4 嵐の予兆
それからの四日間を智哉は目まぐるしく動き回った。まずは要求された通り、その日の夕刻までに近くの店舗から辛うじて鼠や虫に荒らされずに残っていたペットボトルや缶詰を掻き集め、無線で取り決めた合流ポイントに持ち寄る。尚余談だが、この頃の食料品の回収にはゾンビの脅威とは別に筆舌に尽くしがたい経験を覚悟しなければならなくなっていた。コンビニやドラッグストアなどはまだマシな方だが、生鮮食品を扱うスーパーなどではまともに嗅げば脳天を貫くような凄まじい臭気の漂う中、それまで見たこともない巨大な鼠や夥しい数の得体が知れない虫達を避けながら探索する必要があるからだ。苦手な人間ならそれだけで卒倒しかねない。その上、無事な食料品を見つけること自体が時間の経過と共に段々と難しくなってきている。しかも普段ならこうした探索にはレインコートか薄手の防護服に身を包み、ゴーグルやゴム手袋の着用といった完全防備で望むのだが、この時はそれらを準備している暇がなく、やむなくタオルで鼻と口を覆っただけの応急手段で済ませるしかなかった。おかげですっかり気分の悪くなった智哉だが、何とかそれなりに回収して待ち合わせの船着き場に向かうと、さほど経たずして沖から観光船が現れる。船首デッキには銃を構え油断なくこちらを窺う三人の男達の姿が見えた。やがて、明らかに智哉や絵梨香よりも慣れた操船で桟橋から三メートルほど離れた辺りにピタリと船が横付けされると、船内から姿を見せた三上が声をかけてきた。
「わかっていると思うが、妙な動きはするなよ。しっかりと狙っているからな。それで要求した物は用意できたのか?」
それに対して智哉は無言で右手に持ったダッフルバッグを掲げる。
「よし。そこから船に投げ込め。念のために訊くが割れ物はないだろうな?」
智哉は答える代わりに、指示に従ってデッキにバッグを投げ入れた。三上から目配せを受けた仲間の一人がバッグを開け、中身を確認すると、余程喉の渇きに辛抱し切れなかったと見えて早速ペットボトルの一本を取り出し貪るように口を付ける。それを見た智哉が軽く肩を竦めるポーズで漸く口を開く。
「いいのか? そんな無防備なことで。俺がそれに何の仕掛けもしていないと信じているわけだ」
途端にペットボトルを咥えていた男は慌てて口から水を吐き出す。ゴホゴホとむせ返りながら怒りを込めた口調で言い返した。
「てめぇ……何か盛りやがったのか? 睡眠剤? まさか毒……?」
「何もしちゃいないさ。だが、信じるか信じないかはそっち次第だ」
そう言った智哉の顔と手にしたペットボトルを交互に見返した三上が何かに気付いたように口許を歪めた。そして再度智哉に向き直ると、感心するかのように告げた。
「ふん、そういうことか。安心しろ。たぶん、何も入っちゃいない。だが、そう言われればこちらとしては疑わざるを得なくなる。確認のためには仲間以外の者で試すしかない。恐らくそうして人質にも水や食糧を行き渡らせようという魂胆だ。違うかね?」
「そう思うなら好きすればいい」
「わかっていても万が一ということもある。結局、毒味役は必要だ。上手いやり方だな」
智哉は答えない。その必要はもうなかった。三上が指摘したようにこちらの意図に気付いたとしてもどうせやるしかないのだ。
「まあいい。人質を飢えさせる気は初めからなかった。その方が君も調達に気合が入るだろうしね。そんなわけでこの量では二日と保たないんだが、それはどうしてくれる?」
「引き続き探索を行う。調達できたら連絡する」
「いいだろう。なら急ぎ給え。のんびりと待っちゃいないぞ」
「こちらからも要求がある。人質の無事を確認させろ。姿を見るだけでいい」
三上は暫し智哉の視線を真正面から受け止めると、やがて仲間の一人に耳打ちして船内に下がらせた。少し経つと一階の船室の窓越しに人質達の顔が覗く。どうやら拘束はされていないらしい。美鈴、加奈、七瀬、日奈子、絵梨香とあとは見知らぬ女の顔が三人。全員の表情に不安や怖れが浮かんではいるものの、今のところ、何かされた様子は見られない。内心の安堵を押し隠して智哉は三上に頷き返した。
