第四部 復活篇
1 フリークス※
長い──途轍もなく長い悪夢を見ていたようだった。
本当なら今時分は大学入試本番を迎えていたはずの朝田にとって、それは世界が崩壊してからの僅かな日数のことではなく、それより遥かに長く退屈だった日々──即ち十八年に及ぶ自分の人生の大半を占める記憶に他ならない。今となっては思い出すのも厭わしい過去こそが、朝田にとって真に忌むべき対象だったとわかったからだ。
もっともこうなってみればそんな厭わしさはもうどうでも良くなった。漸く己が欲していた世界と巡り合えたのである。死と狂気が支配する日常。それこそが自分が理想としていた現実だったと今ならはっきり言える。
といっても朝田が最初から狂気じみた考えに囚われていたわけではない。彼とて初めて動く死人──ゾンビを見た時には全身が震えもしたし恐れ慄いて元の生活に還りたいと切に願いもしたのだ。それもそのはずである。それまでの朝田は自分を異常な人間だと思ったことは一度もない。誰もがするような軽微なものは別にして重大な犯罪に手を染めたこともなければ社会生活に不適合と看做されたこともなく、それを無理に凡人の仮面で押し殺してきたという自覚もなかった。通うのが楽だというだけの理由で近場の高校を選び、特定の彼女を持ったことはなかったが、学校の友人達とはそれなりに接してきて、あまり高望みすることなく大学へも進学しようと思っていた。言ってみれば少々積極性には欠けるものの、全般的に見ればどこにでもいるようなごく普通の高校生、というのが自分への正当な評価のはずだった。少なくともほんの少し前までは。
それがどこかで変わった、いや本来の自分に目醒めたと言うべきか。この数ヶ月間、自身がしてきたことを行方不明の両親が知れば、仮に世界が平常に戻ろうとも、そこに息子の居場所はないと断言するに違いない。それほどまでに残酷極まりない行為の数々を行ってきた。ただし、それ自体は常軌を逸していても本質まで指し示しているわけではない。何故なら他の生存者の中にも酷い行いをした者は大勢いるはずだからだ。あるいは彼らなら救命ボートの倫理に照らし合わせて生き残るためには致し方なかったという言い訳が通用するかも知れない。だが、朝田にはそれらの人々とは決定的に異なる点があった。そうした行為にまったく罪悪感を伴わなかったのである。それどころか積極的に愉しんですらいた。酷薄で残忍、それが自分の本性であることに気付いてしまった。嘗ての自分はそうとは知らずに過ごしていた底無しの暗愚に過ぎない。あのままずっと退屈で平穏な世界が続いていて一生盲目のままだったらと考えると、今となってはゾッとする。本当の自分が見つけられたことは僥倖だ。それこそが朝田が過去を憎み、二度と戻りたくないとする理由である。そしてそれは偶然なのか必然なのかは定かでないが、ここに集まった他の者に対しても似たようなことが言えた。
「おい、朝田、何とかしてくれよ。また瀬戸さんが女を殺しちまった。最後の一人だったっていうのによ」
今もまた、真っ当な人間なら決して口にするはずのない文句を呟きながら若い男が一人、リビングに入って来た。年齢は朝田とさほど変わりなく見えるが、本人に直接訊ねたわけではないのでもしかしたら一、二歳年上かも知れない。身長一七〇センチの朝田より十センチばかり低い小柄な身体付き。だが、その体格で甘く見ているとすぐに手痛い目に遭うだろう。小型の肉食獣を思わせる獰猛な顔つきに相応しく、他人を害することにかけては他の誰にも引けを取らない性格だ。実際、ここに至るまでに直接手をかけた人数でいえばこの村山がグループ随一である。その中には体格で自分より遥かに勝る相手や格闘技経験者も含まれているのだから、如何に危険な人物かわかろうというものだ。碌にスポーツもやってこなかった自分など一対一で向き合えば造作もなく殺せるであろうに、何故この男が唯々諾々と自分に従うのか朝田にはさっぱり理解できなかった。ただ、当人に言わせると、それほどおかしなことではないらしい。お前に付いて行く方が面白そう、というのが主たる理由だそうだ。特に面白いことをしているつもりはなかったが、朝田の方もそれ以上追及するのは面倒になり、そういうものかと納得することにした。
その村山が室内に入ってくるなりソファーで寛ぐ朝田に向かって報告したのが、先にも述べたあまり穏当とは言えない科白だったが、聞いた方は驚くでもたしなめるでもなく、やや呆れた口調でこう応じただけだった。
「いつものやり口でか?」
それに対して村山も慣れた調子で答える。
「ああ。感染させて一晩中やりまくってたってよ」
すると、リビングと続きになっている隣のダイニングでテーブルに腰掛け、何やら瓶詰らしきものの蓋を開けていた別の人物が口を挟んだ。
「あーあ、女も悲惨だね。生きてる間はお前に弄ばれて、死んでからも瀬戸さんにやられるなんてさ」
「あっ、てめえ。何喰ってやがる」
村山のその言葉には取り合わずテーブルの少年、杉岡は瓶の中身を口に運びながらからかうように会話を続けた。
「でも仕方がないよね。瀬戸さんは病気なんだからさ」
「ネクラ何とかってやつか? 大体、人のことが言えんのかよ。お前だって散々やってたじゃねえか。女がいなくなって困るのは同じだろうが」
「僕は気が向いた時だけだよ。毎晩猿みたいに腰を振ってるお前と一緒にするな。それにネクラじゃねえ。ネクロだ、馬鹿。ねえ、朝田さん」
そう話を振った杉岡は朝田より二歳年下の、登校していればまだ高校一年とのことだった。身長は朝田よりも高く村山と比べれば頭一つ抜きん出ている。一見すると大人しそうな印象を受けるが、性格は村山に負けず劣らずの残忍さで、老若男女問わず誰でも分け隔てなく殺すことができた。この杉岡も朝田には妙に懐いており、村山には尊大な態度で接するくせに朝田に対しては敬語で話しかけ指示には素直に従う。一体、自分に彼らを惹き付ける何があるのだろうと考えながら、朝田は言った。
