3 暗黒潮流
(やはり、真っ当な連中じゃなかったな。先に気付けたのは僥倖だったわけだ)
物陰から道路の様子を窺っていた智哉は、そう独り言ちて胸を撫で下ろした。路上に置き去りにされた車、四ヶ月以上も風雨に晒されてすっかり錆と埃っぽくなったその脇に身を潜めながら、ひび割れたサイドミラーの角度を調整して背後の景色が映り込むようにする。すると、そこには数人の生存者らしきグループがいた。距離にしてまだ五十メートルほどは離れているが、これまで接触してきた生き残りとは明らかに様相が違っている。何と言っても先頭を歩くのはうら若い──というより殆ど子供と言って差し支えないセーラー服を着た中学生くらいの少女である。そのすぐ後ろをこちらはやや年上の二十歳前後と思われる女子大生風の女が少女の陰に隠れるようにして付いて行く。年齢的には姉妹のようでもあるが、遠目からの雰囲気ではまったく似ていない。足取りも少女のそれが近所のコンビニに買い物に行くかのような気軽さであるのに対し、年上の女は内心の怯えが隠し切れていない模様だ。その二人の後方をこれまた十代後半から二十代初めとおぼしき若者三人が思い思いの服装で続く。それぞれが好き勝手な調子で歩いているが、共通するのは誰の表情にも臆した様子が窺えないということだ。さらに三人から少しばかり遅れた最後尾には、一人だけ年齢が不釣り合いの、平時であれば修学旅行の引率教師かと見紛いそうな智哉とほぼ同年代の男が如何にものんびりとした歩調で後を追う。あるいは本当に彼らの保護者なのかも知れなかった。ただし、男達は皆、長身の銃やクロスボウらしき武器を携えている。無論、それだけなら自衛のための備えと見えなくもなかった。日本では日常的に目にする機会の少ない銃も入手困難というだけで、こうした現状では探し出したとしてもさほど不自然とは言い切れないだろう。現に智哉自身もそうなのだ。だから間一髪、彼らより先に気付いた智哉が反射的に身を隠したのは、連中の武装や構成を気に留めたからではない。それよりも遥かに異常な事態──ゾンビが跋扈する中を平然と行く姿を目撃したせいだ。
しかも、以前に見かけた研究者らと違って、誰も化学防護服のようなものは身に着けていなかった。そうであるにも関わらず、彼らの周囲にだけまるでゾンビを寄せ付けない透明なバリアでも張られているかのように、無人の荒野を形作っている。その範囲は彼らの歩みと共に移動しているらしく、見えない壁に触れたゾンビはモーゼの十戒宜しく左右に割れて道を開ける。もっとも本当に物理的な障壁があるわけでないのは、そんな中にも反応が鈍く時折取り残されるゾンビがいることでわかった。バリアの内側にまで入り込んだゾンビは、この状況をどう解釈すべきか悩む智哉が見守る前で、あたかも道端の雑草を刈り取るが如く三人の若者の手により次々と処分されていく。それも音が出るのを警戒してなのか、もしくは単に殺戮を愉しみたいだけなのか、飛び道具は使わず腰や太腿に差した大型の鉈や斧、ナイフを振るってだ。その様子はとても自衛のためとは思えなかった。幾らゾンビとはいえ、遊びで殺すことは一方的に蹂躙できる立場の智哉でもしてこなかったことだ。見ているだけで胸糞が悪くなる。それだけではない。さらには看過できない危険性も包含していた。これがもし生きた人間にも向けられるとしたら──。
(危な過ぎる連中だ)
直感的にそう感じたからこそ、慌てて隠れてやり過ごそうとしたのである。先頭を行くのは少女に過ぎなかったのではないかという意見には、見ていないからそう言えるのだと反論したい。直接目にすれば誰もがその異質さに気付くはずだ。それにしても何故、連中はゾンビに襲われないのか、それが問題となろう。全員が自分と同様に特異体質ということはあり得るだろうか。あるいはどこかで研究が進み既にゾンビを避ける手立てが講じられている可能性は……? 気になることではあるが、至近で繰り広げられる凄惨な光景を目の当たりにすればとても声をかける気になどなりようがなかった。代わりにこっそり後を追おうかとも思ったが、ちょうど真横を通り過ぎる際に聞こえてきた彼らの会話を耳にして、途端にその気は失せた。
「ねえ、次に避難所を見つけたらどっちが多く殺るか勝負しようよ」
「いちいち数えながら殺すのは面倒だ。それにどうせ殆どはゾンビに殺られちまうだろう」