「納得したかね? だったらさっさと取り掛かることだ」
それでも智哉は慌てて食料品探しに向かうようなことはせず、三上達の姿が見えなくなると予め割り出してあった現在地を頼りに、放置されていた原付バイクを使い、夜通しかけて以前に拠点としていたスーパーマーケットに舞い戻った。保管してあった予備の銃火器──調整しただけで使用していなかったブローニングBARや自衛隊の主装備である八九式小銃、
「本当にこいつら縛っておかなくて大丈夫なんですか?」
明け方近くの肌を突き刺すような冷気に包まれた美鈴はその声に反応して目を醒ました。そのまま眠ったふりを続けながら薄目だけをそっと開け、周囲の状況を観察する。どうやら見張りの交代を告げに来た三上に対して、前方の席で監視していた彼の仲間が訊ねたらしい。自分を含め人質となっている八人の女性達は全員が一階のキャビン最後方、船尾デッキに通じるドアのすぐ手前辺りの座席に身を寄せ合うようにして固まっていた。通路を挟んで左右均等に配置されたシートに分かれ、各々が横になったり背もたれに身体を預けたりして寝るか休むかしている。誰もが酷く疲れている様子が僅かな視界の中でも見て取れた。無理もない。三上達に船を占拠されてこれで三日目、その前の屋上での避難生活を合わせると一週間近く殆どの者がまともに眠れていないはずだ。この上、拘束でもされようものなら精神に変調をきたす者が出てきてもおかしくはない。だが、幸い続く三上の言葉でどうやらそうはならずに済みそうなことが知れた。
「食事や排泄のたびにいちいち拘束を解いたり結び直したりしたいのか? そんな面倒な真似をする必要はない。そのために監視を付けているんだ。ありきたりのハリウッド映画じゃあるまいし、見張りが都合良く眠りこけたりなんてことが現実にそうあるものか。それよりも鼻の下を伸ばして油断する方が心配だ。何のために女に手出しするのを禁じたと思っている? あの男との取引だけが理由ではないぞ。丸腰なら幾ら人数がいようとどうにもできん。そんな真似が通用するのはフィクションの中だけだからな。だが、武器を奪われれば別だ。偶発的な撃ち合いになることもあり得る。そうならないための措置だと肝に銘じておけよ」
三上は人質の色仕掛けを警戒しているようだ。実際にそうできるかはともかく、隙を見せない姿勢は厄介だろう。そんな話を聞いた直後に人質の中から遠慮がちに手が挙がる。あの、トイレに、と日奈子がおずおずと申し出た。ほら見ろ、と言わんばかりに三上が顎をしゃくる。もっともわざわざ監視の引き継ぎのタイミングで何かを企むとは思えなかったし、どうせ船上からは逃れようがないということで、特に誰かが付き添うこともなく船尾デッキを出たところにあるトイレへの往還は許可された。
それを見た他の幾人かも同様の申し出をしてトイレに行き、それから小一時間ほど経つと全員に僅かばかりの水と食糧が配られた。その頃には水平線上に朝陽が昇り切り、船はどこかを目指して動き始めた。その間にまた見張りは交代している。やはり彼らの目を盗んで何かをするのは難しそうだ。とはいえ、幾らゾンビに襲われる不安がないといっても、いつまでも船の上での生活を続けるわけにはいくまい。幸運にもここまでは天候に恵まれ嵐に遭遇するようなこともなかったが、この先もずっとそうという保証はどこにもないのだ。その辺りのことをどう思っているのか三上に問い質したい気もするが、彼が人質の懸念を相手にするとも思えない。今は大人しく事態の推移を見守るより外にないだろう。美鈴がそんなことを考えている間にも船は次第に陸地へと近付いて行く。目の前に見えるのは昔ながらの漁村のような小さな集落だ。入り江に面した僅かな砂浜には、恐らく二度と使われることのないであろう漁具や、シートの被せられた十艘ほどの小舟が引き上げられている。背景には最近都会ではあまりお目にかからなくなった瓦屋根の典型的な日本家屋が建ち並ぶ。
(一体、ここは太平洋側のどの辺りなのだろう?)
