた。
「おいおい、脱いだ服はちゃんと畳めよ。親にそう教わらなかったのか。だらしねえな。Eカップのブラジャーしている奴に言ってるんだぜ」
「こっちは誰のだ? 小汚ねえパンツ履いてやがるな」
脱衣籠を物色しているらしき男達が次々と囃し立てる。只でさえ、脱いだ下着を見られて喜ぶ女性などいるはずもないのに、加えてここにいる者は一週間以上着替えはおろかシャワーさえ浴びられていないのだ。そのような辱めに誰もが耳を塞ぎたくなったのは当然と言えよう。それでもこの先のことを考え懸命に耐えていたが、男達の嘲笑は収まる気配がなく、遂に堪え切れなくなった七瀬が口を開いた。
「……もう上がりますから脱衣所から出て行ってください」
「俺達のことは気にする必要はないぜ。上がりたきゃ好きにしろよ」
「そんな……そこに居られたら出られません」
元来が薄幸そうな七瀬が言うと、悲壮感がより一層際立つように感じられるが、男達が意に介した様子はない。だからさぁ、予定の時間をオーバーしたんだからこれはペナルティなんだよ、とにべもなく撥ね付けられてしまった。
男達はペナルティなどともっともらしく称しているが、時間をオーバーしたと言ってもたかが数分のことだ。どうせ当初から機を見て押し入るつもりだったに相違ない。それでも七瀬が反論に窮し黙ってしまうと、男達はさらに図に乗って口々に卑猥な言葉を並べ立てる。聞いているうちに美鈴は本気で吐き気を催し始めた。彼らとて初めからこうした若者だったわけではあるまい。元はごく普通の真っ当な人間だったはずだ。それが何故こんな酷い真似ができるようになったのか? これが人間の本性と言ってしまえばそれまでだが、美鈴には信じたくないという思いも未だ存在する。智哉がそうだったように、今は嫌悪感しかない彼らともチャンスがあればいつかは打ち解け合う日が来るのだろうか? それとも工場で出遭った金髪の若者のように最後は尽きぬ苦悩と共に死んで安堵するのか?
(その違いはどこにあるのだろう……? 巡り合わせ? だとすれば私達が生き残る価値は? ただ、死にたくないというだけで必死で抗うことに意味などあるのか?)
美鈴がそんな愚にも付かない思考に陥りかけた傍らでは、タオルに隠して持ち込んだ小型無線機で智哉と連絡を取り合う絵梨香の姿があった。通話はイヤホン越しなので聞き取ることはできない。無線機本体をタイピンマイク代わりにするようで、どこで手に入れたのかテープで胸元にしっかりと貼り付けられている。これで戦闘中は両手を自由にして交信するのだろう。急いで何かを話し合った後、人質達に身振りで集まるように指示した。そこでタイムアップが告げられる。すぐに隠れなければならないらしい。着衣は諦めるしかなさそうだ。扉の向こうの男達に気付かれないよう美鈴達は足音を忍ばせてその場を離れる。浴室から露天風呂のある野外に出ると、先程つっかえ棒を抜いた竹垣をさらに崩し始めた。そうして人一人がやっと通れるほどの狭い隙間ができたところで、順に男湯へ移動する。あとは頃合いを見計らって飛び出すだけだ。それまでは寒さを凌ぐために七人でなるべく固まり茂みの陰に身を潜める。美鈴は一刻も早くこの悪夢から抜け出し、無事智哉の下に戻れるよう祈った。
照準器におけるクロスヘアの歴史は古く、元々は只のガラス面だったスコープに髪の毛を目印として貼り付けたのが語源だと智哉は何かの本で読んで知った。それがやがてワイヤーに取って代わり、現代ではガラス表面に直接エッチング加工を施したものが主流となっている。形状も単純な十字線から様々なバリエーションの