「正確にはネクロフィリアだよ。屍体愛好家とも言う。もっともゾンビを相手にするのがそう呼べるのかどうかまでは知らないけどね」
ひょっとしたらこの二人が自分に一目を置くのは、出遭いの異質さにあるのかも知れないと朝田は思い返していた。それは二千人ほどが屋内避難していた、とある巨大な見本市会場でのことだった。併設される会議棟では重要な国際会議や専門部会なども度々開催されていることから見た目の派手さに反して万全のセキュリティー対策が施されており、比較的早期にゾンビの侵入を防ぐことに成功した施設である。三人はたまたまそこに居合わせた。ただし、隔離には成功したものの、物資に余裕があったわけではなく、有志による運営組織の管理の下、直ちに厳格な配給体制が敷かれることになった。当然の如く、避難者達の不満とストレスは日に日に鬱積していくことになる。だが、誰にもどうにもできなかった。ゾンビに襲われずにいるだけでも奇跡的なことだったからだ。そんな折、朝田が人目を忍んで休むのに利用していた空き部屋で、そうとは気付かずにやって来た村山と杉岡が食糧の強奪を企てている会話を耳にした。あとになってわかったことだが、二人は元からの知り合いではなく、見た目の印象がまったく違うにも関わらず似たような残忍な性格をお互いが即座に見抜いてどちらが誘うともなく行動を共にし始めたのだそうだ。話の内容から朝田はどちらか一方が囮となって保管倉庫の見張りを引き付けている間に、残るもう一方が盗みに入る気であることを知った。しかし、それはとんでもなく杜撰で幼稚な計画だった。成功する見込みはまず以てない。気付いた時には、それじゃあ、無理だ、と声をかけていた。今にして思うと二人の凶暴さは会話を通じて理解できていたはずなのに、何故そんな大胆な真似ができたのか自分でもよくわからない。ただ、なるべく殺さずにおくとか、見つかったら殺らなきゃ仕方がないとか、できるだけ静かにする必要があるとか、犬や猫なら簡単なんだけどとか、動物なんて殺して喜んでるんじゃねえよとか、いつか人間で試そうと思っていたとか、人は後始末が大変だとか、未成年でいるうちに殺りたかったとか、だったら見た目で弱い奴を狙うのは止めとけとか、そういう二人の会話を聞いているうちに何故か無性に胸が高鳴った。思えばこの時から朝田の裡に何かが芽生えたのかも知れない。積み上げられた段ボールの陰から姿を現した朝田を二人は暫く殺気を漂わせた視線で睨んでいたが、やがて逃げる気配がないことを察した村山が気を取り直して、何故そう思うのか、と訊いた。
「食糧が保管してある倉庫周辺の見回りはフォーマンセル、つまり四人一組の交代制で行われている。指揮をしているのは警備会社に勤めている人だと聞いたよ。それならまず間違いなく囮を追って全員が持ち場を離れるような初歩的なミスはしない。最低でも二人はその場に留まるように指示するはずだよ。それに人気のない夜間はドアが施錠されていて、鍵は警備の人間にも持たされていないらしい。彼らも完全には信用されていないんだろうね」
朝田は自分が知り得た情報を包み隠さず話した。それを聞いてさすがに二人も自分達の無謀さを悟ったようだ。今の殺気立った避難所内の雰囲気では、捕まれば少年といえども只では済むまい。容赦ない仕打ちが待ち受けていると考えて間違いないだろう。殺されないまでも追放くらいはあり得る話だ。当然、そうなれば生き残れる確率は限りなくゼロに近付く。
「ほらね、だから言ったじゃないか。馬鹿が幾ら考えたって無駄だって。どうするのさ? 僕、ピッキングなんてやったことがないよ。そっちだってどうせ
「うるせー。だったら諦めろって言うのかよ。言っておくがこんなところで他の呑気な奴らに合わせてたらそのうち絶対に死ぬぞ。何しろ、未だに温かい飯が出ないって文句を言ってるような連中なんだからな。いいか、こういうことはな、先にやったもん勝ちなんだよ」
村山の話によると、既に避難所内には自分達以外にも不穏な動きをしている者が少なからずいるそうだ。蛇の道は蛇ということで、そうした噂は自然に耳に入ってくるものらしい。お前はどう思うか、と訊かれて、朝田は三秒ほど黙考した挙句、早い者勝ちという意見には賛成だ、と答えた。ここに二千人もの人間を養うだけの備えはない。外部からの支援も当てにならないとなれば近いうちに食糧や物資の争奪戦が起こるのは目に見えている。問題はそれがいつ起こるかでも誰が起こすかでもなかった。最終的に何人が生き残るか、見方を変えればどれほどの人間を間引けるかに尽きよう。仮に二千人が半分、あるいは三分の一に減ったところで、避難が長期化すれば再び争いは起き、また何人かが淘汰されることになる。だったら初めから減らせるだけ減らしておいた方が食糧も物資も無駄にならずに済むというものだ。究極的には自分一人だけ残るというのが理想だが、それではやれることが限られてくるため仲間は何人かいた方が良い。それもこの考え方に基づくならばできるだけモラリティーが低く進んで殺人や暴力を引き受けてくれる者でなければならない。まさに目の前の二人がうってつけだった。彼らと出遭ったことは天の啓示なのかも知れない。それがこの三秒間に朝田が考えた全てだった。そして恐るべき発想を口にする。
「だったらみんなにいなくなって貰う外ないね」
家族以外は生かしておいても邪魔じゃないか、朝田が事もなげにそう言ってのけると、一瞬驚いた表情でこちらを見返した村山だが、すぐに思い直したように、家族なんていねえよ、と憮然とした口調で告げた。どうやら村山には物心ついた時から肉親と呼べる人間はいなかったらしい。中学を出るまでは養護施設で過ごし、そこから先は様々な悪事を働きながら裏社会を渡り歩いて来たのだそうだ。杉岡は、僕には両親と弟がいるけど、ここに来る途中ではぐれた、と明かした。
