9 ペイシェント・ゼロ※
「何だ、そのペイシェント・ゼロっていうのは?」
智哉は由加里の言葉を聞き、殆ど反射的にそう訊ねた。由加里は僅かに首を傾げながら話を続けた。
「元はペイシェント・オーと呼ばれたHIV患者のことよ。一九八〇年代の初め、エイズが謎の病気として知られ始めた頃、アメリカで感染の経路を調べたの。すると何人かの患者と性交渉を持ったある共通する一人の男性の存在が浮かび上がった。調査チームの管轄外だったことからOut of Countryだか何だかの頭文字を取って、ペイシェント・オーと名付けられたわけ。ペイシェントは患者の意ね。それがいつしかオーをゼロと読むようになり、研究者間でペイシェント・ゼロと言われ始めた。実際のところ、彼はエイズ患者の一人に過ぎなかったんだけど、ゼロ=原初の存在という誤認をされて感染を拡めた元凶という根も葉もない中傷を受ける羽目になったわ。のちに名誉は回復されたんだけどね。ただ、さっき私が言ったのはそれとは関係がなく、感染の原点という意味にでも捉えれくれたらいいわ。正規の医学用語とは言えないんだけど。何が言いたいかというと、今起こっている出来事はゾンビに噛まれることで拡がったわけでしょ? じゃあ、ペイシェント・ゼロ、即ち最初のゾンビはどこから現れたのかってことなのよ。全員がゾンビから感染したなんておかしいじゃない」
「……それについては些か心当たりがある」
智哉は以前に調べて咬傷のないゾンビを発見したことを由加里に話した。
「つまり、その女子大生はゾンビと接触した形跡がなかったってことね。だとすれば別の感染ルートもあり得るって説は大いに信憑性を帯びてくるわ。例えばマラリアのように昆虫が媒介するとか。でも、それって初期の感染者だけに見られることなのかしら?」
実を言うと、その可能性は智哉も探ってみたことがある。ただ、何体かのゾンビを調べてみたところ、一見すると目立つ外傷がなくとも隠れた場所に噛まれた痕が残っていたり汚れで見分けがつかなくなっていたりするだけで、あれ以来、無傷な者とは出遭わなかったことから、いつしかそれらしい小ぎれいな存在を見かけても気に留めなくなっていたのだ。あの真奈美という女子大生がたまたま例外だったか、自分が傷を見逃したせいだろうと何となく思うようになっていた。由加里の指摘は、改めてこれまで見過ごしてきた中にゾンビに噛まれず感染した者がいたかも知れない可能性を示唆している。
「しかも、そうなると──」
智哉は内面の思考を無意識に声に出して呟いていた。それだけで由加里には智哉が何を危惧したのか伝わったようだ。
「ええ、今あなたが想像した通りだと思うわ。もしも今でもその感染ルートが残っているとしたら、どれほど厳重にゾンビの侵入を防いでいてもある日突然、内部から感染者が現れておかしくない」
それは例えばこの避難所の警備を幾ら強固にしようと無駄なことを意味する。ゾンビが自然発生する原因を突き止めない限り、防ぎようがないからだ。だからなのか、と智哉は急に閃いた。
(極地にある施設や長期間航海している艦船ならゾンビとは接触していないはずなのに、それらが無事だという知らせが一向に伝わってこないのは妙だと思っていたが……)
直接襲われなくてもゾンビになる者が現れるなら、そうした閉鎖された空間はむしろ命取りとなろう。しかし、そう考えるとこれまでのゾンビ対策は抜本的な見直しが迫られる。いや、それどころか対応のしようがないではないか。もしこの仮定が事実としたならば、その先行きには暗澹たる気分しか浮かんでこない。破滅的な結末しか見えて来ず、それ故無意識に目を逸らしていたのかも知れなかった。
その話、誰かにしたか? と智哉が確かめると、とんでもない、と由加里は直ちに首を振り否定した。
「現時点では確証も何もないのよ。例えあったとしても誰にでもおいそれと口にできる話じゃないわ。恐らくこの避難所の中では一番冷静なあなただから言えたのよ。考えてもみて。そうした可能性があるって噂になっただけでパニックになるのは間違いないわ。余程の裏付けと混乱になる覚悟がなければ事実だとしてもとても公表できないでしょうね」
その通りだろう、と智哉も思った。それでなくとも長期に及ぶ避難生活で人々の疲労と緊張は限界に達しつつある。この上さらに周囲の誰も信用できないとなれば何が起こるかわからない。取り返しの付かない恐慌を巻き起こすこともあり得る。
「それならこの先も黙っておくことだ。知れ渡ったところでどうにもできないんだしな。一応、機会があれば俺の方でも調べてみるが、仮に証拠が見つからなくても否定することにはならないって忘れるなよ。万一にでも全員が疑心暗鬼になり始めたら、下手をすると熱が出たというだけで感染者扱いされて殺せという状況にもなりかねないぞ。そのことを肝に銘じておくんだ」
「本当にそんなことになると思う?」
「さあね。ただ過去の歴史じゃ根拠のないデマや噂が虐殺に繋がったなんて例は珍しくもない。誰だって自分が一番可愛いものだからな。少しでも害される恐れがあるなら前以て排除しようって奴は大勢いるさ」
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打って変わって翌朝。智哉は何やら隣で騒ぐ由加里の声で目を醒ました。何事かと横を見ると、裸の上半身をベッドに起こした由加里が形の良い胸を隠すでもなく、まだ電池切れになっていない枕元の置き時計を見て焦っていた。
「大変大変。もうこんな時間。この時計って狂ってないわよね? こうしちゃいられないわ」
「何だよ、朝っぱらから騒々しいな」
「どうして昨日のうちに起こしてくれなかったのよ。朝帰りなんてしたら目立つじゃない」
「何も言わなかったからだろ」
「私のブラジャー、どこ?」
「知らないよ。どこかその辺に落ちてるんじゃないのか」
「ちょっと、一緒に探してよ。二枚しかない大事なやつなのよ」
そうしたやり取りをひとしきり済ませた後、再訪の約束を取り付ける間もなく慌ただしく彼女は去って行った。今度、外に出た折には替えの下着でも見つけて来てやろうか、と智哉は考えた。
それから程なくして、智哉は意外な人物の訪問を立て続けに受けることになる。