これが訓練を受けた兵士であれば、あるいは殺人という嫌忌して当然の心理的抵抗も何かしら軽減する方法が教えられているのかも知れない。しかしながら僅か数ヶ月前までは大方の日本人と同じく狙撃どころか本物の銃に触れたことさえなかった智哉にそんな心構えがあろうはずがなく、ましてや自らの命が掛かった危機的な場面なら必死にもなれようが、眼前にいるのは今まさに己が生命が風前の灯火であることなど露ほども考えていない相手なのだ。それを撃つというのがこれほどまでに罪悪感を伴うとは思いも寄らなかった。だが、智哉は迷っていたわけではない。こうするより外に手がないことは何度も自問して承知していたし、何を最重要視すべきかは違えようがなかったからだ。百回同じ事態になれば百回同じことを繰り返すという確信があった。だから照準を男の頭部ではなく胸に切り替えたのは的を大きくして確実を期すという以外に意味はなかった。その上、職業的
(そのためにはどこでもいい、初弾で確実に当てる)
それと気になることがもう一つ。その最初の標的と定めた男の隣には別の人物の姿が見受けられたが、残念ながらそれは智哉が所望した相手ではなかった。もし隣にいるのがその者なら迷わずそちらをファースト・ターゲットに選んでいたに違いない。智哉が真っ先に望んだ標的──三上の姿はどこにも見当たらなかった。こうなると奴の悪運の強さを呪うしかない。無論、智哉は個人的な恨みでそうしたかったわけではなかった。生かしておいては最も厄介な存在だと思うからだ。結局、三十分ほど待っても三上はその場に寄り付かず、建物内にいることは間違いないが、正確な居場所は掴めなかった。その間に絵梨香から連絡があって銃を入手した旨と、男達が浴室に乱入しそうな状況が伝えられた。彼女達が今いる露天風呂は智哉の位置からだと建物を挟んでちょうと反対側に当たるので、正確な動向を知ることも手助けをすることもできない。陽もぼちぼちと傾きかけている。夜になれば暗視スコープやサーマルビジョンを行使できる智哉の方が有利に立ち回れるが、その分ゾンビが襲って来た場合の対処が遅れる。三上達だけなら一も二もなく真夜中の襲撃を計画しただろうが、そうした理由で明るいうちに決着をつけたい。そろそろ決断すべき時だろう。
無線回線は事前の打ち合わせ通り一時間前から
「そっちはどんな様子だ?」
即座に返事が送られて来る。
「服は諦めてみんなには退避して貰ったわ。おかげで私も丸裸だけど、戦闘に支障はない」
こんな状況でなければ口笛の一つでも吹いて冷やかしたいところだ。それはさすがに不謹慎過ぎるので止めておく。代わって口を突いて出たのは至極まともなひと言。
「こちらの計画は悟られていないんだな?」
「それは大丈夫よ。戸を開けないのも裸を見られたくないだけと思われているわ。それも嘘じゃないしね。みんなの嫌がり様が本気だったから疑われなかったみたい」
そのことは智哉が監視している男達の態度からも窺えた。計画が露見していればのんびりと構えているはずがないからだ。
「なら、やるぞ。準備はいいか?」
「いつでもオーケーよ。銃声が聞こえたと同時にこちらも動く」
もはや罪悪感がどうのと言っている場合ではない。やらずに後悔するくらいならやって後悔した方がマシというものだ。智哉はブローニングBARを伏射姿勢のまま握り直すと、
何にせよ、この場でぼやぼやしているわけにはいかない。智哉は聴覚異常が一時的なものであることを願いながら用心金の前方にあるマガジンリリースボタンを押してヒンジ式の弾倉を開くと、既定の四発をそこに籠め、ボルトリリースレバーを操作して一発目を薬室に押し出す。そうして減った弾倉にはもう一発を追加。フル装填し終えたライフル銃を抱えると落ち葉の山から立ち上がり、ふらつく足取りを何とか宥めつつ建物へと向かった。万一、相手に反撃できる余力が残っていた場合に備え、慎重に接近するが、幸いにして向こうから撃たれることはなかった。それでも外壁に辿り着くとピタリと身を寄せて、内部の様子を探る。耳鳴りで物音はわからなかったが、割れたガラス窓からそっと室内を覗き込んだ限りでは動く者の気配は感じられない。一面の血溜まりの中にピクリともしない仰向けに倒れた人影が二つ見えるだけだ。