「別に居たって関係なかったけどね。実は離れ離れになったのもわざとそうなるように仕向けたんだよ。あいつらと一緒に過ごすなんて我慢ならなかったからさ」
でも、殺すとわかってたらそうしなかったのになぁ、としきりに残念がっていたので、理由は不明だが、殺したいほど家族を憎んでいたのだろう。一人っ子の朝田も両親とは散り散りになって避難してきたことを話し、全員を殺すのに誰も支障がないことを確認した。朝田は仮にここに両親が居たらどうしていただろうと考えた。正直に打ち明けたところで真っ当に生きる彼らが賛同するとは思えない。これが自分の本性だと話しても信じては貰えないだろう。狂ったと思われるのが落ちだ。村山達と話した時点で引き返せないとわかっていたので、両親を自らの手にかけずに済んだことを朝田は二人に気付かれないようこっそりと感謝した。この時の朝田にはまだそんな感情が僅かながらも残っていたのである。そう、この時までは。
「でも、みんな殺しちまうのは勿体無くねえか。若い女くらいは残しておいても損はねえだろ?」
皆殺しにはあっさりと同意したにも関わらず、そう言い始めた村山に朝田は難色を示した。別に女に興味がなかったわけではない。むしろ、肉体的には健全な若者らしくセックスには過剰とも言える期待感を抱いていたが、特定の対象だけを選別するのは難しいのではないかと思えたためだ。
「とりあえず誰を残すのかは後回しにして、どうやって殺すかを先に考えよう」
村山のようなタイプには頭ごなしに否定しない方が良いだろうと考え、一先ずそう提案して議論を先に進める。
「食べ物に毒を入れるとかは?」
杉岡がサンドウィッチに何を挟むかみたいに気楽な感じで言った。
「うん。でも、それだとみんなが一斉に口にするとは限らないし、貴重な食糧を減らすことになる」
他にも避難所に火を放つ、皆が寝静まったところを襲うなどが提案されたが、どれも実現性には程遠かった。やはりゾンビに襲わせるのが最も無難で現実的という結論に達した。現在、出入口は頑丈なシャッターで封鎖されているが、正面玄関や資材搬入口などのいずれかを開ければ不可能なことではない。ただし、正当な理由なくして近寄るのは当然ながら禁止されており、見張りの目もあるのでおいそれとはいくまい。とはいえ、所詮は外部からの侵入を防ぐのが主目的であり、内から襲撃への備えはないに等しく、シャッターの鍵さえ入手できればあとは何とでもなろう。問題は他の避難者が襲われている最中に自分達が安全に身を隠す場所の確保と、終わってからゾンビをどうやって施設内から排除するかということだった。それさえ思い付けば計画としては完璧である。しかし、ゾンビを追い出す方法だけは幾ら考えても良いアイデアが浮かんでこなかった。当然と言えば当然だ。そんな方法があるのなら外にも出て行けるに違いないのだから。そこで視点を変えて、ゾンビを追い出すことは諦め、保管倉庫に立て籠もるという案を検討した。施設の大部分を放棄することになるが、そのやり口ならゾンビから身も護れて一石二鳥である。狭い倉庫内で最低でも男三人が身を寄せ合うことについても、この際贅沢は言っていられないだろう。寝泊りできるスペースがあるだけで充分と思わなければ。朝田の予定ではその限られた空間内で少なくとも三ヶ月から半年は辛抱して、ゾンビの動向を見極める。ゾンビと言ってもフィクションのように無限に活動できるとは考えにくい。動き回っている以上、何らかの生体機能があると思われ、それなら餓死や寿命が尽きてもおかしくはないというのが朝田の主張であった。もしそうならゾンビがいなくなった後に出て行けば良い。そうならなくとも今よりは長く生き延びられるはずだ。食糧が尽きた暁には脱出せざるを得なくなるだろうが、それは現状でも変わらない。つまり、朝田達だけに限って言えばデメリットはほぼないも同然で、難しいのは先にも指摘した通り保管倉庫への侵入ということになるが、ゾンビに襲われて混乱する間隙を縫って行えばやってやれないことはないと思われた。加えて村山達の計画と決定的に違うのは、事が成れば咎める人間は誰もいなくなるということだ。発覚を心配する必要はない。三人はこの思い付きの実現性を探るべく朝田の提案で運営組織に参加することにした。僕達、若い者が何もせずに黙って面倒を見て貰っているわけにはいきません、何かお役に立ちたいんです、是非手伝わせてください、そう言ってまんまと潜り込むことに成功する。数日間の観察で鍵の保管場所やそこが最も手薄になる時間帯、スペアーキーの在り処、見張りの経路と交代時間などをつぶさに調べ上げた結果、やれる、という確信を得たというより、今実行しないとこの先は次第に難しくなっていくだろうとの結論に行き着いた。さらに事態が深刻化して警備が厳重になってからでは遅いのである。やるならそこまで用心し切れていない今を置いて外にない。他の者に先を越されればそれが成功してもしなくても二度と機会はなくなるとの焦りも実行を後押しした。そう考えると村山が提案した若い女だけを選択的に残すというのは却下せざるを得なかった。その方法を見つけ出すには猶予も準備も足りていなかったためだ。ただ、女は強姦する対象でしかなく、その獲物が目の前を無防備に通り過ぎて行くのに何もせずに黙って見ているのはもはや我慢の限界という村山のために、これからすることへの景気付けの意味も込めて決行前に適当な相手を選び襲うことを朝田は提案した。互いに共犯者ということになれば後戻りできない覚悟の表れともなろう。単身で避難している女を狙えばすぐに発覚する恐れも少ないはずだった。誰かが気付く頃には全てが終わっているに違いない。