「もう少し頑張って抵抗してくれると面白いんだけどな」
「無理だろ。ゾンビは加減なんてできないんだからよ」
絶対に関わるべきではない奴らだと、即座に理解した。凶暴さもさることながら何よりもこいつらにはこれまで智哉の自信の裏付けだったゾンビに襲われないという優位性がまったく通用しないのだ。戦うとなれば例え不意打ちを仕掛けたとしても数で劣る一人きりの智哉に勝ち目はまずあるまい。それに今の自分がそれどころでないのは重々承知している。このまま息を潜めて遠ざかるのを待ち関わりにならないのが最善であろう。連中もまさかすぐ近くに自分達と同じくゾンビを無視できる相手が隠れているとは考えもしていないようだった。身動き一つせず連中をやり過ごしホッとひと息吐いたのも束の間、離れて行く奴らを背後から覗き見て若者の一人が手にしたボウガンのように細長い棒状のものを目に留めた智哉の背筋に戦慄が走った。長い金属棒に幾つかの交差する短い横棒を取り付けたそれは、八木アンテナと呼ばれる指向性アンテナの一種だと気付いたからだ。家の屋根でよく見かけるテレビアンテナをイメージするとわかりやすい。そのアンテナを前後左右に振って何かを調べている。恐らく
(挨拶のために立ち寄るつもり……じゃないだろうな)
あのような会話をする連中だ。生存者を発見しても友好的な接触を望んでいるとは考えにくい。第一それならまずは通話を試みるはずだ。どんな相手かも知ろうとせずに居場所を特定しようなどというのは自分達の存在を知られたくないからに外あるまい。その理由は邪な目的としか考えられなかった。
(よりによってこんな時に厄介な)
智哉は思わず歯噛みした。それもそのはずなのだ。その脳裏には先日のあの忌まわしき出来事が思い浮かんでいた。
遡ること五日前、智哉達を乗せた観光船が港を出た最初の晩。避難所を辛くも脱出し沖に向かった一行を待ち受けていたのは思いもしない展開だった。
(思いもしなかった……いや、それは嘘だな)
智哉は頭の中で訂正する。本当はそうした可能性も視野に入れていながら度重なる活動での疲労を理由に無視してしまっていたのだ。到底言い訳できるものではない。全ては智哉の油断が招いた結果である。そのせいでむざむざと助けた者を大勢死に追いやることになった。
三上──あの男の裏切りが一切の元凶だった。否、裏切りというのは正しくないかも知れない。少なくとも奴自身はそうは思っていないはずだ。当初の計画通りに事を運んだに過ぎないと主張するだろう。元より三上とその仲間達が他人の命を歯牙にもかけない連中だったのか、それとも長い避難生活の中で徐々に人間性をすり減らしていったのかは定かでないが、今の奴らが何をしでかしてもおかしくないのは確かだ。それは大半の者が疲れ果てて眠りこけた深夜に突然、全員が叩き起こされたことで明らかになった。起こした側の三上達の手にはしっかりと銃が握られ、起こされた側の智哉達に向けられていた。この時、舵を握っていたのも三上の仲間の一人だった。智哉も絵梨香も慣れない航海に疲労困憊だった上、そもそもが付け焼刃だったこともあり、船舶免許を持つというその相手に操船を任せていたのだ。
「おい、これは何の真似だよ」
余程綿密に打ち合わせてあったと見えて手許の武器も手際良く没収され船室の片隅に集められた生存者の中から、元食糧自給班の班長である高瀬が声高に叫んだ。もっとも科白の威勢の良さに反して、目の前に銃を突きつけられていては動くこともままならない。心なしか声も幾分上擦っているように聞こえた。普段強気の高瀬でさえそうなのだから美鈴や加奈や七瀬などはひと言も発することなく蒼ざめた表情で立ち尽くしている。さすがに絵梨香だけは表面上は落ち着いているように見えたが、彼女とて立て続けに降りかかる厄災に疲れていないはずがなく、内心の動揺まで推し量ることはできない。それは智哉も同じことだ。今は壁際でじっと押し黙っていた。高瀬のように吼えたところで事態が好転するとは思えなかったし、三上が何をする気なのか判明するまでは極力目立つことを避けたかったからでもある。そうでなくとも自分や絵梨香はこれまでの行動から目を付けられている可能性が高い。只でさえ要注意人物視されているのに、下手に騒いではできることもできなくなる。その点に関しては高瀬が注目を集めてくれるのは有り難かった。彼がそこまでのことを見越しているとは思えなかったが、どうやら絵梨香も似た考えを持ったらしく、なるべく目に付き辛い反対側の隅へとさりげなく移動するのが視界の端に映った。やがて、囲みの中から一歩前に進み出た三上がおもむろに口を開いた。