最初に訪れたのは杉村弘樹と名乗ったあの長身の若者だった。智哉が次回の外出について絵梨香と打ち合わせを済ませ部屋に戻ったところを、ドアの前で待ち構えていたのだ。手には見憶えのある荷物を提げている。智哉が美鈴に持って行かせた水や食糧を詰め込んだウエストポーチだ。通路を歩いて来た智哉に気付くと、憤然とした表情で目の前に立ち塞がり、黙ってそいつを突き出した。智哉も無言で受け取る。中身を見ると、渡した荷物がそっくりそのまま入っていた。
とりあえず若者の脇を擦り抜けドアの前に立ち鍵を開けて、中に入るよう促すと、ここでいい、と彼は主張した。
「美鈴達のことは放っておいてくれと言ったはずだろ」
智哉を睨み付けながら若者はそう切り出す。美鈴が自分から告げたか、彼が荷物を見つけるかして俺から貰ったことを知り文句を言いに来たのだろう、智哉は若者の態度をそう解釈した。
「たまたま顔を合わせただけだ。狭い施設なんだからそれくらいはしょうがないだろう」
「……部屋にも行ったそうじゃないか」
そこまで話したのかと智哉は若干驚いた。行くには行ったが別に後ろめたいことは何もなかったのだから隠す必要はないと思ったのかも知れない。だったら本当のことを言っても差し支えはあるまい。
「果たし忘れていた約束を守っただけだ。食糧はそのついでに渡しただけで深い意味はない」
「それが余計なお世話なんだ。あんたとはもう何の関係もないんだから、勝手なことはするなよ」
若者の言い分は智哉にも理解できなくはない。恐らく、逆の立場なら智哉も同じように思ったことだろう。だが──。
下らないな、と智哉は若者の言葉を言下に切り捨てた。何? と若者は途端に声に怒気を孕ませる。
「どういう意味だよ? 無理矢理美鈴から取り上げたとでも思っているのか?」
「そうじゃない。文句を言いに来るのはいい。彼氏としちゃ黙っていられない気持ちもわからなくはない。けどな、貰った物を付き返すことまでは頂けないな」
智哉はポーチを掲げて見せた。それは、と言って若者は一瞬言葉に詰まるが、すぐに思い直したように答えた。
「あんたに恵んで貰う理由はないからだよ。関係ないって言っただろ」
「要するに己のプライドを優先させたわけだ。自分が面倒を見ると言った手前、他の男の施しを受けるのが我慢ならなかった。そういうことだろ?」
「だったらどうしたっていうんだ? 俺だって班に入って貢献している。それで食糧だって得ているんだ。あんたに助けて貰わなくったってやっていけるんだよ」
今はな、と智哉は素っ気なく言い放った。けど、この先もずっとそうしていけるのか?
「何だって?」
「今後はさらに厳しい食糧事情が待ち受けているかも知れないんだぞ。いや、確実に待ち受けている。それでも今みたいなことが言えるのかと訊いたんだ。恵んで貰おうが盗んで手に入れようが喰いもんは喰いもんだ。本当にあいつらを護る気があるなら、貴重な食糧や水をあっさり手放したりしないものだと思うがね。例え自分のプライドがズタズタに傷つこうが。どれほど卑屈になろうと地べたに這いつくばろうと耐えて見せるのが真の覚悟というものだろう」
少なくとも美鈴はそうだった、とは智哉も言わなかった。
「……そういうあんたはどうだったんだ? 覚悟はあったのかよ?」
依然として若者は智哉に向ける敵意を緩める気はないらしい。正直に言うと、智哉が食糧を貰って欲しいと頼んだわけではないので、返すというなら別に構わないし、若者の憤懣やるかたない事情もどうでも良かったが、こんなことで逃げたと思われるのも癪なので、もう少しだけ付き合うことにした。
「俺か? 俺のことなんてどうでもいい。どうせ一人だ。あいつらのことだっていずれ放り出す気でいたさ。その前に厄介払いできてむしろ感謝したいくらいだ」
だからなのか、と若者は不意に思い付いたように吐き捨てた。何がだ、と智哉は反射的に訊ねた。
「美鈴達から聞いたよ。一緒に暮らしていたのは三人だけじゃなかったってな。他にも小さな男の子が居たそうじゃないか。美鈴はあんたが見殺しにしたんだと言っていたよ」
挑発するように告げられた若者の侮蔑に、智哉は頭の天辺を鈍器で殴られたような衝撃を味わった。急に全身の血の気が引いて体温が二、三度下がった感じがする。一人で責任を負うなと怒った美鈴がそんなことを言うはずがない。この若者の咄嗟に出た作り話であろうが、頭ではそう理解していても内心の動揺まで抑え切ることができなかった。辛うじて表面上は平静を装いながら智哉は若者に対して言った。
「その通りだよ。つまりはあいつらを見捨てることくらい俺には何でもないってことだ。この前は気紛れで食糧を分けてやっただけでな。次もまた施しが受けられると思っているなら大間違いだとあいつに伝えておけよ」
その程度のことしか言い返せず、最後の科白は、我ながら負け惜しみにしか聞こえねえな、と思い、智哉は唇の端を吊り上げて自嘲した。それが若者には自分を小馬鹿にする態度に映ったようだ。
「そうやっていつまでも余裕ぶっていろよ。美鈴達は上手く欺けたみたいだが、俺は騙されねえぞ。あんたのことは信用ならないね。外出できるのは自分だけだと言い張っているそうだが、本当は誰でもやれる方法を隠しているだけじゃないのか。黙っていればみんながあんたを頼らざるを得なくなるからな。前の避難所にもいたんだよ、あんたみたいに自惚れが強くてヒーロー気取りな奴が。自分は他の人間にできないことがやれると豪語していたよ。それでどうなったと思う? そいつのスタンドプレーのせいで危うく全滅しかかったのさ。そうならなかったのは運が良かっただけでな。何人も犠牲者を出しておいて、自分はちゃっかり生き残りやがったがね。もちろん、そいつが信用されることは二度となくなった。今じゃ誰からもまともに相手にされてねえよ。そんなの自業自得だけどな。俺だってもうあんな事態になるのは二度と御免だ。特に今度は美鈴達が一緒だしな。あんたが思い上がって同じようなへまをしでかす前に、その化けの皮を剥がしてやるよ。只の身勝手な奴だったってわかれば美鈴も少しは目が醒めるだろう」
