2 佐田千秋
(本当にゾンビは襲って来ないのか? 家の中にいたから見逃しただけということもあり得る。襲われるなら襲われるで構わないが、どうせなら痛い思いはなるべく避けたい)
殺すならあっさりと殺してくれないだろうか? 玄関から一歩踏み出す際には、さすがの千秋もそう考えた。無視されるといっても家の中から試しただけで、実際にゾンビの間近に寄るのは初めてなのだ。幾ら殺人願望を抱えているとはいえ、身体的には只の女子中学生に過ぎない。これで襲われるようなら家の中に引き籠っていても遠からず死を迎えることになるだろう。救助が来ることはとっくに諦めていたし、食糧も残り少なくなり、この状況で一人で何とかなると思うほど能天気にはなれなかった。下手に抗って空腹を長引かせるより、さっさとけりを着けてしまった方が楽に違いない。元来、自分の命にも他人と同様さしたる価値を見出せない千秋である。ここで死ぬならそれも致し方ない程度の感傷しか抱けなかった。だからゾンビの目の前を通り過ぎようと、試しに叩こうが刺そうが一向に反応しない様子を見て、安心すると同時にどこかがっかりしたような気分を味わった。世界がどう変化しようと自分の中の殺人願望は収まるまい。これからも生きている限り誰かを殺し続けるだろう。なればこそ、この大惨事に生き延びた人々のことを思えば自分は死んだ方が良かったに決まっている。もし神様が本当にいるとしたら、それは随分と意地の悪い性格に相違ない。だが、ゾンビに襲われないと確信した今、何はさておき他の生存者を見つけることが先決だ。どう対応するかはその後に決めれば良い。生きているのが自分だけでなければの話だが。
まずは通っていた中学校が地域の緊急避難場所に指定されていたのを思い出し、そちらに向かって歩き始める。行ってはみたものの、そこは既に放棄された後のようで誰も残ってはいなかった。校舎の床や階段には所々に血溜りが乾いた跡と思われる黒い染みがこびり付いていたので、ゾンビに襲われて全滅したのかも知れない。近くの小学校や高校にも足を運んでみるが、同様に見かけるのはゾンビばかりで生きた人間の姿は皆無だった。脚の怪我と久しぶりの外出で疲れたこともあって、その日は避難所の名残りがあった高校の体育館で一夜を明かした。
翌日は昼過ぎまで眠って目を醒ますと、校内で見つけた自転車に跨り、市内の中心部を目指した。他にこれといって行く当てがなかったからだ。中心街に近付くに連れ通りには乗り捨てられた車が散見し、そこかしこを通行止めにしている様子が目に付いた。折良く自転車には関係なかったので、通り抜けられる場所を探して尚も先に進むと、次第に背の高いビル群が背景に目立ち始める。その中でもひと際高くそびえ立つ商業ビルが気になった。一階の正面玄関口は特にバリケードなどで塞がれてはいなかったが、最上階のガラス窓には「SOS」との大きな文字が張り出されており、その奥で人影らしきものが動いて見えたからだ。さらに注視していると、窓を開けて何かを外に捨てたのがわかった。住人に気付かれないよう慎重に近寄って調べてみたところ、どうやら汚物を捨てているらしく、周囲には似たようなゴミが幾つも散乱していた。ということは恐らく食糧は確保されているのだろう。道中の店舗を漁って食べる物には不自由していなかった千秋だが、折角見つけた生存者ということで接触を試みることにした。この時点で千秋の頭の中に、危険な相手かも知れないという認識はない。どんな存在であれ、最終的には殺すか殺されるかの対象でしかなかったためだ。早速、開け放しの玄関口からビル内に入り、エントランスを通り抜け、奥の階段を上がり始める。途中、半分ほど上り切った辺りで事務机やロッカーを積み上げた簡素なバリケードに行く手を阻まれるが、ここまではゾンビも来ないと高を括っているのか、乗り越えようと思えばできなくもない粗雑な作りだった。