割れ残ったガラスをブローニングの銃床で払い除けると、銃を背中に回して素早く窓枠を乗り越え室内に躍り込んだ。再びライフル銃を正面に構え、油断なく辺りを窺う。既に不要となった高倍率スコープは先程ピボットマウントのリングごと外してウエストポーチの中だ。廊下に人影がないのを確認したのち、銃口を床に転がった男達に交互に向けながらゆっくりと傍に近寄る。最初に撃った男の方は狙い通り胸から血を流し、無言で抗議するかのように両目を見開いたまま死んでいた。二発目は当たらなかったようだ。二人目の男の方は首筋と脇腹に命中しており、同じく事切れていた。どちらの銃創も致命傷に見えたが、これは別に狙ったわけではないので偶然の産物と言うべきだろう。先に当たったのがどちらかなのかも定かではない。
(五発中三発の命中ではとても自慢話にならないな)
敢えて目の前の現実を冗談めかした思考で評してみるが、無論、そんなことで罪の意識が胡麻化し切れるものではなかった。だが、ここで心を折るわけにはいかない。まだ人質を取り戻したわけではないのだ。湧き上がりかけた感情をもう一度、深く心の奥底に沈めて周辺の様子を探ろうとしたその時、耳鳴りに混じって微かな人の騒めきらしきものを耳にした。意識を耳許に集中する。
「……たら返事を……こちらは……した……繰り返す……」
どうやら気のせいではなかったらしい。ずっと呼びかけられていた模様だ。ただ、内容までは判然としなかった。
「銃声で鼓膜をやられた。よく聞き取れない」
智哉がそう叫ぶ。自分でも声のトーンがおかしいのがわかる。上手く調整できないのだ。すると相手の話し方が変わった。大きめの声で一語一語区切りながらゆったりとした口調で喋りかけてくる。
「これで、伝わる? 怪我は、鼓膜、だけ? 他に、ない?」
これなら何とか聞き取れそうだ。智哉も返事を返した。
「ああ。他は何ともない。こっちは二人、斃した」
「私の方も、見張りの、二人は、始末した。残る、二人の、行方は、不明」
いつの間にと思うが、銃声は耳鳴りで聞き逃したのだと気付く。
「俺も見ていない。少なくともこの近くにはいないようだ」
残る二人──三上ともう一人がゾンビと出喰わす恐れのある屋外に逃げ出したとは考えにくい。建物内のいずこかにいると思って間違いないだろう。もっとも意表を突くなら外もあり得る。油断は禁物だ。
これから屋内を探索する、と絵梨香は告げた。
「そちらは、動かず、どこかで、待ち伏せに、徹して、欲しい」
確かに不慣れな智哉に動き回られるよりは、その方が彼女も安心だろう。
「わかった。俺は適当な場所に潜むよ。隠れられそうな場所を見つけたら連絡する」
最後に、用心しろよ、と付け加えて一旦、交信を終える。室内に向き直ると、数歩進んで死体の脇に屈み込んだ。男の一人が肩に掛けていた八九式小銃を奪い取る。別の男からは造反時に奪われた九ミリ拳銃をレッグホルスターごと取り返し自分の太腿に装着した。拳銃を抜き出して弾倉に弾が籠められているのを確かめた上で、
今一度、廊下に人気がないのを確かめてから智哉は静かに室外に歩み出た。
通路の左右に素早く視線を巡らせ、廊下の一角にちょっとした窪地があるのを発見する。籐の長椅子や古めかしいテーブルが置いてあるのを見ると談話スペースなのだろう。そこへ行き通路の奥からは死角になりそうな長椅子の陰に身を潜める。これで左右のどちらから敵が現れても智哉の正面を通過することになる。気付かれなければ格好の標的と言えるだろう。このことを絵梨香に連絡して、誤って撃たないようお互いの位置を把握しておく。
「もう、向こうも、油断は、していない、はず。撃ち合いに、なることを、覚悟して、おいた方が、いい」
「耳鳴りもだいぶ治まってきた。もう普通に話してくれて問題ない」