一気にそう捲し立てると、若者は刺すような視線を智哉に投げ付ける。どうやら彼が智哉を敵視するのは美鈴の件ばかりではないようだ。別にヒーローになりたいなんて思っていない、と言っても無駄であろう。美鈴は智哉にそんな気がないことを知っているが、行きがかり上これまで智哉がやってきたことを見れば、そう受け取られても致し方ないところではある。智哉にとっては他人の言いなりにならないためにした結果で、不本意な評価には違いなかったが。それをいちいち説明するのも馬鹿らしく、智哉が黙っていると、何も言い返せないと見たか若者が得意げに笑った。
もはや会話する気も失せた智哉は若者に向かい、言いたいことはそれだけか、と口にした。
「だったら好きにすればいい」
それだけ告げると、とっとと若者に背を向け、この場を立ち去ろうとする。もう口論の勝ち負けなどどうでもいい。何と思われようが構わなかった。この不毛なやり取りに付き合うよりはマシというものだ。
(俺は自分が楽して生き延びたいだけなんだよ。特にお前らと心中する気はないからな。いざとなれば出て行くだけだ。面倒になる前に俺は消えるから、あとは残ったお前らで好きにやってくれ)
内心でそう呟きながら智哉は歩き出す。その時になって誰を誘うかは智哉も決めかねている。場合によっては何もかも億劫になって一人で飛び出す可能性も無きにしも非ずだ。それを薄情呼ばわりされる謂れはない。美鈴にしてもこれまで智哉と行動を共にしてきたのは情に絆されたとかではなく、それが生き抜くための最善の手段と考えてのことだろう。他により確実な方法があればそちらを選んでいたはずだ。そしてその美鈴の判断は間違っていなかったと言える。無論、智哉にゾンビを避ける能力があったればこそに他ならない。しかし、それも若者が智哉と引き離すまでだ。結果的にそのことが美鈴達の生存の確率を下げていることに、残念ながら若者は気付いていない。自分にも代わりが務まると思っている。無理なのだ。だが、智哉にはもはや議論する気のないことだった。それで美鈴達が命を落とすようなら所詮はそれまでのことと割り切るよりしょうがない。
そんな智哉の苦悩など知る由もないであろう若者は、立ち去る智哉に向かって勝ち誇ったように声をかけた。
「とにかく金輪際、俺達に関わるな」
その言葉を背中越しに聞きながら智哉は無言でドアを閉じた。
それが一人目の訪問者だった。
二人目はそれから暫く経った頃に、部屋の扉をノックする音と共に現れた。智哉は読んでいた船舶操縦マニュアルから顔を上げて、少しの間ドアを見詰めていたが、やがて意を決したように立ち上がる。あの若者がまだ何か言い足りなくて戻って来たのではないかと疑ったのだ。やや乱暴にドアを開け放つと、そこには若い女が一人で立っていた。すぐには誰だか思い出せなかったが、どこかで見た憶えはある。暫し顧みて、そういえばあの若者に初めて会った時、背後に隠れるようにしてこちらを窺っていた女だと気付く。だが、接点といえばそれだけだ。その後、会ったり話したりした記憶はない。そんな相手がわざわざ訪ねて来たことに疑問を抱きつつ、向こうが話し始めるのを待っていたが、女はドアの手前で立ち尽くすだけで一向に口を開こうとする気配がなかった。これではまるで痴話喧嘩の果てに智哉が女を追い出そうとしているみたいではないか。幾ら目立たない廊下の端とはいえ、誰も傍を通らないわけではないのだ。誰かに見られでもしたら、また厄介な噂でも立ちかねない。かといって、殆ど見ず知らずの相手を部屋に通すのも憚られた。そもそも警戒して足を踏み入れないだろうし、変に下心有りと勘繰られても面白くない。
結局、このまま見合っていても埒が明きそうになかったので、仕方なく智哉の方から話しかけることになった。
「何か用?」
女は俯いて尚も何かに迷っている様子だった。面倒だからもう扉を閉めてしまおうかと思いかけた瞬間、やっとのことで顔を上げて女が言った。
「あの……少しお話させて貰っても宜しいでしょうか?」
それは構わないけどここでするの? そう智哉が問い掛けると、初めて自分の置かれた状況に気付いたらしく、ハッとした表情で周囲を見回すと、できれば中で、と小声で答えた。
(この女も警戒心が麻痺しているのか? それとも明るいうちなら妙な気は起こされないとでも思っているのか?)
只でさえモラルは崩壊しているのだ。実際、この避難所でも何人かの女性がレイプやレイプ未遂の被害に遭っており、夜間はもちろん日中でも人目に付かない場所には立ち入らないようにとのお達しが出ていた。そんな折に密室で二人きりになるのは如何にも裏がありそうと思うのは智哉の気の回し過ぎだろうか。ともあれ女がそう言う以上、訊いた智哉の方から無下にはできなかったので、どうぞ、と室内に招き入れた。ただし、余計なトラブルに巻き込まれるのを回避するため、避難所では一応それがあまり親しくない者同士で会う際のエチケットとされている通り、僅かにドアは開放しておく。
「……それで何か?」
女は屋内でも防寒対策に身に着けたままでいることの多い外套を脱ぐと、両手で抱え、智哉が勧めた窓際の椅子に腰掛けた。智哉はそこしか空いていないというベッドの淵に坐る。落ち着きのない様子でひと通り室内を見回した後、女は漸く智哉の質問に気付いたように口を開いた。
「あ、すみません。緊張していて。何の用事か、ですよね? さっき偶然に弘樹……杉村さんと話しているところを見かけたものですから。何か言い争っているように見えたので、もしかして美鈴さんのことじゃないかと」
「だとしても君が訪ねて来た理由に見当が付かないんだが?」
それに偶然見かけたと言っているが、以前のこともあるので本当かどうかは疑わしい。もしかしたらずっと付けていたのではないか? 口には出さずにそう思う。
智哉の疑問と猜疑の眼差しに女は、それもそうですね、と慌てて床に視線を落とした。何から話したら良いんだろう、と悩む女に、彼とはどんな知り合いなのかと智哉は訊ねた。
「ここに来る前に居た避難所で知り合って……お互いに一人だったから色々と助けて貰っていたんです。ちょうどあなたと美鈴さん達が一緒だったみたいに」
男女の仲まで同じなのか、と訊きたかったが、一先ず止めておいた。美鈴達のことを知っているとなると、今も共同で暮らしているのだろうか……?