よく見ると隅の方に目立たなくではあるが、小さな通り口が設けられていた。さすがに戸口は番線でがっちりと締め付けられていたが、バールのような道具を使えば千秋でも外せ、さほど苦心することなく潜り抜けられた。そうして辿り着いた最上階では、思った通り何人かの生存者が居た。この階はどうやら展望台を兼ねたバーラウンジになっているようだ。重厚な造りのドアを迷いなく押して突如現れた千秋に、その場に居合わせた全員が面喰ったように凍り付く。一瞬の静寂ののち、手近にいた年配の女性がゾンビではないことを確認し、探るように声をかけてきた。千秋は適当な話をでっち上げ、ここに来た理由を告げる。今までは近くに隠れていたこと、食糧が尽きたので危険を冒して外に出たこと、偶然窓から姿が見えたこと、助けを求めてやって来たこと。一応の筋は通っていたので、あからさまに不審がる者はいなかった。太腿の怪我はスパッツを履くことで隠した。皆が落ち着きを取り戻したところで改めて話を聞くと、この場には現在五家族十三人が避難していると知れる。お互いに面識があったわけではなく、たまたま逃げ込んだ先が同じだったというだけらしい。何故、このビルにだけ生存者が居るのかという謎もすぐに解けた。偶然にも下層のオフィス階がオープン前で人の出入りが少なかったことと、屋上に災害用備蓄倉庫があって当座の食糧が手に入れられたからだという。相当運が良かったと言えるだろう。それらの事情を掻い摘んで聞いた千秋は、自分も仲間に加わらせて欲しいと頼んだ。か弱さを前面に押し出したとはいえ、食糧の分配に揉めることもなく、すんなりと受け容れられたのは意外だった。よくよく考えてみればずっとここに閉じ籠っていたなら危機意識が薄いのは無理からぬことかも知れない。もっとも身寄りのない少女を一人で放り出せるような大人もそうそういないだろうが。
彼らは共同で避難しているといっても完全に生活を共にしているわけではなかった。各家庭毎に少しずつ距離を置いた占有スペースをラウンジ内に設け、基本的には他の者が立ち入らずにすることで一定のプライバシーを保っていた。夜行フェリーの大部屋みたいな感じだ。食糧の分配などでは合議制を取っていたが、それ以外はお互いの生活に極力干渉しない方針らしい。ただし、一人で来た千秋の場合、それでは心細かろうと最初に声をかけてきた女性の一家が面倒を見てくれることになった。千秋にとっては有難迷惑な話であったが、ここでそれを言うと折角被った脆弱な少女の仮面を脱ぎ捨てることになるので、我慢した。その一家は千秋のところとさして年齢の変わらない両親と高校二年生の長男と小学六年生の長女という四人家族だ。この時にはまさか自分の登場が約三週間の避難生活で培われた人間関係に少なからず波紋を生じさせていようとは露ほども考えなかった千秋だったが、元より限られた空間で不自由な生活を強いられていれば些細なきっかけでいつ暴発してもおかしくなかったのかも知れない。それは千秋が身を寄せるのとは別の一家の、同い年に当たる一人の娘によってもたらされた。
初めから千秋に対して露骨な敵愾心を剥き出しにした少女だった。事ある毎に意地悪く当たられ、当面は猫を被っていようと決めた千秋を閉口させた。そもそも何故、自分に辛く当たるのか、その理由に皆目見当が付かないのだ。恋愛感情とは無縁で他人の色恋沙汰にも疎かった千秋は、その娘が自分の世話になっている一家の長男に恋心を抱いていることも、その長男が自身に一目惚れしたことも当初はまったく気付いていなかった。その上、千秋が来るまではコミュニティで唯一の年頃の娘ということで下にも置かない扱いを受けていたのが、明らかに自分より人目を惹く存在の登場によりその座が脅かされかねないと焦っていたなど想像もできなかった。やがて慎ましやかに受け流すのも面倒になってきた千秋は、いっそのこと殺してしまおうかと思案し始める。幸いこの状況ならどんな不幸な事故が起きても不思議ではあるまい。ただ、それを決行する前にちょっとしたアクシデントが起きた。