「了解。それで建物内のどこかに立て籠もられたら厄介だわ。二対一でそうなったら私でも分が悪い。なので状況次第ではあるけれど、一人はわざと隙を作ってそちらに逃すようにする。それを引き受けて貰いたいんだけど良いかしら?」
何とかやってみるとしよう、と智哉は応じた。そしてその言葉通り十分もしないうちに、連続した発射音が聞こえ、そちらに一人が向かったという絵梨香の警告が届いた。その通話が終わるや否や、廊下を慌ただしく駆けて来る音が響く。智哉は長椅子から顔を覗かせるような真似はせず、只ひたすら正面の窓ガラスに映り込む景色を凝視した。すると、見覚えのある銀色の散弾銃を抱えてこちらに向かって来る男の影が見えた。三上に間違いない。智哉は掌の中でひと際冷たくなった
止まれ、と反射的に声をかけてから、しまったと後悔した。問答無用で撃つつもりでいたのを咄嗟のことで忘れてしまったのだ。
三上はその声に弾かれたように立ち止まる。背中に照準を付けながら、逃走しろ、と心の中で念じた。そうすれば遠慮なく引き金が引ける。
だが、三上は観念したようにその場に膝を付き、手にしたベネリM3を正面を向いたままの姿勢で背後の智哉の方に押しやった。まるで振り向けば撃たれるとわかっているかのようだ。そして両手を高々と頭上に掲げた。
「私の負けだ。降参するよ。撃たないでくれ」
その白々しい降伏ぶりに智哉は激しい葛藤に見舞われた。三上の狙いは明らかだ。こうなっては抵抗しても敵わないと踏んで自己保身に切り替えたのだろう。無抵抗に徹すればよもや撃たれまいという思いがありありと伝わる。事実、智哉は三上の考えを見抜いていながら即座に撃つのを躊躇った。この時点で三上の思惑に乗せられていると言って良い。それを確信したのか、さらに三上は言葉を続けた。
「武器は今、手放したそのライフルだけだ。何ならこの場で裸になってもいい」
ライフルではなくショットガンだが、わざわざ指摘するまでもない。映画やドラマなら他に何か隠し持っていて相手が油断したところをズドンという場面だが、現実でその可能性は低いと思われた。ここで智哉を害しても次に絵梨香が控えており、今度こそ有無を言わさず撃たれるだけだ。それよりも交渉で延命を図った方が余程現実的と言えた。無論、そうかと言って隙を見せるつもりはないが。
「まさか丸腰の人間を背中から撃ったりしないだろうね。そんな恥知らずな真似をして平気でいられるはずがない。それに私は君との約束を守った。今日まで人質には何の手出しもさせていない。彼女達に訊けばわかることだ。これには我ながら随分と骨を折ったよ。何しろ粗暴な連中ばかりだったのでね。今にも人質に乱暴しようとする彼らを宥めすかして押さえてきたんだ。どうだろう? それに免じて助けてくれないか。何、私を許せとは言わない。信じて欲しいと言っても無駄だろうからね。殺さずにいてくれるだけでいい。もちろん、その上で追放してくれて構わないよ。そうすれば二度と君達の前に姿を現さないと誓う。そもそも私一人で生きていけるかも疑わしいんだ。ただ、ほんの少しだけ生存のチャンスを与えて欲しい。船から降ろす時、私も君達にそうしただろう。それと同じことさ」
ここぞとばかりに三上が捲し立てる。その話を聞いて智哉がぼそりと呟いた。
「……保険か」
唐突なひと言だったが、三上は瞬時に身体を強張らせた。微かに緊張した声で、どういう意味だ、と訊いた。
「お前はこうなる場合を見越していたんだ。もし自分達が破れて不利な立場になった時、己は助かるように交渉の余地を残しておきたかった。今、喋ったみたいに自分がいたから人質は無事だったんだと主張するためにな。だから人質達に手出しを禁じた。別に彼女達を思ってのことじゃない。仮に従わない奴がいたとしても自分は止めたと言えば助かるかも知れないしな。つまりは保険だ。だが、それでは他の奴らは言い逃れできない。それも計算の内だったんだろう。要するにいざとなれば仲間も見捨てる気だった。違うか?」