あちらこちらを漂流するうちに、自分達の今いる場所がまったく掴めなくなっていた。少なくとも見知った景色には一度も出逢えていない。
(岩永さんはどこに?)
陸地を目指すからには智哉との接触だろうと思い、周辺に目を凝らすがそれらしき人影はどこにも見当たらない。代わりに堤防の突端から煙のようなものが立ち昇っているのが見えた。焚き火というわけではなさそうである。発煙筒でも焚いたのかも知れない。しかし、何のためのものだろうか?
美鈴の疑問を解消するかのように、三上の仲間の一人が無線に向かって荒げた声を上げた。
「おい、煙は確認したぞ。どこにいる? 姿を見せろ」
どうやら煙は会合地点を示すためのものだったらしい。ところがその場所に智哉がおらず苛立っているようだ。無意識に耳をそばだてて無線機から洩れ聞こえる会話に全神経を集中する。ややあって智哉からの返信が届いた。
「こちらからはそっちが見えている。姿を現す前にまずは人質の無事を確かめさせて貰おうか」
「何だと? 図に乗るなよ」
三上は二階の操舵室にいるようで、交信はその男一人で応じていた。三上グループの中でもとりわけ粗暴さが目立つ男だ。人質を見る目にも人一倍下卑た視線を感じる。美鈴は人知れずその男を毛嫌いしていた。なるべくなら近寄りたくない。そいつが一層不愉快そうな調子で続けた。
「ちょっとばかり自由に動けるからって勘違いしているんじゃないか。命令を下すのは俺達だ。お前にそんな権利はねえ。いいからさっさと出て来やがれ」
「断る。人質の確認が先だ。そもそもお前と話す気はない。三上に替われ」
このひと言が男のプライドを甚く刺激したようだ。見る間に激高し始めると、舐めるなよ、と呟いた後、美鈴が思わず絶句する内容を口にした。
「だったら教えておいてやる。約束なんて俺達が本気で守ると思ったのか? めでたい奴だな。女なんてとっくにやっちまってんだよ。特にあの若い──」
最後まで言わせることなく、その科白を銃声が掻き消した。衝突防止用として両舷に提げられた緩衝材、その一つが轟音と共に粉々に弾け飛ぶのを美鈴は窓越しに目にした。続けてもう一発。今度は男が立っていた位置のちょうど真横にあった船外バックミラーが吹き飛ぶ。慌てて男は無線機を放り出してその場に蹲るが、尚も銃撃は終わらず、さらに三発が撃ち込まれたところで漸く鎮まった。どれも人や航行に関わる重要な部分には当たらなかったようだが、一瞬、美鈴まで智哉は本気で船を沈める気ではないかと疑いかけたほどだ。一先ず騒ぎは収まったものの、男は未だ顔を上げることもできずに、その間隙を縫って慌てて二階の操舵室から駆け付けた三上が床に転がった無線機を引っ掴むと、発狂寸前の大声で叫んだ。
「止めろ。それ以上撃つな。今し方、仲間が言ったことは全部嘘だ。人質には何もしていない。それをこれから証明する。だから撃つな」
無線を通じた会話は操舵室にも聞こえていたと見えて、早口にそう捲し立てると、智哉の返事を待った。焦らすような沈黙ののちに、思い詰めた調子の声で回答があった。
「……言ったはずだ。人質に何かあれば全員殺すと。そっちが本気にしなかったのは勝手だが、次は脅しじゃなく狙って当てに行く。逃げようとしてもロケットランチャーがあるから無駄だ。それを踏まえた上で覚悟して人質の無事を証明するんだな」
「──わかった。少し待て」
そう言った三上が美鈴を振り返って、手招きする。どうやら無線に出ろということらしい。何故、自分なのかという疑問はさておき、美鈴は一瞬躊躇ったものの、意を決して船首方向に歩み寄る。
「話をしろ。何もされていないことを説明するんだ」
言われるままに無線機を受け取った。ここで実は乱暴されたと智哉に告げたらどうなるだろう、と美鈴は咄嗟に考えた。焦る三上の顔を見てみたい気もするが、さすがに悪ふざけが過ぎるので自重する。