こうして如何にも少年らしい軽挙さで計画は実行に移された。幾つかの不測の事態はあったものの、運の良さにも助けられ、どれも決定的な失敗とはなり得ずに予定通り外部との封鎖を破り、ゾンビを招き入れることに成功した。その混乱の隙を突いて首尾よく鍵を奪うと、三人は食糧保管倉庫に立て籠もる。そこまで来ればあとは騒ぎが収まるのを待つだけだった。扉は内側からしっかりと固定してあり、仮に他の者が合鍵を使ったとしても開かないようにしてあるので、自分達以外が侵入してくることはあり得ない。避難所全体にパニックが拡がると何人かが倉庫にやって来てはドアを叩き中に入れてくれるよう懇願したが、当然ながらその声は全て無視した。そうこうするうちに外から洩れ聞こえる悲鳴や怒号、嗚咽や物音は次第に遠のき、やがて静寂が支配する。この間、ずっと耳を澄ませて外部の様子を窺っていた朝田だが、大勢の人間──中には女や子供や年寄りも大勢いた──を殺しても、まったく良心が痛まなかったことに得も言われぬ感動を覚えた。自分が古い道徳観念を打ち破り、この世界に相応しい住人になれた気がした。それは多かれ少なかれ村山や杉岡にもあったようだ。ただし、彼らの場合それに近い素養は元々備わっていたのかも知れない。
今もこの二人を見ていると、つくづく世の中には洗濯物を畳むように人を殺せる人間がいるのだと気付かされる。人は誰しも無限の可能性を秘めているとは成長の証としてよく使われるフレーズだが、何も正しい方向にばかり進むとは限るまい。何でもやれるし何にでもなれるというのは、裏を返せば誰しも嘘を吐いたり裏切ったり犯したり殺したりするかも知れないということだ。だから昨日まで善人だったという理由で今日もそうだと信じている方が朝田からすれば余程おかしいのである。村山達はそれをたまたまわかりやすく体現しているに過ぎない。もっともこうした人間性は元の世界においては例外なくスポイルされる運命にある。気分で殺人や強姦を犯す人間を認めていては社会自体が成り立たなくなるためだ。従って平穏な世界が続いていれば村山も杉岡もいずれは淘汰されていたに違いない。では、昨日まで無害だったにも関わらず、今日突然大量殺人を犯し始めた自分はどうなのか──。
普通だ、と朝田は思った。秩序と博愛が是とされる世界において人殺しが嫌忌されるなら、混乱と暴力が染み付いた世界ではそれこそが生きる糧になるのは当然であろう。古い価値観から抜け出せない連中にはそれが理解できないのだ。だから、そういう者から順に死んでいく。
「ネクラでもネクロでもどっちでもいいけどよ。もっと女は大事に扱うように、お前からあの人に言ってくれよ」
村山のその訴えが朝田の意識を回想から現実へと引き戻した。そんなに女が欲しけりゃお前も仲間に入れて貰えばいいじゃんか、とすかさず杉岡が混ぜ返す。冗談じゃねえ、誰が死人なんか抱くかよ、と村山も抗弁した。この二人の憎まれ口の叩き合いはいつものことなので相手にはせず、朝田は会話を遮るようにして言った。
「殺してしまったものは仕方がないよ。またどこかで攫って来ればいい。瀬戸さんには注意しておくけど、その前に後始末だけはきっちりしておくように伝えておいてくれないか?」
朝田がそう言い終わらないうちに、何だ、俺の噂か? という声が背後の戸口から聞こえた。振り返ると汗だくで上半身を裸にした男が立っていた。年の頃はまだ少年と言える朝田達よりかなり上で、二十代後半から三十代初め辺り。中肉中背ながら無駄のない引き締まった肉体と、さぞもてただろうと思わせる端正な顔立ち。反面、その瞳には爬虫類を連想させる冷たい眼光が宿っており、ここにいる者なら涼しげな微笑の下に凶悪な素顔と異常な性癖が隠されていることを知らぬ奴はいない。
「瀬戸さん、聞いたよ。マリさんを殺したんだって。僕、結構お気に入りだったのにさ」
村山には何だかんだ言いながら、やはり杉岡も気にしていたらしい。一瞬、目を細めて見る者によっては背筋を凍り付かせるであろう視線で言った。それでも瀬戸と呼ばれた男は悪びれた様子もなく、お前らはもう充分に愉しんだんだからいいだろう、と頭を掻きながら答えた。
「俺は生身の女じゃ勃たないんだよ。話しただろ。お前らが愉しんでいる間中ずっとお預けになっていたんだから、そろそろ順番を譲って貰っただけさ」
「そんなことを言って一緒に拉致ったもう一人の女を殺したのもあんたじゃねえか。親友だったとかでその後あの女、半狂乱になって大変だったんだぜ」
村山も非難を込めた口調でそう言う。
「ああ、ラジオをやってたって女か。気は強かったがなかなかの美人だったよな。すぐに処分しなけりゃならなかったのは勿体なかったな」
「そういう問題じゃねえ」
「そうだよ。僕まだマリさんに試したいことがあったんだよ。今度はどんな風に抱こうか愉しみだったのにさ」
「やればいいじゃないか。まだ処分はしていないぜ」
だから俺達はあんたと違ってまともなんだよ、と村山が堪え切れなくなった様子で声を荒げた。
「こっちは死体を抱く趣味はねえんだ。大体、あんな化け物がいいって言うならわざわざ生きた女を殺さなくてもその辺にいる奴を相手にすりゃいいじゃねえか」
「わかってねえな。死体も鮮度が大切なんだよ。死にたてが最高さ。嘘だと思うなら騙されたふりして一発やってみな。生きた人間なんて目じゃねえから」