「言わなくてもわかると思うが、見ての通りこの船は我々が支配した。君達は大人しく指示に従って欲しい。従わない場合はどうなるか……それは諸君の想像にお任せしよう。ただし、これだけは言っておく。単なる脅しと思わないことだ。根拠が必要ならここに至るまでの経緯を思い返して貰いたい。既に我々の大切な仲間の一人はそこにいる彼に殺されている。無残に荷台から突き落とされてね。それはみんなも見ていたはずだ。先に手を下したのはそちらだということを忘れないで貰おう。当然、我々には報復する権利があると考えている」
そう言いつつ最前列に並んだ人達の真ん中辺りを指差した。そこにいたのが杉村弘樹であるのは言うまでもないだろう。三上が言うように船に向かう途中、彼が奴らの一員を殺したというのは周知の事実だ。例えそのきっかけが美鈴を傷つけたということであっても到底、正当化できるものではあるまい。船に乗り移ってからは監視付きで大人しくしていたが、いずれ何らかの裁きを受けるのは必定と言えた。だからといって、他の者まで拘束する理由とはならないはずだ。それについては高瀬がもっともな抗議の声を上げた。
「ちょっと待てよ。彼があんたらの仲間を殺したからって、俺達まで共犯扱いするのはおかしいだろ。別に俺達は同じ──」
「他の人は関係ない」
高瀬が全てを言い切らないうちに、杉村弘樹は顔を上げてそう宣言した。
「手を下したのは自分一人でだ。罪を問うなら俺だけにすればいい。偶然、居合わせた人達まで巻き込む必要はない」
その通りだ、と言うのを辛うじて高瀬は呑み込んだようだ。さすがにそれでは突き放し過ぎると思ったのかも知れない。杉村弘樹の方は何かを覚悟したかのように真っ直ぐ三上を見据えて佇んでいる。その横顔を少し離れた場所から美鈴が心配そうに見詰めていた。それにしても三上は本気で杉村弘樹を断罪したくてこんな真似を始めたのだろうか? いや、奴の真意がその程度のことで済むとは思えない。智哉は対角線に位置する絵梨香と素早く目線を交わした。何か打つ手はあるかという意味だったのだが、彼女は余程注意深く見ていなければ気付かないであろう微かな動きで首を左右に振る。それだけで意思は通じた。今は見守る以外に方法はないということだ。
勘違いしないでくれないか、と三上は眼鏡のつるに触れながら再び話し始めた。
「我々は何も仲間を殺された腹いせにこのような行動を起こしたわけじゃない。その件を持ち出したのは私達が本気だということを示すためだよ。つまり、こちらも自衛のためなら容赦はしないと言いたかったわけだ。今日まで生き延びてきた君達ならわかるだろう。この世界では如何に人の命が軽く扱われるか」
誤解だ、と今度は別の場所から声が掛かった。発言の主は智哉の知らない中年男性で、高瀬と顔を見合わせたところを見ると、彼の知り合いらしい。その男が申し開きの許可を求めるように挙手しながら語り出した。
「誰もその人のしたことを認めたりなんかしていない。彼自身が言ったように勝手にやったことで私達とは何の関わりもないことだ。あなた達を害そうとする者なんて他にいやしない。彼に罪を償わせようとするなら裁判でも何でも喜んで協力するよ。だからどうかこんな真似は止めて欲しい。仲間というなら共に生き延びた我々だってそうじゃないか」
その言葉を聞き、なるほど、という表情で三上は男性を見返した。そして言った。
「では、仲間であるという証を見せてくれないか?」
「えっ?」
男性はどういう意味か掴みかねた様子で困惑した表情を浮かべるが、構わず三上は先を続けた。
「そうだな……手始めに隣にいる男でいい。彼を殺して見せてくれ。そうすれば仲間と認めよう。逆であっても構わないよ。彼が君を殺せば彼のことを仲間としよう」
「何を言っているんだ? そんなこと、できるわけがない……」
「仲間と言うからには我々と同じことをやってのけて当然だろう。誰だって人を殺すのは良い気分がするものじゃないさ。だが、必要ならしなければならない。違うかね? それとも君は厄介事は他人に押し付けて平気なのか? それで仲間とは虫が良過ぎやしないか? ちなみに君達の前に立つ者なら全員が躊躇わずに今の指示を実行するはずだ。何なら実践して見せてやってもいい」