一度、軽い咳払いをした後、美鈴は無線の通話ボタンを押した。
「……美鈴です。聞こえますか?」
「ああ、聞いている。感度は良好だ」
『感度は良好』、その言葉に美鈴はあることを思い出す。それはスーパーを根城にしていた頃、万一制圧などされても他の人間に気取られず意思の疎通ができるよう二人で取り決めていた符牒にあったものだ。本当に感度を伝えたい時は符牒でないことを断る決まりになっていたので、これはそう思って間違いないだろう。意味は相手に悟られることなく真偽を伝えろ──。
「こちら側も聞こえています」
美鈴は周囲に不審を抱かせない程度の慎重さで答えた。これで智哉には今から話すことが真実だと伝わったはずだ。ただし、感度の良し悪しは関係ない。それを符牒の返答にしてしまうと、聞こえているのに聞こえないといった不自然な対応になりかねないためだ。本命は主語の『こちら側も』にある。真実を告げる時にはそう言い、逆に脅されたりして嘘を喋らされている場合には『側』を取り『こちらも』と応える手筈になっていた。
二人だけにわかる秘密のやり取りを終え、美鈴は本題に入った。
「さっきの話は全て出鱈目で人質はみんな無事です。何もされていません。今のところは、ですが」
簡潔に要点だけをそう伝える。これで智哉も少しは安心できただろうか? 無線ではその辺りについて何も窺い知れずに美鈴はやや残念に感じた。
美鈴の報告を聞き終えた智哉は、三上に伝えろ、と応じた。
「話を聞くだけじゃ信用できない。嘘を言わされている可能性もあるしな。人質全員を見えるようにデッキに並ばせろ。それで無事と判断したなら出て行くとな」
既に嘘でないことはわかっているのだから、この要求には別の意味が含まれているのだろうと美鈴は推理した。あまりに簡単に納得し過ぎると、却って疑わしく思えることに配慮したのかも知れない。
「……だそうです」
通話ボタンから指を離すと、美鈴は隣で聞き耳を立てる三上にそう告げた。渋面ながらも当座の攻撃が回避されたことに、三上はホッとした様子を見せる。その脇では勝手な発言をしてこの事態を招いた男が身を縮めて恐縮していた。彼には二度と無線に出ないよう言い含められるのを美鈴は聞いた。だが、この男が本心から反省したとは思えない。むしろ恨みを溜め込んだだけの気がするが、それが自分の思い過ごしであって欲しいと美鈴は願わずにいられなかった。
そして改めて人質全員に向け、デッキに出るよう命じられた。
三上が安堵したのと時を同じくして胸を撫で下ろしたもう一人の人物──他でもない銃撃を行った当の智哉自身も大きく息を吐いていた。三上にはああ言ったものの、本当に人質を見殺しにできるかと問われれば正直に言って自信がない。発砲したのは賭けだった。あの時点で無線に出た男の話が真実かどうかは五分五分と読んでおり、嘘ならばこちらが本気と思わせるために。故にしようと思えばできたにも関わらず殺すことなく威嚇に留めておいたのだ。実際に約束が反故にされたとわかればギリギリの選択を迫られることになっただろう。宣言通りに人質を無視して船を沈めるか、彼女達の生存を優先して膝を折るか。前者であれば既にその準備は万端なのでさほど苦労はない。物流センターの時と同様、ロケット弾を撃ち込むだけだ。遮るもののない海上では逃れようがあるまい。しかし、その場合、人質の無事は保証できなくなる。運良くロケットの爆発は免れたとしても陸地では杉村弘樹らの二の舞になる可能性が高いからだ。後者を選べば恐らく三上は二度と交渉には乗ってこなくなるに違いない。いざとなれば智哉が人質を見捨てられる利己的な人間と思われているからこそ、三上達も強弁な態度を貫けず、辛うじて成立している取引なのだ。人質が弱点になるとわかった途端、奴らが強圧的な姿勢に転じることはわかり切っている。結果、智哉は言いなりになるしかなくなる上に、人質達に何をされようと手をこまねいて見ているだけになるだろう。いっそのこと、全部投げ出して逃げてしまえば楽なのだが、そうはできないことを智哉は悟っている。ある意味、それは天罰と言えなくもなかった。これまで己が散々、美鈴にしてきたことへの酬いだ。ただし、自分が地獄を見るのは致し方ないにしても、彼女達の方が犠牲にならねばならない理由はどこにもない。