「えっと、名前をまだ訊いていなかったね」
「そうでした。藤川七瀬って言います。岩永さん……ですよね? 美鈴さんからお話は度々伺ってます」
「ああ、そう。それで藤川さんは──」
「あの、できれば名前の方で呼んで貰えませんか? 藤川という苗字は母方の姓で、最近になって親が離婚して名乗り始めたのであまり馴染みがなくて」
「……じゃあ、七瀬さんは今も彼や美鈴達と一緒に居るの?」
「いえ、一緒だったのは初めのうちだけです。何日かして別々に暮らすことになりました。彼の方からそうして欲しいと言われて。元々、お付き合いしていたわけでもないですから。今は一人で寝起きしています。ただ前の避難所でも杉村さん以外の人とはあまり口を利いたことがなくて。他に知り合いと呼べる人は誰もいないので、少し不安なんです。岩永さんは彼が美鈴さん達と共に生活していることはもちろん御存知ですよね?」
知っている、とだけ智哉は簡潔に答えた。実際に調べたわけではないが、たぶん同一世帯として登録し直したのだろう。朧気に状況は掴めてきたが、それでもまだ訪ねて来る意味がよくわからない。
「別れて暮らすことになった理由というのは?」
智哉がそう訊くと、藤川七瀬は何度も練習した仕草のように二、三度頭を振ってから語り始めた。
「美鈴さん達と同居するのに私が居ては邪魔だからでしょう。彼は私にはっきりと言いました。『悪いんだけど、美鈴達の方が大切だから』って。それはそうですよね。幼なじみで家族ぐるみの付き合いをしていたんですから。おまけに弘樹は昔からずっと美鈴さんのことを想っていて、その大切な人を護れなかったと後悔しない日はなかったんです。それこそ見ているこちらが辛くなるほどに自分を責めていました。私に親切にしてくれたのもきっと美鈴さんと年齢が近くて放っておけなかったからだと思います。要は美鈴さんの代わりになれば誰だって良かったに違いありません」
「それで七瀬さんは別れて暮らすことに納得したの?」
そういう風に智哉は訊ねてみた。他にどうしようもなかったのだと藤川七瀬は今にも消え入りそうな声で呟いた。
「だって二人は本当に再会を喜び合っていて……もう会えないと思っていたんですからそれも当然ですよね。お互いの両親を始め、共通の知り合いの安否を気遣ったりして、そこに私が入り込む隙なんてまるでなかったんです。妹さんを含めて本当の家族みたいで。そんな中に私が居たって疎外感を味わうだけじゃないですか」
それはそうだろう。智哉とて美鈴に自分で決めたと言われれば引き下がるしかなかったのだ。
それにしても同じ境遇同士で、愚痴を言い合えるとでも思って訪ねて来たのだろうか? だとすればお門違いも甚だしいというものだ。
試しに智哉は、まだ何をしに来たのかよく理解できないんだけどな、と言ってみた。まさか彼を取り返すために美鈴とよりを戻せとか言うつもりじゃないだろうね?
「えっ、全然違います……というか、むしろ逆のことをお願いしたくて。それで図々しくも伺ったんです」
「逆のこと?」
「はい。できれば弘樹達のことはそっとしておいて貰えないかと思って。彼とどんな話をされたのかは知りません。岩永さんがこれまで美鈴さん達を大いに助けてきたことは聞いています。美鈴さんも岩永さんがいなければ生きていけなかったと感謝していましたし。弘樹にはそれが面白くないようですけど。ですが、美鈴さんと再会して弘樹は本当にそれまでの落ち込みようが嘘だったみたいに精気を取り戻したんです。あんな生き生きとした姿の弘樹は前の避難所じゃ見たことがない……」
つまり、自分を捨てた男と奪った女の仲を邪魔しないでくれと頼みに来たということか? それこそ智哉の理解の範疇を超えている。
「言いにくいだろうことを訊くんで答えたくなければ答えなくても構わないけど、七瀬さんは彼のことが好きではないの?」
「……そうだと思っていたけど、最近ではよくわからなくなりました」
「男女の関係があったと考えてもいいのかな?」
藤川七瀬は何も言わずに膝の上で組んでいた手許に視線を落とした。それを肯定の意と受け取った智哉は、伏し目がちに顔を背ける彼女を見て、久しぶりにどす黒い感情が湧き上がるのを意識した。負けん気の強さが垣間見えた美鈴とは対照的に、可憐とか儚げとかの形容が似合いそうな七瀬は無意識に被虐的な扱いを望んでいるように思えたのだ。無論、確かめてみなければ確証は持てないが。
「それなら何故、二人の仲を取り持とうなんて思うのさ? 七瀬さんなら充分に彼を元気付けることができると思うけど」
私じゃ駄目なんです、と七瀬は絞り出すように言った。私とじゃ、そう口にして両手で顔を覆うと、涙声になりながら途切れ途切れに言葉を紡いでいく。
「弘樹が私に見せていた笑顔は……本当は無理して作っていたもので……ずっと辛い気持ちを押し隠していて……それなのに私はそのことにまったく気付かなかった……自分が立ち直らせたなんて勘違いもいいところ……美鈴さんと再会した時の弘樹の表情はそれまでとは全然違っていて……それではっきりとわかった……あれが本来の弘樹の笑顔なんだって……私には一度も見せたことのない……だから弘樹には美鈴さんが必要だってことも……この先も彼と一緒に居たら……私は……私は……」
あとの方は嗚咽に紛れてよく聞き取れなかったが、早い話、あの若者のことを思えば自分が一緒にいるより美鈴が傍にいた方が良いと考え身を引く決心をしたということだろう。だが、それは本当に相手のためを思ってなのかは不明だ。徹底的にすがって傷つくよりも適当なところで諦めた方が事恋愛においては楽だからだ。
