8 Z線の崩壊※
キャンパス地のダッフルバッグを開けた途端、由加里は思わず口許に手を当てて喝采の声を押し留めた。男だったら口笛を吹いているところだろう。中身はもちろん、渡したリストにあった医薬品の数々だ。それがバッグ二つにぎっしりと詰め込まれている。智哉が丸二日をかけて、各所を回り集めてきたものだ。中でも抗インフルエンザ薬は避難所の全員に行き渡るだけの量は優にありそうだった。これで一先ずは感染の拡大を抑止できそうである。
「約束は果たしたぞ。文句はないはずだ。そっちも後払いの約束は守れよ」
「わかっているわ。惚けたりしないから安心なさい」
智哉から大量の薬を受け取った由加里は、その足で医療班の現場に持ち込むと、武藤医官の指示の下、配布の準備を始めた。無論、智哉には服用する際の注意事項と共に、既に必要な分量が手渡されている。
ただし、後払いの約束は当面、由加里が忙しくなることもあり、少し待って欲しいと頼まれた。特に急ぐことでもなかったので、智哉は承諾した。
実を言うと、この回収には智哉一人で赴いたのではなかった。一緒に付いて行くと言い張った者がいる。出発間際の智哉を呼び止めたその人物とは他ならぬ絵梨香だった。
「また一人で外に出かけるつもり?」
車両を点検中にそう声をかけられ、振り向くとそこに彼女が立っていた。いつもの迷彩服姿だが、より小ざっぱりした印象なのは洗濯でもしたせいに違いあるまい。頭もヘルメットではなく、服と同じ迷彩パターンの帽子に替えている。他に身に着けているものといえばベルト状の弾帯に恐らく拳銃用の弾倉入れ、太腿に自動拳銃を納めたホルスターのみ。訊くところによると敷地内で常時拳銃の携行が許可されているのは、曹以上の元自衛官と、元警察官だった警備班班長の小野寺だけらしい。智哉も自衛隊の九ミリ拳銃を所持してはいたが、トラブルを避けるため敢えて持ち歩くことはしなかった。大体が碌に練習もしていないので上手く扱う自信はなかったし、部屋か車にでも忍ばせておけば必要な時に使う分には事足りる話だ。由加里には他の住人にどう思われようと気にしない的なことを言ったが、わざわざ特別扱いを強調して反感を買うこともない。ちなみに警備班は班長を小野寺が、副班長を元自衛隊の植松が務めるという二頭体制で当分はいくそうだ。実質的にはこれまでと変わらないと見てほぼ間違いないだろう。
「何か用か?」
智哉は整備する手を休めずに訊いた。車は万が一、生存者を発見した場合に備え今回も冷凍車を使うつもりである。元々の予定では運び込んだ冷凍食品を保存しておくはずだったのだが、さすがに食糧を外には置いておけないということで、荷室内の物は全て太陽光発電を繋いだ調理室の大型冷凍庫に移し替えている。
「そういえば班は決まったのか? 何か迷っているようだったが」
絵梨香が何故か最初の質問に答えあぐねているのを見て、智哉の方から別の話題に切り替えた。
「まだよ。そろそろ決めなければならないんだけど」
「植松が警備班に来て欲しいと言っていたぞ……と、これは俺が伝えるまでもなかったな。確か連中と一緒に寝泊まりしているんだったか」
「ええ……特例として置いて貰っているわ」
一人で個室を利用している智哉は例外として、通常避難者は大部屋での集団生活が基本だが、警備班は深夜の勤務交代があるのと、銃火器の保管・管理を行う関係から専用の部屋があてがわれていた。そこに未だ正式な配属先を決めていない絵梨香も好意で寝泊まりをさせて貰っているらしい。もっとも警備を手伝ったりはしているようだが。時間があれば協力すると言っておきながら、まだ一度も警備班の活動に参加していない智哉とは随分な違いだ。
実はやりたいと思っていることがあるにはあるのよ、と絵梨香は言った。責任者の許可が貰えるかどうかが問題で。