どうするべきか決断が下せないうちに美鈴と話をすることになり、彼女の口から人質の無事が確認できたことで、とりあえず結論を先延ばしにはできたものの、問題が解消されたわけではなかった。だが、まずは眼前の出来事だ。智哉はデッキに出て来た人質の様子を銃本体から取り外したNIKON MONARCH─3 可変ズーム機能付きスコープで捉えながら僅かでも救出の糸口が見つからないか懸命に探った。本来、ライフル銃のスコープをこんな風に取り外したりしたら元に戻すのに再び面倒な調整作業をしなければならないが、今、智哉が手にしているブローニングBARには着脱しても照準がずれないEAW製のピボットマウントを介して装着しているため、その心配は無用だ。そうして智哉が覗き見ている前で、八人の女達がずらりとデッキに勢揃いする。狙撃を恐れてか三上達は船室から出て来ない。陸地からは死角になる位置で指示を与えているのだろう。暴行などを受けていないことは美鈴との会話で確認済みなので、他に気になる点がないかを注意深く観察する。特に絵梨香に対してはより入念に行ったが、さしもの彼女もここでどうにかできるとは思っていないようだ。サインらしきものを送っている様子もない。それで智哉は漸く潜んでいた小舟から姿を現すことにした。砂浜に整然と並べられていた小舟の中の一艘、そこに腹ばいとなって隠れ、沖に向け銃撃を行っていたのだ。船を覆う古ぼけたシートのほんの僅かな隙間から覗く銃口に気付けた者は恐らくいまい。また当てずっぽうで反撃を受けたとしても正面に銃座を兼ねた土嚢を積んでいるので、被害はないはずだった。さらに足許には最終手段として一一〇ミリ個人携帯対戦車弾、通称パンツァーファウスト3が転がっている。もし使用することになっていたら装甲のない民間の観光船など木っ端微塵だったに違いない。
いずれにせよ今日のところは誰も死なせず済みそうなことに安堵しながらシートを押し退けて砂浜に出現した智哉に対し、三上は驚きつつも武器を手放すことを要求した。攻撃を受けたことで三上達が過剰な反応をする恐れはあったが、手にした食料品の効果を信じてそれに応じる。銃やロケットランチャーを小舟に置いて、未だ発煙筒の煙が燻る堤防の突端に向かった。丸腰になった時点で姿を見せた三上達の銃口は常にこちらへと向けられていたが、武装解除が却って功を奏したようで誰も撃ってはこない。まだ自分には利用価値があると判断された模様だ。
そのようにして薄氷を踏む思いだった物資の引き渡しも何とか終え、人質が害された際の本気度合いも示せた智哉だが、三上達も只引き下がるだけではなかった。お返しとばかりに新たな要求が突き付けられる。それは当然と言えば当然なものだった。新しい避難先を見つけ出すこと。もちろん、安全な移動手段の確保を含めてだ。
「最低限、我々だけで生活できることが条件だ。すぐにとは言わん。半年か一年先にでも自給自足できるようになればいい。無論、それまでの糧食は用意して貰うがね。そうなった暁には人質を解放すると約束しよう」
到底、そんな口約束が信じられるはずもなく、それまで人質が何もされないという保証もない。その上、智哉が用済みとなれば始末するのを躊躇うような連中でもないだろう。だが、今は従うよりなかった。そして奴らが自活を始める前に何とか事態を打破する手立てを見つけるしかない。もしそうできなければ最悪の結末が待ち受ける羽目になる。