その宣言通りのことを瀬戸は朝田達と知り合う前からずっと続けていたのだ。瀬戸がいつ頃から屍体性愛に目覚めたのか定かではないが、朝田はゾンビ禍が蔓延する以前から密かに行っていたのではないかと睨んでいる。彼を仲間に加えたのは当然、その性癖とは一切関係ない。とある事情で立て籠もり先を出ることになり、街を彷徨いていた時、マンション三階のベランダから声をかけられたのが直接のきっかけだ。どうやらずっとそこに潜んでいたようだが、食糧も尽き脱出もままならなくなっていたところを偶然、朝田達が通りかかったらしい。特異な行動の朝田達を見て仲間になれば助かると思ったのだろう、自分も連れて行って欲しいと訴えてきた。役に立ちそうもなければ殺せば良いと思い部屋を訪ねてみると、室内には四肢を全て切断された上に全裸でベッドに縛り付けられた若い女のゾンビがいて朝田達を驚かせた。しかも性器の周辺には明らかに凌辱を愉しんだ痕が残っていた。聞けば若い女のゾンビを見かけると、ベランダからロープを使い引き上げて、犯しては飽きたら捨てるという行為を繰り返していたそうである。ゾンビのままにしていたのは完全な死体にすると腐るからというのが理由のようだ。そんな異常さを隠すこともなく部屋に招いたわけを問うと、ベランダから観察していて朝田達が自分に負けず劣らず真っ当な人間でないことが見て取れたからだと言う。それならば本来の自分を見せた方が受け容れられやすいと考えたみたいだ。確かにありきたりの生存者であればその場で殺していた公算が大きい。その狂人ぶりはなるほど自分達と同類と思われた。ただし、朝田達が瀬戸を仲間に加える気になったのはそれが理由ではなく、話をする中で彼が元警察官、それも
その元となった理由はさておき、それまで仲間達のやり取りを黙って見守っていた朝田がここで漸く口を開く。瀬戸さん、殺した女を処分していないって本当ですか? と訊ねた。瀬戸も直情的な村山達とは違う朝田は苦手としているようで、瞬間的にたじろぎかけたが、すぐに、ああ、と頷いた。
「けど、ちゃんと縛ってきたぜ。俺だって噛まれて奴らの仲間入りするのは御免だからな」
瀬戸が攫って来た女で自身の性的欲望を満足させるやり方は概ねこうだ。まずは女は生きているうちに拘束しておく。口許には猿轡をして万一にも噛まれるのを防止する。指や四肢の切断はその時の気分によってやったりやらなかったりとまちまちのようである。次にいよいよ殺すわけだが、普通にそうしたのでは只の死体ができ上がるだけなので、ゾンビとして愉しむには感染させなければならない。手っ取り早いのは他のゾンビに噛ませることだが、それには自分にもリスクが伴い、以前のように気楽に捕獲することも朝田が禁じているため、容易にはできない。そこで瀬戸はゾンビを刺して体液をたっぷりと纏わせた刃物で傷つけるという方法を考案した。最初は注射器で体液を直接注入しようと試みたらしいが、シリンジに詰まって上手くいかなかったそうだ。刃物を使った方法なら百パーセント確実とまではいかないものの、何度か繰り返せばかなりの高確率でゾンビへの転化が認められた。犯す際には縛ってあるとはいえ暴れるゾンビを押さえつけるのに相当な体力が要求されるのだろう、朝田も村山達と同じく屍体姦淫に興味はなかったが、瀬戸が汗だくになりながらゾンビを犯す光景は何度も目撃した。それはセックスというより何かの格闘技を見ているようだった。ゾンビから片時も目を離さないこと、傍を離れる際は速やかに処分することを条件に許していたが、どうやらそれは守られていないらしい。当然、朝田にそれを見過ごすつもりはない。
「女を殺すことは、まあいいですよ。他の奴がしたいことを邪魔しないっていうのがここでの唯一の決まりみたいなものだから。けど、自分達を危険に晒す真似だけは放置しておけない。瀬戸さんがドジって感染するのは勝手だが、こっちにまで被害が及んでは堪らないですからね。これだけは何があっても譲れません。それが気に入らなけば出て行って貰って構わない」
朝田が淡々とそう宣告すると、わかったよ、別に逆らう気はないさ、と瀬戸は意外なほどあっさりと引き下がった。真意はともかくとして、この場で揉め事を起こす気はないようだ。さっさと行って処分して来るか、と瀬戸が立ち去りかけた時、別の戸口から、あの、千秋はまだ起きてこないんですか、と新たな声がした。全員が揃ってそちらを注視する。髪を茶色くした若い女が戦々恐々とした面持ちで室内を覗き込んでいる。仲間の一人で、サチエという女子大生だ。若いと言っても朝田達よりは年上なはずだが、どこか白痴じみた幼稚さが漂う。そんな小児的な雰囲気も見ようによっては男心をそそるのか、最初に会った時は別のグループで男共の慰みものになっていた。それを気紛れに助けた人物がいる。朝田達はその者に逆らえない。故にそれ以来、如何にも場違いなこの女が仲間に加わることになった。
「あの……千秋は……」
尚も繰り返すサチエに、聞こえている、と朝田は素っ気なく応じた。仲間には違いないが、本来なら犯して飽きたら殺すとしてきた女達と何ら変わらないのだ。とても対等に話す気にはなれない。まだ起きて来ていない、とだけ朝田は告げた。
「それならそろそろ起こした方が良いんじゃないでしょうか? 私が行って起こして来ても──」
「今、行こうと思っていたところだよ」
そう言って朝田は席を立つ。放って置くと本当に起こしに行きかねない様子だったからだ。仲が良いと勘違いしているのはサチエだけなのである。実際は退屈しのぎに拾われた玩具に過ぎないと朝田達は思っている。特に寝起きは機嫌が悪いので、下手に馴れ馴れしくされて不機嫌に拍車を掛けられても厄介だ。何しろ、自分達の命運はその相手にかかっていると言っても過言ではないのだから。
ついでに並んで部屋を後にしかけた瀬戸にも追加で声をかけた。
「瀬戸さんは先に服を着た方がいい。裸でウロウロするのは嫌がるかも知れない。他の二人にも言っておくが、彼女の前では話題に気を付けろよ。あれで一応は女なんだからな」
朝田がサチエを無視する形で男三人にそう告げて、村山が全員を代表するように肩を竦めて答えた。
「そりゃ注意はするがよ。でも気を遣い過ぎだと思うぜ。あれに限ってそんな普通の神経があるとは思えねえよ。誰が見たってこの中で一番まともじゃねえのはあいつなんだからよ」