三上は自分の傍らに立つ男に何やら耳打ちをして、そいつが銃を構え直したところで、わかったから止せ、という高瀬の逼迫した声が響いた。
「わかったとは一体何がね?」
三上が銃を構えた仲間を制して訊ねる。
「あんたらが本気で俺達を殺せるってことをだよ。俺達は大人しく人質になるしかない、そうなんだろ?」
「嘘を吐いていると思われるのは心外だね。命じた通りに殺せていたら本当に仲間に加える気だったよ。まあ、無理だろうとは思っていたがね。何しろ、あの手緩い市長を支持していた君達だ。私の言う通りにもっと徹底した管理と選別をしていればこんなことにはならなかったんだ。万事は全てに甘い決断しかできなかった市長と、それを良しとした諸君らのせいだよ。今更言っても遅いがね。だが、これで君達も身に染みてわかっただろう。何の犠牲も払わずに全員が生き残るなど幻想だということが。これからは不要な人間から順次切り捨てていく。ここにいる仲間はその考えに賛同してくれた者達だ。それと君達は人質ではない。人質というのは脅す相手がいてこそ意味のあるものだからね。そんな者がどこにいるというのかね? 今の君達は人質の価値すらないのだよ」
「……じゃあ、何だって言うんだよ?」
「はっきり言ってお荷物だね。無価値どころか生かしておけば飯も喰うし出すものも出す。我々にとっては傍迷惑としか言いようがない存在だ」
それを聞いて高瀬は眉をひそめ、他の者は絶句した。智哉も息を呑む。
(やはり、この男は誰も生かしておく気はないのか?)
その雰囲気を察した様子で、三上は改まった口調で告げた。
「安心し給え。何も無条件に殺そうと言うのではないよ。先程言ったように切り捨てるのは不要な者からだ。なので君達にも生き延びる機会を与えよう。君達でも役に立つことはちゃんと考えてある。明日になればそれがわかるさ」
その宣言通り翌朝になって智哉達には、上陸して飲料水や食糧を集めて来るように告げられた。それが役に立つということらしい。もちろん、武器の類いは一切与えられずに、だ。
「無茶だ。それじゃあ、死ねというのと同じじゃないか」
「嫌ならここで海に飛び込んで貰っても一向に構わない。この季節の水温にどれだけ耐えられるか試したければそうし給え。私なら御免被るがね。それを思えば海岸近くまで船を寄せてやろうと言うんだ。感謝して貰いたいくらいだよ」
当然、上陸すればゾンビに襲われるものと覚悟する必要がある。何の備えも無しに生き延びるのは至難の業と言えよう。そんなことは三上も先刻承知しているに違いない。端から智哉達を生かしておく気はなかったようだ。
「誰かを殺せば助けて貰えるんだよな?」
中にはそんなことを言い出す者もいたが、もう遅い、と三上に一蹴された。
「女達はどうなる?」
甲板に集められたのが男だけと見るや、智哉はそう訊ねた。
「わかり切った質問だね。無駄を嫌う君らしくもない。だが、答えるとしよう。彼女達には別の形で役に立って貰うよ。何しろ、男だけでは子孫を残すことはできないんでね。次代を育成するのは生き残った者の責務と言える。もしかしたらそれができるのはもう我々しかいないかも知れないわけだしね。彼女達にはそのために頑張って貰うつもりだから安心するといい」
言い方は違えど、自分達の欲望の捌け口にしようという魂胆は見え見えだ。男というのはどいつもこいつも力を持つと考えることは一様に同じになるらしい。
「一応、無線機は渡しておいてやる。無駄だとは思うが、もし水か食糧でも手に入れられたら連絡するといい。その時は迎えに行ってやろう。戻る気があるのならだが」
確かにこのまま沖合いにいても物資が手に入る当てはない。出港が急だったため、食糧などを満足に用意する時間はなかった。仮に食べる物は釣りなどで賄えたとしても飲料水の確保は都合良く雨でも降らない限りは無理だ。三上に命じられなくとも早急に誰かが調達に赴かねばならなかったのは間違いない。当然ながら智哉はそれを自分一人で行うつもりだった。そうすれば誰の犠牲も払わずに済むからである。だが、三上の目論見が邪魔者の排除にある以上、今からそれを言い出しても到底聞き入れられまい。