──と、ここまでが避難所を脱出し、謎の一党と遭遇するまでの経緯だ。その連中をやり過ごした後、急いでその場を離れた智哉は三上に連絡を取った。奴らが無線交信を頼りに移動しているとなると、このままでは危険と判断したからだ。無線の電波を辿って生存者を探している集団がいること、自分と同じくゾンビに襲われない点は臥せておいたが見るからに危なそう連中であったこと、会話の中身まで筒抜けならとっくに先回りされているはずだから恐らく内容は把握されていないだろうことなどを伝える。三上は智哉が何らかの策を巡らせていることを最後まで疑っていたが、それでも念のため今後は交信を終えたら速やかにそこから移動することや、会話も地名や場所の特定に繋がる言葉は極力避けて行うことには同意した。その不便さを補う目的で日本地図のデータベースが入ったタブレット端末を智哉が用意し、以降は場所の指定にはそこに表示される座標を使うことにする。しかも数値は乱数表を用いて暗号化した上でだ。これで仮に通話内容が相手に洩れても現在位置を知られる恐れはほぼなくなったと考えて良い。海上を自由に移動できる船だから取り得た防衛策だ。建物などに居を構えていたらこうはいかなかっただろう。実際、その後は連中と鉢合わせすることもなく、物資の調達と新たな拠点探しに邁進できた。その避難場所の選定についてだが、当然ながら三上達の言いなりになって大人しく手渡すつもりは毛頭なく、最終的には奴らを排除したのちに自分達が暮らすことを前提に進めた。中でも以前の避難所生活では慢性的な水不足に苦しんだ経験から、今度の候補地選びにはその確保に重点を置く。よって水源のある場所、具体的には湧き水の豊富な地域や温泉保養地が主な狙い目だ。特に飲料可能な温泉なら飲み水の確保だけでなく、入浴にも事欠かないであろう。既にその効果は公衆衛生面における病気予防という観点だけではなくて、精神衛生上においても多大な影響を及ぼすことは美鈴達で立証済みだ。これは何としてでも叶えたい。幸いにも温泉大国である日本なら候補地が不足するという心配もない。山奥の秘湯といった孤立した地域であればゾンビと遭う確率も低くなるだろうが、あまりに人里離れた場所だと物資の調達に苦労しそうな点と、台風や大雨での土砂崩れ、洪水といった自然災害の方が恐ろしいので、そこまで奥深い土地は避けることにする。これらを加味した結果、とある温泉街のはずれにある旅館に目を付けた。旅館と言っても備え付けのパンフレットによれば建物自体は三十年程前に建て替えられた鉄筋コンクリート構造の和風建築で、それ以前には旧日本軍の保養施設だったこともあるらしい。そのためか敷地全体もコンクリートで法面が補強された高台にあって、少し工夫すればゾンビの侵入を防ぐのに役立ちそうだった。部屋数は洋室九、和室七の全十六室で、広さとしても申し分なく、他に合宿用の大部屋と食堂、さらに露天風呂付きの浴室が男女それぞれに完備されている。また敷地内には地下八百メートルから自噴する源泉があり、そこから引かれた温泉では電気系統が停止した現在でも滾々と溢れ出るお湯が確認できた。時間をかければより良い条件の場所も見つけられようが、のんびりしていられない現在の状況では考え得る最善の物件と言えよう。この辺りは例年に比べ今年は積雪が少なかったようで、除雪の手間を省けたのも大きい。早速、写真を撮って三上に渡す。移動手段としてはこれまでのやり方を踏襲して全員をまとめて運べるだけの冷凍車を用意した。ただし、場所についてはすんなりと了承が得られたものの、全員を一度に運ぶという智哉の提案は却下された。さすがに連中も馬鹿ではなかったらしい。それでは一斉に反撃に遭う恐れがあると勘付いたのだろう。結局、三上達と人質を各々半分に分け、二度に渡って移動させざるを得なくなった。道中で智哉が何か不穏な動きを見せれば、残る人質達の身が危うくなるという寸法だ。確かにこれでは一人きりの智哉には為す術もない。あわよくば人質奪還の好機と捉えていただけに、智哉としたら残念ではあったが、それでも落胆までには至らなかった。何故なら少なくとも海上では手が出せなかったものが、陸地であれば届くに違いないからだ。今はそう信じるより外にない。