藤川七瀬が心底若者の幸せを願ったのか、それとも無自覚に傷つくことを畏れただけなのかはたぶん本人にもわかるまい。いずれにしても智哉には興味がないことに相違なかったので、泣かれても迷惑だなとしか感じなかった。自分に関係のないことで他人が泣くのを見るのがこれほど煩わしいものとは知らなかった。それで落ち着きを取り戻すまで放って置くことにした。やがて彼女も泣き止んで、泣いたことへの謝罪を含めて改めて智哉に告げた。
「すみませんでした。自分のことばかり喋ってしまって。岩永さんだって辛いのは同じなはずなのに」
それを聞いて智哉は無性に苛立ちを覚えた。何を勘違いしたのか知らないが、と冷たく突き放すような口調になった。目の前で泣かれた憂鬱な気分がそうさせたのかも知れない。
「あの彼にも言ったことだが、俺と美鈴はそんな仲じゃない。一緒に居たのもそうしない合理的な理由が他になかっただけだよ。その理由ができた今、足手まといがいなくなって清々している。だから君が心配するみたいに二人の間に割って入ろうなんて気はさらさらないし、あいつが誰と暮らそうと知ったことじゃない。とんだ取り越し苦労だったな」
「でも、美鈴さんはあなたに感謝を──」
「あいつが君に何を話して聞かせたのかは知らないが、この際だからはっきり言おうか。俺は食糧や住居と引き換えにあいつに身体を開かせていたんだよ。妹達がいて断れないのを承知の上でな。弱味に付け込んだんだ。そんな男は最低だろ? それがやっと解放されたんだ。君ならそんな奴のところに好き好んで戻りたいと思うか? わかったはずだ。離れ離れになって清々したのはあいつも同じなんだよ。俺と美鈴とはそういう間柄だったんだ。間違っても俺に感謝なんてしてないさ。もしもそんな風に話したのなら、そのことをボーイフレンドに悟られないためだろう」
「そんな酷い──」
そう言ったきり七瀬は絶句する。わざわざ言う必要のないことだったが、何故碌に知りもしない相手に話してしまったのか、当の智哉自身にもよく理解できなかった。普段の自分でないことだけはわかる。それはあの若者に言われたことが影響していないとは言い切れまい。
そこまで把握していながら、智哉は一旦喋り出してしまうと、堰を切ったように止められなくなった。
「良かったじゃないか。もし君が二人を別れさせる気になったらそのことをぶちまければいい。ひょっとしたら彼を取り戻せるかも知れないぞ。好きな相手が他の男に毎晩抱かれていたと知っても平気でいられる奴なら別だがね。それともとっくに気付いていて気付かないふりをしているだけかも知れないな。少なくとも何ヶ月も男と一緒に居て何の疑いも抱かないなんてことはあり得ないだろう。あいつからしたら自分にも身に覚えのあることだしな。まあ、俺とは違うと言われそうだが、そもそも君達には何の打算もなかったのか? 愛していたとは言えないまでも純粋に求め合った結果と言えるのか? さっき俺が彼を好きじゃないのかと訊ねた時、君はよくわからないと答えたよな。それは後ろめたいって意味じゃないと断言できるならいいさ。でも、少しでもそういう気持ちがあるのなら二人は共犯者みたいなものだろう。これは俺の想像だが、あいつは美鈴を失った悲しみを紛らわすために、君の方は一人でいる心細さを解消するためにそうなったように思えるがね。もし俺の言っていることが間違っていたならそう言ってくれ。そんな二人の一方からこっちの問題は解決したからやっぱり別れてくれと言われて、もう一方が、はいそうですか、と素直に応じるとは俺にはどうしても思えない。都合良く利用されたと思うのが普通だろう。自分じゃ意識していなくとも本心では上手くいかないことを願っていても少しも不思議じゃないね。二人の邪魔をしないでくれというのは俺が手を出さなくてもいずれ破局すると思っているからじゃないのか? その方が復讐としては効果的だからな」
多少強引なこじ付けの感じがしないでもなかったが、当たらずとも遠からずな気がする。駄目押しに、本当は自分にできなかったことをやれた美鈴に嫉妬しているだけなんじゃないの、と囁くと、そんなことは、と言った切り七瀬は押し黙った。
「どちらにしても俺には関係ないことだがね。わかったならさっさと帰ってくれないか。もう話すこともないはずだ」
そう智哉が言い終わるか終わらないうちに、どうしてですか? と七瀬が俯いたままポツリと呟いた。咄嗟に意味が掴めず黙っていると、もう一度繰り返した。
「どうしてそんな風に美鈴さんとの仲を悪く言うんですか? 確かに私と弘樹の関係についてはおっしゃる通りかも知れません。家族ともはぐれ一人ぼっちで誰も頼る人のなかった私に、弘樹を利用する気がなかったと言えば嘘になる。誰でも良かったというのは本当は私の方だったかも知れない。言われるまではっきりと自覚したことはなかったけど……。今日ここに来たのだってあわよくばあなたに取り入ろうという魂胆がなかったわけではありません。てっきり傷心中で簡単に乗って来て貰えると思っていましたから。だって女が一人で生きていくには過酷過ぎる現状じゃないですか。私は誰の助けも借りずに平気でいられるほど強くない。でも、さっき復讐とおっしゃいましたけど、岩永さんは一つだけ勘違いしています。それならもう済んでいるんです」
どういうことだ? と智哉は訊ねた。勘違いとは何のことだろう?