村山からそう指摘された相手、佐田千秋は眠りから覚醒に至るほんの僅かな微睡みに昔の夢を見た。それは祖父母の家に遊びに行った際、年子の兄と二人で裏手にあった林の中を彷徨っている光景だ。二人共まだ幼く十歳ほどの容姿をしている。千秋は自分とさほど歩幅の変わらない兄の後ろを必死になって追いかけて行く。やがて鬱蒼と生い茂った木立を抜けた先で不意に視界が開け、目の前に千秋達が通う小学校のプールほどの古い溜め池が現れた。今は使われていないようで、地元の者からもすっかり忘れられているのだろう。あるいはその辺りは林の奥深くで本来子供が立ち入るような場所ではなかったのかも知れない。それ故に都会の通学路周辺であれば必ず目にするはずの柵やフェンスは一切講じられていなかった。千秋はこんなところは詰まらないと感じたが、兄はその発見に大喜びの様子だった。もう帰ろうと催促する千秋を他所に池の淵に沿って歩き出し、暫くすると足許に蛙か蝲蛄でも見つけたようで、膝を屈めて熱心に見入り始めた。その無防備な兄の背中を目にするうちに、千秋はこのまま眼前の池に突き落としたらどうなるだろうという誘惑を堪え切れなくなった。別段、兄のことを嫌っていたわけではない。いなくなって欲しいと願ったわけでもなかった。ただ、その時は兄が溺れる様を見たくて仕方がなかっただけのことである。それで背後からこっそり兄に近付くと、千秋はその小さな背中を思い切り突き飛ばした。バランスを崩して池に転落する寸前、振り返って千秋を見た兄は何が起きたのかわからないという顔をしていた。それが千秋の憶えている兄の最後の表情だ。その光景を映画のラストシーンのように眺めながら、千秋は誰かの呼びかけで無理矢理目を醒まされた。
元より寝起きが良い方ではなかったが、最近は夜になると何もすることがなくて寝入りが早くなったせいもあり、このところは比較的すんなりと起きられている。しかし、今日の目醒めは最悪だ。あと少しで気分良く起きられたところを邪魔されたからに他ならない。薄目を開けて枕元のデジタル時計を見やると、朝と呼べる時刻はとっくに過ぎていたが、何の慰めにもならなかった。尚も無視してベッドに潜り込んでいると、再び部屋の外から控え目なノックと共に、起きているか、と遠慮がちに声がかけられる。千秋は手近なサイドテーブル上にあった写真立てを掴むと、いきなりドアに向かって投げつけた。誰だか知らない若い男女が笑顔で納まったアクリル製の写真立ては割れこそしなかったものの、派手な音を立てて床に転がる。その物音に一度はドアの向こうも沈黙するが、さほど経たずしてノックと呼びかけは続行された。
(うるさい。どこかへ行ってしまえ)
心の中でそう念じるが、相手が生きた人間である限りは意味のないことに思い当たり、漸く千秋も観念した。一人で寝るには贅沢過ぎたクイーンサイズのベッドから起き出すと、部屋の端まで歩いて無言でドアを開ける。そこには青年よりも少年と言った方がしっくりとくる若者が一人、無表情で待ち構えていた。
「何か用?」
不機嫌さを臆面もなく出しつつ千秋がそう問うと、訊かれた若者──朝田はそれ以上彼女の機嫌を損ねないよう注意して口を開いた。
「いい加減、起きてくれないか? すぐに行動を開始できるよう準備しておいて欲しい。それにサチエが千秋抜きだと不安がっている」
「どうして? マンションはゾンビが入り込めないよう封鎖してあるはずでしょ? 私がいなくたって平気じゃんか」
大方、ゾンビよりも男共の視線が気になるに違いない。私が許可しない限り誰も手出しできないのに馬鹿な女だ、と千秋は思う。むさ苦しい男ばかりでは話し相手に退屈しそうだと仲間に入れたのだが、それは間違いだったかも知れないと思い始めていた。
「自分が起こしに行くと言っていたんだが、それは止めておいた。千秋も起き抜けに纏わり付かれては迷惑だろうと思ったんでね」
普段は気軽に接することをサチエに許しているので当人は友達にでもなった気でいるようだが、無論、千秋にそんなつもりはない。単なる暇潰しの酔狂だ。いずれ飽きたら放り出す気でいる。そのことは朝田達も承知しているので、それまでは半ば無視していく考えのようだ。そうはいっても元々気分にムラのある千秋を怒らせてとばっちりを受けないように、朝田は自分が見張らなければならないと思っているらしい。御苦労なことだ。だが、そのおかげでサチエは助かっているのである。そうでなければとっくに不興を買って捨てられているに違いなかった。しかしながら当のサチエ自身はそんなことにも気付かないでいる、つくづく頭の悪い女なのである。
【カクヨム運営より過剰な表現との指摘があったため、一部を削除しました。文章に繋がりがないのはそのためです。完全版の掲載はアルファポリス(https://www.alphapolis.co.jp/novel/201268578/431697946)、もしくはミッドナイトノベルズ(https://novel18.syosetu.com/xs8892a/)にて行っています】
「リビングで待っている」
それだけを言い残してドアを閉め、部屋を後にする。