それは家族間の取り決めを破って千秋が防災倉庫の食糧に無断で手を着けたことが発端だ。それほどまでに千秋が飢えていたかというと、そうではない。端からルールを守る気がなかっただけである。それに元々ここにある物資は避難者達のものではないのだから、盗んだというなら彼らも同じというのが千秋の言い分だ。見つかれば空腹に耐え切れなかったとでも言い逃れするつもりだった。ところが発見したのが件の少女だったことで事態は思わぬ展開に向かう。
「ごめんなさい。どうしても我慢できなかったのよ」
咎められてとりあえず千秋はそう弁解する。だが、相手の娘はその言い訳をまったく信用しなかった。他の人間なら上手く丸め込める自信のあった千秋だが、この少女相手では見込みが薄い。何故なら自分の本性に最も近付いているのは彼女に違いないからだ。あるいは意地悪く接してくるのも恋愛絡みというだけではなく、どことなく千秋に不気味さを感じてのことだったのかも知れない。無意識にそう感じ取った千秋は、やはり捨ててはおけないと思った。
他の人を呼んで来るという彼女を懸命に引き留めながら、千秋はある賭けに出ることにした。責められたことにショックを受けたふりをして、屋上の淵へと走り寄る。今にも飛び降りそうな気配を漂わせてである。無論、演技だ。あくまで彼女をそこまで誘き寄せるために他ならない。訝しがりながらも娘は戸惑う様子を見せた。絶対に嘘に決まっているという思いと、でももしも本当だったら取り返しが付かないことになるという葛藤が垣間見えた。もう一押しと思い、千秋はわざと足を滑らせバランスを崩して見せた。これが結果的に娘をまんまと千秋の策に乗せてしまう。
「危ない!」
咄嗟に駆け寄って伸ばしたその手を千秋は掴むと、自分の許へと引き寄せた。そして巧妙に体を入れ替えると、その背を突き飛ばす。少女の足許には目も眩むような絶壁が口を開けており、その底にはミニチュアサイズの車や街路樹が見える。動いている人影はゾンビで間違いあるまい。娘は懸命に重力に逆らおうとした。あとほんの数センチ押し出されていたら落下していたに違いないところを辛うじて踏み留まる。腰が抜けたようにその場でへたり込みかけるが、そんなことをすれば次こそ突き落とされるという恐怖心が強引に身体を突き動かし転がるようにしてそこから逃れた。時間にして高々数秒ほどの出来事だったはずだが、娘には陸上トラックを全力で走り切ったような疲労感があった。それでも何とか立ち上がると、千秋を睨み付ける。当然、一切近寄ろうとはしない。千秋はその一部始終を興味深げに眺めていた。殺し損ねたのは残念だが、死を目前にした彼女の表情はなかなかの見物だった。一方で自分を殺そうとしたり、それに失敗したり、激しい怒りを向けられても尚、ごく自然に振る舞う千秋の姿を見て、娘は自分の直感の正しさを理解した。やはり、この相手に漠然と感じていた得体の知れなさは間違いではなかったのだ。恐らく今し方の出来事は発作的でも衝動的でもなく、向こうにとっては日常的な行いなのだろう。明確な根拠はなくとも本能がそう告げている。もはや自分一人で対峙するにはあまりに危険な相手である、そう悟ったらしくヒステリックに助けを呼び始めた娘を尻目に、千秋はこの場を取り繕う方法はないか考えた。だが、はっきりした殺意を見せてしまった以上、難しいと思わざるを得ない。一先ずは怯えたふりでもして事態の推移を見守るしかなさそうである。まあ、千秋がしたようにいきなり殺そうとはしないだろう。そんなことを考えているうちに、何事かと住民が屋上に集まる。全員が揃ったところで娘から凡その事情を聞いた彼女の父親が中心となって千秋への糾弾が始まった。