「岩永さんと美鈴さんとの間にそんなことがあったのは予想外でした。ですが、以前にどんな経緯があったにせよ今の美鈴さんがあなたを心底信頼しているのは確かです。話を聞いていればそれが出任せかどうかなんて見抜ける。それに岩永さん、あなただって……。だから私はお二人が上手くいかないことを望んだんです。美鈴さんと再会できた時点で弘樹が私を捨てることはわかっていたので。例え美鈴さんが弘樹を拒否してもそれは変わらない。もう誰かを身代わりにする必要はないわけですから。だったら美鈴さんにも同じ思いをして貰わないと不公平じゃないですか。弘樹から一方的に想いを寄せられた上に自分は他の人と幸せに暮らすなんて許せない、そう思いました。美鈴さんに弘樹のところへ行くよう仕向けたのは私なんです。先程したような話──弘樹が如何に美鈴さんのために苦しんでいたかや美鈴さんがいないと弘樹は駄目になるみたいなことを大袈裟に伝えました。美鈴さんが罪悪感を抱くように。それがなければ美鈴さんも躊躇ったと思います。たぶん岩永さんの下を去ることはなかったでしょう。最低なのは私です。あなたを責める資格なんてない。岩永さんが自分を悪く見せる必要はないんです──」
俺は、と智哉は言いかけてあとの言葉を詰まらせた。
「……本当のことを言ったまでだ」
辛うじてそう口にするので精一杯だった。
その日のうちに智哉は藤川七瀬と関係を持つことになった。何故かと問われれば、成り行きでとしか答えようがない。ただ、どうしても寝てみたかったわけではないし、本音を言えば性欲より自己嫌悪の方が勝っていたし、面倒なことになりそうな予感はひしひしと感じていたにも関わらずだから、そのまま帰すには惜しい相手だったのは間違いない。彼女の方でも自分で語ったように誰かの庇護を求めていただけに、多少なりともそのつもりだったと言えようか。あるいはわざわざ若者と同じ日にやって来たのは、当て付けという気持ちがあったのかも知れない。
【カクヨム運営より過剰な表現との指摘があったため、一部を削除しました。文章に繋がりがないのはそのためです。完全版の掲載はアルファポリス(https://www.alphapolis.co.jp/novel/201268578/431697946)、もしくはミッドナイトノベルズ(https://novel18.syosetu.com/xs8892a/)にて行っています】
「これってレミントンM700のポリススナイパーじゃない。国内で普通に流通しているなんて知らなかったわ。こっちはミロクのMMS─20か。確かスラッグ銃では最高精度と言われているのよね。新しいモデルだとチョーク交換でサボットも撃てるようになったって話だけど、普通のライフルド・スラッグの方が命中率は高いって言うし、敢えて使う意味はなさそう。それなら再販された固定シリンダーの旧型モデルの方がいいのかしら……」
店内を物色して興奮した様子でブツブツと独り言のように呟き続ける絵梨香を尻目に、智哉は前にも訪れた二階へ続く階段に足を踏み入れた。以前に訪ねた際は、この上で一人になっても居坐り続けた店主の老人とお茶を飲んだのだ。だが、そこにはもう誰の姿もなかった。
嘗て智哉が銃を手に入れようとやって来た銃砲店である。絵梨香が失くした狙撃銃の代わりが欲しいということで、弾薬の補給を兼ねて再び訪ねたのだ。
「どうだったの?」
ひと通り二階を見て回り、一階に下りて来た智哉に絵梨香がそう声をかけた。誰も居ない、と身振りで伝える。やっぱり、と絵梨香は頷いた。
「外から見た限りじゃ人が居そうな気配はなかったものね。でも物音が聞こえなかったからゾンビもいなかったんでしょ? だったらどこかに避難したんじゃない?」
「どうだかな。梃子でも動きそうにない感じだったが。とりあえず展示ケースの鍵は見つけたよ。これで無理矢理こじ開けなくて済む」
そう言いつつ智哉は銃がずらりと並べられたガラスのショーケースに近付くと、その前面に下ろされたグリルシャッターを開錠して、柵を持ち上げた。弾薬ロッカーも前に見たのを思い出しながら開ける。絵梨香は早速、ポリス何とかと騒いでいた銃身を含め全体が艶消しの漆黒に塗装されたライフル銃を手に取った。さすがに手慣れた様子で、重さやバランスなどを確かめていく。
「二脚は別なのね。確かその辺にHARRISのバイポッドがあったと思ったけど。あれを取り付けるとして……よし一つはこれに決めたわ。もう一丁は中距離用として散弾銃の方が良さそうね」
「なあ、それってそんなに興奮するような銃なのか?」
智哉が何気なく訊くと、まあね、と答えた絵梨香のマニアックな銃の解説が始まってしまった。
「元々ベースになったレミントン・アームズ社のM700自体が命中精度と安定性で世界的に評価が高い名銃よ。それをポリススナイパーモデルと言うだけあって警察や特殊部隊向けにカスタマイズされたものだから性能は折り紙付きね。使用する弾薬も今まで使っていた七・六二×五一ミリNATO弾の民生品である.三〇八ウィンチェスター弾だからそれほど違和感はないはず。ほら見て、この銃床。外気温や直射日光の影響を受けにくい
聞き慣れない専門用語を羅列しながら、うっとりした表情で絵梨香は手にした長身の銃を眺めている。今にも頬ずりしそうだ。うんざりした智哉がこれ以上解説が長くならないうちに別の話題を振ろうとした矢先、今度は銃以外の棚に手を伸ばしていた絵梨香が歓声を上げた。
「わっ、これってカールツァイスのVICTORY V8じゃない。市場価格で四十万近くする超高級スコープよ。これも絶対に持って行くわ」
「おい。浮かれるのもいいが、俺が頼んだことも忘れるなよ」
子供のようにはしゃぐ絵梨香を見て心配になった智哉がそう釘を刺す。
「わかっているわよ。ちゃんと用意するから待ってて」
そう言いながらも一向に興奮が冷めやらぬ様子であちらこちらを見て回る絵梨香の姿は、買い物に現を抜かす今時の若い女性そのものだ。ただし、選んでいるのが洋服や化粧品ではなく、本物の銃とその付属品であることが何とも言えない。