一人になった千秋は、室内の片隅に置かれた鏡台に腰掛けると、自分の半裸の上体を映してみた。小柄でやや痩せ気味ではあるが、身体付きの方はこのところ幾分女らしさが増してきたように感じる。顔はごく稀にだが、千秋の知らない昔の女優に似ていると言われることがあるので、それほど醜くはないのだろう。だが、これまでは千秋の持つ独特の雰囲気に気圧されてか、男でも女でもあまり親しくなる者は現れなかった。自分では違和感を抱かせないようにしていたつもりだが、どことなく伝わってしまうものらしい。もっと上手く周囲に溶け込まなければと反省していた折の世界の崩壊だった。自らの成長の確認を終えたついでにパンティも履き替えようと、右足の太腿を覆った包帯だけを残して全裸になった千秋は、夕辺のうちに目を付けておいた、やはり大人っぽいランジェリーの上下を箪笥の抽斗から取り出して、迷うことなく身に着けていく。当然ながらそれらは千秋が自分で用意したものではない。恐らくだが、この家の住人である妻が自分のためか夫を喜ばせようと買い揃えたに相違なかった。もちろん、千秋にとってはサイズ的に問題がなければどうでも良いことだ。その二人がこの家に戻ることはもうないだろうから。従って勝手に拝借したとしても誰からも文句は言われまい。さらに肌着も纏うと、その上からやや着古した感のあるどこかの中学か高校のセーラー服を着用した。これもここに至るまでの間で失敬したものだ。そうして着替え終わると当たり前と言えば当たり前だが、どこからどう見ても只の女子中学生にしか見えなくなる。別に着るものは好きに選べ制服である必要はなかったのだが、普段からお洒落にまったく関心がなく服の組み合わせを考えると頭が痛くなる千秋は、迷う余地のないこの服装でずっと押し通していた。それにこの格好だと出遭う相手が悉く油断してくれるので、殊更便利なのだ。着替えも済んで再び鏡台に坐り、肩まで伸びた髪を解かしながら千秋は目醒める前に見た夢の続きについて自分なりに考えてみた。
千秋に年子の兄がいたのは事実である。小学生の時に溜め池で溺れ死んだというのも間違いない。ただし、夢にあった出来事が本当なのかどうかについては千秋本人も記憶が曖昧で定かではない。鈍色に濁った池の水を吸い重くなった衣服に絡み付かれ身動きの取れなくなった兄が必死でバタつく姿は今でも鮮明に目の奥に焼き付いているし、その後二人を捜しに来た祖母が兄の遺体を発見して半狂乱になった様子も憶えている。しかし、実際に自分が突き落としたかということになると、よく思い出せない。目の前で人が溺れ死ぬのを見て興奮し過ぎたせいではないかと思う。そう、確かに千秋は幼いながらも兄の最期に言い知れぬ昂揚感を覚えた。その時は昂揚感などという言葉は知らなかったが。それがあまりにも鮮烈だったために、度々夢の中で甦る光景が現実のものだったのか、自らの願望が作り上げた幻想なのか、今となっては区別が付かなくなっているのだ。少なくとも兄の死に千秋の関与が疑われなかったのは確かである。小学生の妹が兄を殺すなどというのは誰にとっても想像の埒外だったのだろう。結局、溜め池の管理者が厳しく責任を問われはしたものの、最終的には事件性はなく子供が誤って池に落ちた不幸な事故として片付けられた。その結論には地元の警察やマスコミばかりでなく千秋の両親達でさえ、悲しみつつも犯人捜しをせずに済むことにどこか安堵した様子だったのが子供心にも見て取れた。だが唯一人、千秋だけは思い悩むことになる。といっても罪の意識に苛まれていたわけではない。もし自分が手を下していたとしたら、その途轍もなく貴重な体験を実感できずにいることが残念でならなかったのだ。そもそも千秋はこれまで罪悪感や良心の呵責というものを感じたことがなかった。子供だからということではない。周囲の人々を見ていてそうしたものがあることはどことなくわかったが、いざ自分がとなると幾つになってもさっぱり感じ取れないのだ。先天的に善悪の観念を身に付けている者などいないだろうから、より正確な言葉を選ぶとしたらいずれそうなるはずの核みたいなものを持ち合わせていなかったと言うべきか。極論すれば千秋は平凡な家庭に突如生まれた変わり種だった。彼女の両親は子供を虐待したり放置したりするような人達ではなく、誰の目にも普通に映る育て方をしていてそれは長男を亡くした後も変わりなく続いたので、そうとしか考えられない。そのことに気付いても千秋は嬉しくも悲しくもならなかった。そういうものとして漫然と受け容れただけである。故に千秋にとって人の死に他人とは違った関心を示すのはごく当たり前のことだった。そこには善も悪もない。男と女の差も、老人と子供の区別も、身内と見ず知らずの他人との違いもない。全ては己の好奇心を満たすためだけの観察対象に過ぎず、それ以上の価値は見出せなかった。
もし不幸があるとすれば、そのことに誰も気付けなかった点に尽きよう。同世代の子供の中では飛び抜けて早熟且つ聡明だった彼女は、いち早く自身の性質が周囲に馴染まないことに気付き、その残虐性が幼児特有のものと誤解されなくなる頃には自然と隠す術を覚えてしまった。そうして誰にもその本質を悟られることなく、死への興味だけを肥大させていったのである。そんな千秋にとって生涯最大の成果かも知れない兄の殺害をはっきりと自覚できないのはまさに人生の痛恨事であり、このままにして先へは進めないと思い込んだ。そして、遂にはその悩みを解消するのに方法は一つしかないとの結論に行き当たる。今度こそ明確な意思を持って誰かを殺害するのだ。衝動的な動機ではなく、予め充分に考え抜いた末の殺意で。それを成し遂げればもう誰かを殺したかどうかで思い煩う必要はなくなるだろう。兄の死からちょうど一年後に、千秋はそう決意した。決めはしたものの、無論、まだ小学生だった千秋に殺せる相手は限られてくる。身近にいて抵抗される恐れが少ない者、尚且つ死んでも不自然に思われない相手であれば最適だ。殺すことに躊躇いはなかったが、自らの犯行と発覚すれば子供だからといって許されない程度の分別は持ち合わせていた。中学生にもなっていない自分が刑務所に入れられるようなことはないだろうが、恐らく何年にも渡り治療と称する矯正が行われ、世間とは隔離されるに違いない。その後も保護観察処分などで自由は制限されるはずだ。そうなると何よりも次に誰かを殺す機会を奪われるのが耐え難い。よって絶対に己の仕業とバレるわけにはいかなかった。そこでまず事件性が疑われやすく世間の耳目も集めやすい子供を狙うのは諦めた。