娘が危うく殺されかけたと知った父親の怒りは凄まじく、千秋は言うに及ばず彼女を弁護しようとした引き受け先の一家にもその矛先は向けられた。子供だからと安易に信用したのが間違いだったとする殺されかけた娘の一家と、食糧を盗んだのは事実だとしてもそれが見つかったくらいで殺そうとしたとは俄かには信じ難い、思わずよろけて押してしまっただけではないかと、これは主に長男を中心とした千秋を庇う一家の主張は平行線を辿り、残りの家族はどちらに付くか迷っている様子だった。千秋自身は最初に、突き飛ばすことなど考えもしなかった、もしそう誤解させてしまったのなら自分が悪い、と反省するふりをした以降は、黙って二家族がやり合うのに任せていた。しかし、次第に退屈してくると、思わず欠伸が出てしまう。その態度が良くなかったらしい。千秋を糾弾していた家族にはますます火に油を注ぐ結果となり、千秋を庇い立てしていた家族からは呆れられてトーンダウンさせることとなる。他の住人達も徐々に千秋に違和感を覚えてきたようだ。
その頃になると千秋はもはや自分がどうなるかという興味より、一刻も早くこの退屈な場から解放されたいという気持ちが強くなる。誰かこのうるさい連中を黙らせてくれないか、心の中でそう念じ、時折遠くの方へ視線を走らせた。その不遜な態度に業を煮やした殺されかけた娘の父親の提案で遂には千秋を追放するかの決を採ることになり、全員が屋上の中心に集まったその時だ。誰もいるはずのない階下から物音がしたかと思うと、その数秒後には屋上に通じるドアが勢い良く開かれ、ゾンビが雪崩を打って飛び込んで来た。確かに階段の封鎖は甘かったが、本来であれば誰かが下まで行ってわざわざゾンビを誘導でもしてこない限り、ここまで上がってくるはずのないもので、誰しもが油断していた。あっという間に千秋を除く全員が蹂躙されていく。周囲で次々と住人が犠牲になっていく中、千秋自身にも何が起きたのかわからなかった。唖然としつつもこれで解放されると思えば鼻歌でも唄い出したい気分で惨劇を眺める。ゾンビは誰においても等しく無慈悲で無遠慮で残酷だった。大人も子供も年寄りも男も女も分け隔てなく押し倒し、馬乗りになって容赦なく噛み千切っていく。その中には自分が殺そうとして果たせなかった娘も、その娘が想いを寄せていた長男も、まだ小学生だった彼の妹も含まれていた。やっとのことで千秋が事態を呑み込めてきたのは騒ぎも粗方収まった頃で、どうやら自分にはゾンビを操る力があるらしいことに気付く。その証拠に、邪魔だからどこかに行け、と念じると、新たにゾンビの群れに加わった住人達を含め、そこにいた死者達は何の躊躇いもなく次々と屋上から身を投じてみせた。即ち突然ゾンビが現れたのは、住人達を黙らせて欲しいと願った千秋の意を酌んだものと思われる。その後も色々と試してみたところ、ゾンビに命令を下せる距離には限界があり、調子が良い時には自分を中心に半径数百メートルほどであること、近ければ近いほど強制力が高まり指示に背きにくくなること、操れると言っても人間のように複雑な命令は無理で、来い、だの、去れ、だの、その程度をこなすのが精一杯であることなどがわかる。また支配できる数にも限りがあるようで、こちらは限界まで計ったわけではないが、概ね五十体を超えた辺りから命令を無視する奴がちらほらと現れ出す。指示に対する強度も数が増えるほど弱まるようだ。他にも検証すれば何か発見できたかも知れないが、当面はこれだけ知っておけば充分だろう。住人達は結果的に千秋が殺したには違いないが、この成り行きには些か釈然としなかったのも確かである。簡単過ぎて面白みに欠けたからだ。やはり自分が直接手を下した時の興奮とは比べものにならない。それでもこの力を使えばこの先どれほどの人間が殺せるか、想像も付かなかった。あとはなるべく多くの生存者と出遭えることを願うのみだ。そう考えて胸を躍らせる千秋の脳裏からは、もう意地悪だった娘のことも親切だった一家のこともすっかり消え失せていた──。