その後、必要なものを全て選び抜いたところで、智哉は少し迷った末に再び元通りシャッターを閉じて鍵を掛けた。その鍵は店内に積まれていた雑多な商品と商品の隙間に潜り込ます。それを見ていた絵梨香は不思議そうに訊ねた。
「どうして開けておかないの? どうせ残して行くならあとから来た人が手に入れやすくしておいた方が良いと思うんだけど?」
「それも考えたが、そもそも銃を手に入れたからってゾンビに太刀打ちできると思うか? だったら警察や自衛隊がもっと善戦していただろ。どうせ身を護るのに役に立たないなら自分達に向けられる危険性を減らすべきだと思ったのさ。それにこうしておけば本当に必要とする連中がいた時、場所だけ教えてやればそいつらで回収できる──かも知れん。まあ、本音を言えば何となくだ」
ふーん、と納得したのかしていないのかよくわからない絵梨香の呟きを残して、智哉達はその場を後にした。
それから二人は直ちに避難所には帰らず以前に智哉の拠点だったスーパーに行って、予定していた作業の準備に取り掛かった。絵梨香の指導の下、これまでおざなりだった銃の照準調整を正しく行おうというのだ。
ゼロイン、あるいは零点規正とも言われるこの作業は、ある一定の距離において着弾点が
「まずはガンバイスを組み立てましょう。テーブルの水平は取ってあるのよね?」
「ああ、言われた通りにしたよ。ガンバイスって何だ?」
銃を固定する器具だと絵梨香が教えてくれた。要は前後に銃を置く台座を付けたトレーだ。底には滑り止めのゴム脚が付いている。
「撃つたびに射撃位置が変わっていては調整にならないでしょ。似たようなものにベンチレストがあるけど、ガンバイスの方はクリーニングやメンテナンスの作業台を兼ねているという感じね。まあ、大差はないわ。どちらもない場合は二脚を立てた上でブロックや砂袋を置いて固定するだけでもいいけど、簡単な構造だから日曜大工で自作する人も多いわよ。今回は既製品があったのでこれを使うことにする。組み立てたらテーブルに置いて頂戴」
屋上に持ち出した長机に、指示通り組み立て終えた固定台座を二個並べて設置する。坐って試射できるよう、その後ろに椅子も置いた。
「銃を固定してスコープを取り付けたら先にボア・サイティングするわよ。ボア・サイティング、わかる?」
智哉は首を振った。内心で、何だ、それ? と思う。スコープを覗いてダイヤルを回せばいいんじゃないのか?
智哉の表情からその疑問を読み取ったらしい絵梨香が説明する。
「いきなりスコープを弄り始めると、大きくズレていた場合、的に当たらなかったりして調整に手間取るでしょ。だから予めボア、つまり銃腔越しに見て銃身の向きとスコープの狙いを大まかに一致させておくのよ。ボルトアクション式だったらボルトを抜き取るだけで簡単に後ろから覗けるしね。それがスコープ越しの像と合っていれば良いわけ。それができない銃はこのレーザー式のボアサイダーを使うわ」
絵梨香が取り上げたのは十五センチほどの円錐状の細長い物体だ。先細っている方を銃口に突き刺して固定し、逆側からレーザーが照射される仕組みらしい。これで銃身の向きがわかり、そこにスコープの中心を合わせるのだろう。三百メートルで零点規正を行う予定で、それだと手前のゼロイン・ポイントは二十五メートルになると言う。一先ずその距離に目印を置いてボア・サイティングを行う。そうやって大まかな調整が済むと、いよいよ実射の運びとなった。ただし、生憎とスーパーの屋上の広さでは三百メートルという距離が取れない。幸いにも隣のマンションとの距離がそれくらいだったので、智哉が出向き、レーザー測定器で正しい距離を測って、同じ高さに標的を設置した。
「ゼロインのやり方は人によって様々だけど、今回は四、五発ずつ撃って着弾点をスポッティング・スコープで確認。平均着弾点にスコープの中心を合わせて再度、試射を繰り返すという方法を取るわ。注意点としてはあまり神経質になり過ぎないこと。どれほど細かく調整しても弾着にはバラツキが生じるものだから、グルーピングで平均を整えるのが大事よ。それから連続しての試射は銃身を熱膨張させるので適度な間隔を開けてね。じゃあ、始めて」
言われるままに智哉は射撃姿勢を整え、スコープを覗き、的の中心にクロスヘアの十字線を合わせて引き金を絞った。間隔を開けろと言うことなので、三分ほどかけて四発を撃ち終わる。五倍にしたスコープ倍率では弾痕は殆ど見えないので、隣に立てた六十倍のスポッティング・スコープで確認する。左上にズレて収束しているのがわかったので、左右を合わせるウィンデージ・ノブと上下を合わせるエレベーション・ノブを回してレティクルが着弾点に来るよう調整する。それを何回か繰り返して最終的には絵梨香に試して貰い、合格すれば次の銃に移っていく。スコープによってはBDC(Bullet Drop Compensator=弾着補正器)という機能により使用する弾丸の質量に応じたダイヤルリングを選択しておけば簡単に距離の補正ができるという優れものもある。その場合は基準点を0に合わせておき、ゼロインした距離と実際の標的までの距離との差分ダイヤルを回すことで自動的に誤差が修正されるのだ。こうした機能のないものはゼロインした距離以外では前後左右のズレを計算してその都度ウィンデージ・ノブやエレベーション・ノブを手動で調整する必要がある。どの項目を何目盛り動かすかは複雑な計算と狙撃手の経験によるそうだが、最近ではスマートフォン用の弾道計算アプリで簡単に算出したりもできるらしい。なお、こうした補正には日本人にはあまり馴染みのないM・O・A(ミニット・オブ・アングル)やMil(ミル)という単位が主に使われる。M・O・Aとは日本語では一分角と言い、円周三百六十度分の一度のさらに六十分の一という角度を表す。これは百ヤード先で約一インチ、百メートル先なら約三センチの仰俯角を生じさせるものだ。一般的なスコープには一クリックが四分の一M・O・A(つまり四クリックで一M・O・A分)や八分の一M・O・Aという調整機構を備えたものが多いが、軍や警察などの公的機関で素早い対応が求められる場面では、最低限の操作で済むよう一クリックが一M・O・Aといった大雑把な調整機構のものが使用されることもあるという。また、Milは主に軍隊で使われる単位で、円周を六千四百分した一度を一ミルとする。何故このような変則的な単位を使うのかと言えば、一ミルだと一キロ離れた目標が一メートルズレることになるので使い勝手が良いからだ。