詰まるところ、現段階では三上の言いなりになるしかなく、智哉達男だけの八人の集団は海岸線に近付けた船から海に飛び込むよう強要され、陸地目指して泳がざるを得なかった。太平洋側とはいえ、冬場の水温は身を切るほどに冷たく、ゾンビに発見されないよう慎重に近寄るにも限度があった。幸い、と言って良いのか謎だが、誰一人溺れることなく泳ぎ着いた先は智哉もどこなのか知らない小さな入り江の砂浜だった。夏場は海水浴場でもあるらしく、よく見ると海の家と思われる簡素な建物が一軒だけひっそりと建っている。何にせよ、この日は陽射しもあって比較的気温も暖かく、濡れた身体でも何とか凍えずに済みそうだ。近くにゾンビの姿が見当たらないことも他の者にとっては幸運と言えただろう。だが、安心するにはまだ早い。砂浜から五十メートルほど奥に見える道路を挟んだ向かい側は、民家が建ち並ぶ住宅地になっていてゾンビが潜むには格好の場所だったからだ。
(一匹でも勘付かれたら防ぎようがないな)
その前に何とか他の連中をどこか堅牢な建物に避難させることができれば──智哉がそう考えたのも束の間のことで、ひと息つく暇もなく、誰かが悲鳴にも似た喚き声を上げた。
「ゾンビだ。こっちに向かって来るぞ」
静かにしろ、と高瀬に注意され慌てて口を噤んだ男が指し示した方向を見ると、道路上に姿を見せた一体のゾンビが砂浜目指して駆け出すところだった。それを皮切りに、別の場所からも続々とゾンビが現れる。危惧した通り、住宅街はゾンビの巣窟だったようだ。
(間に合わなかったか)
こうなったからには他の者の生存には見切りを付けざるを得ないだろう。
「どうしたらいい?」
隣に来た高瀬が切羽詰まった表情でそう訊くのにも、今すぐ逃げろ、と沈痛な面持ちで答えるより外なかった。
「全員で散り散りになるんだ。それでゾンビが上手く分散してくれれば運良く逃げ切れる奴が出て来るかも知れない」
可能性は薄いに違いない、とは口にせず、そう告げる。それしかねえな、と高瀬も頷いて走りかけたところで、人には逃げろと言っておきながら自分は動く気配のない智哉に気付き、あんたはどうする気だ? と訊ねた。
「俺は……ここに残る」
一瞬、聞き間違いかと疑う眼差しを向けた高瀬だったが、何かを了解したような顔になると、今度は振り返ることなく砂浜を駆け出した。もしかしたら智哉が囮となってゾンビを惹き付けるつもりとでも勘違いしたのかも知れない。無論、智哉にそんな気はなく、別の考えがあってのことだ。その智哉が見ている前で高瀬の足跡が点々と砂浜に刻まれていく。しかし、すぐに波にさらわれ、跡形もなく消え失せた。まるで彼の運命を暗示するかのような光景を複雑な心境で眺めていると、ふと背後に視線を感じて振り返った。そこには杉村弘樹の姿があった。
「……何をしている? お前もさっさと逃げろ」
智哉のその言葉にも杉村弘樹は無反応だ。それを見て、智哉は軽く肩を竦めた。
(どういうつもりだか知らないが、死にたいなら好きにすればいいさ)
再度、住宅街の方へと向き直る。そんな智哉の目に飛び込んで来たのは、一人また一人と男達がゾンビの餌食になる様子だった。ある者は道路に逃れることに活路を見出し全力で離れて行ったが、二百メートルほどを走った地点で追いつかれ、組み合ったまま反対側の斜面を転げ落ちていった。また、ある者は海の家に避難しようとして入った途端、辺りに絶叫を響かせることになった。恐らくは建物内にもゾンビがいたのだろう。他にも血だらけになったズボンの股間を押さえて砂浜をのたうち回る者、引きずり出された腸をゾンビから取り戻そうと地引網漁のようになっている者、噛まれた場所が悪く生きたまま無数のゾンビに喰い付かれ、誰か殺してくれ、と絶叫する者など見慣れた阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられている。波打ち際沿いに逃げた高瀬も砂浜を三分の二ほど駆けた辺りで複数のゾンビに取り囲まれ、行き場を失い海に入ったところを押し倒されるのが目に入った。やがて、智哉のいる場所にも何体かのゾンビが向かって来る。もっとも智哉が目当てでないことはわかり切っていた。背後にいる杉村弘樹を狙ってだ。もはやお互いに助かるまいと考えているだろう杉村弘樹が今、どんな表情で立っているのかは前を向く智哉が知る由もない。自分だけが死ぬとわかったら彼はどう思うのか? 卑怯者と罵るだろうか、それとも地団駄を踏んで悔しがるのか──。