できれば兄と同世代の子を殺したかったが仕方がない。それは自分が成長した暁の愉しみに取っておこう。両親は今いなくなられると生活に困るので、これも殺害対象からは除外する。そうして最終的に残ったのは当時、自らの不注意から孫を死なせたとの罪の意識で精神を病んでいた祖母だった。夫である祖父に先立たれたばかりの彼女なら自然死でも事故でも自殺でも好きなように見せかけられる。その場の思い付きだった兄の場合と違って、今度は準備に入念な時間をかけられた分、疑われない自信はあった。特に以前の経験から子供に対する大人達の先入観を学んでいたので、それを利用するよう心がける。果たして計画は千秋が思い描いた通りに進み、祖母の死は精神のバランスを欠いた末の自殺ということで呆気なく落着した。もっとも最後は祖母自身が千秋に殺されることを驚きつつも受け容れた節があったので、その点ではやや拍子抜けであった。次はもっと生に執着する相手を選びたい。
いずれにせよ、これより以降、千秋が兄の死について思い煩うことはなくなった。ただし、殺人願望がこれで解消されたかといえばそうはならなかった。むしろ、より強く、より深くしている。実際に行動に移さなかった理由はただ一つ。立て続けに自分の周囲で人が死んではさすがに怪しまれかねないし、そうなると過去に遡って不審な点を調べ直そうという者が現れないとも限らないからだ。辛うじて抑制を働かせていた。少なくとも二、三年は大人しくしているべきだろう。そうすれば新たな事件が発生しても兄や祖母の死と関連付けるのは困難になっているに違いない。やろうと思えばいつでも実行に移せることは祖母の一件で立証済みである。何も慌てて行う必要はないのだ。調子に乗ってミスをして捕まり二度と犯行ができなくなるより、長いスパンで考え一生のうちに何度も機会があった方が愉しめるではないか、そう思うことで今を我慢する。それが楽観的過ぎる捉え方なのは千秋も先刻承知だ。今は子供という隠れ蓑があって疑いの目を向けられずに済んでいるが、いずれ成長すればそうはいくまい。こんなことを続ければいつか捕まるに違いなかった。ただ、それはそれで仕方がないとも思える。そういう生き方しかできないのだから。逮捕されてそれ以上人が殺せなくなるのは残念だが、どうせその場合は死刑になるだろうから真に惜しむべきものは何もない。世間やマスコミは何故、千秋が殺人を犯したのか、その理由を知りたがるだろう。そんなものはないと言っても信じては貰えまい。自分達が理解でき、そうだったのかと安心できるもっともらしい理由をこじ付けるに決まっている。しかし、本当に千秋にはどうして自分が人を殺さずにいられないのかよくわからないのだ。死への関心といったことも後から取って付けた言い訳に過ぎない気がする。恐らくそんなものはなくとも自分は誰かを殺さずにはいられなかっただろう。それは千秋にとって自然な流れなのだ。回遊魚が泳ぎ続けずにはいられないのと同じである。
だから中学二年になったある日、買い物に行った母親が帰宅するやいなや家にいた千秋に突然襲いかかってきた時も、驚きこそしたものの、身を護るために彼女を殺したことにはさしたる戸惑いを感じ得なかった。たぶん、いつかはそうしていただろうから。考えたのは千秋が母親を殺したと知れば家族思いの父親はさぞショックを受けるだろうということと、これで今までひた隠しにしてきた自身の本性が露見しないかということだけだった。母親が付けた太腿の酷い噛み傷痕を見せれば正当防衛と主張することはできそうだが、どうしてこうなったのかと考える前に激しい悪寒と高熱に襲われて千秋は気を失った。約七十時間ほど眠って意識を取り戻した時には熱も引いて気分はすっきりしていたが、脚の傷と激痛だけは消えておらず、夢でも幻覚でもなかったのだと自覚するしかなかった。その傷口は直径五センチにも渡り皮膚と皮下脂肪がごっそりと抉られて月のクレーターのように歪な孔となっていたが、幸運なことに重要な血管は傷つかなかったようで化膿もしておらず血は既に乾いて固まっていた。そうはいっても痛みでとても立って歩くどころではない。椅子に坐ることすらままならず、この時ばかりは千秋も母親を呪詛する言葉を何十回と吐き捨てながら自分で手当てするしかなかった。そしてそのまま家に閉じ籠ることを決めたのである。父親も帰っておらず、窓の外には明らかに死人としか思えない連中が彷徨いている。テレビもラジオもやっていないことから、信じ難いことだが映画や漫画のようなことが実際に起きたと思うしかなかった。幸いにも心配性の母親のおかげで家の中には豊富な食糧が備蓄してあり、千秋一人であればひと月ほどは過ごせそうだった。噛まれてもゾンビにならなかった点についてはそもそもそうなるのが普通という情報もなく、興味も湧かなかったことから深く考えなかった。ただし、感染には無頓着だった千秋も暫く過ごすうちに、自分の特異性については気が付いた。家の中から外を観察していて何度か生存者がゾンビに襲われる場面を目撃したが、自分には一向に関心を示す様子がなかったからだ。実際、目を醒まして随分経ってからやっと気付いて慌てて戸締りを厳重にしたくらいで、それまではずっと無防備に過ごしていたのである。襲おうと思えばいつでもできたはずだ。そうしたこともあり、千秋は自分がゾンビに襲われないことを次第に確信していった。思い切って窓から呼びかけてみた時も振り向かれはするが、すぐに興味がないかのように立ち去って行ってしまう。何度試してみてもその反応は変わらなかった。
その頃には足の傷の具合もだいぶ良くなり、痛みはまだ若干残るものの、何とか歩けるくらいには回復していた。そして、母親を殺してより二十三日ぶりに千秋は家を出た。
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