そうした豆知識を絵梨香に教わりながら、その後数時間かけ二人がかりで照準調整が必要な全ての銃の零点規正を終えた。次に休む間もなく戦術面の確認を行う。二人が立てた基本のプランは取り外しが可能な軽量のアルミ梯子を用意して、智哉が単独行動で車を離れる間、防護服を身に着けた絵梨香がそれで冷凍車のルーフに登り、待機するというものだ。無論、梯子は屋根に回収しておく。また手摺を取り付けるなど落ちない工夫も施す。そうすることで比較的安全なポジションから智哉の援護が行えるはずだ。ちなみに絵梨香の同行に合わせて呼吸器のボンベも数が残り少なくなっていたそれまでの酸素式から空気式に切り替えた。循環型でなくなった分、活動時間は短くなり排気を回収する袋を余分に付けなければならなくなったが、酸素ボンベの充填が専用施設でしかできないのに対し、空気ボンベなら高圧コンプレッサーさえあればどこでも手軽に行えるというメリットが生まれた。実際に智哉はダイビングショップでコンプレッサーを手に入れ、取り扱い資格を持つ避難者から手ほどきを受けた上で自分達でボンベの充填をするようになった。これで圧縮酸素ボンベはいざという場合に取っておき、普段の活動で絵梨香が消費する分はいつでも補充できるわけだ。毎回、車外で待機していても空気ボンベが足りなくなるという心配はなくなった。
ただし、こうした体制を整えたのはゾンビに対抗するためではない。
「ゾンビを相手にするだけなら基本的にバックアップは不要だ。銃も銃声が目立ってむしろ邪魔になる」
「別に警戒すべき要素があるってことね。ずばり他の生存者と出遭った場合?」
ああ、そうだ、と智哉は頷いた。こういう時は話が早くて助かる。
「見かけたからといってこちらからどうこうする気はない。ただ、相手が必ずしも友好的とは限らないからな。用心するに越したことはないだろう。何しろ、今後出遭う相手は俺達と同じく三ヶ月以上生き延びた
「問題はどうやって生き抜いたかね。正攻法で物資を調達したか、それとも略奪を繰り返して来たか……」
「場合によっては攻撃されることもあり得る。その時にはゾンビではなく生きた人間を撃つことになるが、やれるか?」
問題ない、という答えが即座に返って来た。
「ゾンビだろうと人間だろうと襲って来るなら敵よ。容赦しないわ」
それを聞いて智哉は安心した。自分もそうできるだろうか?
「それともう一つ、君にやって欲しいことがある」
智哉は由加里と寝物語で話していた内容を掻い摘んで絵梨香にも語った。ペイシェント・ゼロと呼んでいた噛まれることなくゾンビとなった者の存在についてだ。
「つまり、それを探せってことね? でも話だけじゃ信じられない。前に見つけたっていう外傷のない女子大生だっけ? 本当に噛まれた形跡はなかったの?」
「調べた限りじゃなかったよ。もちろん、見落としっていう可能性はゼロじゃない。考えにくいがゾンビになる過程で傷が治ったってこともないとは言い切れない。要するに感染ルートが他にもあるかも知れないってことを否定できないだけだ」
「ふーん、いいわ。私はもしそういうゾンビを見かけたらあなたに知らせればいいんでしょ?」
「ああ、そうしてくれ。それとこのことは内密にな」
「それはいいけど、発見したらどうするの?」
智哉は一瞬躊躇ったが、前と同じように裸にひん剥いて調べるしかないだろうな、と答えた。
「私が手伝えればいいんだけど」
「いや、それには及ばない。傷の見分けが付かなくなると困るんで生かしたまま調べたいからな」
「上手くわかるといいわね」
「肯定するのは簡単さ。証拠を見つければいい。けど否定するにはあらゆる可能性を打ち消すしかない。そんなことは不可能だ」
どれだけ調べてもゾンビが自然発生する不安は無くせまい。
「それはそうと、私達だけが外に出て行って不満に思われないのかしら?」
「人によるだろうな。わざわざ危険を冒すなんて奇特と思う連中もいるだろうし、特別扱いするなと憤る者もいるだろう。ただ、何と思おうとどうにもならないさ」
喋りながら智哉はあの若者を思い浮かべた。智哉が外に出て行ける方法を秘匿しているのではないかと疑っていた。恐らくそれは彼だけの考えではないだろう。
「機会があれば聞こうと思っていたんだけど、もしそういう話が出たらどうするつもり? あなたが特別だってことを打ち明ける気はないんでしょ?」
「自分も外に出るという奴が現れたらということか? 危険性については散々話したんだ。それでも行くというなら止めやしないさ。ただし、勝手にやれと言うよ」
秘密を守るために連れて行かないということかと絵梨香が訊き、それもあるが、と智哉は語った。
「どうせ数がいたってゾンビの前じゃものの役には立たない。俺が安全を保障できるのもせいぜい一人か二人までだ。あとの連中は邪魔か犠牲になるのがわかっていて連れて行く気にはならないね。それに俺だけ生き残ったら変だと思われるだろ。下手をすれば自分が助かるために他の者を犠牲にしたと言われかねないしな。だったら初めから関わらないのが一番だ」
「冷凍車があっても駄目ってこと?」
「単に外に出て戻って来るだけならやれないことはないだろう。でもそれじゃあ意味がない。定期的に外に出て活動するとなると、冷凍車や化学防護服だけでは不足だ。自分を過大評価するつもりはないが、俺の助け無しで無事に生還できるとは思えないね。ゾンビに関してだけなら今の俺は自分でも呆れるほどチートだからな」
それでも後に続こうとする者は智哉でも止めようがないが、その場合は恐らく責任者の友里恵が許可しまい。
しかし、実際には絵梨香と話したこのことは思わぬ形で実現してしまう。それは年が明けて間もなくのことだった。
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