「最期になるならこれだけは言っておきたい」
智哉の思考を読んだかのように杉村弘樹は唐突に切り出した。智哉は振り向くことなく、無言でその言葉に耳を傾ける。
「俺はあんたのことが嫌いだ。知り合わなければ良かったと心底思う。けど、美鈴達にとっては別だ。あんたと遭わなけりゃ生きていなかったという点については認めるよ。そのことだけは感謝する。今更、俺が言うべきことじゃないんだろうが。でも、だったら何で? 最後まで護り切らなかったんだ? 俺じゃ力不足だってわかってたんだろ。強引に連れ戻すことはできたはずだ。本人の意思なんて関係ない。そんなものは無視して安全な場所に閉じ込めておけば良かったんだよ。他の奴らにしたってそうだ。助ける必要なんてなかったんだ。誰が何人死のうがどうだっていい。美鈴達さえ無事でいたならな。それで恨みを買うようなら俺が全部引き受けてやる。あんたは美鈴達だけを護ってりゃ良かったんだ」
滅茶苦茶な理屈ではあるし、随分と身勝手な言い草だが、真剣さは伝わってきた。そもそも智哉に関わるなと言ったのは当の杉村弘樹自身なのだが、それももはや関係はあるまい。少なくとも大切な幼なじみを護りたいという想いは本物である。たぶん犯罪などとは無縁の普通の生活を送っていたであろう少年に殺人を犯させるほどには。ならば、智哉としても本気で向き合うべきだろう。
振り返ると智哉は杉村弘樹に向けて、言った。
「だったら教えておいてやる。お前を救うことはもう無理だ。悪いが諦めろ。だが、美鈴達を助ける手立てならまだ残されている。今から俺はそれを実行するつもりだ。絶対に上手くいくという保証はないし、どう転ぶかはやってみないとわからないがな。最善を尽くすと約束しよう」
だから安心して死ぬがいい、とまでは言う必要がなかった。既に杉村弘樹の身体は砂浜に横たわり、何体かのゾンビに圧し掛かられて、断末魔の痙攣を始めていたからだ。智哉の言葉がどこまで届いたかも不明である。杉村弘樹が息を引き取る様を黙って見守りながら、智哉は短く息を吐いた。こののち暫くしてゾンビとなり立ち上がった杉村弘樹がどこかに行ってしまったのを契機に、足許へ放り出してあったビニール袋を拾い上げ、二重に防水したその中からハンディ型のトランシーバーを取り出す。迷うことなくスイッチを入れ、落ち着いた口調で語りかけた。
「あー、ありゃ逃げられねえわ。全員、死亡確定だな」
「何だよ、大穴狙って生き残る奴がいる方に賭けたのに大損だぜ」
「そりゃ、穴狙いにしても無謀過ぎるだろ」
智哉達が無理矢理送り出された後、船内から双眼鏡で彼らの様子を観察していた三上の仲間達がせせら笑いながらそんな会話をするのを美鈴は耳にした。何の道具も持たない美鈴では船室の窓越しに覗いた海岸の景色を遠目に眺めるのが精一杯で、ぼんやりとした人影が誰なのかの区別までは付かない。それでも一つだけ確信していることがあった。
(大丈夫だ。陸地まで辿り着いたのなら岩永さんは心配ない)
智哉がゾンビに襲われないことを知る美鈴ならではの感想と言える。他の者──弘樹や高瀬については、考えてもどうにもならなかった。この状況下では智哉といえども何ともしようがないだろうし、ましてや自分は指を咥えて見ていることしかできないのだ。智哉さえ無事ならあとの者はどうなっても良いとまでは思わなかったものの、胸を締め付けられるような沈痛さを味わわなかったのも事実だ。あまりに事態の展開が目まぐるしく感情が追いついていないのだろうか? だとすれば、今の自分にとっては有り難く感謝すべきことに相違ないだろう。
「おい、あれはどういうことだ? 何であいつだけ襲われてねえんだよ?」
片手で双眼鏡を持ち上げていた男が素っ頓狂な声を上げ、海岸を指差す。ゾンビとおぼしき無数のシルエットが走り回る中で、只一人だけこちらを向いて砂浜に立ち尽くす人物の姿が美鈴の目にも留まった。顔までは判別できないが、確認するまでもない。智哉以外にはあり得ない光景だ。ただ、安心すると同時に意外にも思った。これでは智哉がゾンビに襲われないことを三上達に知らせてやっているようなものだ。今までひた隠しにしてきた智哉らしくない行動だが、このまま逃げ果すならバレても構わないということだろうか?