表の様子が随分と騒がしくなっている。ゾンビが死体でも見つけ漁っているのだろうか? 千秋は鏡台で髪を透く手を休めて、一瞬追い払おうかと考えたが、念じるのを止めればどうせすぐまた集まって来るので放って置くことにした。再び鏡台に向かい、いつも通り髪を解き終えると、それでもう自分の容貌には関心が無くなったように立ち上がる。寝室を出てリビングに向かった。
リビングでは既に千秋と行動を共にする仲間達が概ね揃いソファーでくつろいでいた。いずれも千秋と同類の者達である。中でも中心となっているのが先程起こしに来た朝田で、千秋をしてどうしてこんな平凡そうな若者がと思うのだが、それを言えば自分も似たような印象を周囲に与えていることを思い出し、考えるのは止めにした。人は見かけでは判断できないという例だろう。無論、見たままという者もいる。朝田の隣に腰掛けている村山がそうで、いかにも凶暴そうな顔つきに違わず、千秋も何度か彼がケーキでも切り分けるみたいに他人の喉を掻き切る姿を目撃していた。その村山と容姿の上では対極と言えるのが、テーブルを挟んで向かい側に腰を下ろした杉岡だ。グループ内では千秋に次いで若く、大人しそうな外見からは想像も付かないが、相対すれば村山にも引けを取らない残忍な性格と知ることになる。知った時にはもう手遅れの場合が殆どなのだが。
この三人とは千秋が一時的に身を寄せていた商業ビルを出たのち、街を探索していた時に知り合った。偶然、ゾンビだらけのイベント会場に出喰わし、何気なく足を踏み入れてみたところ、片隅の倉庫に潜んでいた彼らを発見したのだ。知り合う、といっても当初は千秋を只の少女だと思っていた朝田らは、襲う気満々だったらしい。ドア越しに洩れ聞こえる会話に気付いた千秋が外から声をかけると、付近にゾンビがいなくなったと勘違いした彼らが扉を開け、問答無用で中に引きずり込もうとしたのである。何をする気だったのかは明白だろう。ところが掴み掛かろうとした寸前で自分達がゾンビに取り囲まれていることを知って愕然とする。死を覚悟して観念した様子の彼らだったが、一向に襲って来る気配のないゾンビを見て、それが犯罪者特有の嗅覚なのか、はたまた若者ならではの発想の柔軟さ故か、懸命にもそうさせているのが千秋であることを察し、問われるままに自分達がここで行った殺戮を正直に打ち明けた。ある種のシンパシーを感じ取ったのかも知れない。とりわけ朝田は三人の中で一番の切れ者らしく、千秋の持つ力の有用性を即座に本人以上に理解したようだった。その上でこんなことを言った。
「確かに君の力は素晴らしいよ。その能力があれば今の世界では怖いもの無しだ。けど、これは勝手な想像なんだが、眠っている時でもゾンビは操れるのか? 意識がなけりゃ、さすがに無理なんじゃないか? だったら寝ている時は無防備なんだろ? 仲間がいれば少なくとも見張りくらいの役には立つ。だから俺達を一緒に行動させて欲しい。もちろん、君の命令には従う。俺達の告白を聞いても平然としているのを見れば、君も似たような人種なのはわかるよ。どうせまともに生きる気はないんだろ? 君のやることに理解が示せる人間はこの先そう多くはないと思う。俺達ならそれが可能だ」
朝田の言葉を真に受けたわけではなかったが、何もかも自分でしなければならない現状に不便さを感じていたのは確かなので、好きにすれば、と容認することにした。役に立たなければゾンビに殺させれば済むだけだ。他の二人にも異存はないようだった。実際に行動を共にしてみると、朝田の言葉の正しさが証明された。自分一人なら見つけられなかったであろう他の生存者の発見や、襲撃後の後始末も彼らが上手くやってくれる。千秋はただ人殺しを愉しめば良かった。そののち今はこの客間に姿の見えない瀬戸という