「──移動の方法については今言った通りにして貰う。当然だが常に連絡を取り合っていることを忘れるな。おかしな真似をすれば人質の無事は保証できないぞ。仮に意図したものではなく不測の事態であっても同じことだ。せいぜいそうならないように安全対策は万全にしておくことだな。第一陣が何事もなく目的地に到着して施設に問題がないことを確認したら、残りの者の移動を行う。今度は先に着いた方が身代わりだ。全員を無事に移動させれば完了となる。ゾンビに襲われない君なら造作もないことだろう」
簡単に言ってのける三上に対して、智哉は敢えて反論しなかった。言ったところでどうにもなるまい。それでも一応、その後のことを訊いておく。
その後? と三上は一瞬、質問の意味がわからないふりをするが、本気でしらばくれようとしているわけでないのは明白だ。
「惚けるな」
そう智哉が語気を鋭くして問い詰めると、鼻白んで答えた。
「ふん、そう目くじらを立てるな。ちょっとからかっただけだ。人質を解放するということなら、前にも言ったがすぐには無理だ。君にはまだ当分働いて貰わなければならないからね。それには動機が必要だろう? 何、我々としても君に頼らず生活できるようになるのが望ましい。そうなったあとは彼女達を連れてどこへなりと好きな場所に行くがいい」
嘘だ。三上達がそれまで智哉を生かしておくはずがない。折を見て始末しようとするだろう。人質達についても今は三上の抑止が効いているようだが、安息の地を手に入れたのち、果たしてどこまでそれが通じるのかも不透明だ。
(愚図愚図してはいられない。早急に対策を講じなければ)
その日より二日ほどの準備期間を経て、風は冷たいが良く晴れ渡った冬の一日、二度に渡る移送を智哉は行った。どちらの行程もゾンビの襲撃を避けることができ、人質を含む全員が無事に温泉旅館に辿り着く。それもこれも智哉が事前に入念な準備と下調べをしていたおかげなのだが、もちろん三上達から労いの言葉がかけられることはなかった。
直後には食糧の調達に出るふりをして智哉は近くの小屋に引き籠った。予め用意してあった無線受信機から聞こえる音に耳を澄ませる。それは前以て旅館の至るところに仕掛けておいた盗聴器が拾い集めてきたものだ。当然ながらコンセントなどから電気を拝借する寄生式は使えないので盗聴器は全て電池式で一週間程度しか保たないが、それだけあれば時間的には充分だろう。あとは有益な情報が手に入るかだが、各所に仕込んだ盗聴器を順に切り替えていくと、やがてその一つにゴソゴソという反応があり、続いて三上達の会話がはっきりと聞こえてきた。
「必ずあるはずだ。探せ」
「本当にそこまでやりますか?」
「やる。私なら絶対にな」
その時、雑音がひと際大きくなったかと思うと、あった、という興奮した叫び声が鼓膜に突き刺さる。ヘッドホンの向こうで慌ただしさが増した。
「やはりな。間違いなく仕掛けてあると思っていたよ。今頃、どこかでこの声を聞いているんだろ? 残念だったな。君がこの機会を利用しないはずがない。盗聴器か監視カメラを用意していることは予想していた。他にもあることはわかっている。今夜中には全て見つけ出して排除させて貰うよ。あまり私を舐めないことだ。これに懲りたら無駄な足掻きはせずに大人しく我々に従い給え。それがお互いのためだ」
そう言ったのを最後にガリっという不快なノイズが響き、それ以降は何一つ聞き取ることができなくなった。他の盗聴器に関しても同様の有様だった。
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