この場での急な思い付きだったが、話しているうちに真実だろうと思えるようになった。それを裏付けるように三上が薄く笑った。
「だとしたらどうだと言うのかね? 確かに私は自分が可愛い。自分が生き延びるためなら他の人間がどうなろうと知ったことじゃないと思っているよ。彼らを仲間にしたのもその方が無事でいられる確率が上がると思ったからだ。まあ、それは間違いだったようだがね。どうやら全員、やられたみたいだ。しかし、それは君だって同じじゃないのか? そのゾンビを寄せ付けないという超常的な力がなくても人質達を躊躇わずに救ったと言えるのか? これまで誰も見捨てて来なかったとでも? 私だってそんな能力があれば皆を助けた上で感謝されてみたかったさ。もっともこの際そんなことはどうでも良い。今、重要なのはどういう理由であろうと私が君との約束を守って人質を傷つけさせなかったという事実だ。そうではないか?」
「……感謝しろと?」
これ以上、三上との会話を続けるべきではないと思ったが、智哉は敢えてそう言った。ある部分では三上の言い分は正しい。我々は決して全知全能の神にはなれない。全体を救えないなら救いたい者だけを救うために他を切り捨てるのも止む無しというのもわかる。奴と己との間に違いがあるとすれば、それが自分一人なのか、近しい者にも向けたかの一点だけだ。だから、智哉に三上を咎める資格は元々ない。
「理解して貰えたようだね。それならば──」
突如、乾いた銃声が薄暗い廊下の奥に木霊した。智哉が無造作に引き金を絞った結果だった。三点射で放たれた弾丸が無防備な三上の背中に突き刺さる。いきなり真後ろから巨大なハンマーに殴られでもしたように奴の身体は前方に弾け跳び、そのまま無言で床に突っ伏した。一瞬でボロ布を纏ったようになったその背中からは見る見るうちに赤い染みが拡がり、それは直ちに周囲の板張りをも濡らした。即死であることは間違いない。無抵抗の者を背後から撃つという最も卑劣且つ残忍な手法で智哉は三上を処刑したのだ。だが、そのことに些かの悔恨も慚愧の念もなかった。初めからそうすると決めていたからだ。仮にもしここで三上を解放していたらどうなったか? 生き延びる可能性は無きに等しいとはいえ、ゼロではない。死んだことを確かめようがない以上、いつまた現れるかとその幻影に怯え続けることになる。そんな禍根を自分が罪を背負いたくないという一心で僅かでも残しておくわけにはいかない。それが三上を殺した理由の全てだ。他には何もない。例えその結果、いずれ良心の呵責に耐え切れなくなろうとも──。
「殺ったのね……こっちも終わったわ」
不意に背後から声をかけられて、智哉はゆっくりと振り返った。そこには裸に旅館の浴衣を纏っただけの絵梨香がいた。そんな扇情的な姿であるにも関わらず今の智哉には何の感慨も湧かない。智哉は視線を三上の死体に戻して、抑揚のない口調で言った。
「……奴の方が余程人間味に溢れていたよ。無抵抗を貫けばまだ殺されないと信じていたらしい。こっちはとっくにそんなもの捨てているのにな。……それより、すぐに夜が来る。みんなを集めたら急いでゾンビ対策をしなきゃならない。まだやるべきことは山程あるぞ。考えるのはその後だ」
ただ、自分が今後これについて口にすることは二度とないだろうと智哉は思った。絵梨香も他の者に吹聴することはないだろうから、一連の出来事について事実を知るのはこの場にいる二人だけということになる。共に罪を背負った者同士。彼女のことはもう単なる相棒とは呼べそうにない。
その後、隠れていた美鈴達も呼んで死体の回収と智哉の手による遠方への廃棄が行われた。それが済んで漸く全員が安堵した。翌日も頬に吹き付ける風はまだ依然として冷たく、陽射しも幾分心許ない。春の訪れを予感させるにはもう暫くかかりそうな気配だった。
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