「おはよ、千秋」
とサチエが不躾に腕を絡めてくる。数週間前まで別のグループの男共の慰みものになっていたとは思えないような屈託のなさだ。
「おはよう、サチエ」
無視すると、しつこく何度も調子が悪いのかと訊ねてくるので、面倒でも一応千秋はそう返してやる。組んだ腕もそのままだ。足許に纏わり付く飼い犬だと思えばそれほど腹も立たない。その反応を見てサチエは安堵する。この女にとって周りの男達は獣も同然で、千秋との親密さだけが唯一の心の拠り処なのに違いない。いずれそれを失くした時にどんな表情をするのか見たいがために、今を優しくしてやっているようなものだ。
サチエ以外は千秋を見ても特に口を開く者はいない。千秋を含め挨拶というものの必要性を感じている人間がいないが故だ。村山と杉岡に至ってはそうした習慣があることすら忘れてかけていたくらいで、これまで数えるほどしかしたことがないという。そんな彼らの前を無言で通り過ぎ、千秋は台所に足を踏み入れると、今や単なる整理棚に過ぎなくなった冷蔵庫を開けて中から飲みさしのペットボトルを取り出し、キャップを開け、残りの水をひと息に飲み干した。冷蔵庫は千秋専用になっているので誰に断るでもなくもう一本、新品のペットボトルを手に取って、もうふた口ほど流し込む。それからそのボトルを持ったまま洗面室に向かおうとして、ふと思い付いたように訊ねた。
「そういえば誰か死体を外に捨てた?」
瀬戸さんじゃないか、と朝田が代表して答えた。さっき女を処分すると言っていたからそれだと思う、何か気になることでもあるのか?
別にゾンビが騒いでいたから訊いただけだと千秋は告げる。女と言われてもどんな顔だったのか憶えていない。基本的に朝田達が攫ってくる女達と千秋が接する機会は殆どないのである。犯すのは千秋の目に付かない場所でだし、連れて歩く時には後ろを行くからわざわざ振り返って注意を向けることもない。それでも時折目が合えば、助けて欲しいという哀願の眼差しを向けられたりもするが、当然ながら千秋がそれを意に介することはない。なので瀬戸が女を処分したと聞いてもまだ残っていたのか程度にしか思わなかった。
その話題に上がった瀬戸とは洗面室に向かう途中の廊下ですれ違った。普段の瀬戸は朝田達三人とは違い千秋に対しても軽薄な物腰で気さくに話しかけてくる。無論、千秋の機嫌を損なわない範囲でだが。とはいえ、きれいなんだから化粧くらいすれば良いのにとか、セーラー服ばかりじゃなくたまには違ったファッションをしたらどうだとか、千秋にとってはどうでも良い内容ばかりなので無視することが圧倒的に多い。ただ、サチエとは異なり返事を期待しているわけではないらしく、シカトしても一向に構わない様子なので楽だ。そんな瀬戸だが、今日は珍しく話しかけて来なかった。朝田に何か言われたのかも知れないが、千秋が気にすることではないだろう。そのまま洗面室に入る。自分用の歯ブラシでブラッシングして、磨き終えるとペットボトルのミネラルウォーターで口を漱ぎ、一瞬迷った末に使用した歯ブラシをゴミ箱に捨てた。どうせすぐにここを離れることになる。移動の道すがら目に付いた店舗を漁ることになるだろうから、その時に新しい物を手に入れれば良いと思ってのことだ。行き先については朝田が既に目星を付けていた。日頃、持ち歩いている複数の無線機の一つが数日前に何者かの交信をキャッチしたというのだ。通話を秘密にする機能というのがあるらしくて内容までは把握できなかったそうだが、電波さえ飛び交っていれば発信源を探る方法はあるという。無線機を使うくらいなのだから、それなりにまとまったグループなのだろう、というのが朝田の見解だった。食糧や物資、村山達とすれば女が手に入る絶好の機会となる可能性が高い。そこを襲うのが当面の目標だ。ただし、交信中しか位置は特定できないので、通話が行われる度に方向を見定めながらここまでやって来た。そして今は再び相手が連絡を取り合うのを待っている状態だ。朝田によると電波は徐々に強くなっていることから、発信源の一方に近付いていることは間違いないそうである。