それなら大丈夫だ、と智哉は請け負った。あんたの加入を断る班なんてどこにもないさ。美人でタフだから、とは口にしなかったが、言外にそういうニュアンスを込めて話すと、だったら嬉しいんだけど、と絵梨香は微かに破顔した。それを見て追い払う奴は本当にいないだろうなと智哉が改めて思ったのも束の間、続く言葉に今度は仰天させられた。
「だったら言うけど、私が許可を貰いたいのはあなたよ、岩永さん。私も外へ同行させて欲しい」
これには完全に意表を突かれたと言って良い。許可を貰うとはそういうことだったかと気付いたが、何のために、という疑問は残る。民間人の智哉にできることなら自分にもやれると思ったのか? どちらにしても返答は決まっている。
「断る。はっきり言って足手まといだ」
いつぞやの友里恵にも言った科白をここでも繰り返した。しかし、絵梨香も容易に引き下がる気はないらしい。
「そうとも言えなくはなくて? 少なくとも銃器の扱いに関してはあなたよりも上との自信はある。ゾンビとの戦闘経験においても引けを取らないはずだわ。化学防護服に予備があることも知っている」
また出鱈目な説明をしなければならないことに少々うんざりしながら智哉が口を開きかけたその時、それより早く絵梨香が思い切った様子で告げた。
「それともあなたと同じでなければ務まらないってことかしら?」
そのひと言で智哉の警戒レベルは瞬時に最大限まで跳ね上がった。それだけで何を指すのかまでは掴み切れないが、例の秘密ではないとも言い切れない。
どういう意味だ? と智哉は慎重に言葉を重ねた。
「少なくとも化学防護服でゾンビを避けているというのは嘘ね。何か別の手段か、あるいは自分で話しておいて信じられないことだけど、そもそもゾンビに襲われる心配をする必要がないのかのいずれかだわ。もし後者なら目の前にいるのはとんでもないペテン師ってことになるけど。でも、そう考えると色々と納得できる。民間人のあなたが私達を救助できたこととか、外で一人で活動できることとか」
どう胡麻化そうかと思案を巡らし、結局、途中で諦めた。ここまで確信めいて話すということは何か決定的な証拠を握っているに違いないと踏んだからだ。それがわからない以上、下手な言い訳は却って矛盾を生む結果に繋がりかねない。鎌かけという可能性も考えなくはなかったが、それは以前にやって失敗しているので同じ手口は使わないだろうとの読みもあった。降参して智哉は、どこで気付いたのか、と訊ねた。
「ここに来る道中でよ。誰にも言ってなかったけど、実を言うと私、以前に化学戦の講習を受けたことがあるの。その時に防護服や呼吸器の使い方についてもひと通り学んだわ。それであなたを見ていて、おや? と思ったのよ。予備の酸素ボンベは用意してあったけど、休憩中に一度も交換しなかったでしょ? 圧縮酸素の循環式呼吸器でも長くてせいぜい五、六時間保てば良い方だわ。それなのに同じものを使い続けているのは不自然よね。もちろん、見ていないところで交換している可能性もあった。だから最後の休憩でこっそり脱いだ呼吸器を調べさせて貰ったの。それで殆ど酸素は消費されていないことを知ったのよ」
説明を聞いて智哉は合点がいった。これまでは仰々しい化学防護服を見れば誰も疑問を持たなかったので安心していた。よもやボンベの残量まで気にかける者がいるとは思わなかったのだ。
「……なるほどな。油断していたよ。せめてポーズでも交換するふりをすべきだったな。次回からは気を付けることにしよう。確かに防護服はカモフラージュだ。察しの通り、元から俺はゾンビに襲われない。どういう理屈かは不明だが、奴らには仲間に見えているらしくてね。自分も死人の一員になったみたいであまり良い気分がするもんじゃないけどな。それでどうする気だ? このことを公表するのか?」
平然とした素振りで話しながらも智哉の頭の中は目まぐるしく回転していた。どうにかしてこの状況を切り抜ける方法がないかを必死で模索する。
(このまま同行を認めて、外に連れ出し、置き去りにするか……)
それが一番手っ取り早いと思われた。しかし、突然居なくなればそれなりの騒ぎにはなるだろう。それに既に他の誰かに話していないとも限らない。そうなると単に秘密が洩れるだけでなく、行方不明の原因として智哉に疑いの目が向けられるのは避けられそうにない。ここはやはり現実的な手立てとして智哉自身が姿を眩ますしかなさそうである。美鈴達も智哉の手を離れ、この場に己を縛り付ける理由はなくなった。そう決意しかけた矢先、
「そんなことをしたら、あなたは居なくなるだけでしょう?」
と割にさっぱりした口調で絵梨香が応じた。
「どうして秘密にしているのかはよくわからないけど、わざわざ化学防護服なんてものまで使って偽装をしているくらいなんだから誰にも知られたくないのよね?」
「……防護服に一定のゾンビ避けの効果があるのは本当だ。それだけじゃ外を出歩くには心許ないがね。秘密にする訳は簡単なことだ。考えてもみろ。もし俺が他の奴の立場だったら何としてでもゾンビに襲われない理由を解き明かそうとするね。例えそいつの身に何をしてでもな」
「つまりは自分の保身のためなのね?」
「悪いか。生憎だが俺は世界中の人々を救うためなら自分はどうなっても良いなんて崇高な精神は持ち合わせちゃいないんでね。それを期待してこの能力を与えたなら神様の人選ミスだな。お前達を助けたことを含めて、最終的に自分の利益にならないことに手を貸す気はない」
「知られたからといって酷い目に遭うとは限らないんじゃない?」
「遭わないとも限らない。それだけで隠す理由としては充分だ。それに人道や博愛が通用する世の中とも思えないしな。もし協力するとしても他に同じ体質の奴が名乗り出て来てからだ。そいつがどんな扱いをされるのか見定めた上で決めるよ」
確かに智哉の言い分にも一理ある、と絵梨香も思った。自衛隊という究極とも言える公益機関に所属し、常に大多数の利益が少数に勝ることを絶対の教義としてきた彼女だからこそ、被害妄想と笑い飛ばせない現実味があるのも事実だ。それにいざその立場になってみなければ本当の不安はわからないことなのかも知れない。
「他に……あなたと同じ体質の人がいると思う?」
絵梨香は訊いてみた。自分だけが選ばれた存在と思い込むほど子供染みていない、と智哉は答えた。
「例えば血液型で言うとシスAB型なら十万人に一人、ボンベイ型に至っては百万人に一人の割合と言われているが、そんな希少さでも日本中を隈なく探せば数十人は見つかるはずだ。それと同じで周りに見当たらないからと言って居ないと結論付けるのは早計だろう。俺と似たような考え方なら隠しているだろうしな。あるいは伝わって来ないだけで、どこかでとっくに研究が始まっていることだって考えられる。それなら俺が名乗り出るまでもないわけだ」
まったくもっての憶測に過ぎなかったが、可能性が皆無ではない。第一、今公表したところで人も設備もなければどうすることもできまい。せいぜい体良く便利に使われるだけで、それなら現状だって似たようなものだ。それだけならまだしも以前に美鈴に話したように、智哉を巡る生存者同士の争いに巻き込まれる恐れも考慮しないわけにはいかない。自分が引き起こすならともかく、他人のいざこざに利用されるなど真っ平御免だ。そうしたことを理解したのかは不明だが、なら取引しない? と絵梨香は持ちかけてきた。
「私を同行させるなら今、聞いたことは誰にも口外しないと約束する。もちろん、それにはゾンビから護って貰うという条件付きでよ。その代わり、私がこれまで身に付けた戦闘の知識や技術は惜しまず提供するわ。銃の扱い方も教える。見たところ、一応形にはなっているみたいだけど、自己流だから危なっかしいのよ。どうせ零点規正も碌にしてないんでしょ? それと能力を隠すなら一人で行動するより二人の方が都合良くなくて? あなた以外にも外に出られる人間がいれば猜疑の目も幾分紛れると思うんだけど、違う?」
それは俺がここに留まるとしたらの話でそもそも前提条件が合っていない、と言おうして、止めた。絵梨香の申し出は実際、魅力的だったからだ。ただし、彼女が気付いていないことが一点ある。それはこれまで智哉が誰も同行させなかったのには、秘密の発覚を恐れるばかりでなく、護り切る自信がなかったという理由も含まれることだ。如何に冷徹な智哉といえども目の前で知った人間に死なれては目醒めが悪くなろう。勇んで付いて来るのは勝手だが、足を引っ張られた上に嫌な気分にまでさせられては堪ったものではない。
しかし、冷凍車の効果が実証された今なら状況は変わってきていると言えた。同行者の生存率は大幅に向上したと言って良いだろう。そればかりか智哉との連携が上手くいけば、ある程度のサポートが期待できるかも知れない。単独で行動する智哉にとって気がかりなのは万一外で何らかのアクシデントに見舞われた場合、助けの当てが一切ないということだ。骨折でもして動けなくなっただけで万事休すである。同行者がいればそうした不安要素も少しは和らぐ。それでも大勢を引き連れて行く気にはなれなかったので、一人だけ相手を選ぶとすれば絵梨香は申し分ない。彼女なら訓練を受けた人間だから許可したという名分が成り立つので、自分も同行させろという連中が現れても断りやすいためだ。ある意味、渡りに舟の提案と言えなくもなかった。
そうしたことを全て踏まえた上で、智哉はとりあえずテストとして今回の同行を許可した。その間に他の誰かへ話していないかを確認しつつ、最悪死んだら死んだで口封じにもなる。無論、指示には絶対に従うことと、基本付いて来るだけで何もしないことを条件とした。
結果的にこれが思いの外、助けになることがわかった。今回は急遽だったのでさしたる準備はできなかったが、それでも智哉が装着したヘッドマウント型ウェアラブルカメラの映像を冷凍車内で絵梨香がタブレット端末越しに監視し、気付いたことを無線で助言するというだけで随分と役に立った。サポートするのが絵梨香だった点も大きいのだろう。もちろん、彼女には化学防護服を着せてあり、いざという時は内側から扉を破って脱出できるようにしてあったが、次回以降は自由に出られるようにすることで戦術の幅も拡がるかも知れない。この辺りは専門家である絵梨香と意見を交えて煮詰めていけば良いだろう。
気付けばすっかり絵梨香を
その一方で薬を届けたのちに由加里の都合が付くのを待つ間、智哉は美鈴とばったり出喰わす機会があった。たまたま廊下を歩いていたところで、向こうから美鈴がやって来るのが見えたのだ。近くにあのボーイフレンドの姿はない。どうやら一人のようだ。美鈴の方も前方から来る智哉に気付きハッとした表情を浮かべたが、今更引き返すのも不自然と考えたらしく何事もなかったように距離を縮めてくる。そして──。
「あの──」
美鈴はなるべく自然に声をかけようとしたが、向かい合った途端、言葉に詰まる。元気だったか、と智哉に言われ、咄嗟に頷くのが精一杯の反応だった。
「岩永さんも……お元気でしたか?」
やっとの思いでそれだけを絞り出すことに成功する。美鈴は智哉がゾンビに襲われないことを知る、少し前なら唯一の、現在では数少ない中での一人だが、だからといって外の世界が絶対に安全とは言い切れないと感じている。一緒に暮らしていた時もそうだったが、離れてからはより一層その思いが強まった。だからといって美鈴が幾らその身を案じようとも智哉が出かけるのを止めたりしないだろうし、またそうされては困る人が大勢いることも承知している。それは仮に美鈴が智哉の下に戻るとしたところで変えられないだろう。ただ、避難者間で智哉の評判が高まり感謝や称賛の声が上がる一方で、その特権的な役割や活動に疑義を唱える人が出始めていることも気がかりだった。実を言うと弘樹もそのうちの一人だ。幼なじみとはいえ美鈴には納得し難いものがある。現に今度始まったインフルエンザ予防薬の配布にしても智哉がどこからか調達して来たおかげというのがもっぱらの噂だ。弘樹は信じようとしなかったが、他の人より優先的に自分と妹が受け取れたのが何よりの証拠ではないかと美鈴は考えていた。
(まだ忘れられていなかったんだ)
背後に智哉の存在を感じただけで、自然と胸の奥が熱くなった。
その智哉と期せずして出遭い、何の心構えもできていなかった美鈴は内心でかなりの焦りを感じた。その動揺を悟られまいと無理に話しかけたのだが、却って不自然さが際立つ結果になってしまった。挽回する意味でもここはやはり薬の礼を言うべきだろうかと迷っていると、唐突に、お前、今から時間があるか、と訊かれた。今日の作業は全て終え部屋に戻る途中だったので頷くと、だったらちょっと付き合え、と半ば強引にどこかへ連れて行かれる。到着したのは二階の廊下の突き当りにある小部屋で、広さはビジネスホテルのシングルルーム並であろうが、備え付けの調度品が粗方なくなっている分、さほど狭さは感じさせずに美鈴を迎い入れた。そこが智哉の居室ということは妹から聞いて知っていたし、自由に使えと鍵も預けられていたし、何よりも行けば会えることはわかっていたが、これまで一度も訪ねてみたことはない。何となく気後れしてしまって近寄るのは避けていたのだ。そこに初めて足を踏み入れて、一体何をする気なのだろうと緊張して待っていると、智哉は部屋備え付けのクローゼットを開け、ごそごそと何やらし始めた。よく見るとハンガーパイプに自転車の盗難防止で使われるようなチェーンロックで繋がれた筒状のケースを取り外そうとしているらしい。ケース自体にもダイヤル式の南京錠が掛けられている。
「鍵は気休めに過ぎないがな。その気になれば壊すのは造作もないが、盗んだところで外には持ち出せないし、手許にあればバレバレでそんな奴はいないだろうけど、一応の備えとして付けている。暗証番号を言うからお前も覚えろ」
わけのわからないまま美鈴は二通りの番号を記憶させられた。チェーンと南京錠のものだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。説明して貰えませんか? 一体何をするつもりなのか?」
「銃の使い方を教えると約束しただろ? 今からそれを果たす」
智哉は決まり切ったことのようにそう告げた。
「はい? えっ? はぁ?」
確かにそんな約束をした覚えはある。智哉の下を離れたことでとっくに無効になったと思い忘れていたのだが、教える側は律義に守る気だったらしい。
もう一つ別のボストンバッグをクローゼットから引っ張り出すと、重そうなそいつを美鈴の足許に置いた。そして最初に持ち出した筒形ケースを開けて、中から細長い棒状の物体を取り出す。美鈴にもそれが長身の銃であることはひと目でわかった。しかし、以前にスーパーでチラッと見ただけの時は気付かなかったが、側面の金属部分に細かな彫刻細工が施され、全体は美術品を思わせる美しい木目調に彩られている。銃といえばもっと武骨なイメージしかなかったので、思わず、きれい、と声に出してしまっていた。
「こいつをお前にやるよ。ミロクMS2000という国産の散弾銃だ。まあ、名前なんて憶えなくても良いがな。上下二連元折式というタイプで、その名が示す通り銃身が上下に二本並んでいて、それぞれに一発ずつの計二発が装填できる」
こいつが開閉レバーだ、と言って智哉は実際にレバーを押して銃身を根元から折って見せた。
「弾はこっちのボストンバッグにある。この根元の穴から入れるだけだ。十二ゲージのバックショット……って言ってもわからないか。本当なら初矢は
装填と言っても要は筒の中に弾を押し込むだけのようである。特に難しいことは何もなさそうだ。
「安全装置の解除と上下の撃ち替えは開閉レバーの後ろのこのスイッチで行う。見えているアルファベットがSの場合はセーフティー、つまり安全装置が掛かった状態で引き金を引こうとしても動かない。これをUにするとアンダーで下から発射、Oにするとオーバーで上から発射になる。当然だが、撃たない時は必ずSにしておけよ。さらに安全性を高めたきゃ銃身を折ったままで持ち歩け。それなら絶対に暴発しないし、弾の抜き忘れも防げる。撃ち終わった後はもう一度銃身を折れば空薬莢が飛び出してくる。手で受けるなり、避けるなり、自分のやりやすいようにすればいい。隣の奴に当たらないようにだけは注意しろ。そうだ、飛び出すのは撃った方だけだからな。片方しか撃たなかった場合、もう一方は残るから一発ずつでも再装填は可能だ。じゃあ、やってみろ」
いきなり銃を差し出されて、美鈴は面喰った。とにかく受け取ると、見様見真似で構えてみる。それを智哉が「利き目はどっちか」とか「頬をもっと引き付けろ」とか「もう少し顎を引け」とか「脇を締めろ」とか色々と細かく注文を付けながら修正していく。
「いいか。撃つ直前までは引き金に指は掛けるな。真っ直ぐに伸ばして側面に置いておけ。フィンガーセーフティーと呼ばれる銃の安全な扱いの一つだ。照準は狙いが付けやすいようにドットサイトを取り付けてある。ここを覗いて中心の点を標的に合わせるだけでいい。ただし、故障したり電池切れしたりする可能性もあるから、一応アイアンサイトの狙い方も教えておくぞ。ここの出っ張りとここの切れ込みが目標に対して一直線に重なるようにしろ。それで大体の狙いは付いているはずだ。ゾンビは脳の中心、たぶんだが脳幹や延髄といった部分を破壊しなきゃ斃せない。正面からなら目と目の間の眉間、背後からなら後頭部のこの辺りを狙え」
自分の身体を指して説明してやる。美鈴は教えられたことをひと言も聞き逃すまいと必死に耳を傾ける。
「それと散弾でゾンビを撃つ場合、あまり遠くから狙っても意味はないからな。俺達の腕前じゃ、狙い通りに当てられるのはせいぜい十メートルくらいと思っておいた方がいい」
「俺達? 岩永さんでもですか?」
「当たり前だ。俺を何だと思っている。只の素人が付け焼刃で覚えただけだぞ」
「……そうでした」
その後も暫く練習を繰り返して、何とか様になってきたところで講義を終えた。
「銃はここに置いておくから必要な時は自由に使え。音と衝撃はかなりのもんだから覚悟しておけよ。それと撃つと決めたのなら躊躇うな。その結果として誰かを傷つける羽目になったとしても後悔するのは生き残ってからでいい」
はい、と美鈴は殊勝に頷いた。これで用事は済んだことになる。別れ際に智哉は、隠し持っていた幾らかの食糧とペットボトルの飲料水を美鈴に持たせてやった。他の避難者の手前、人目に付くのを避けるため、服の内側に隠したランニング用のウエストポーチに忍ばせる。あっ、と思う間もなく乱暴に洋服の裾をたくし上げられ、美鈴は露出した素肌に触れられて一瞬身を固くしたが、目立たないようにポーチの位置を調整されただけだった。そのことに安堵とも失望ともつかない複雑な感情を覚えながら、美鈴は今はただ一刻も早くこの場を立ち去ることだけを考え続けた。
由加里の都合が付き、漸く智哉の下を訪れたのはその明くる日だった。前回と同様、夕方近くに部屋へ現れて、これも前と同じ私服という出で立ちだったが、理由はやや異なる。ナース服では目立ち過ぎるからということらしい。
「それにしても随分と待たせちゃったわね。その分の埋め合わせはするから」
【カクヨム運営より過剰な表現との指摘があったため、一部を削除しました。文章に繋がりがないのはそのためです。完全版の掲載はアルファポリス(https://www.alphapolis.co.jp/novel/201268578/431697946)、もしくはミッドナイトノベルズ(https://novel18.syosetu.com/xs8892a/)にて行っています】
「真面目な話、あなたには感謝してもし切れないわね」
唇を離すと、唐突に由加里が真剣な面持ちでそう語り始めた。キスの勢いで二回戦目を期待していた智哉は、内心がっかりした。
「あのままだったらどれほどの感染被害が出たか計り知れない。薬のおかげで助かる人が何人もいることは間違いないわ」
そのことだったらもういい、こうして見返りも得ているわけだしな、と智哉は密かな胸の裡の不満を押し殺すようにして答えた。
「あなたの働きに見合っていると言えるのかしら?」
由加里は意味ありげに微笑む。どう答えて良いのかわからなかったので、智哉は無言で受け流すことに決めた。代わりに、それで流行は収束しそうなのか、と訊ねてみた。
「今のところはまだはっきりとは言えないわね。インフルエンザの致死率自体は普通ならそれほど高くはないけど、あくまでも平常でいられた時のデータだから。今はみんな栄養不足で体力も衰えている。子供はさほど多くないけど、お年寄りはそれなりに居るわけだし、心配の種は尽きないわ。少なくとも一度に大量死が出て、遺体の処理が追い付かなくなることだけは避けたい。こんな発言をするようじゃ看護師としては失格ね」
現在、ゾンビによるもの以外の死、つまりは病気や怪我が理由で亡くなりゾンビ化しないとわかっている死体の埋葬は、敷地の一部に深さ一・五メートルほどの穴を掘った中に遺体を横たえ、駐車車両などから抜き取ったガソリンを振り撒いて、ある程度焼却したのち、上から土をかけ埋めるという方法が取られている。これができ得る範囲で精一杯の安全策だからだ。死臭でゾンビを寄せ付けないためには迅速に処理を行う必要があり、貴重なガソリンはこのためだけに取ってある。
「もし火葬が間に合わないようなら埋めるだけにするしかないけど、それだと獣が掘り返しでもしたら大変なことになりかねない」
由加里がそう言ったのを、それなら恐らく大丈夫だろう、と智哉は打ち消した。
「ゾンビを誘引するんじゃないかと心配しているんだろうが、きちんと埋葬すればその恐れはまずない」
「えっ? どういうこと?」
「俺が調べた限りじゃ、ゾンビが引き寄せられるのは真新しい死体だけだ。埋めてから何日も経ったような死体じゃ掘り返しても寄って来ないよ。気付かなかったか?」
由加里が頷く。話しづらそうに、病院では遺体が出るとその処理はすぐにゾンビに任せていたから、と言った。
「そうか……なら知らなかったのも無理はない。俺の場合は家の中に死体が転がっていても外を彷徨くゾンビが群がらないのが不思議で調べたんだけどな。斃したゾンビで得た結果だから、ゾンビ化せずに死んだ人間にも同じように当て嵌まるとは限らないが、今までの経験から言ってたぶん変わりないだろう」
「ゾンビを始末した後、いつまでその死体に引き寄せられるかを観察したってことよね? たぶん他のゾンビに食べられないようにしておいて」
ああ、そうだ、と智哉が頷くと、それって大体どれくらいの時間だったかわかる? と由加里が訊いてきた。
「個体差が大きくてな。早い奴だと死後二十時間ほどで飽きて寄って来なくなる。長くなると死んで三日くらいは集まっていたな」
思い返しながら智哉は答えた。しかし、それがどうだというのか……?
「その間だけゾンビは死体に寄り付く……」
「何か気になるのか?」
「ひょっとしたらカイコウに関係しているのかも知れない」
「カイコウ? それって何だ?」
裸のままベッドで抱き合いながらする話ではないと思ったが、そう訊かずにはいられなかった。解れる硬さと書いて解硬と言うのだと由加里が教えてくれた。死後硬直が解けることを意味するらしい。
「言葉は聞き慣れないかも知れないけど、日常生活でもお馴染みのことよ。食肉の熟成がそれね。そもそも死後硬直は何故起こるか知っている?」
知るわけがない。知らない、と智哉は
「私もそれほどしっかりと勉強したわけじゃないからうろ覚えなんだけど、生物の代謝には好気的と嫌気的と呼ばれる二種類のものがあるの。好気的とは酸素を必要とする活動、嫌気的とは逆に酸素を必要としない活動のことね。死んだら当然、筋肉への酸素の供給は絶たれるから好気的な代謝は停止するけど、嫌気的な代謝は一定期間残るのよ。でも代謝には他にエネルギーとなるものが必要だから、その代表的なものとして筋肉中に蓄えられたATP──アデノシン三リン酸と呼ばれるエネルギーの源とも言うべき有機化合物が段々と消費されていく。これは生きている間は筋源繊維タンパク質であるアクチンとミオシンが結合して作られるアクトミオシンとの相互作用で収縮と弛緩を繰り返して筋肉を動かすんだけど、ATPが枯渇した状態ではpH値が下がるに従ってアクトミオシンの合成だけが促されるようになり、弛緩が行われず結果として身体は次第に硬化していく。これが死後硬直と言われるものの原理よ。だから元々ATPが少ない状態、例えば運動した直後に死んだりした場合は普通よりも硬化は早まるわ」
「ほほう……さっぱり理解できん」
「いいのよ、私だって参考書の受け売りで、実際のところはよくわかってないんだから。それより肝心なのはその後よ。この硬直は大体、二十四時間ほどでピークを迎え、それから徐々に解けていく。この際、肝となるのが筋肉組織に残るプロテアーゼというタンパク質分解酵素よ。これにより筋原線維が小片化されることで硬直は解ける、というよりは組織が崩壊していくのね。筋原線維の結合部分はZ線と名付けられていることから、俗に『Z線の崩壊』とも呼ばれるわ。食肉の場合はこの働きを熟成と言う」
「言ってることはよくわからんが、要するに肉なら熟成される前のフレッシュな状態がゾンビの好みってことか?」
「まあそうだけど、これの重要な点はね、硬直するプロセスとそれが解けるプロセスとではまったく別の現象が起きているということなの。単に固くなったものが元の状態に戻るわけじゃない。その証拠に、一度解硬した死体は二度と死後硬直を起こすことはないわ」
「けど、ゾンビはそもそも呼吸していないぞ。さっきの話で言えば好気的な代謝は初めからないんじゃないのか?」
「そこまでは何とも言えないわ。実際のATPがどうなっているのかを調べてみないと。もっともゾンビに現代医学の常識が通用するのか不明だけど」
「つまりゾンビが喰う死体は体内で特定の化学反応が起きているものだけかも知れないということだな。その反応が収まると、食欲も失くすと。もしそのメカニズムが解明されればゾンビが人を襲う理由もわかるかも知れないというわけだ」
「あくまでも素人意見よ。あまり本気にされても困るわ。大体そんな簡単に説明できるなら、誰かがとっくに詳しく調べているでしょう。ただ、全てのゾンビが死体を咀嚼しているわけじゃないのよね? そもそも食事が必須なら噛まれた全員がゾンビになることと矛盾する。死体が出ないじゃない。基本的に食べなくても済むとすれば、単なる栄養補給のための行動とは思えない」
食事でないとすれば何だと思うか、と智哉が訊いて、少し考えてから由加里は、ゾンビが失ったものを取り戻そうとしているように見える、と答えた。
「以前にあるカルト教団が起こした事件に絡んでイニシエーションという言葉が話題になったことがあるでしょ? 本来は通過儀礼とか節目の儀式とかって意味だけど、超常的な力を取り入れるみたいなニュアンスで使われたのよね。ゾンビが死体に群がる様はまさにそんな感じがしたわ」
ゾンビのイニシエーションか、と智哉は独り言のように呟いた。だとすれば、奴らは何になろうとしているのか。
それに疑問は死体を漁ることだけじゃない、と由加里は言った。
「ペイシェント・ゼロが何かという問題もある」
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