それなら堂々と秘密を晒すのも頷ける。もっともそれは自分達が見捨てられたと宣言されるもほぼ同義であった。今度もまた智哉の助けを当てにしなかったと言えば嘘になる。だが、冷静に考えれば彼一人でどうにかなる状況でもないだろう。どれほど頼り甲斐があるように見えても智哉は戦闘訓練など一度も受けたことがない只の民間人には違いないのだから。それを偶然身に付けた特異体質と持ち前の才覚とで今日まで困難を切り抜けてきたに過ぎないのだ。ゾンビに対処するならともかく、武装した六人もの男達と相対するのはさすがに荷が重いと思われた。姿を消すのが賢明な判断だ。そうしたところで誰も智哉を責めることはできまい。
「どうなっているんです、三上さん?」
自らも双眼鏡を握って砂浜を凝視する三上に男はそう訊くが、相手からの返答はない。初めて美鈴がその真実を知った時と同様に三上の胸中には現在、様々な疑問と驚愕が渦巻いているはずだ。三上だけではない。この場に居合わせた者の中で驚いていないのは自分と、恐らくコンビを組んでいる絵梨香くらいなものだろう。直接本人に訊いて確かめたわけではないが、彼女は知っていなければおかしい。あれほど単独行動を好んでいた智哉が同行を許していることが何よりの証明だ。そんな美鈴の視線を感じ取ったのか、ふと絵梨香が僅かにこちらへ顔を向けた。そこにはやはり自分の推理の正しさを裏付ける共犯者めいた頷きがあった。
何とか絵梨香と協力してこの局面を打破できないだろうか……そう考えるが、元自衛官の向こうはともかく、一介の女子高生に過ぎない己の分不相応さを痛感するよりなかった。諦めかけたその時、不意に聞き覚えのある声が船内に流れた。
「見ているんだろ? 聞こえたら応答しろ」
智哉の声だ。間違いない。一瞬、右手の痛みも忘れて胸がざわつく。一体どこから、と辺りを窺うまでもなく、三上がダウンジャケットの内ポケットに手を突っ込んで小型無線機を取り出すのが見えた。
「三上だ。聞こえている……どんな手品を使った?」
圧倒的に有利な立場も忘れて、そう訊かざるを得なかったようだ。この状況なら誰だってそうなるに違いないと美鈴も思った。
それに対してあくまで冷静な智哉の声が響く。
「見ての通りだ。俺はゾンビに襲われない。何故か、なんて訊くなよ。俺にだって理由は皆目見当も付かないんだからな。種も仕掛けもない。気付いた時にはそうなっていた」
あっさりとネタバラシをしつつ、三上の出方を窺う。たっぷりと十秒ほどの間を置いて智哉の言葉を吟味し終えたらしい三上が再び口を開いた。
「……なるほど。漸く君の自信の根拠に得心がいったよ。これまでの君の行動の裏にそんな秘密があったとはね。だが、そう考えれば腑に落ちることばかりだ。目の前で見せつけられてもいるわけだし、疑いようがないな。それにしてもゾンビに襲われない人間がいるとは反則過ぎて盲点だったよ。作者が推理小説の謎を解くようなものだな。感心するのを通り越して呆れる外ない」
「自分でもそう思う。だが隠していたことを詫びる気はないぞ。知られたらどんな目に遭わされていたかわからないからな。特にお前のように目的のためなら手段を選ばないような奴には秘密にしておいて正解だったわけだ」
その言い分は美鈴も何度か聞かされた。他人を犠牲にしてまで生き残る決意をした人間がどれほど残酷になれるか想像できるか、そう言われたのだ。図らずもその意味がやっと呑み込めた。
「随分と信用がないんだな。まあ、この有様では仕方がないか。だったら何故、今になって打ち明ける?」
「取引をしよう。どうせ俺達が本当に物資を持ち帰るなんて期待していなかったんだろう? 幾ら口減らしをしようと、いずれは自分達で水や食糧を集めに行かなきゃならないことはわかっているはずだ。だが、本当にお前達六人だけでそれが実行できるのか? 女しかいないとはいえ、船に残す見張りも必要だろう。当然、手薄になれば俺だって黙って見ちゃいない。調達にしても俺にやれていたことなら自分達にもできると踏んでいたんだろうが、当てが外れたな。まさかこんなチートがあるとは予期していなかっただろう。そうでもなけりゃ出歩くなんてとても無理だ。この俺が言うんだから間違いない」
智哉の話を聞いて三上は黙り込む。どうやら彼の指摘は正鵠を射ていたようだ。代わって別の仲間が口を挟んだ。
「奴の言っていることは本当なのか、三上さん? 俺はあんたが慎重に行動すればゾンビは避けられると言うからこの計画に加担したんだ。あんな出鱈目な理由で外に出れていたなんて聞いてなかったぞ」
「わかっている。動揺するな。それこそ奴の思う壺だ」
「けどな、あいつは嘘を言ってない。現にゾンビは襲って来ないじゃないか」
その言葉に美鈴はハッとする。
(そうか。岩永さんはこの効果を狙っていたのか)
智哉がすぐに砂浜を立ち去らなかった理由、犠牲を払ってでも上陸しなければならなかった真意に美鈴は気付いた。もしこれが船上で打ち明けていれば一笑に附されるだけならまだしも、別のやり口で確認させられる羽目になっていたかも知れない。これほどの衝撃も与えられなかっただろう。智哉としては何としてでも彼らの手が届かないところで、自らの能力を誇示する必要があったのだ。
「奴の話が事実なことは認めよう。確かにこれは私にとっても予想外のことには違いない。物資の調達については再考せざるを得なくなったのも確かだ。しかし、こちらが圧倒的に有利であるという点は変わっていない。幾らゾンビに襲われないからといって六対一で戦って勝てるとはあの男も考えないだろう。我々には人質もいることだしな」
「だが、人質を無視したらどうする? そもそも向こうは攻撃を仕掛ける必要すらない。じっと待っていればいいんだよ。俺達が船上で飢えるか、耐え切れなくなって上陸するしかなくなるのを」
安心しろ、それはない、と三上は即座に否定した。
「奴は人質を見捨てられない。もしそうするつもりなら黙って消えればいい。取引なんて持ち出す必要はないんだ。ゾンビに襲われないならどこにでも自由に行けるし、水や食糧に困ることもないだろう。仮に逆襲するにしても死んだと思われていた方が遥かに優位に立てよう。そうせずに交渉してきたことが人質の存在価値を証明している」
「だとすれば、どんな取引を持ち掛ける気だと思う? まさか言いなりになったりしないよな?」
「それこれから確かめるんだ。もちろん、あの男の思い通りにするつもりはない。切羽詰まっているとはいえ、数日間も我慢できないほど追い詰められているわけじゃないんだ。ここで下手に動揺して弱味を見せるのが一番拙い。冷静さを保て。いいな?」
三上の言葉に彼の仲間達はお互いの顔を見合わせ、やがて了解したという風に頷いた。それを見て三上は再び無線機を取り上げると、返事を待っているであろう相手に呼びかけた。
「……待たせたな。聞こえているか?」
その言葉を待ち構えていたように、すぐに返事が返る。
「聞いている。意見はまとまったのか?」
「ああ。話だけは聞こう。それで取引とは?」
「簡単なことだ。あんたらのできないことを俺が代わってしよう。当初の言い付け通り、必要な物資を調達してくる。この言葉がハッタリじゃないことはもうわかっているよな? あんた達は安全な船の上で待機していればいい──ただし、女達には手を出すな。それが条件だ。もし守られないなら取引をしないどころじゃない。お前ら全員を殺す。その手段がこちらにはある。疑うんなら俺の相棒に訊いてみるがいい。そんな船を沈めるのはわけがないと教えてくれるさ。その時には例え無事な人質がいても関係なくなる。理由は単純だ。一度裏切った相手が次は約束を守るとは思えないからな。言っておくが、俺は自分を犠牲にしてまで他人を救おうなんて崇高な人間じゃないぞ。今も自分が安全圏にいるからこそこうして交渉できている。己の身が危うくなればそっちを優先する。もっとも、あんたらにとっても俺を害せば唯一安全に物資を手に入れる方法を逃すことになる。そんな愚かな真似はしないものと期待はしているがね。理解したか?」
「話はわかった。しかし、そこまで言うなら何故人質の解放を要求しない? 全員は無理でも交渉次第で何人かは取り戻せると思わなかったのか?」
そこで智哉は一旦、沈黙する。だが、じきに回答があった。
「人質の解放を要求しない理由は幾つかあるが……一つにはそちらが応じないだろうと思ったからだ。俺はプロの
「なるほど。よくわかった。ところで、それは昨夜のうちに考えていたのかね? それとも今になっての思い付きか? まあ、どちらでも良いことだが。ただ内容が内容だけに私の一存では決めかねる。他の者とも相談したいので時間を貰いたい。もちろん構わないだろ?」
智哉が了承すると三上は他の仲間達を引き連れ隅の方に移動し、改めて声を潜め相談を始めた。さすがにその内容までは美鈴には聞き取れなかったが。
暫くして結論が出たらしく、再度無線を通して三上が智哉に伝える。
「取引は受け容れよう。人質の無事は保証する。ただし、こちらの要求が確実に実行されると確認できたならだ。とりあえず日没まで時間を与える。それまでに水と食糧を見つけて来い。そうすれば女達には一切何もしないと誓おう。間に合わなければ即中止だ。あくまでも手綱を握っているのはこちらだということを忘れるな」
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