「ねえ、千秋は食べないの?」
リビングに戻ると、続きになった隣の部屋のダイニングテーブルから椅子に腰掛けたサチエがそう訊ねてきた。手にスプーンを持ちシリアルのようなものを口に運んでいる。私はいらない、と千秋は言った。起き抜けに食欲が湧かないのはいつものことだ。
「そんなに痩せているんだから、無理してでも少しは食べた方が良いよ」
サチエが心配そうに尚も言うが、その言葉を無視して千秋は窓際に立った。そこから窓の下を見下ろす。数羽の鴉が遠巻きに見守る中、十体ほどのゾンビが隅の一角に群がり、何かを貪っていた。さらに周辺からその輪に加わろうと他のゾンビが近寄って来るのが見えた。千秋はゾンビの集まりに意識を集中して、散れ、と心の中で命じた。すると、ゾンビは一斉に顔を上げ、立ち上がって、その場を離れ始める。開いた隙間から喰い散らかされた人間の残骸が覗く。十秒ほど念じたところで千秋は命じるのを止めた。一瞬、操り人形の糸が切れたかのようにゾンビはふらつくが、すぐに何かを思い出したみたいに踵を返すと、再び死体に取り付く。どうやらゾンビを操る力に変化はないようだ。それを確認したところで、振り返って室内を見渡すが、改めて気になるものは何もない。全員が暇を持て余しているだけだ。千秋自身、手持無沙汰になって、これがまだ続くようならいっそのこと発信源を追うのは止めて、以前のように当てもなく彷徨う方がマシだと癇癪を起そうかと思わなくもない。千秋がそうすると言えば反対する者は誰もいないだろう。迷っているのはやはり朝田が言うように、標的がそれなりの規模であることに期待するからだ。
(次はどんな死に様が見られるのか)
朝田からは有用そうな者は一応、すぐには殺さず生かしておいて欲しいと頼まれているが、誰が有用なのかなんてわかるわけがない。若い女は避ける程度の配慮をするくらいだ。その分、自分の愉しみは減るが、朝田達にも報奨は必要だろう。
「やっぱり、何か食べておいた方がいいんじゃなぁい?」
当人には自然なのだろうが、周りには媚を売るようにしか聞こえない声色でサチエが再びそう口にした。
(うるさいな。もう放り出そうか)
瞬間的に苛立ちを覚えたものの、確かに先程よりは食欲があることを自覚して思い直す。
「……うん、そうする」
千秋は頷き、ダイニングに歩み寄る。自分の忠告を千秋が受け容れたのが余程嬉しかったのか、サチエは小躍りしながら、何を食べるか、と訊いてきた。同じものでいい、と千秋は素っ気なく告げた。
嬉々として彼女が用意したシリアルを食べながら、ふと視線を感じてそれとなく顔を上げると、思いがけず真剣な表情で自分を見つめるサチエの様子が目に入った。すぐに胡麻化したが、それを見て千秋はある考えが頭をよぎる。
(もしかしたらこの女は一見すると頭が悪いように見えて、実は全て生き残るための計算尽くでしているのではないか)
気付かないふりをしているだけで、本当は千秋が気紛れで助けたことも、いずれは突き放す気でいることも見抜いた上で、馬鹿を演じているのかも知れない。そうだとすれば、千秋も朝田達も見事に欺かれていることになる。
果たして真相はどうなのか? 千秋がさらに注意深くサチエを観察しようとした矢先、朝田がテーブル上に置かれた無線機の一つを手に取った。そして、交信が始まったぞ、俺達もすぐに出よう、と囁いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます